ベストアンサー 江戸幕府 2005/08/22 20:30 江戸幕府の諸大名の監察はどういう形で行われていたのでしょうか。 御庭番が諸国に潜入したりしていましたか? 御使番や書院番・小性組の番士が国目付として派遣されるケースにはどういった場合があるのでしょうか? みんなの回答 (1) 専門家の回答 質問者が選んだベストアンサー ベストアンサー 6dou_rinne ベストアンサー率25% (1361/5264) 2005/08/22 21:03 回答No.1 徳川幕府の諸藩の監察役としては本来大目付がその担当でしたが、中期以降はどちらかというと式部官となりました。 また臨時職としては諸国巡検使や国目付がありましたが、綱吉以降は諸国巡検使は一代一回となり、国目付も家宣遺構はまり派遣されなくなりました。 国目付が派遣されるのは大藩を幼少のものが跡目相続したときでした。そして派遣されるのは幼少の藩主が元服して初入国するまで毎年1回続けられました。 この国目付はもちろん幕府から藩への監察という面もありましたが、藩主に代わってその藩を管理すると言う意味もあったようで、国目付の派遣は派遣してもらう藩から幕府に願い出て、派遣された国目付には合力米も支給しました。 これらの公式の監察官に代わって吉宗以降は隠密活動が重視されるようになりました。 もちろん隠密活動は江戸時代の初めからあり、その頃は伊賀者、甲賀者などが隠密をしていましたがだんだんとその機能もなくなり、目付配下の徒目付や小人目付が隠密活動に従事するようになり、これらの者が諸藩の城郭修理などの調査にあたりました。 お庭番は吉宗が創設した将軍直属の隠密で、江戸周辺の調査や遠国の調査にも従事しました。当然ながら諸藩や天領代官の事情も調査し報告していました。 質問者 お礼 2005/08/22 22:01 ご回答ありがとうございます。 国目付は藩主が幼少の場合なのですね。 譜代の姫路城主も藩主が幼少になると国替えになったようですし、幕府は幼少の藩主を嫌っていたのでしょうか。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学歴史 関連するQ&A 江戸幕府の大目付の役割。 Wiki「大目付」には、その役割として 「職制上は老中の下に属し、大名・高家及び朝廷を監視して、これらの謀反から幕府を守る監察官の役割」とあります。 説明が大袈裟すぎるように思いますので教えてください。 1.朝廷も監視していたのですか。では、京都所司代との関係(役割分担)はどうなっていたのですか。 2.大目付に任命された旗本4,5人で「大名・高家及び朝廷を監視」できたのですか。 そもそも大目付には、手足となって働く部下(隠密など)がいたのですか。 なお、江戸時代中期以降は「監察官」としての役割は薄れていったそうですから、中期までの役割です。 よろしくお願いします。 Wikipedia「大目付」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%AE%E4%BB%98 江戸幕府は封建制? 日本の江戸幕府は歴史用語の上では封建制なのでしょうか?それとも絶対王政なのでしょうか? 江戸時代は確かに各大名に領地が与えられていて、行政や司法が委ねられていましたが、大名が己の領地に対し完全に主権を有しているわけではなく、幕府によって領地替えや取り潰しされる事がありました。 また将軍と大名は契約によって主従関係があるのではなく、完全に支配されています。 しかし大名は将軍が派遣した官僚ではありません。 こういう場合はどちらに分類されるのでしょうか? 西洋の歴史用語を日本の体制に完全に当てはめる事も難しいと思いますが。 また西洋で日本の江戸時代のような体制になっていた時期もあるのでしょうか? 書院番と小姓組はどちらの方が身分が高くて格上だった 江戸時代の江戸幕府の役職で、『書院番(しょいんばん)』と『小姓組(こしょうくみ)』を比較したら、どちらの方がより身分が高くて格上だったのでしょうか? 江戸時代の江戸幕府の役職で、『書院番(しょいんばん)』と『小姓組(こしょうくみ)』とでは、どちらの方がより身分が高くて格上だったのでしょうか? 江戸時代の江戸幕府の役職で、『書院番(しょいんばん)』と『小姓組(こしょうくみ)』とでは、どちらの方がより身分が高くて格上だったのかを教えてください。 天文学のお話。日本ではどのように考えられていた? 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たとえば、御書院番の旗本が御小姓組の娘を嫁にもらい、さらに大名家家臣の娘を養女にしていたとします。 この場合、職場での付き合い・大名家とのつながりを考えたものと見ていいんでしょうか。 日本史の問題でわからないところがあります。 日本史の問題で分からないところがあります。 1.江戸幕府の幕府政治の中心を担う役職は何か 2.その後制定された大名の守るべき法令は何か 3.江戸時代の大名の区分を三つ挙げよ 一応自分でやってみたのですが 1.軍役 2.武家諸法度 3.親藩・譜代・外様 1番がどうにも自信がありません これであっているのでしょうか? 教えてください、お願いします。 大名家の婚姻 武家諸法度で婚姻は幕府の統制下におかれましたが、6代家宣以降で大名家から申請された婚姻を幕府が禁止した例はありますか。 それとも婚姻は、たいていの場合、誰と誰が結婚せよと幕府が決めるのですか。 「私に婚姻を結ぶことの禁」は、ずっと守られたのですか。 大名家は大名家同志で結婚するケースが圧倒的に多いと想像しています。 すると、江戸中期以降はほとんどの大名家は、遠い親戚関係になるのではないかと思うのですが、そう言えますか。 よろしくお願いします。 旗本 番士の序列は書院番・小姓組>大番なのに、頭になると大番頭は役高五千石・場合によっては大名役で、書院番頭は役高四千石と大番頭より下位の職となっているのでしょうか? ご意見を伺えれば幸いです。 その後の曽我家 曽我兄弟で有名な桓武平氏曽我家のその後を辿っているのですが、足利家に仕えて室町幕府奉公衆になり、幕府滅亡後は織田信長→豊臣秀吉→徳川家康に仕え、江戸幕府では旗本として書院番などを務めていたことまではわかりました。しかし、幕末の行動がわかりません。旗本ですから例えば彰義隊に加わったとか、そういうことがもしあれば面白いかなとも思っているのですが、実際のところを御存知の方がいらっしゃいましたら御教授ください。 日本史の転換点?:赤穂浪士、池田屋事件、禁門の変に見る武士の忠義と正義 OKWAVE コラム 諸国巡検使の経費負担 江戸時代原則将軍交代時諸国巡検使が各地域に派遣されています。このための経費は誰が負担したのでしょうか?幕府でしょうか?藩でしょうか?出来ればいただいた回答のソースを教えてください。 よろしくお願いします。 江戸時代に廃藩置県が起こるまで、藩によって金持ちの 江戸時代に廃藩置県が起こるまで、藩によって金持ちの財がある藩と同じ石高の藩でも貧富の差があった。 要するに藩主は国を欺き脱税していた藩には財力があった。 10万石の領地を持つ藩で金持ちの藩主がいたが、国に所有地で取れる米の量は10万石とお上の国に申告し、江戸幕府の視察団が来ても田んぼは確かに10万石しか取れない土地であったので視察団はそのまま帰っていった。 では、10万石の大名はどのように国の目を欺き脱税していたかと言うと、山の表面に米田畑を作り、裏面に売れる木を植えていたのである。 要するに副業で林業をやって木を国を通さずに直接売買して副収入を得ていたのである。 という話を聞いて、昔の藩主も脱税してたのか。 それで金持ちの藩が存在していた理由が分かった気がした。 高い銃を大量に買える財力がなぜか領土が小さい藩に存在していた。 大きい広い土地を持つ藩主は土地も広いが国に納める税金も高かったので不作のときに大きく蓄えを減らし、領土の大きさが逆に財政を悪化させていたのだ。 で、江戸幕府も小さい藩主なのに羽振りが良いので、直接藩主になぜお前の藩は不作が続いているのに人々は餓死もせずにピンピンしているのだと聞いた。 実は米が不作でも林業で現金収入があったので米を買って村人に配っていたので栄養失調にならないのでピンピンしていたのだが、さすがに脱税してるお金があって財力に余力があるからとは言えないので、江戸幕府は結局、どういうカラクリでその藩だけ疫病に掛からないのか知りたくても真実は聞けなかったというお話。 これ以外の脱税話を知ってたら教えてください。 多分、他の藩も脱税していたと思う。 旗本 五番方で小十人だけは徒歩の士という事でかなり格下だというのは分かるのですが、書院番・小性組と大番、それに新番とではそんなに格式や出世などで扱いに差があったのでしょうか? お考えを伺えば幸いです。 元禄時代の忠臣蔵の事件について よく考えるといろいろわからないことがたくさんあります。 1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。 2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。 3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。 4.事件のあと四拾七士は泉岳寺に向かいましたが、怪我人や老人は駕籠に乗っていったと書いた本がありました。早朝6時に駕籠屋はやっていたのでしょうか。 4.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。 5.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。 6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。 以上、いろいろ書きましたが、よろしくお願いいたします。 大名火消設置の日付について、 大名火消設置の日付について、 ウィキペディアでは混乱が起こり、他のサイトも引用が多いため、どれが正しい日付かわかtらなくなっています。 教えてください。 情報1. http://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8826%E6%97%A5 1634年(寛永11年1月29日) - 江戸幕府が大名火消を設置する。 情報2. http://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8829%E6%97%A5_(%E6%97%A7%E6%9A%A6) 寛永11年(グレゴリオ暦1634年2月26日) - 江戸幕府が大名火消を設置 情報3. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E6%B6%88#cite_ref-7 大名火消(だいみょうびけし)は、寛永20年(1643年)にはじまる火消 寛永18年(1641年)正月、京橋桶町から発生した火事は、江戸の大半を焼くという大きな被害を出した。この桶町火事に際しては、将軍家光自身が大手門で指揮を取り、奉書により召集した諸大名にも消火活動を行なわせたものの、火勢を食い止めることはできなかった。 桶町火事より2年後の寛永20年、幕府は6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成して新たな火消役を設けた。 奉書火消を制度化したものであり、この火消役は選ばれた大名自らが指揮を取った。1万石につき30人ずつの定員420人を1組とし、1組は10日交代で消火活動を担当した。火事が発生すると火元に近い大名が出動し、武家地・町人地の区別なく消火を行なうとされていた。 -------------- 情報3は、詳細な史実が述べてありますが、1や2と明らかに9年違います。旧暦変換では、1、2は正しく変換されています。 よろしくお願いします。 江戸時代、刀の柄糸や下げ緒の色について 江戸時代、刀の柄糸や下げ緒の色には、何か幕府の規定などはあったのでしょうか。 時代劇を見ていると――これらがすべて忠実な時代考証のもとに制作されているとは思いませんが――例えば、将軍は紫であったり、大名・大身旗本は白、幕閣のお歴々や諸藩の家老などの上士は茶や鉄紺にうぐいす、町同心や新撰組隊士、その他一般の下士の差料や町人拵は黒、といった感じがします。 上級武士が黒い柄糸の拵を帯びているのは見かけますが、反対に下級武士が黒以外のものを帯刀しているケースはあまり見かけません(飽くまでテレビ時代劇を見る限りでのことです)。 ちなみに我が家には柄巻がうぐいす色の大小があります。 祖先は代官所手代と聞いておりますが、下士の分際では、白柄やうぐいす色の柄の刀を帯びることは許されなかったのでしょうか。 それとも、役儀を勤めるときとは別に、非番のときの“遊び差”として他の刀を用意していたのでしょうか。 登城の際の殿中拵(番差・裃差)にはさまざまな規定があったと聞きますが、諸藩や奉行所および代官所などに出仕する下級武士の間にも差料の決まりはあったのでしょうか。 よろしくお願いいたします。 城主の身分名称○○守についての疑問 来年の大河ドラマの「山内一豊」は静岡県の掛川の城主の時代もありますが、後に土佐に領国をいただいて赴いたことから「土佐守山内一豊」ということで、理解できます。 ですが、一国を領有する国持ち大名でなく、徳川幕府の直轄地などの単なる城持ち大名の○○守について教えてください。 江戸時代に代々城主を引き継いだ者達が名乗っている○○守とは、どういう由来からなのでしょうか。 全く名乗っている国とのかかわりがない(と、思われる)のに、その、遠く離れている地名を○○にあらわしているのはどういうことでしょうか。 代々の城主の列記から、生まれた疑問です。 よろしくお願いいたします。 薩摩藩ってすごい藩? 「ドイツってすごい国?」をみて薩摩もすごいと思ったので質問します。 島津家は日本で(おそらく)唯一、鎌倉時代の守護大名からの歴史をもつ大名で、室町・戦国時代は九州最強を誇り、豊臣秀吉に逆らい、関が原では西軍につき戦闘をおこなうなど時の権力者に逆らいつつも領地を減らされることなく、江戸時代は参勤交代で全大名中最も長距離で負担の重い旅行を強いられ、徳川家は更に島津家を恐れ江戸防衛のため間に親藩・譜代大名を置き、名古屋城などの城を築いて万全の体制を敷いたにもかかわらず幕末には薩摩藩主力の新政府軍に倒されてしまいます。 このように、九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、強大な武力とバイタリティーを持ち続けた理由は何でしょうか?鎌倉時代から明治時代初めまで(幕府を除けば)最強、悪くてもベスト3には入っていたと思うのですが、いかがでしょうか。 注目のQ&A 私はとてつもなく運が悪いです。 外付けHDD「このフォルダーは空です」 中3 夢に向かって努力をしたい 自分を変えたい 出会い系で知り合った人妻について 一方的に親友に縁を切られました LIFEBOOK A577/P A746 飲み薬 タイヤ比較検討 パソコンのスペック 突然、知らない親族の未払金支払い通知が届きました カテゴリ 学問・教育 人文・社会科学 考古学・人類学文学・古典歴史経済学・経営学心理学・社会学地理学美術音楽哲学・倫理・宗教学その他(人文・社会科学) カテゴリ一覧を見る OKWAVE コラム マッチングアプリは顔写真が重要!容姿に自信がなくても出会いを見つけるには 美容男子ミドル世代の悩み解決?休日ファッション・爪・目元ケア プラモデル塗装のコツとは?初心者向けガイド 突然のトラブル?プリンター・メール・LINE編 携帯料金を賢く見直す!格安SIMと端末選びのポイントは? あなたにピッタリな商品が見つかる! 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お礼
ご回答ありがとうございます。 国目付は藩主が幼少の場合なのですね。 譜代の姫路城主も藩主が幼少になると国替えになったようですし、幕府は幼少の藩主を嫌っていたのでしょうか。