720年(養老4年)の隼人の乱は、養老律令への地方氏族の抵抗として考えられているようですね。
流れは下記のような形です。
養老4年2月29日、大隈、日向の隼人らが初代大隈国守・陽候史麻呂を殺害して叛乱を起こす。
3月4日、大伴旅人(多比等)が征隼人持節大将軍に任命され赴任。
1万人規模の軍団を編成して対処することにしたため、しばらくは九州の各軍団の招集と再編成を行っていたようです。
6月には戦果についての記述があり、天皇から慰問する詔が出されていますので、鎮圧の行動に移ってからはやはり圧倒的だったようです。
8月に藤原不比等が亡くなった為に、大伴旅人は京へ帰還するよう勅命を受けます。
9月に当時豊前守であった正六位宇努首男人が将軍を引継ぎます。
養老5年7月に至ってようやく叛乱は鎮圧されます。
大伴旅人は万葉集の大伴家持のお父さんで歌人として有名(万葉集に76首載っています)ですが、藤原不比等と時代が重なる政権内の実力者でした。
また、この人のお父さんの大伴安麻呂も大宰帥に任命されていて、九州地方を担当する武門の家柄となっていたようです。
この人の戦略は、大軍を編成し一度大きく叩いておいて、その後は隼人の各部族を個別に一つ一つ念入りに討伐していくと言うものだったことが想像されますね。
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