spitzer3 の回答履歴

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  • 見え方の違い

    Aという情報があったとするとそのAの情報があるフィルターを通ってBに変わってBという情報があるフィルターを通ってCに変わって・・・・・を(N-1)まで試行し最後のフィルター脳を通ってNという評価を下されたとしましょう。 ではAという情報はNと言えるでしょうか?

  • 見え方の違い

    Aという情報があったとするとそのAの情報があるフィルターを通ってBに変わってBという情報があるフィルターを通ってCに変わって・・・・・を(N-1)まで試行し最後のフィルター脳を通ってNという評価を下されたとしましょう。 ではAという情報はNと言えるでしょうか?

  • 見え方の違い

    Aという情報があったとするとそのAの情報があるフィルターを通ってBに変わってBという情報があるフィルターを通ってCに変わって・・・・・を(N-1)まで試行し最後のフィルター脳を通ってNという評価を下されたとしましょう。 ではAという情報はNと言えるでしょうか?

  • 恐ろしいほどの自由

    心理的に理由や原因をもとめなかったら 生きることは恐ろしいほど自由じゃないだろうかと思いませんか。 哲学のカテで同じ質問をしたのですが、ここのカテではどんな風に見えるかと思い再度投稿させて頂きました。

  • 前世、、輪廻転生について

    僕の地球を守ってという漫画の影響で考えてしまいます。 輪廻転生、前世というものはあるものなのでしょうか。 あるなら前世での記憶を復活させることはできると思いますか?

  • 2円の関係

    a>0とする。2円x^2+y^2=1,x^2+y^2-6ax-8ay+21a^2=0が接するとき、aの値は? 円と直線が接するときならわかりますが、2円が接する問題はわかりません。 距離と半径を使ったり、参考書を読んだりしましたが、全然わかりません。 どうやって解けばいいのでしょうか?

  • あなたは、この世の中を理解できていますか?

    あなたは、この世の中を理解できていますか? あなたは、この世の中を理解していますか? とりとめのない質問をしてしまいましてすみません。

  • 表に出す情報と裏にしまっておく情報

    噂話などで、あの人はどういうことがあるないということを言っていて、会話している当人同士の関係性はもちろんあるのですが、そのときに、これは知っているけども公開するべきだとか公開すべきじゃないとかいう価値判断が問われる場面がありますね。例えば、あの人は障害を持っているとか、悪癖があるとか、養子だとか、一般的に、ちょっとさらっとした会話で口に出すのがはばかられるような事があります。しかし、この価値基準というのは、いったいどうやって生まれるのでしょうか?世間一般に拡大しても、この価値基準は普遍的にあって、「明るく公開すべきもの、暗くて基本的には伏せておくもの」という、ほとんど無意識的な規制のようなものが存在しています。この規制の ※発生原因 ※価値基準の作成基準システム のようなものをどう考えたらよろしいですか? それからなぜ、こういうものは暗い、こういうものは明るい話題だという、価値観が生まれるのでしょうか?下衆な宇宙人にとっては、障害があるなんていうのは最も賛辞されることかもしれませんよね。

  • 学生スポーツと喫煙について

    大学の入試試験のためグループディスカッションの練習をしているのですが、どうしても相手の意見に対して自分の正当性を示せません。どうかお助けください! まず、自分の状況として、 自分は高校3年生で、ある激しい運動をする県内では強い部類に入るスポーツクラブに入っていて、さらにレギュラーにも入っているとします。 しかし、自分は昔から三度の飯より喫煙が大好きでやめようとも思ったことがありませんでした。 (仮の話としてですよ) そこで、ある人に あなたはそういう部活に入っているのに、体力的にも下がる上、見つかれば出場停止もありえるのにあなたはなぜ喫煙をやめようとおもわないのか、そしてそれは無責任ではないのか? と突き詰められたものとします。 そこで、自分は部活も喫煙もやめるつもりはないとした上で、自分の正当性を示すとするならどう言えばいいでしょうか? ポイントとして (1)その部活の過半数は喫煙、飲酒、中には暴走族もいます。なので自分はただ煙草を吸っているだけ。 (1)自分は人一倍部活の練習に手を入れている。 (2)煙草を屋外で吸うことはなく、自分の家の中、喫煙仲間の家でのみ吸っている。最善の注意を払い見つからないようにしている。 もちろん持ち運びも厳重に密封。 (3)部活の仲間も吸うことを認めている(もちろん見つかるような危ないことをするようなら厳しく注意する。) (4)煙草を吸った事による体力の衰えはほとんど見られない。 (自分は短距離、長距離においてもスポーツをしている人間の中で良い方に入る。他の喫煙者も短距離は全く下がらない。長距離については(喫煙しているから)下がっているんだろうな。という意見がある。実際のタイムについては誤差の範囲と言える。) (喫煙とスポーツの因果関係については細かい事はわかりませんが私達については煙草吸ったせいで体力的に悪い結果が出た事がないとします。) 以上です。 法律に縛られた考え方でも、法律抜きならでは本人にしか悪影響のないことだから。という考えでも結構ですが、そのどちらかであるか、またはそのどちらかでなければどういうものであるかも書いて頂きたいです。 当事者であるか影響を受ける第二者であるかまったく関係のない第三者であるかによっても質が違ってくるのではないかとおもいますのでその面でも明記していただけると幸いです。 初心者ですので質問はもっとこうしたほうがいいよとか、そういう意見も頂ければと思います。 とても汚い文で恥ずかしい限りですが、よろしくおねがいします。

  • 自分がキライな自尊心とは

    過去に幾つか同様の質問をさせて頂きましたが、 私は非常に自己否定感の強い人間です。 けれども、過去にある精神科医(仮にM沢S夫)に「自己愛性人格障害」と診断され、 「あなたは非常に自尊心が高いんだよ」と言われました。 過去の当サイトでも同様の指摘を受けました。 しかしそれほど自尊心が高い人間が、 何故このように自己を否認し続けるのか当人には理解できません。 「高い自己イメージが現実の自己を否認しているのだ」 というご意見もあるかもしれませんが、 少なくとも自覚的には私は「あるべき理想像」など思い描いたこともありません。 太宰治について書かれた評論で、 「自尊心の裏返しの自己否定」という言葉が頭から離れません。 自己を否認し続ける自尊心とはなんでしょう・・・ http://okwave.jp/qa3163113.html http://okwave.jp/qa3171725.html

  • 生きる意味がわかりません。

    人はなぜ生きるのですかね? 何のために働くかわかりません。 私はサラリーマンで毎日が同じことの繰り返しです。 こんなんで人生いいんでしょうか?

  • イエス・キリストの十字架と復活の意義

    イエス・キリストの十字架と復活の意義について簡単に説明文を書かなければならないのですが、書く上で疑問点があるので教えて頂きたいと思います。 教科書には、十字架の意義とは  (1) 罪の赦し、罪の裁き  (2) 罪の克服  (3) 永遠の死からの解放 とあるのですが、(1)と(2)は刑罰代受説と関連付けて書いて良いのでしょうか? また、「十字架の意義」とは別項目の「復活の意味」という項目のところでに「イエスの死は完全な死であり、仮死状態からの復活ではない。イエスは『永遠の滅びの死』を死なれた」と書いてあるのですが、「『永遠の死』を死なれた」とは上の(3)にある「永遠の死から解放された」ということと同義なのでしょうか? よろしくお願いします。

  • なんで命が大切なのか分かりません。

    こんにちは。 別に精神的に病んでいるわけではなく、最近ふと思ったのですが、命の大切さが分からなくなりました。 なぜ大切なのでしょう? 人はみな、「生きていれば楽しいことや、幸せなことがあるよ」と言いますが、幸せを得たからなんなのだ・・・という結論に達しました。そう考えていると、とっても孤独な気持ちになります。誰かのために何かを得たり、行ったりすることで、自分の存在意義を確かめながら生きている意味すら分からなくなります。 最近ではバイオレンスなゲームで人は簡単に死にます。映画でもそうです。 何か皆さんの考えを教えてください。なぜ命が大切なのか、そしてどんなときに大切だと思ったかなどを教えていただければ嬉しいです。

  • 陰徳について

    陰徳は良い行いをすることによって自分の今生・来世に良い事となって帰って来たり、あの世で良いところへ行くとか言いわれますが自分は陰徳の存在を感じたことはあまりありません。(この良い行いと言うのが漠然としていて、自分が人が喜ぶだろうと思うことをしてあげる事なのか、規則正しい生活したり、勤勉したりなどの影の努力なのかよく分からないのですが…。) あの人が?と言う人が幸せになり、あんないい人が…と言う人が不幸になったり、矛盾に満ちているのがこの世だと宗教家も語っています。 それでも一般的に言われている良い行いを続けている人は陰徳を積むなどの意識はなく、ひとえに情や愛からの行為だと思います。 自分の周りを見ても良い人と思える人はあまりよい人生ではなく、良い人とは思えない人の方がどちらかと言うと幸せのように見えます。 良い人とは思えない人が形の違うところで人に貢献している(難しい仕事をこなせるとか)なども含まれるなら知りませんが…。 先祖が良いことをした、前世で良いことをした?(先祖もだいたい価値観が似通っているでしょうし、前世とガラリと性格が変貌したとも思えません。) 私の知っているご婦人も婿養子を取り一代であっいう間にお金持ちになりました。 多かれ少なかれ一代でお金持ちになるにはミートホープのような営業はしています。 脱税であがったり、障害者の人達を安い賃金で働かしたり、家族は社員という事にしてお給料・年金が出るようにし、あらゆる方法で税金対策をしているようでした。 お金を儲ける夫を褒めて夫婦間は悪いようではないですが、若い頃は互いにいろんな場所で異性遊びを楽しんでたようです。 知っている人ではケチでは一番だと思います。長年付き合っている人にもお菓子ひとつ上げたことがありません。捨てても他人には上げないのかな。それどころか貧乏人から持って帰ります。 いつもダラダラしていい加減な人ですが、税金の返金が少しでもあれば突っ走っていきます。年金を取り返すため夫に長生きしてもらわなければと意気込んでいました。 寄付金もあれだけ贅沢しても寄付しないか、寄付しても庶民と同じ数千~一万程度。最低10万寄付してもいいのじゃないか皆で話したりしていました。 その後夫は亡くなったのですが、おばあちゃんに夫の遺族年金が出るようになったと言います。 定年前の夫の妻にしか遺族年金は出ないと思いますが、会社で保険を取り扱ったこともあり、何か法を潜り抜けるよい方法見つけたのかもしれません。 年配になっても太っている・痩せている話とお金の話しかしないのであまり中身がないように見えます。 息子に念願の嫁・孫が産まれ、夫は亡くなったことにより思わぬ大金が手に入ったとほくほくになっていました。 大金が入ったことにより気が大きくなったのか年金生活者の質素な生活をバカにするようになりました。 昔の知り合いではなくセレブな人達とだけ付き合った方がいいと思いますが…。 セレブになるとそういう人間になっていくのでしょうか。 夫が亡くなったことにより現在はお金が使いたい放題になったのか、毎日のようにディナーショウや豪華海外旅行を楽しんで家にはいないようです。 ほとんどの会社が3代続かないと言われますのでわかりませんが…。(おじいちゃんからいうと3代目、成功してからは2代目) これは一例ですがほかの場合も同じようなことが多いですね。 陰徳はある感じられた体験お知らせ下さい?

  • 富と人間性

    富があると人間性も高く、貧乏人は人間性が低い、貧乏なのは自己責任であるという論が最近の日本では強まっていますが、なんでこんな風潮になってしまったのでしょうか? 本来ならば富と人間性は無関係なはずでは?

  • 幸福度アップのために

    貧すれば鈍するという面もありますが、幸福殿基準が下がる=わずかなことにもうれしいと思う、という作用もあります。 「もっともっと豊かに便利に」を続けていくと、結局幸福度をアップしてしまい、ますます幸せから遠ざかることにならないでしょうか。もしそうならば、社会状況とは関係なく、自分は「貧」を幸福度の糧としたいという思想は、一般的でないですが、これは気付く人がいないのか、社会にの流されているだけなのか、どうしても逆向きには進みたくないという本能のようなものなのか、どう考えたらいいのでしょうか。

  • ほにゃらか形而左右学 数学

    1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」と。(ガリレオ) 2)「自然は数学で出来ている」がや。(何処かで聞いたような) 1)から2)の帰結が肯定されそうですが、 1)では、自然に対する敬意と謙虚さを保持して、 その上で、自然を体系的に観察するには数学が有効である、 と、述べるに留まって、否定の必要はあまりなさそうですが、 2)では、自然を単なる対象として、数学で理解できる、といった 断定的な意図が見受けられます、つい、否定したい誘惑に駆られます。 1)から2)への論理的誤謬について、ご指摘下さい。(誤謬の有無を含む) さらに、 1)ついて、ではそれ(数学で理解するのが容易)は、なぜか? このことを問題にした哲学者や資料があれば教えてください。 結局、2)だから、1)だという事になりそうで、混乱しています。 テストもレポートの予定もありませんし、私見も混入していますが、 宜しくお願いします。

  • ほにゃらか形而左右学 数学

    1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」と。(ガリレオ) 2)「自然は数学で出来ている」がや。(何処かで聞いたような) 1)から2)の帰結が肯定されそうですが、 1)では、自然に対する敬意と謙虚さを保持して、 その上で、自然を体系的に観察するには数学が有効である、 と、述べるに留まって、否定の必要はあまりなさそうですが、 2)では、自然を単なる対象として、数学で理解できる、といった 断定的な意図が見受けられます、つい、否定したい誘惑に駆られます。 1)から2)への論理的誤謬について、ご指摘下さい。(誤謬の有無を含む) さらに、 1)ついて、ではそれ(数学で理解するのが容易)は、なぜか? このことを問題にした哲学者や資料があれば教えてください。 結局、2)だから、1)だという事になりそうで、混乱しています。 テストもレポートの予定もありませんし、私見も混入していますが、 宜しくお願いします。

  • 覚悟を持ち得るには

     私はある覚悟を持てないでいます。  その覚悟とは、ある使命に命と今後の人生を賭けることです。 理由があり具体的なことはお伝えできませんが、自分以外の命を危険にさらすことなく、他者の命が不本意に不条理に消えるのを防ぐことです。その使命とは、誰かがやらなければならないことであり、しかし絶対的に不可能といえることであり、かつ行為自体は正しいと言い切れうることです。  私自身、自分の思うこの使命は正しいと信じていますし、人から間違っていると言われたことも一度もありません。(おそらく皆さんにお話しても内容を正しいと思われない方は至極少数だと確信します。ご回答頂ける際には正しいことだと判断した上でお願いします)ですが「何故私が」と、どうしても考えてしまいます。ほぼ間違いなく不可能なことなのです。「死にたくない。死にたくない。死にたくない。幸せになりたい。だけど、死なせたくない。皆が幸せであってほしい。」と心の中で二人の自分がいつも戦い続けています。必ず死ぬわけではありません。しかしリスクは桁が違います。私は死にたくありません。ですが、死なせたくもありません。  私は、過剰共感体質です。他人の心痛を他人のものとして、受け流すことができません。おそらく異常だと思います。新聞やニュース、実際に見たもの等、毎日の生活の中でたくさんの人が苦しみ、死んで、殺されたのを見ます。私はその苦しんでいる人、無くなった人、その家族等たくさんの立場に自分を置き換えて苦しみます。自覚的にではなく、気付くと胸がどうしようもなく痛くなっています。頭が痛くなります。当事者の視界で想像しています。車に爆弾を積み自爆するテロリストにも、そうされる軍人にも。一度、幻覚を見るようになったこともありました。戦争で怪我をし、栄養失調で異常に膨らんでしまった腹部と枝のような手足をした黒人の子供が、指をくわえながら、虚ろな薄くなってしまった眼で、私のほうを見続けていました。起きていても、夢の中でも、彼は私を見つめ続けていました。何も言わず見つめ続けていました。何も言う必要が無かったのでしょう。何年か経った今でもその顔は、はっきりと浮かんできます。理由はおそらく世界を少し知ってしまったからだと思っています。  私がこうしてパソコンにむかっている間にも、勝手に悩んでいる間にも、私はその自覚無しにおそらく世界のどこかで未だ見ぬ誰かの命を消す手助けをしてしまっています。私は今まで、一体何人の顔も知らない誰かを殺してきたのでしょう。いくつの家族を不幸にしたのでしょう。日本という国に生きる私は、その存在の存続そのものが「殺すこと」と同義であるのだと気付いてしまいました。  正直に言って、知りたくなかった。そんな咎に気付くことなく、ただ自分とその周りの命の幸せを願って生きていきたかった。ただ日々の平和を願い、生きていきたかった。  しかし、私は知ってしまいました。私は、それを無視するには心の器が小さすぎます。しかし、私は、私たちは、圧倒的に非力です。  ですが、やはり咎を背負ったまま、何の償いをすることもなく、何食わぬ顔をして生きていくことはできません。苦しすぎます。それは自分のことです。ですが、死にたくないのです。「何故私がしなければならないのだ」と考えてしまいます。どうしても考えてしまいます。  多くの人は自分の幸せを純粋に望んでいるように見えます。それを良とし、疑わない、世の中です。不都合なことは「存在させない」世の中です。私も突き詰めれば贖罪願望を満たすという幸せを願っていると言えるかもしれません。しかし、それは詭弁ではないでしょうか。「価値観の違い」と言う絶対の剣を、相手の喉元に突きつけながらの理論ではないでしょうか。それは卑怯ではないでしょうか。  本当はわかっています。「何故私が」ではなく、「誰かが」ではなく、「私は」だという問題であることを。他人や世の中を責める自分の醜さも、臆病さも、幼さも、本当はわかっています。こんな自分が一番恥ずかしくて、一番憎いです。本当に憎いです。  だから皆さん教えて下さい。自分で答えを見つけられない私に、どうか力をお貸し下さい。どうすれば、覚悟を持ちえられますか。 長文読んで頂きありがとうございました。

  • 覚悟を持ち得るには

     私はある覚悟を持てないでいます。  その覚悟とは、ある使命に命と今後の人生を賭けることです。 理由があり具体的なことはお伝えできませんが、自分以外の命を危険にさらすことなく、他者の命が不本意に不条理に消えるのを防ぐことです。その使命とは、誰かがやらなければならないことであり、しかし絶対的に不可能といえることであり、かつ行為自体は正しいと言い切れうることです。  私自身、自分の思うこの使命は正しいと信じていますし、人から間違っていると言われたことも一度もありません。(おそらく皆さんにお話しても内容を正しいと思われない方は至極少数だと確信します。ご回答頂ける際には正しいことだと判断した上でお願いします)ですが「何故私が」と、どうしても考えてしまいます。ほぼ間違いなく不可能なことなのです。「死にたくない。死にたくない。死にたくない。幸せになりたい。だけど、死なせたくない。皆が幸せであってほしい。」と心の中で二人の自分がいつも戦い続けています。必ず死ぬわけではありません。しかしリスクは桁が違います。私は死にたくありません。ですが、死なせたくもありません。  私は、過剰共感体質です。他人の心痛を他人のものとして、受け流すことができません。おそらく異常だと思います。新聞やニュース、実際に見たもの等、毎日の生活の中でたくさんの人が苦しみ、死んで、殺されたのを見ます。私はその苦しんでいる人、無くなった人、その家族等たくさんの立場に自分を置き換えて苦しみます。自覚的にではなく、気付くと胸がどうしようもなく痛くなっています。頭が痛くなります。当事者の視界で想像しています。車に爆弾を積み自爆するテロリストにも、そうされる軍人にも。一度、幻覚を見るようになったこともありました。戦争で怪我をし、栄養失調で異常に膨らんでしまった腹部と枝のような手足をした黒人の子供が、指をくわえながら、虚ろな薄くなってしまった眼で、私のほうを見続けていました。起きていても、夢の中でも、彼は私を見つめ続けていました。何も言わず見つめ続けていました。何も言う必要が無かったのでしょう。何年か経った今でもその顔は、はっきりと浮かんできます。理由はおそらく世界を少し知ってしまったからだと思っています。  私がこうしてパソコンにむかっている間にも、勝手に悩んでいる間にも、私はその自覚無しにおそらく世界のどこかで未だ見ぬ誰かの命を消す手助けをしてしまっています。私は今まで、一体何人の顔も知らない誰かを殺してきたのでしょう。いくつの家族を不幸にしたのでしょう。日本という国に生きる私は、その存在の存続そのものが「殺すこと」と同義であるのだと気付いてしまいました。  正直に言って、知りたくなかった。そんな咎に気付くことなく、ただ自分とその周りの命の幸せを願って生きていきたかった。ただ日々の平和を願い、生きていきたかった。  しかし、私は知ってしまいました。私は、それを無視するには心の器が小さすぎます。しかし、私は、私たちは、圧倒的に非力です。  ですが、やはり咎を背負ったまま、何の償いをすることもなく、何食わぬ顔をして生きていくことはできません。苦しすぎます。それは自分のことです。ですが、死にたくないのです。「何故私がしなければならないのだ」と考えてしまいます。どうしても考えてしまいます。  多くの人は自分の幸せを純粋に望んでいるように見えます。それを良とし、疑わない、世の中です。不都合なことは「存在させない」世の中です。私も突き詰めれば贖罪願望を満たすという幸せを願っていると言えるかもしれません。しかし、それは詭弁ではないでしょうか。「価値観の違い」と言う絶対の剣を、相手の喉元に突きつけながらの理論ではないでしょうか。それは卑怯ではないでしょうか。  本当はわかっています。「何故私が」ではなく、「誰かが」ではなく、「私は」だという問題であることを。他人や世の中を責める自分の醜さも、臆病さも、幼さも、本当はわかっています。こんな自分が一番恥ずかしくて、一番憎いです。本当に憎いです。  だから皆さん教えて下さい。自分で答えを見つけられない私に、どうか力をお貸し下さい。どうすれば、覚悟を持ちえられますか。 長文読んで頂きありがとうございました。