MOG777 の回答履歴

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  • 何のために勉強してるのか

    何でも生きてるのか、何のために勉強してるのか分からないです。毎日他人が羨ましくて死にたくなる気持ちが沸き上がってきます。人はなぜ生きようとするのでしょうか。

  • どんな理由があってもしてはいけない事はあるのか?

    少し前、僕の仕事場でケンカがあり、それに関与した人は 全員クビになった。 その中の1人は、殴ってきたので反射的に殴り返したようで あるが、「どんな理由があっても暴力はいけない」という事で 会社をクビになった。 僕は、それなりの理由さえあれば、暴力はおろか殺人でも 良いと思っています。 もちろん、良い、というのは許されるという事ではないので、 法を犯せばそれなりの制裁を受けるという事はいうまでも ありませんが。 昔読んだ東野圭吾さんの小説で「さまよう刃」というのがあります。 自分の娘を若者たちに陵辱され、あげくに殺されたため、 復讐をするというものですが、少年法に護られた若者に制裁を 与えるのは復讐しかない。という現代の問題点を小説にしたものです。 これは映画化もされていたので、これを観たほとんどの人は その復讐を心の中で応援していたのではないでしょうか。 このように復讐(殺人)さえも、場合により良い、とされることが あると思いますが、どんな理由があっても、これだけはしては いけない。ということはありますか?

  • どんな理由があってもしてはいけない事はあるのか?

    少し前、僕の仕事場でケンカがあり、それに関与した人は 全員クビになった。 その中の1人は、殴ってきたので反射的に殴り返したようで あるが、「どんな理由があっても暴力はいけない」という事で 会社をクビになった。 僕は、それなりの理由さえあれば、暴力はおろか殺人でも 良いと思っています。 もちろん、良い、というのは許されるという事ではないので、 法を犯せばそれなりの制裁を受けるという事はいうまでも ありませんが。 昔読んだ東野圭吾さんの小説で「さまよう刃」というのがあります。 自分の娘を若者たちに陵辱され、あげくに殺されたため、 復讐をするというものですが、少年法に護られた若者に制裁を 与えるのは復讐しかない。という現代の問題点を小説にしたものです。 これは映画化もされていたので、これを観たほとんどの人は その復讐を心の中で応援していたのではないでしょうか。 このように復讐(殺人)さえも、場合により良い、とされることが あると思いますが、どんな理由があっても、これだけはしては いけない。ということはありますか?

  • どんな理由があってもしてはいけない事はあるのか?

    少し前、僕の仕事場でケンカがあり、それに関与した人は 全員クビになった。 その中の1人は、殴ってきたので反射的に殴り返したようで あるが、「どんな理由があっても暴力はいけない」という事で 会社をクビになった。 僕は、それなりの理由さえあれば、暴力はおろか殺人でも 良いと思っています。 もちろん、良い、というのは許されるという事ではないので、 法を犯せばそれなりの制裁を受けるという事はいうまでも ありませんが。 昔読んだ東野圭吾さんの小説で「さまよう刃」というのがあります。 自分の娘を若者たちに陵辱され、あげくに殺されたため、 復讐をするというものですが、少年法に護られた若者に制裁を 与えるのは復讐しかない。という現代の問題点を小説にしたものです。 これは映画化もされていたので、これを観たほとんどの人は その復讐を心の中で応援していたのではないでしょうか。 このように復讐(殺人)さえも、場合により良い、とされることが あると思いますが、どんな理由があっても、これだけはしては いけない。ということはありますか?

  • 他者への責任が有るとき、楽観主義は役に立たない

    スレッドを開いて頂きありがとうございます。 さて、いきなり私の話で申し訳ないんですがorz この前私は、仕事をしていてある事故を起こし周りにかなりの迷惑をかけてしまいました。事故の原因は私の楽観主義です。「多分大丈夫だろう」という気持ちがありました。福島の原発をつくった人と同じですね。 自分が痛い目を見て、やっとわかりました。楽観主義と悲観主義は二項対立ではない。どちらも使いこなせるのがデキる人。よく「楽観主義になろう」って本がありますが、それはあくまでも悲観主義に対する楽観主義の割合を増やそうという事で、悲観主義が間違いだという訳ではないんですね。 というか、なんとなく想像ですが、本当の意味で楽観的になるにはまず悲観的でなくてはならないのではないでしょうか。とことん悲観で考えて、ここまで考えてもミスしたならもう笑うしかないな、って人が初めて本当の意味で楽観的な人になれるのでは。 私、自分は楽観的だと思ってましたが単に責任感が無いだけでしたね。責任感が無いのに心から楽観的になれるわけがない。 駄文に付き合って下さってありがとうございます。適当にツッコミとかくれると嬉しいです。

  • 彼のヒラメキ

    彼のヒラメキは普通ではない 普通ではない彼のことを、人は天才と呼ぶ。 また、別な彼のヒラメキは普通である 普通である彼のことを、人は凡人と呼ぶ。 天才も凡人もヒラめくことに変わりはない ともに精一杯ヒラめいているように見える。 天才のヒラメキと、凡人のヒラメキを比べてみよう。 ヒラメキを発想という言葉に置き換えて比べてみよう。 とびぬけて正確な発想と、ありきたりであやふやな発想の違いのようだ。 新しい文化を切りひらく斬新な発想と、こて先でチョコチョコやるような目先を変えただけの発想の違いのようだ。 凡人の発想は悲しい、だが彼はその代わりに小さな幸せを手に入れる事ができる。 天才の発想は素晴らしい、だが彼はそれを得る代わりに長い孤独に耐えなければならない。 彼という人のヒラメキは、いつも同じではない いつも同じではないから、天才が凡人にも、凡人が天才にもなりうる。 (そう信じて呼びかけよう) 凡人よ、嘆くなかれ。 天才よ、おごるなかれ。 彼のヒラメキを祝福しよう 彼のヒラメキに祝辞を送ろう 人間ばんざい、というような明るい祝辞を 誰か書いてはくれまいか?

  • 彼のヒラメキ

    彼のヒラメキは普通ではない 普通ではない彼のことを、人は天才と呼ぶ。 また、別な彼のヒラメキは普通である 普通である彼のことを、人は凡人と呼ぶ。 天才も凡人もヒラめくことに変わりはない ともに精一杯ヒラめいているように見える。 天才のヒラメキと、凡人のヒラメキを比べてみよう。 ヒラメキを発想という言葉に置き換えて比べてみよう。 とびぬけて正確な発想と、ありきたりであやふやな発想の違いのようだ。 新しい文化を切りひらく斬新な発想と、こて先でチョコチョコやるような目先を変えただけの発想の違いのようだ。 凡人の発想は悲しい、だが彼はその代わりに小さな幸せを手に入れる事ができる。 天才の発想は素晴らしい、だが彼はそれを得る代わりに長い孤独に耐えなければならない。 彼という人のヒラメキは、いつも同じではない いつも同じではないから、天才が凡人にも、凡人が天才にもなりうる。 (そう信じて呼びかけよう) 凡人よ、嘆くなかれ。 天才よ、おごるなかれ。 彼のヒラメキを祝福しよう 彼のヒラメキに祝辞を送ろう 人間ばんざい、というような明るい祝辞を 誰か書いてはくれまいか?

  • 彼のヒラメキ

    彼のヒラメキは普通ではない 普通ではない彼のことを、人は天才と呼ぶ。 また、別な彼のヒラメキは普通である 普通である彼のことを、人は凡人と呼ぶ。 天才も凡人もヒラめくことに変わりはない ともに精一杯ヒラめいているように見える。 天才のヒラメキと、凡人のヒラメキを比べてみよう。 ヒラメキを発想という言葉に置き換えて比べてみよう。 とびぬけて正確な発想と、ありきたりであやふやな発想の違いのようだ。 新しい文化を切りひらく斬新な発想と、こて先でチョコチョコやるような目先を変えただけの発想の違いのようだ。 凡人の発想は悲しい、だが彼はその代わりに小さな幸せを手に入れる事ができる。 天才の発想は素晴らしい、だが彼はそれを得る代わりに長い孤独に耐えなければならない。 彼という人のヒラメキは、いつも同じではない いつも同じではないから、天才が凡人にも、凡人が天才にもなりうる。 (そう信じて呼びかけよう) 凡人よ、嘆くなかれ。 天才よ、おごるなかれ。 彼のヒラメキを祝福しよう 彼のヒラメキに祝辞を送ろう 人間ばんざい、というような明るい祝辞を 誰か書いてはくれまいか?

  • 彼のヒラメキ

    彼のヒラメキは普通ではない 普通ではない彼のことを、人は天才と呼ぶ。 また、別な彼のヒラメキは普通である 普通である彼のことを、人は凡人と呼ぶ。 天才も凡人もヒラめくことに変わりはない ともに精一杯ヒラめいているように見える。 天才のヒラメキと、凡人のヒラメキを比べてみよう。 ヒラメキを発想という言葉に置き換えて比べてみよう。 とびぬけて正確な発想と、ありきたりであやふやな発想の違いのようだ。 新しい文化を切りひらく斬新な発想と、こて先でチョコチョコやるような目先を変えただけの発想の違いのようだ。 凡人の発想は悲しい、だが彼はその代わりに小さな幸せを手に入れる事ができる。 天才の発想は素晴らしい、だが彼はそれを得る代わりに長い孤独に耐えなければならない。 彼という人のヒラメキは、いつも同じではない いつも同じではないから、天才が凡人にも、凡人が天才にもなりうる。 (そう信じて呼びかけよう) 凡人よ、嘆くなかれ。 天才よ、おごるなかれ。 彼のヒラメキを祝福しよう 彼のヒラメキに祝辞を送ろう 人間ばんざい、というような明るい祝辞を 誰か書いてはくれまいか?

  • 人生はヒラメキの連続である

    感性が消滅しなければ、ヒラメキは生じ続ける。 ヒラメキが生じ続けるということは、人が生きているという事である。 人が生き続けるという事は、ヒラメキが生じ続けるという事である。 人生はヒラメキの連続である。 人生とは感性の場である。 感性の自由が消滅しなければ、ヒラメキは生じ続ける。 感性が消滅するとき、ヒラメキも消滅する。 感性の自由の保証が希望である。 希望とは、感性の自由の保証なしには有り得ない。 希望とは、ヒラメキの泉を見つけることである。 生きるとは、ヒラメクことである。 知らず知らずのうちに、感性の自由を手にする事である。 小さなヒラメキは常に起きている。 だが、それは知るよしもない。 五感のみが与えられているという思い込みや状態が、見逃しを招いているのである。 その事は、精神活動の自然な制限である。 無制限の危険から守るための自然な働きである。 ヒラメキとは、精神活動の制限という壁を超えて現れた感性の自由の証である。 以上の考えが送られてきたのだが あまり面白くない。 どうやら、ヒラメキとは毎日メシを食っているようなものだと言いたいらしい。 ヒラメキというメシはうまいのか、まずいのか? コシヒカリぐらいの味はあるのか? 人生という茶碗に盛っていいのか?

  • ならぬことはならぬものです

    大河ドラマ「八重の桜」が始まりましたが、このドラマに出てくる 会津藩の教え「ならぬことはならぬものです」を 聞くと、どうももやもやします。 これは論理的には「AはAである」というトートロジーで 何も言ってないに等しいのでは? この教えは命令を遂行する足軽レベルなら規律重視でもいいけど、 戦略を考える大将がこういう思考だと不味いのでは?などなど みなさんはどう思われますか?

  • エセ左翼はなぜすぐに理想論を語りたがるのか

    外国人参政権にしても従軍慰安婦にしても 左翼はすぐに理想論を語りたがります。 それに対して現実を知っている反対派は 証拠を挙げて反論するのですが、 なぜかネトウヨといって逆上する人がいます。 我々はこういう連中をエセ左翼とよぶのですが、 なぜこういう不思議な生き物が存在するのですか。 私はエセ左翼が証拠を提示したのを見たことがありません。 むしろ従軍慰安婦という捏造をつくった極悪人です。 でも証拠も提示しようとしないし、逃げ回ってばかりです。 でも、ネトウヨよばわりして威張ります。 ここの質問でも何回もそういう光景をみてきました。 どういう背景があれば、こういう病的な人格ができるのですか。 とくに哲学が好きな人に多そうなのでお聞きします。

  • 歴史の事実を語ればサヨクになるのか?

    史実を語れば、サヨクまたはエセサヨク?になるのか? 「過去に日本は侵略戦争をした。」といおうものなら、ネトウヨの ような人がサヨク扱いするのですが? 日本が侵略戦争をしたのは事実であり、そんなことは常識だと 思っていたのですが、ネトウヨみたいな人は歴史を知らないのでしょうか? 日中戦争なんか、疑いようがないくらいの侵略戦争なのに。 歴史をしらないネトウヨさんに簡単に説明してあげると、日本は 満州事変以降、北支分治政策というのをとっていました。 中国の北のほうを、ぶんどってしまおう、という事ですね。 上海戦の勝利により、それも実現まじかにきていましたが、日本は ズにのって首都南京に進み、そこも陥落させました。 そこで日本は和平条件をいっきにつり上げました。 中国の北くらいでは、すまさないぞ。と。(暇な人は和平条件を勝手にお調べください) もはや武士の情けもくそもありません。 蒋介石はどーせ滅ぶんなら、戦って滅んでやるー。と開き直りました。 その後日本政府から出されたのがあの有名な、「爾後 蒋介石を相手にせず」です。 中国在住の日本人に対して中国人がたびたびテロをしかけていたは事実です。 僕は事実を事実と認めます。 だが、それとこれとは違う。中国を好き放題していい理由にはならない。 日本がハルノートを批判するのであれば、日本が中国に出した和平条件は いったいどーなるのか? 日本が白人列強の植民地政策を批判するのであれば、日本が台湾、韓国を植民地にし、 おまけに満州を謀略により傀儡国家にしようとしたその事実はどーなるのか? 事実を事実を認め、その上で日本を擁護するのであればわかります。 が、日本の負の史実を無視するのは現実逃避ではないでしょうか? みなさん どーおもいます?

  • 「経験と知識」について

    家族と食事をしている際に親があるタレントの話をしはじめ、 そこから色々話してるうちに「経験」と「知識」という言葉で喧嘩になりました。 喧嘩の内容はとても不思議と思われる内容で言いにくいのですが 僕が言った「知識とは経験なしでは得られない」という言葉で喧嘩になりました。 親は僕がこの言葉を言うとある例を出してきました。 その内容です↓ 親「お前は宇宙浮遊という言葉を知っているか?」 僕「知っている」 親「経験したことがあるのか?」 僕「ない」 親「経験してないのに知ってるじゃんwww」 僕「本を読むという経験から宇宙浮遊という言葉と内容を学んだ」 親「は?馬鹿じゃないの?何が言いたいの?」 僕「今言った言葉の通りの内容」 こんな感じの会話の流れでした。 とてもレベルの低い会話で笑われるかもしれないですが どうか真剣に答えていただけると嬉しいです。 僕は小さいときからとてもくだらないことにまでいちいち疑問を持ち、そのことについて聞いたりするといつも馬鹿にされてしまいます。 しかも頑固で「妥協」という言葉が大嫌いです。 「真実」という言葉を聞いてもいつも「(真実なんて言葉は存在してはならない)」などと厨2臭い思考が生まれてしまいます。 自分は頭が悪いだけでしょうか。 いつも人とずれた思考が生まれてしまいます。 言葉のことで喧嘩したのも今回だけではありません。 でもどうしても親の言う「知識を得ることは経験なしでも得られる」という言葉が気にくわないのです。 どうかこの頑固な僕が納得の行く答えを教えてください。 哲学でも構いません。 質問「知識とは経験なしで得られるものなのでしょうか??」

  • どの範囲を後悔すべきなのか。

    人生において自分の能力が足りなかったこと、思ってもいなかったこと、興味がなくてやっていなかったこと色々あると思います。 しかし全てを「本人が悪い」「自業自得である」と考えるなら「平成7年に旅行に行かなければ阪神・淡路大震災に合わなかった」という論も成り立ち「何県に生まれていたら良かった」という話と同じレベルではないでしょうか。 どの範囲を後悔すべきなのでしょうか。 年末年始にこんなことを考えていました。

  • どの範囲を後悔すべきなのか。

    人生において自分の能力が足りなかったこと、思ってもいなかったこと、興味がなくてやっていなかったこと色々あると思います。 しかし全てを「本人が悪い」「自業自得である」と考えるなら「平成7年に旅行に行かなければ阪神・淡路大震災に合わなかった」という論も成り立ち「何県に生まれていたら良かった」という話と同じレベルではないでしょうか。 どの範囲を後悔すべきなのでしょうか。 年末年始にこんなことを考えていました。

  • 法華経は、偽経?

    下記のサイトに、法華経成立について、ある歴史的考察が書かれています。 http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud120.html それによると、法華経は、偽の経典だそうです。 お釈迦様の入滅が紀元前543年で、紙の発明が105年です。 紙がそもそも存在しないという影響もあると思いますが、古代インドでは、お釈迦様の説話を500年間に亘り、口伝で忠実に暗唱しており、後にそれを文字として経典にしたのが、パーリー聖典です。 パーリー聖典は、原始仏教の聖典であり、お釈迦様の言葉に最も忠実な内容と言われます。 一方、法華経は、お釈迦様が亡くなって約500年後に、お釈迦様以外の人が自分の説を勝手に書いたものだそうです。 それなのに、法華経がお釈迦様の意思を継ぐ物と主張する人々が居ますが、一体全体、500年前に亡くなった人の意思を、どうやって確かめたのでしょうか。 例えば、現代から見て、織田信長は、500年ほど前の人です。 織田信長の行動に反する内容の物語を、現代人が書けば、それは単に、トンデモ歴史小説と呼ばれるでしょう。 ところが、法華経については、それこそがお釈迦様の意思だと主張する人々がいます。 その根拠は何でしょうか?

  • 自我も 空である。

     自我も 空である。  それなのに 自我を無くすと言う。無くそうとする。修行が必要であると。  あたらしいオシエを打ち建てるのなら 話は別になりましょうが ブディズムとして述べるのは まづいのではありませんか?

  • 人はみな完全/不完全?

    いろんな人間観があります 悲観的人間観や楽観的人間観 障害者パフォーマー曰わく 「この世は全員障害者」(私も他のみんなも不完全) タオイズムや禅によると 「すべての人は完璧」(自然からすれば生き物に不全はない、 多少がたついてもそれぞれそういう完璧さだ) 世間の人々はよく 「完璧な人はいない」(みな不全)という (自己不全感をみんな持ってる社会か) あるいは「健常者と障害者とがいる」とか 不完全な人々を出来の良し悪しで分別したり どの、または他のどんな人間観が幸せだと考えますか? (個人的にはタオイズム押し。自己不全感は万障の元、気の毒だから)

  • 自我も 空である。

     自我も 空である。  それなのに 自我を無くすと言う。無くそうとする。修行が必要であると。  あたらしいオシエを打ち建てるのなら 話は別になりましょうが ブディズムとして述べるのは まづいのではありませんか?