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  • 仏教の教えの矛盾?

    仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。 一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。 しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか? 「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。 生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。 しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。 そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。 どうぞよろしくお願い致します。

  • 仏教の開祖である釈迦は、宗教者?哲学者?

    釈迦が唱える縁起・四諦などを考えていますと、哲学者(たとえば古代ギリシャのタレス・万物の根源は水である)などを連想してしまいます。 二者択一なら、釈迦は、宗教者ですか?哲学者ですか?

  • そこまで菩提心が問題なのか?

    ~~~~~~~~~~~~ 法然は,また十二章「釈尊、定散の諸行を付属したまはず。ただ念仏をもつて阿難に付属したまふの文」においては,観経に説く「菩提心」に関し、次のように言う。 発菩提心とは,諸師の意不同なり。天台には即ち四教の菩提心あり。謂はく蔵・通・別・円これなり。 つぶさには止観の説の如し。真言には(中略),華厳には(中略)、三論・法相に,おのおの菩提心あり。 つぶさにはかの宗の章疏等の説の如し。また善導の所釈の菩提心あり。つぶさには疏に述ぶるが如し。発菩提心その言一なりといへども,おのおのその宗に随つて、その義不同なり。(中略)願はくはもろもろの行者,一を執して万を遮することなかれ。もろもろの往生を求めむ人,おのおのすべからく自宗の菩提心を発すべし。たとひ余行あしといえへども,菩提心をもつて往生の業とするなり。 この文に関する限り,法然は「善導の所釈」の浄土門に固有な菩提心の存することを認め,同時に聖道門・顕密諸宗の菩提心についても、これを全面的に否定する如き立場をとつてはいないのである。しかし同章の後段において,法然は再び菩提心否定の立場を明確にする。 答へて曰く,「仏の本願を望むに、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と云ふ。定散の諸行は本願に非ず。 経中に「定散を説くことは,念仏の余善に超過たることを顕はさむがため」に過ぎず,したがって 「菩提心はこれ浄土の綱要なり。もし菩提心なき者は,即ち往生すべからずと」考えることは誤りである。菩提心を含め「定散は廃せんむがために説き、念仏三昧は立たせむがために説く」のが経の本意である。法然において,菩提心は往生業としては,究極「余行」として位置づけられる。法然のこの菩提心観は,その思想の中核をなす本願念仏説を構成する契機である。しかしそこに,明恵から大乗仏教の基本的立場に反するとの批判がなげかけられる理由がある。明らかに菩提心は大乗仏教一般の基本をなすものであり,このことは中国・日本の浄土系思想において一貫した思想的伝統であった。しかるにこれを法然は否定したのであり,ここに法然浄土教の独自性と,同時に問題が存する。 菩提心に関する一考察 ――明恵・法然・親鸞の所説をめぐって―― 熊田健二 http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2587/1/al-no57p001-017.pdf 5~6ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ 私はもうokwaveに参加したくないのです。 中国人や韓国人にとって日本の浄土教の菩提心の解釈など、どうでもいいでしょう。 いやみばかりいってくるようですが、そんなに気になるならpdfを読めばいいでしょう。 批判したいならpdfの作者にすればいいでしょうが。 本当に嫌になる。

  • 親鸞の「横に超える」とは?

    親鸞について読んでいたら、「横超」という考え方を目にしました。 仏教で悟りを求めて、修行をして、戒律を守って自分を高めて 縦に超えて行くのはイメージとしてよくわかるのですが、 親鸞の横に超えるというのは、正直よくわかりませんでした。 どなたか親鸞に詳しい方の解説をお願いします。

  • 釈迦と阿弥陀如来の関係

    今日「阿弥陀如来は釈迦の先生だよ」という人に会いました。 またネット検索をかけると、「阿弥陀如来はフィクションの存在である」と書いてあり、どちらが正しいのか分かりません。 どなたか分かる方がいましたら、ご回答ください。 よろしくお願いします。

  • 人間が神、宗教を創りだした理由

    ※信心深い方は、お読みにならないでください。 人間はなぜ、神や悪魔のようなものを創り出したのですか? 科学がまだ未熟だった(というか、皆無に近かった)大昔から、 人間はどこの国のどんな人種でも、 神々や悪魔、鬼、 場合によっては一神教の神様などを必要としてきたのでしょうか? 暗闇や天変地異、病気や死、恨みつらみなど等、 色々なものに恐れを抱き、苦しめられてきたのは、今も昔も同じ。 今は様々な分野の研究が進み、医学も日進月歩、 月だけでなく、常時、宇宙空間に人間が常駐している時代、 太陽系だけでない、広い宇宙のことも、徐々に分かってきている。 そんな時代でも、信仰心は忘れたくないものですが。 たぶん、ほとんどの人が、神や神々が大地や空、月や太陽、 星々を創った、なんて信じていないと思います。 アマテラスオオミカミも神話の世界だけで、 ギリシャの神々も神話の世界の住人です。 キリスト教も、神話という形をとっていませんが、 旧約聖書の創世記は完全に神話です。 必ずと言って良いほど、どこの地域のどの民族も、 何かしらの神を「創造」し、祀ってきました。 神が人間や世界を「創造」したというより、 人間が「神々」や「神」を「創造」したのでしょう。 宇宙には何か計り知れないものがありますし、 私も無神論というよりは、不可知論者なので、 自分なりに色々考えてきましたし、 何か偉大なものへの畏怖の念や信仰心のようなものもあります。 ご意見、ご回答をいただけますと嬉しいです。

  • 多くの民族に神様がいるのはどうしてだろう

    私が思うに、神様がいる民族の方が戦争に勝てる確率が高かったのではないか。神様の存在は戦死の不安を解消してくれるし、民族の団結心を高めることもできたはずです。極端に言うと、神様はいざと言う時に戦争に勝つために必要なものであったのではないか。 神様がいるので平和になるのではなく、神様がいるのことで戦争が起こりやすくなると思うのです。なぜなら神様は民族の願いを実現せめばならないものだからです。 神様が平和を望むように変貌するのは戦争で勝ち残った状態を維持したいためであると思うのです。 皆さんは多くの民族に神様がいるのはどうしてだろうと思われますか。

  • 空海と景教の関係

    大日如来が不思議で質問し、その背景は理解したのですが、納得までには至っていません。そこで仏教の全般について書かれている本を再読していましたら、唐に渡った空海が景教(キリスト教のネストリウス派)の聖書を漢訳しているインド人伝道者に出会い旧約聖書を譲り受けたと書いてありました。 そこでネット検索すると西暦803年に景教の洗礼名「遍照金剛」を受け、旧約聖書の漢訳を日本に持ち帰ったと書いてありました。戦国時代に来た宣教師は大日如来のことをデウスと英訳したとあります。 大日如来が創造神のようだと以前から思っていたので、ある意味で納得でもありますが、これらのことは本当のことなのでしょうか。教えてください。

  • ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)は?

     ブラフマニズムにおけるアートマン(霊我)は いくら梵我一如と言っても そのオシエにおける概念としてのみ持たれているに過ぎないのか?    つまり 梵我一如と言えば 梵すなわちブラフマン神のチカラが 霊としてアートマンなるかたちで はたらいている。と見るのは 当然であるように考えられるのですが 違うのでしょうか。  つまりこのアートマンは ブディズムにおけるブッダター(仏性)ないし如来蔵とほぼ同じものであると考えられるのですが そのときそれでも 仏性がつねに生きてはたらくというのとは違って ただの理念のようなものであるに過ぎないのか?  次のようなご見解に接してこの問いを取り上げるものです。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~  梵我一如については仏教でも説かれていますが、バラモン教のものとは一線を画します。  前にも仏性の事で申しましたが、仏性と同じく仏教におけるアートマンは実践の中でのみ存在し、バラモン教のアートマンは教理に存在します。  詳しくは西昭嘉氏の「原始仏教における無我説の再考」と「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」という二本の論文を参照してください。  (☆ これは 出所をあきらかにしても差し支えないものと思います。   【Q:空海と景教の関係】回答No.8   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8697822.html    ご文章は 取り急ぎの作成になったもので それを引用するのはかえってこの引用者の落ち度になるのですが つかわせていただきました)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  参考:  ■ 西昭嘉:「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」~~~~~   http://ci.nii.ac.jp/els/110002912913.pdf?id=ART0003260118&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1406954848&cp=  (§ 4 結語 pp.34-35)  原 始仏 教 聖 典 に 説 か れ る ウ パ ニ シ ャ ッ ド的 表現 に つい て , 中村氏は     「最初期 の 仏 教 はバ ラ モ ン 教の 優勢な    雰 囲気 の な か で は こ よ うな 説 き か た を    しな けれ ば な ら な か っ た 。     しか し仏 教 が ひ ろ が り さ か ん にな る に    つ れ て こ の よ うな 配慮は 無用 に な っ た 。    だ か ら聖 典 の 散 文 に お い て は〈ブ ラ フ   マ ン へ の 乗物〉とい うよ うな 語は 現 れ な く   な っ た 」(17 )       (17):『中村 元選 集 』 〔決 定版 〕第 15巻     「原 始 仏教 の 思 想 1 」 (春秋 社 , 1993年 )P.68.  と主 張 して い るが ,む しろ 散文 に な る と attan と brahman の 関係が 定型 句 に な る ほ ど繰 り返 し説か れ る よ うに な っ た と考え る べ きで あ り, 我々 は 原始仏教の 悟 りの 境地 がウ パ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りの 境地 と類似 して い る こ とを認 め ざ る を 得な い 。   け れど も原 始仏教 が 説 く悟 りへ の 道 は 実践 道で あ り, BRhadaraanyaka-UpaniSad に おい て ,Yaajnavalkya が USasta-caakraayana た ち に 対 す る atman の 説明 (18)の よ うに ,     (18) BRhad Up .III, 4.i,2,  形 而上 学的考察 に 基 づ い て 悟 りを 求 め る も の で は な い の で あ る か ら, た と え原 始仏教の 悟 りの 境 地 とウパ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りの 境地 が 同一 で あっ た と し ても, 悟 りに 到 る道を 区別 して 理 解す べ き で あ ろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)は?

     ブラフマニズムにおけるアートマン(霊我)は いくら梵我一如と言っても そのオシエにおける概念としてのみ持たれているに過ぎないのか?    つまり 梵我一如と言えば 梵すなわちブラフマン神のチカラが 霊としてアートマンなるかたちで はたらいている。と見るのは 当然であるように考えられるのですが 違うのでしょうか。  つまりこのアートマンは ブディズムにおけるブッダター(仏性)ないし如来蔵とほぼ同じものであると考えられるのですが そのときそれでも 仏性がつねに生きてはたらくというのとは違って ただの理念のようなものであるに過ぎないのか?  次のようなご見解に接してこの問いを取り上げるものです。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~  梵我一如については仏教でも説かれていますが、バラモン教のものとは一線を画します。  前にも仏性の事で申しましたが、仏性と同じく仏教におけるアートマンは実践の中でのみ存在し、バラモン教のアートマンは教理に存在します。  詳しくは西昭嘉氏の「原始仏教における無我説の再考」と「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」という二本の論文を参照してください。  (☆ これは 出所をあきらかにしても差し支えないものと思います。   【Q:空海と景教の関係】回答No.8   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8697822.html    ご文章は 取り急ぎの作成になったもので それを引用するのはかえってこの引用者の落ち度になるのですが つかわせていただきました)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  参考:  ■ 西昭嘉:「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」~~~~~   http://ci.nii.ac.jp/els/110002912913.pdf?id=ART0003260118&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1406954848&cp=  (§ 4 結語 pp.34-35)  原 始仏 教 聖 典 に 説 か れ る ウ パ ニ シ ャ ッ ド的 表現 に つい て , 中村氏は     「最初期 の 仏 教 はバ ラ モ ン 教の 優勢な    雰 囲気 の な か で は こ よ うな 説 き か た を    しな けれ ば な ら な か っ た 。     しか し仏 教 が ひ ろ が り さ か ん にな る に    つ れ て こ の よ うな 配慮は 無用 に な っ た 。    だ か ら聖 典 の 散 文 に お い て は〈ブ ラ フ   マ ン へ の 乗物〉とい うよ うな 語は 現 れ な く   な っ た 」(17 )       (17):『中村 元選 集 』 〔決 定版 〕第 15巻     「原 始 仏教 の 思 想 1 」 (春秋 社 , 1993年 )P.68.  と主 張 して い るが ,む しろ 散文 に な る と attan と brahman の 関係が 定型 句 に な る ほ ど繰 り返 し説か れ る よ うに な っ た と考え る べ きで あ り, 我々 は 原始仏教の 悟 りの 境地 がウ パ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りの 境地 と類似 して い る こ とを認 め ざ る を 得な い 。   け れど も原 始仏教 が 説 く悟 りへ の 道 は 実践 道で あ り, BRhadaraanyaka-UpaniSad に おい て ,Yaajnavalkya が USasta-caakraayana た ち に 対 す る atman の 説明 (18)の よ うに ,     (18) BRhad Up .III, 4.i,2,  形 而上 学的考察 に 基 づ い て 悟 りを 求 め る も の で は な い の で あ る か ら, た と え原 始仏教の 悟 りの 境 地 とウパ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りの 境地 が 同一 で あっ た と し ても, 悟 りに 到 る道を 区別 して 理 解す べ き で あ ろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 空海と景教の関係

    大日如来が不思議で質問し、その背景は理解したのですが、納得までには至っていません。そこで仏教の全般について書かれている本を再読していましたら、唐に渡った空海が景教(キリスト教のネストリウス派)の聖書を漢訳しているインド人伝道者に出会い旧約聖書を譲り受けたと書いてありました。 そこでネット検索すると西暦803年に景教の洗礼名「遍照金剛」を受け、旧約聖書の漢訳を日本に持ち帰ったと書いてありました。戦国時代に来た宣教師は大日如来のことをデウスと英訳したとあります。 大日如来が創造神のようだと以前から思っていたので、ある意味で納得でもありますが、これらのことは本当のことなのでしょうか。教えてください。

  • 空海と景教の関係

    大日如来が不思議で質問し、その背景は理解したのですが、納得までには至っていません。そこで仏教の全般について書かれている本を再読していましたら、唐に渡った空海が景教(キリスト教のネストリウス派)の聖書を漢訳しているインド人伝道者に出会い旧約聖書を譲り受けたと書いてありました。 そこでネット検索すると西暦803年に景教の洗礼名「遍照金剛」を受け、旧約聖書の漢訳を日本に持ち帰ったと書いてありました。戦国時代に来た宣教師は大日如来のことをデウスと英訳したとあります。 大日如来が創造神のようだと以前から思っていたので、ある意味で納得でもありますが、これらのことは本当のことなのでしょうか。教えてください。

  • 色即是空空即是色、この世の全ては無であり空である

      このように申したところ、この世は空であるが無ではないという者が現れました。 では訊ねたい。 無と空の違いが何か説明できる人がいましたら分かるように説明して頂きたい。  

  • 「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょう。

    私がどうしてもわからないのが「輪廻転生」です。「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょうか? ブッダの生きた時代はバラモン教が主流であり「輪廻転生」は当たり前の概念だそうですが、ブッダは「輪廻転生」について何か述べたのでしょうか? 述べなかったでしょうか? ある本には、悟りを開いて「輪廻転生」のループから脱するのがブッダの教えであるとも書いてあります。普通、日本で「輪廻転生」と言うと、肉体と魂は別々で、肉体は滅びても、魂はまた別の肉体で生まれ変わるというような事ですよね。 ブッダは人間が生まれ変わるというようなことや、魂と霊魂とか・・・は、しょせん事実関係が証明できないことだから、そのままにしておきなさい!と教えています。 また、自分と言うものに実体はない?と言うことも述べています。自分に実体がなく存在していないなら生まれ変わることもないはずです。 つまり「輪廻転生」とブッダの教えはどう考えても容認し合えない思想かと思います。 それとも、バラモン教の「輪廻転生」とブッダの「輪廻転生」は全然別物なのでしょうか?

  • 「般若心経」や「法華経」の作者は?

    仏教では、「般若心経」や「法華経」とかの経典の名前をよく聞きますが耳にしますが、これらの経典はいつ頃どこでつくられたのでしょうか? またその作者や翻訳者は明確にわかっているのでしょうか? お経は、サンスクリット語あるいはパーリ語を耳で聴き、聴いたままの音を中国人が漢字に当てはめただけのものや、その文脈を理解した上中国語に翻訳したものがあると聞きました。 「般若心経」や「法華経」も同じことが言えますか?

  • 「般若心経」や「法華経」の作者は?

    仏教では、「般若心経」や「法華経」とかの経典の名前をよく聞きますが耳にしますが、これらの経典はいつ頃どこでつくられたのでしょうか? またその作者や翻訳者は明確にわかっているのでしょうか? お経は、サンスクリット語あるいはパーリ語を耳で聴き、聴いたままの音を中国人が漢字に当てはめただけのものや、その文脈を理解した上中国語に翻訳したものがあると聞きました。 「般若心経」や「法華経」も同じことが言えますか?

  • 初7日・・・49日の法要の習慣はどこから来た?

    仏式での葬儀では葬儀の後、初7日とか・・・49日とかの法要がありますが、この習慣はどこから来たのでしょうか? 仏教はもともと「ブッダの教え」のはずですが、ブッダはもともと葬式については何も述べていないと聞いています。タイとかスリランカとかの仏教国にもその習慣はあるのでしょうか?

  • 親鸞は真宗を作ろうとしたの?

    法然の一弟子として終わろうとしたのでは ないのでしょうか? 親鸞の弟子が始祖にして 真宗を作ったのでは? 親鸞が真宗を作ろうとしたので、あれば法然の 教えに異議があったという事でしょうか? 例えばキリストはユダヤ教の戒律主義に異を 唱えて愛を広めただけで、最期までユダヤ教とで あったと、パウロがキリスト教を作ったと本で 読んだ事があります。

  • 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》

     これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?  ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~  「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.))   http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html  13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?  ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~  △  12章 45節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。  △ 5章 19節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  そこで、イエスは彼らに言われた。   「はっきり言っておく。   子は、父のなさることを見なければ、   自分からは何事もできない。   父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。  △ 10章 30節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたしと父とは一つである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。    ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ    聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト             ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス  すなわち  △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。  ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?  その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?  ▼ (スッタニパータ)  ~~~~~~~~~~~   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1074  師《ゴータマ)が答えた、     「ウバシーヴァよ。     たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は     滅びてしまって(火としては)数えられないように、     そのように聖者は名称と身体から解脱して     滅びてしまって、     (生存するものとしては)数えられないのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》

     これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?  ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~  「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.))   http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html  13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?  ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~  △  12章 45節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。  △ 5章 19節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  そこで、イエスは彼らに言われた。   「はっきり言っておく。   子は、父のなさることを見なければ、   自分からは何事もできない。   父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。  △ 10章 30節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたしと父とは一つである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。    ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ    聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト             ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス  すなわち  △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。  ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?  その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?  ▼ (スッタニパータ)  ~~~~~~~~~~~   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1074  師《ゴータマ)が答えた、     「ウバシーヴァよ。     たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は     滅びてしまって(火としては)数えられないように、     そのように聖者は名称と身体から解脱して     滅びてしまって、     (生存するものとしては)数えられないのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~