• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》)

法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.22

お返事ありがとうございます。私も読んで思うところをつらつら書きます。文字数もありますので、できるだけ短めに。(結局長いのでしょうが・・・) 順番的には最後に書かれていますが、この辺から考えたほうが早いと思いますので、 >>タターガタ・ガルバ(如来蔵)ないしブッダター(仏性)は アートマンとまったく同じ神の霊です これは違うと思いますよ。経典を読んでも「仏性はアートマンとは違う」と連呼されてますからね。じゃ、どう違うかってことですが、端的に言えば「アートマンは教理のもの」ということ。つまり、すべてのものにアートマンはがあるというのがアートマンの考え方の基本ということですね。 では、仏性はどうか?(いわゆる大乗の[以下略])『涅槃経』には「悉有仏性」とあるから、アートマンと同じだということだと思うのですが、これは漢訳の「仏性」という言葉に引っ張られすぎた解釈だと考えます。まずこの『涅槃経』は一般的な解説書を読むと「如来常住」と「悉有仏性」という二本柱で説かれていると書かれているものが多くありますが、この二つの事柄をつなぐということに関しては、いまいち決定打となるような解説はなかなか見いだせません。しかし、語源的な面から考えると、この二つは二本柱ではなく一つのことを表していることがわかるとミュンヘン大学の幅田裕美師は指摘しています。 まず「如来常住」のサンスクリットは「nityo bhagavām buddha」(点とかが付いているところは表記できない場合があります)ということが、サンスクリット『涅槃経』の断片研究からわかっています。日本語にすると「教主仏陀はnityoである」となります。この「nityo」は漢訳では「常住」英語では「eternl」と一般的に訳されますが、これはいわゆる誤訳であるとJohn Brough師は指摘しています。そもそも、このこの語は「ni」に接尾辞「tya」を足したもので、「ni」は「ここに」の意味であり、時間的な永遠性を述べたものではなく、「ここに(ある)」という空間的な意味と考えられます。『涅槃経』では「如来常住」の重要性を説き、観想の実践が説かれているわけですから、いわば、これは先の回答でも述べた仏随念の延長にある考えであることがわかります。つまり、お釈迦様の死後であっても「如来常住」であるというのは、観想(仏随念)を実践すれば、仏陀は「そこにいる」ということになるわけです。 そして、この文脈の中に「悉有仏性」が説かれるわけですね。仏性のサンスクリットは「buddha dhātu」なのですが、この「dhātu」は「構成要素」という意味がありますが、漢訳では「loka dhātu」とした場合「界(世界)」という訳が当てられています。では、なぜ仏性のときは「性(生まれながらにもつ性質)」という字があてられたのか?一つは訳者の曇無讖三蔵は訳すとき原文にはないが中国語にしたときにリズムよく読ませるための語に「性」を好んで使っていることが挙げられます。その証拠にサンスクリットをある程度想定しやすいチベット語の『涅槃経』では「身体の構成要素」意味で用いられ性質的な意味まみえません。そして、仏陀の最期を記す経典群においては「仏舎利」の重要性が説かれるわけですから、仏性の本来の意味は「仏舎利」であったと考えてられます。『涅槃経』の中には「甘露と毒」の偈があり、ここでは「何が拠り所か」という課題が根底にあり三宝の重要性が説かれるわけですが、チベット語『涅槃経』を読むと「khams」という語が頻出していますが、サンスクリットの「dhātu」にあたる語と考えられます。チベット語訳ではお釈迦様は「わたしの身体にkhamasがある」といい、身体的な構成要素つまり仏舎利であると考えられます。そこに続く散文には、buddha dhātuへの帰依と、仏塔への帰依が説かれています。つまり、仏性とはその原意には仏舎利信仰を見出すことができ、先の回答に挙げたマヒンダ長老が「ブッダに会いたーい」といったことにもつながってきます。 また、「悉有仏性」の「有」も、私たちは完了形の「有る、存在する」みたいな意味でとらえてしまいますが、サンスクリットの「asti」は動詞の現在語幹であって、意味として「現在している」というような意味になり、「仏性は現在している」というような意味になります。 つまり、この文脈の上で「仏性」というものを考えるに、『スッタニパータ』で言えば、ピンキヤ尊者の1143の言葉が「如来常住」であり、それによってあらわれた1146のお釈迦様がある意味「仏性」の原型ということにあると思います。ですから、仏性は教理的なものではなく実践の上にあるものであって、「教理の上にあるアートマン」と「実践の上にある仏性」が同じとは考えられませんよ。 余談ですが漢訳の「悉有仏性」は「空」と相性があまり良くないのですが、上述のように考えれば別に相性が悪いとも言い切れないんじゃないかと思うんですけどね。 >>マヒンダ長老は「遺骨を見ると、ブッダに会ったことになるんです。」と答えています。この「ブッダに出会う」というのが上述のような意味になると考えられます。 >>☆ この《上述のような意味》というのが よく分からなかったのですが?  この上述っていうのは「《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》」という意味です。 >>☆ という説明を文字通り受け取るなら すでにゴータマは ブッダとしてはふつうの人の目には見えない状態にあるとなるのではないか? >>つまりは 形のある身体としての姿が目に見えないというだけではなく 一般に概念ないし観念としての姿をも つまり徳やそのチカラとしてのハタラキについても 人が見ることは出来ない。となるのではないか? >>それなのに 《仏隨念》をおこなうとおっしゃっている。――これは 矛盾ではないのですか?  これが、この後に続く根本的な質問ですかね。  これは私の読むところでは、「色」ということの理解で深まっていくと思います。色については先ほど引用しました  ヴァッチャよ、まさにそのように色によって如来を示そうとするものは、その色が如来にとって放棄され、根絶され、根こそぎにされ、存在せず、未来において再び生じることがないものであることを示すべきである。実ヴァッチャよ、如来は色と呼ばれるものから解脱している。 という文の、文脈で考える必要があります。一般に仏教用語「色」は「物質的なもの」とか「現象・事象」と考えられますが、実は意味は文脈によって様々です。広義的な意味で案が得るなら、『サンユッタニカーヤ』に「比丘たちよ、悩まされる(苦)というので、それゆえ色と呼ばれる。」とあるように、「体内外の要素の中で意識され得るもの」を色となっているわけですね。ただ、今の「ヴァッチャよ」で始まる引用の文脈で言えば、「五蘊」という文脈で考える必要があります。「サンユッタニカーヤ」ではこの五蘊の文脈の色を「比丘よ、色蘊を知らせるためには(地水火風という)四大要素が因である。」とありますが、この四大要素というのも要素というよりも、生き物であり精霊の類に近いものです。中村元師『スッタニパータ』222偈の註にもその旨があり、やはり色は物質というような意味ではありません。このことについて詳しいのは『マジッマニカーヤ』には、内的な要素と外的な要素と別れますが、内的な地の要素について、 髪・毛・爪・歯・皮膚・肉・筋・骨・髄・腎臓・心臓・肝臓・膜・脾臓・肺臓・腸・腸間膜・胃・糞・あるいは他のなんでも体内各自に取り入れられた粗く硬くなったものである。 という十九種(漢訳では十七)が列挙されます。次に水の要素を 胆汁・粘液・膿・血・汗・脂肪・涙・膏・唾液・鼻汁・関節液・尿・あるいは他に何でも体内各自取り入れられた水や水に含まれるものである。 とあって、十二種(漢訳では十三)が上げられ、火と風の要素は身体の構成要素ではなく、火は体温や消化という機能であり、風は呼吸等の機能となります。この身体構成要素の地と水の十九種と水の要素十二種を合わせて三十一、これに脳が加わって三十二種が身体の構成要素であり五蘊の文脈の狭義の色であり、これが仏の三十二相に対応し仏随念(観想)の対象となっていくわけです。この経文においては、その後 そこで「これは私のものではない」「私はこれでない」「これは私の我ではない」と、このようにありのまま如実に正しい智慧によってみるべきである と繰り返されます。 色は体内外で意識され得るものであって、『マジッマニカーヤ』ではそれのどれもが自分ではないということが、仏の三十二相と対応する形で説かれています。つまり、「色がないってことは見えない」などという教理を問題にしているのではなく、仏を見ることで法を見て、それを通して自己を見つめなおすという実践につながっているわけです。ですから、「ヴァッチャよ」の引用文も、この実践論の文脈において「(狭義の)色」は、普通であればどれもが「自分のもの」と思われやすいものを、仏身をとおして「「これは私のものではない」「私はこれでない」「これは私の我ではない」」という法を教え諭し、自己に目を向けさせる実践であると考えます。 何とか入れました。疲れた。bragelonne氏は疲れない?ちょっと私これから、返事書けないくらい忙しくなるかもですが、あしからず。 急いで書いて読み直してないのでめちゃくちゃで答にもなってないかもしれませんが、許してください。 合掌 南無阿弥陀佛

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  次のくだりで こりゃあだめだと――失礼ながら――思ってしまいました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  中村元師『スッタニパータ』222偈の註にもその旨があり、やはり  ( a ) 色は物質というような意味ではありません。  このことについて詳しいのは『マジッマニカーヤ』には、内的な要素と外的な要素と別れますが、  ( b ) 内的な地の要素について、    髪・毛・爪・歯・皮膚・肉・筋・骨・髄・腎臓・心臓・肝臓・膜・脾臓・肺臓・腸・腸間膜・胃・糞・あるいは他のなんでも体内各自に取り入れられた粗く硬くなったものである。  という十九種(漢訳では十七)が列挙されます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ この( a )と( b )とは 矛盾しています。いいでしょうか? 《毛・爪・歯・・・》は 《物質(げんみつには 質料)》です。よ。  つまり 《色》は 片や《物質ではない》と言い 片や《毛・爪・歯など》であるということだそうです。成り立ちません。  ★ 「色がないってことは見えない」などという教理を問題にしているのではなく  ☆ いいでしょうか? 《毛が無い》ってことは 《毛が見えない》ことです。  観念やそのこだわりが無いってことは ブッダの徳についての観念が無いのであって 隨念すべき徳の概念が 心の目でも見得ないのです。  だったら  ★ 仏を見ることで法を見て、それを通して自己を見つめなおすという実践につながっているわけです。  ☆ とは成り得ません。初めに《色》も《心》も無くなっていると言っちゃったからです。  《仏を見る。法を見る》ということが言えるためには 《解脱において 観念(ナーマ)もカタチ(ルーパ)も滅びた》と言ったことは ウソだったと省みてあやまらなければなりません。  ★ 「(狭義の)色」は、普通であればどれもが「自分のもの」と思われやすいものを、  ☆ これは 一般の人びとについて言えることです。いまは ブッダの状態が 問題です。ブッダをめぐって《法を見る / 私を見る》という表現が 何を意味するかを問うています。  色も心(受想行識)も ほろびたのなら それらが《自分のものではなくなった》というのも 当然のことです。しかしながら そうであるなら 一般の人びとは ブッダを見るにも法を見るにも その色も心も消えているのなら 目でも心の目でも見えるはずがないぢゃありませんか。  つまり 早い話が 仏舎利つまり骨も 《色》であり《物質》なのですから もしすでに滅びているのなら 決して見えないはずなのです。  それとも ゴータマの語りは 矛盾に満ちていてもよいという前提か何かがあるのですか? つじつまが全く合わないとしても 構わないというオシエがあるのですか?  ★ 許してください。  ☆ 存在じたいは 初めから赦されています。けれども 推論におけるマチガイについては 決して哲学は許しません。  なぜなら 《過ちては則ち改むるに憚ることなかれ》という言葉に行き着きます。  罰の問題ではなく 哲学の世界から追放されるだけです。  あとは 覚え書き程度にしるします。  ○ nitya ~~~~~~~~~~~~~~  http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=+nitya&trans=Translate&direction=AU   ni: down back, in , into, within // nether, beneath  tya= tyad: that::( satyam の語源において) indeed, namely, as it is known (always preceded by ha )    nitya: eternal, ordinary, native, indegenous,・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ じゃ、どう違うかってことですが、端的に言えば「アートマンは教理のもの」ということ。つまり、すべてのものにアートマンがあるというのがアートマンの考え方の基本ということですね。  ☆ 《教理》かどうかは 関係ありません。教理におけるかのように(つまり オシエかどうかはどうでもよいという意味ですが) 人びとが《想定する》なら 想定のかぎりで 実際の存在にもやどります。  ブッダター(ブッダ‐ダートゥ)やタターガタ・ガルバ(如来蔵)は 想定です。神の霊であると想定したものです。これは 遍在です。  もしそのように想定したくなかったなら うつろいゆくもの・朽ちざるを得ないもの(つまり 諸行無常・諸法無我)としての仏性を立てて 理論構築すればよいだけです。  わるいが これで 日本ブディズムは――親鸞を除いて―― 単なる土着のアニミズムに毛が生えたものであると理解できました。  物言いなら いつでも 言って来てください。  言いがかりやいちゃもんである場合には どこがマチガイであるかをきちんとおしえて差し上げます。何でも受けつけます。よ。

関連するQ&A

  • 十字架に磔にされたキリストの言葉の正しさと奇蹟

    十字架に磔にされたイエス・キリストの七つの言葉は、正しいのに。 何故、聖書には余計な「キリストの復活」という奇蹟が記述されたのですか? 1>「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節) 2>「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節) 3>「ギュナイ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節) 4>「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイの福音書27章46節) 5>「私は渇いている(ディフォー)」(ヨハネの福音書19章28節) 6>「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節) 7>「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節) 私は、十字架に磔にされ死を迎えるイエス・キリストに仏性が働いていたと思うのです。 このことから、イエス・キリストは、人が神の使途であると信じることは、他人から批判されて、罪となると云う事を示しました。 同時に、自らの信仰は人間の幸福の源であると云う事も示しました。 「キリストの復活」の記述は、キリストの言葉の正しさを台無しにしています。 イエス・キリストが示した、自らの信仰による幸福と自由を無にしています。 聖書の奇蹟は、強固な組織を作って、功利主義を導くために記述されたのですか?

  • ヨハネの黙示録について

    ヨハネの黙示録において、「神」は三位一体における御父を表し、「子羊」は御子を表していると思うのですが、ヨハネの黙示録21章6,7節 また、わたしに言われた。「事は成就した。 わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。 ↑ここでの「わたし」は御父と御子のどちらを表しているのでしょうか?もし御子だとすると、御父ヤハウェはどこにいったのでしょうか? 22章12,13節 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである ↑ここでの「わたし」が御子イエスだとしたら、21章6,7節で「わたし」も御子イエスなのかなと思い、しかしそうなると御父ヤハウェはどこにいったのかわからなくなります。 どなたか回答お願いします。

  • 新約聖書で

    最近キリスト教に興味を持ったのですが、ルカによる福音書8章22節~25節の「嵐が静まる」という部分で、聖書は何を伝えたかったと思いますか? ただ、イエスは凄い人だと言いたかったのでしょうか?恐らく「ねらい」となるものがあると思うのですが・・・

  • 聖書の杯について

    ヨハネ書第18章11節に「父が私に下さった杯をどうして飲まずにいられましょう」というイエスの言葉がありますが、どういう意味なのか教えてください。

  • 聖書の宿題について教えてください。

    聖書について教えてください イエスのアンチテーゼ、ヨハネによ る福音書7章53節、マタイによる 福音書20章1~15節について 、学校の宿題の答えがわからないのでわかる方は教えてください。 (問1)「姦淫の女とイエス」の物 語で、R.ブルトマンが語った言葉の意 味を物語に即して81~105字で 述べなさい。 (問2)イエスのアンチテーゼは、 (1)何に対する反対命題なのか、 (2)特にマタイ5章21-22節およ び27ー28節は、何を聴衆に問い かけようとしたのか81~105文 字で述べなさい (問3)「ぶどう園の日雇い労働者 の譬え話」は、 (1)一見したところ、なぜ不公平な話 のように読めてしまうのか、41~ 60字以内で述べなさい (2)イエスが、この譬え話を通して語 ろうとしたことは何だったのか、4 1~60字以内で述べなさい (問4)「神の無条件の赦し」の学 び(批判と交わり、山上の説教、放 蕩息子、姦淫の女とイエス、ぶどう 園の日雇い労働者の譬え話)から、 (1)イエスの人間論(人間の捉え方) を41~60字以内で述べなさい (2)イエスの神論(神の捉え方)を4 1から60字で述べなさい 問題を写しただけですみません。 わかるところだけでもいいので回答おねがいします。

  • 聖書の宿題について教えてください

    聖書について教えてください イエスのアンチテーゼ、ヨハネによ る福音書7章53節、マタイによる 福音書20章1~15節について 、学校の宿題の答えがわからないのでわかる方は教えてください。 (問1)「姦淫の女とイエス」の物 語で、R.ブルトマンが語った言葉の意 味を物語に即して81~105字で 述べなさい。 (問2)イエスのアンチテーゼは、 (1)何に対する反対命題なのか、 (2)特にマタイ5章21-22節およ び27ー28節は、何を聴衆に問い かけようとしたのか81~105文 字で述べなさい (問3)「ぶどう園の日雇い労働者 の譬え話」は、 (1)一見したところ、なぜ不公平な話 のように読めてしまうのか、41~ 60字以内で述べなさい (2)イエスが、この譬え話を通して語 ろうとしたことは何だったのか、4 1~60字以内で述べなさい (問4)「神の無条件の赦し」の学 び(批判と交わり、山上の説教、放 蕩息子、姦淫の女とイエス、ぶどう 園の日雇い労働者の譬え話)から、 (1)イエスの人間論(人間の捉え方) を41~60字以内で述べなさい (2)イエスの神論(神の捉え方)を4 1から60字で述べなさい 問題を写しただけですみません。 わかるところだけでもいいので回答おねがいします。

  • 第三章 特異な内容のオシエ(宗教) 

     ○  神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第三章 特異な内容のオシエ――イエス・キリストという補助線説明について――  1. 神とは何であるかについて説明するのが 補助線としてのオシエです。(ちなみに 《神》というコトバも 補助線です。《かみ》というコトバ・文字・発音は 神そのものではありません)。  2. 聖書の神は 新約に到って――もとからのあり方がいっそう明らかになったごとくではありつつ―― 一般的に見て 特殊である。《ふつうの人間イエスは 同時に 神の子でありみづからも神なるキリストである》と想定している。  3. 神は 《真理》として これを人間が信じるものである。人間イエスは存在としての《事実》であり そしてそのオシエは 《キリスト・イエスの主観真実が表わされたコトバとしての命題(考え・判断)》である。つまり 考えるものである。  4. ここでは この特殊な神学について 聖母と呼ばれるマリアをめぐって 説明し得たらと願う。  5. すなわち マリアは 一方で神の貌(かお・かたち)としての議論においては 神なる聖霊によってみごもった。また一方で人間の貌としては 許婚のヨセフとのコイトスをつうじて受胎した。  6. 聖霊によるものと人間の精子によるものとふたつの受胎が同時に起きたという物語である。明らかにおとぎ話である。  7. このほうが しかしながら 人びとには 元気をあたえる。人びとがそれぞれ元気が出ることをささえる。のではないか?  8. もしゴータマ・ブッダのように 法身としてのブッダ――すなわち《真理》――と そして必ずしも百分の百においてではないと考えるが応身としての――ひとという事実存在としての――ブッダとに分かれているならば 人びとにとっての元気は――つまりブッダター(仏性)の発現は―― その場その現在においてただちには のぞみがたい。ということになるのではあるまいか?  9. マリアなる女性における聖霊によるイエス・キリストの身ごもり この奇妙奇天烈な物語のほうが 人間にとっては よりいっそう現実的である。のではあるまいか。  10. なお ゴータマ・ブッダによるオシエは 考えてみるに必ずしも補助線ではないと思われる。それは 向こう岸へ渡す筏であり 渡ったあとは捨ててしまってよいというように補助線のごとくではあるが どうもそうでもないようだ。  11. それは けっきょく足場でしかないように思われる。足場がいかに立派に組まれていたとしても 本体の家が 立派に建てられる保証はまだない。のぞむ家とはまるで違ったものが建つかもしれないし または何にも建たなかったということもあるかも知れない。  12. つまり 《家》としての法身なるブッダ(真理)が そのオシエなる補助線によって指し示されたとは なおまだ言い難い。単に家の出来上がると想定されたところに ただ足場をこしらえただけであったと成らないとも限らない。  13. つまりは ブッダターの発現としてのさとりなる状態が――つまり肝心の家本体が―― まるでさだかでも明らかでもない。二千年を超えて永遠に 分からない状態でありつづけている。と言わざるを得ない。(むろんこれは ブッダ批判です)。  ☆ 以上の趣旨説明について 当否・是非を問います。思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • パッション  聖書に詳しい方教えてください!

    こんにちは、レポート課題で新約聖書に関する映画を 見なくてはならなくて、パッションを見ました。 それで、見た映画を考察しなくてはならないんです。 ”この映画は新約聖書のどこの部分が描かれている”など書かなくてはいけません。 それでネットで調べたんですが、この映画は 新約聖書の福音書を題材にしたのは わかったんですが、どこの章を題材にしてるなどは 詳しくのってませんでした。 一応、レビューした方が、 この映画はマタイによる福音書26章36節-27章56節、 マルコによる福音書14章32節-15章41節、 ルカによる福音書22章39節-23章49節、 ヨハネによる福音書18章1節-19章30節、の部分が描かれているのかな? と書いてあったんですが、あっているのかがわかりません。 聖書に詳しい方、教えてください。

  • キリスト教徒のヨブ記の読み方は?

    関根正雄訳 ヨブ記第15章 第14節 人はどうして清くあり得よう、 女から生まれた者はどうして義しくあり得よう。 1 無信仰な者がこれを読むとマリアは女性で、イエスはマリアの子だからイエスは人で、よってイエスは清くもないし義しくもないのだと受け取れます。キリスト教の各宗派のうち、比較的旧約聖書を重視しているのは、どの派ですか。その派ではヨブ記第15章 第14節をどう捉えているのでしょう。言わば敵対感情をもつのですか。それとも、言わば大人の対応で読み流すことができるのですか。 2 そもそも、キリスト教徒はイエスをどう認識しているのですか。人で、預言者で、救い主で、神の子という理解でよいですか。 よろしくお願いします。

  • マタイ福音書について

    マタイ福音書5章3節~10節において、イエスは『貧しい人々の幸い』を語っていますが、 イエスが語ろうとしたその内容とはどういったことだったんでしょうか。 それから私たちはどういうことを学べるのでしょうか。