ヨハネの黙示録とは?三位一体と御父の意味について

このQ&Aのポイント
  • ヨハネの黙示録は「神」と「子羊」を表現しています。
  • 21章6,7節では、「わたし」は御父を表し、アルファとオメガであり、命の水を与えます。
  • 22章12,13節では、「わたし」は御子イエスを表しており、報いを持って来ます。
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ヨハネの黙示録について

ヨハネの黙示録において、「神」は三位一体における御父を表し、「子羊」は御子を表していると思うのですが、ヨハネの黙示録21章6,7節 また、わたしに言われた。「事は成就した。 わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。 ↑ここでの「わたし」は御父と御子のどちらを表しているのでしょうか?もし御子だとすると、御父ヤハウェはどこにいったのでしょうか? 22章12,13節 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである ↑ここでの「わたし」が御子イエスだとしたら、21章6,7節で「わたし」も御子イエスなのかなと思い、しかしそうなると御父ヤハウェはどこにいったのかわからなくなります。 どなたか回答お願いします。

noname#234406
noname#234406

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回答No.4

補足コメントの「黙示録22:17と22:20「アーメン,主イエスよ,来てください」とあるので,一見「来る」のはイエスだけで,1:8「やがて来られる」,22:12「わたしはすぐに来る」がイエスを指しているように思われますが,そうではなくて御父も来るということですよね?」についてお答えします。(なお,補足コメントの後半のご質問は,もし,締め切らずに置くか,もしくは,新たな質問を立てるなどしてくださった場合は,1月4日以降,お答えできれば幸いです。以下の回答は長文ですが,そもそも難解な黙示録の質問に対する回答という性質からして,必要であると判断します。単に短い説明は,誤解や無用な憶測を招く恐れがあります。) 結論を端的に述べますと,「来るのはイエスだけではなく,御父も来る」と聖書から理解できる,ということです。そして,「来る」の意味もまた,重要です。 はじめのご質問と補足コメントでの質問を要約すると,「21:6,7と22:12,13での「わたし」は,御父と御子のどちらを表しているか」という問題に帰着するのではないかと思われます。 まず,「22:17と22:20に,主イエスよ,来てください,とあるので,来るのはイエスだけと思われる」と言われる点ですが,お気持ちは理解できます。しかし,そもそも,神であれイエスであれ,だれか他者の要請を受けて「来る」と言われるのでしょうか。それとも,みずからの意思で「来る」と言われるのでしょうか。その答えは,やはり,「来る」と言っておられるのは神およびイエスですから,他者ではなく,神およびイエスご自身の言われることを根拠に,もともとの話し手(その言葉の源)がだれであるか,また,その言われる意味は何かを検討するのが相当ではないでしょうか。 それで,21:6,7と22:12,13での「わたし」がだれであるかは,まず,(A)21:6と22:13で共通している「わたしはアルファであり,オメガである。初めであり,終わりである」という表現が,だれを指しているかを検討し,そして,(B)22:12の「わたし」と13の「わたし」が同一の者であるか否かを検討すれば,明らかになると思います。 【「アルファであり,オメガである」「…初めであり,終わりである」について】 黙示録には,「わたしはアルファであり,オメガである」という旨の表現は,3回出ています。(1:8,21:6,22:13) 特に,21:6と22:13では,同表現につなげる形で「初めであり,終わりである」と言われています。この「初めであり…」とほぼ同一の趣旨と考えられる表現が,聖書にあります。例えば,イザヤ書44:6と48:では, 「44:6 主、イスラエルの王…万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。」(口語訳1955) 「48:12 ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。わたしが呼び出したイスラエル。わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。」(新共同訳1987) とあります。(他の翻訳も同旨) すると,どうでしょうか。そもそも,「アルファであり,オメガである」「…初めであり,終わりである」とは,何を言いたいのでしょうか。それは,「わたしのほかに神はない」,「わたしは神(である)」,つまり,わたしより前に「万軍の主」が存在したことはなく,わたしより後に万軍の主が存在することはない,わたしの他に「万軍の主」は存在しないのである,ということではないでしょうか。 そうすると,「アルファであり,オメガである。…初めであり,終わりである。」という方が「来る」あるいは「これから来る」と言っておられる場合は,だれが「来る」ことになるのでしょうか。 【黙示録22:12の“わたしはすぐに来る”について】 22:12と13でそれぞれ語っている「わたし」は,同一の者でしょうか,別個の者でしょうか。詳細は省略しますが,22:12の「わたしはすぐに来る。」という方がだれであるかは,12節と13節が,同一の話者であるかどうかで判断すべきであるということになると思います。もし,同一の話者である場合は,上記の通り「アルファであり,オメガである」という表現(実際には称号)は,イエス・キリストには用いられていないから,22:12で「来る」と言われるのは,全能者である方,ということになります。そうでない場合は,イエスが「来る」ということになりますが,その場合であっても,例えば,黙示録3:14では, 『3:14アーメンである者、すなわち忠実にして真実なる証人、神の被造物の初めである者が、次のように語っている。」(岩波訳1995) とあり,イエスは「神の被造物の初めである」ことも考慮すれば,13節の「アルファであり,オメガである。…初めであり,終わりである。」から15節の部分は,イエスの発言であるかどうかを慎重に検討しなければならないでしょう。 【神およびイエスが「来る」ことについて】 端的に言いますと,聖書中で神およびイエスが「来る」と言われている場合は,何らかの目的で「権力を行使する」と言っていると読み取れるということです。例えば,神について,イザヤ書26:21では, 「26:21 見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。」(新改訳1970) また,マラキ3:1では, 「3:1 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。…あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。…。」と万軍の主は仰せられる。…3:3 この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。」 とありますから,以上の聖句が述べる通り,神は正しい処罰を執行するために「出て来(る)」ことも,精錬する(不純物を除く)ために「神殿に来る」こともある,ということです。これはつまり,権力を行使することにほかならないのではないでしょうか。 もちろん,おっしゃるとおり,イエス・キリストも「すみやかに来る」と言われているので,イエスの立場と権限において,相応の権力を行使する,ということです。 (なお,上記説明において,複数の聖書翻訳を引用しましたが,他の翻訳においても,おおむね上記の説明に調和しており,説明を覆す程度の訳文の相違はないものと考えます。)

noname#234406
質問者

お礼

ありがとうございました。とても参考になりました。

その他の回答 (4)

回答No.5

質問者さんの教え人に教えてもらえば解決すると思いますよ。

  • veradico
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回答No.3

「ヨハネの黙示録21章6,7節での『わたし』は御父と御子のどちらを表しているか。」とのことですが,何かのお役に立てていただければ幸いです。  質問の背景として,黙示録21:12,13節での「わたし」がイエスだとしたら,21:6,7の「わたし」もイエスなのかと思い,その場合,「御父ヤハウェはどこにいったのかわからなくな」るので,上記の点を解決したい旨を書いておられます。  聖書は,聖書そのものと,聖書の保存を担保してこられた真の神からの助けがあるなら,意味を知り,洞察することができます。  【かぎかっこ】  まず,日本語の聖書を読む際,使用されている“かぎかっこ”によって,発言の主体を読み取ろうとするのが通例であろうかと思います。(一重,二重の区別は省略します。)  例えば,岩波訳(1995岩波翻訳委員会),新共同訳1987,前田訳1978,口語訳1955(日本聖書協会),文語訳1917(同)などは,22:12の 「見よ、わたしはすぐに来る。…から,22:16の,…輝く明けの明星である」。までを一組のかぎ括弧の中で書いています。(「聖書で聖書を読む」サイトが,参照に便利です) 有名なジェームズ王欽定訳でも,22:12-16を一つの引用符の中で書いています。  しかし,新改訳1970 という訳の22:16では 「わたし、イエスは御使いを遣わして、…輝く明けの明星である。」のように,“わたし、イエスは” の前に,かぎかっこを使用しており,同節の前の言葉とは区別して書いている翻訳もあります。英語の「改訂標準訳( Revised Standard Version)」でも,同様に22:16を "I Jesus have sent my angel… のように引用記号を用いて,区別しています。また,アメリカ標準訳(American Standard Version 1901)では,引用記号は使用していませんが,22:16の前で改行しており,新しい段落として書いていますので,前の節とは連続していないと読み取れます。(ただし,以上の説明は,すべてWebページに公開されている聖書翻訳文の場合です。)  以上の情報から,どんなことが言えるでしょうか。確かに,黙示録22:12から16が,一つのかぎかっこ内で書かれていれば,22:12の「わたし」は「アルファであり、オメガである」者と同一であるということになろうかと思います。しかし,上記の通り,世の中の聖書翻訳が一つ残らずそのようになっているわけではなく,新改訳1970,改訂標準訳,アメリカ標準訳などでは,どうみても,22:16の「わたし イエスは…」を前節と区別しているので,イエスが,22:12にある「アルファであり、オメガである」者とは異なると読み取れるのではないでしょうか。 【聖書中の証拠】  もっと強力な根拠が黙示録そのものの中にあります。それは,例えば,黙示録1:8です。 その聖句は,例えば岩波訳(1995)では “全能者にして神なる主、現在居まし、かつても居まし、またこれから来る者が、こう言われる、「私はアルファであり、オメガである」”となっており,上記の,新共同訳1987,前田訳1978,口語訳1955,文語訳1917では「全能者」,新改訳1970では「万物の支配者」という語を用いています。そうすると,「アルファであり、オメガである」者とは,だれを指しているのでしょうか。この「全能者」は,イエスのことでしょうか。むしろそれは,おっしゃっている「御父ヤハウェ」ではないでしょうか。  以上,書きましたので,ご質問の「ヨハネの黙示録21章6,7節での『わたし』は御父と御子のどちらを表しているか。」を研究する役に立てていただければ幸いです。

noname#234406
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。黙示録22:17と22:20「アーメン、主イエスよ、来てください」とあるので、一見「来る」のはイエスだけで、1:8「やがて来られる」、22:12「わたしはすぐに来る」がイエスを指しているように思われますが、そうではなくて御父も来るということですよね? それと、もう一つ疑問に思う点があるのですが、マタイ25:31~34「人の子は~(中略)~その時、王は」の部分の王は御子イエスを指していると思われます。しかし黙示録19:6では「全能者で、神である主が王となられた」の部分の王は御父ヤハウェを指していると思われます。これは少し紛らわしく感じます。御子と御父双方に「王」という表現がなされるということなのでしょうか?

回答No.2

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回答No.1

まず・・ 聖書は 翻訳をしてるという事を頭に入れておきましょう・・ そうすると 全て「わたし」としてるが わたしにはヨハネも神もイエスも箇所に依り表されてるって事が判る筈・・ そして もっと言えば 旧約聖書 新約聖書に書かれている事は 全て終わりました・・ これからは 「成約聖書」の時代です・・

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