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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》)

法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.23

 ごく短く。 >>次のくだりで こりゃあだめだと――失礼ながら――思ってしまいました。  意図がうまく伝わらないなぁ。 >>☆ この( a )と( b )とは 矛盾しています。いいでしょうか? 《毛・爪・歯・・・》は 《物質(げんみつには 質料)》です。よ。 >>つまり 《色》は 片や《物質ではない》と言い 片や《毛・爪・歯など》であるということだそうです。成り立ちません。  「色=物質という訳は間違いだ」ということです。あくまで色は眼に対応するものであり、物質という意味を言葉として持ち合わせていないということです。物質例えば、h2oは形体が気体液体個体と変わってもh20はh2oですよね?仏教でいう色はそういうものではなく、一瞬一瞬目に映る色であり、実感される色です。同じような同じ天気の同じような時期の夕焼けを見ても二度と同じには見えないし、感じられないというのが「色」なわけで、物質=色というたんじゃんな訳語にはならないんですよ。色はあくまで『サンユッタニカーヤ』にあるように「意識されえるもの」という意味と考えます。  bragelonne氏は色=物質という意味で使っているのですかね? >>★ 「色がないってことは見えない」などという教理を問題にしているのではなく >>☆ いいでしょうか? 《毛が無い》ってことは 《毛が見えない》ことです。 毛は地の要素であって、私の要素ではないっていってるんですよ。 >>観念やそのこだわりが無いってことは ブッダの徳についての観念が無いのであって 隨念すべき徳の概念が 心の目でも見得ないのです。 >>☆初めに《色》も《心》も無くなっていると言っちゃったからです。 >>《仏を見る。法を見る》ということが言えるためには 《解脱において 観念(ナーマ)もカタチ(ルーパ)も滅びた》と言ったことは ウソだったと省みてあやまらなければなりません。 だから、仏陀を見るというのは、どれもお釈迦様の要素を持ち合わせてない姿を見るんです、つまり法を見るんですよ。 >>★ 「(狭義の)色」は、普通であればどれもが「自分のもの」と思われやすいものを、 >>☆ これは 一般の人びとについて言えることです。いまは ブッダの状態が 問題です。ブッダをめぐって《法を見る / 私を見る》という表現が 何を意味するかを問うています。  だから、『マジッマニカーヤ』に説かれている、「これは私のものではない」「私はこれでない」「これは私の我ではない」って状態でしょ。だから、『スッタニパータ』三章455でも、私に姓を訪ねることは適当でないともしてますね。 >>色も心(受想行識)も ほろびたのなら それらが《自分のものではなくなった》というのも 当然のことです。しかしながら そうであるなら 一般の人びとは ブッダを見るにも法を見るにも その色も心も消えているのなら 目でも心の目でも見えるはずがないぢゃありませんか。  いや、見えるでしょ。目には映るし感じられるでしょ?でもその目に映ったものである色は「ゴータマのものではない」んですよ。 >>つまり 早い話が 仏舎利つまり骨も 《色》であり《物質》なのですから もしすでに滅びているのなら 決して見えないはずなのです。  骨は物質ですよ。けれども、色は物質という言語と=で結ぶのは不可能です。その骨目には映りますよけど「ゴータマではないん」ですよ。そこに意味があるんじゃないですか? >>それとも ゴータマの語りは 矛盾に満ちていてもよいという前提か何かがあるのですか? つじつまが全く合わないとしても 構わないというオシエがあるのですか?  たしかに、つじつまが合わないことがいっぱいはりますね。お経読んでて思ったのが、提婆達多が生きながら地獄に落ちた後、戒律についての改定案を出したりしてますからね。いつ復活したの?って感じだったりしますよね。受けます。  けど、この件に関しては、bragelonne氏が間違ってますよ。色は物質ではありません。読んでて思い出したのがレギナルド・レイ師は「象徴や崇拝、伝説と離れて無関係な。脱神話化された個人性という西洋的で近代的な概念は、初期仏教の真相とは全く関係ない。」て言葉ですな。当時の言語としてどのような意味で使われていたのかとか、当時の事情はどうであったのかとかは関係ないんですね?たぶんこれでは話がかみ合わない。 >>★ 許してください。 >>☆ 存在じたいは 初めから赦されています。けれども 推論におけるマチガイについては 決して哲学は許しません。  わたしは推論の前提になる言語的意味が間違っていると思いますよ。 >>ブッダター(ブッダ‐ダートゥ)やタターガタ・ガルバ(如来蔵)は 想定です。神の霊であると想定したものです。これは 遍在です。 >>もしそのように想定したくなかったなら うつろいゆくもの・朽ちざるを得ないもの(つまり 諸行無常・諸法無我)としての仏性を立てて 理論構築すればよいだけです。  当時の言語の意味を理解しようとして、当時の意味を解釈すしても、現代語に意味が勝ちすぎてしまうってのはよくあることです。しかし、そんな私も先の回答で挙げたような言語的な意味を考えると、仏性をただ「偏在です」と済ませてしまうのは、哲学的態度とはは思えませんね。考える余地もないのですか??それともそれは、中国日本仏教に大きな功績を遺した偉大なる誤訳「仏性」に対する敬意なんでしょうかね? >>わるいが これで 日本ブディズムは――親鸞を除いて―― 単なる土着のアニミズムに毛が生えたものであると理解できました。  これはあながち間違いじゃない。けど、親鸞聖人もそうですよ案外。てゆうか仏教がそもそもそういうスタイルだしね。『六法礼経』よめば、もともとのバラモンの儀礼に仏教的な意味をのせてお釈迦様は説いてるわけだし。日本だけじゃなくてインドからそうだと思いますよ。  やっぱり今回も、最後がかみ合いませんでしたな。またなんかあったらよろしくお願いします。急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦を。 合掌 南無阿弥陀佛

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・同じ天気の同じような時期の夕焼けを見ても二度と同じには見えないし、感じられないというのが「色」なわけで、物質=色というたんじゃんな訳語にはならないんですよ。色はあくまで『サンユッタニカーヤ』にあるように「意識されえるもの」という意味と考えます。  bragelonne氏は色=物質という意味で使っているのですかね?  ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 問題は 《毛・爪・歯など》が《色》だというところから出て来ます。  毛が色なら それは 物質ですよということです。  毛でも 《同じ天気で同じ時期に見ても 二度と同じには見えないし 感じられない》というのは 常識です。  どこか勘違い・考え違いをなさっています。  ★ 毛は地の要素であって、私の要素ではないっていってるんですよ。  ☆ そのあとです 問題は。  《私のもの・私の要素ではなくなった状態》にあっては その毛なら毛は 人びと一般に見えるのか・見えないのか? と訊いているだけです。  《ほろびた》というのなら 《毛はあるいは骨は もう見えない》となります。  しかもそれを 思えという仏隨念を言う。これは おかしい。――こういう物言いです。  ★ だから、仏陀を見るというのは、どれもお釈迦様の要素を持ち合わせてない姿を見るんです、つまり法を見るんですよ。  ☆ えっ? えっ? もういちど えっ?  ★ お釈迦様の要素を持ち合わせてない姿を見るんです  ☆ 見えないですよね?  ★ つまり法を見るんですよ。  ☆ ですから 《ルーパ(かたち たとえば毛)もナーマ(観念 たとえばさとりの境地なる徳 つまり 法)もが ほろびた》と言っています。《火がかき消されたごとく 消えてしまった》と言っています。  すなわち知恵や徳も 毛や爪やと同じように《消えている》のです。どうして 心の目によってしても 見得ましょうか?  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~   初めに《色》も《心》も無くなっていると言っちゃったからです。   《仏を見る。法を見る》ということが言えるためには 《解脱において 観念(ナーマ)もカタチ(ルーパ)も滅びた》と言ったことは ウソだったと省みてあやまらなければなりません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ です。  しかし 往生際がわるいなぁ。    ★  だから、『マジッマニカーヤ』に説かれている、「これは私のものではない」「私はこれでない」「これは私の我ではない」って状態でしょ。だから、『スッタニパータ』三章455でも、私に姓を訪ねることは適当でないともしてますね。  ☆ これでは 見得ないのです。わたしは すでにブッダなるさとりを得ていますから 見得ますが 一般の人びとには見得ないでしょう。  もし人びと一般にも見える・だから想念を持ち思うことが出来るとすれば おそらくすでにそのブッダのさとりなるものは 万人がふつうに得ようとして得られる境地である。と言わねばならないでしょう。  むしろ こちらのほうが 理論として・オシエとして ふさわしいでしょう。  ★ いや、見えるでしょ。目には映るし感じられるでしょ? でもその目に映ったものである色は「ゴータマのものではない」んですよ。  ☆ もうここは このやり取りをごらんになっているみなさんに 判断はゆだねます。  次のくだりも 同じくです。  ★  骨は物質ですよ。けれども、色は物質という言語と=で結ぶのは不可能です。その骨目には映りますよけど「ゴータマではないん」ですよ。そこに意味があるんじゃないですか?  ★ 色は物質ではありません。  ☆ けれども 《毛・爪・歯・・・》のことである。のですよね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  読んでて思い出したのがレギナルド・レイ師は「象徴や崇拝、伝説と離れて無関係な。脱神話化された個人性という西洋的で近代的な概念は、初期仏教の真相とは全く関係ない。」て言葉ですな。当時の言語としてどのような意味で使われていたのかとか、当時の事情はどうであったのかとかは関係ないんですね?たぶんこれでは話がかみ合わない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ この文章の意味は わたしはキ印です。と言っているということですよ。  分からないことは 《古代の生活や社会の事情》の所為にする。これです。  《仏性》が 朽ちるものか それとも遍在する常住のものかは ブディストであるそちらが決めることです。  どちらをえらぶにしても その結果は これこれになりますよとお伝えしているだけです こちらは。  神の霊であるとするなら けっきょく――アン‐アートマンと呼ぼうとも―― 霊我アートマンとひとしいことになります。  もしそうではなく 朽ちるべきものだとすれば けっきょく徳や境地が ただただ程度問題であって 誰でも到達できる知恵ないし判断力のお話だとなります。  これで ゴータマ=ペテン師の説は 確実になりました。ありがとうございます。  

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