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親鸞は真宗を作ろうとしたの?

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.7

 俗に真宗のボーズと呼ばれるものです。すいません。ちょっと今いろいろ立て込んでいるので、短めに。 >>法然の一弟子として終わろうとしたのではないのでしょうか? 親鸞の弟子が始祖にして真宗を作ったのでは?  そうですね。親鸞聖人は宗派を立てるつもりはありませんでした。ですから、親鸞聖人は『三帖和讃』高僧和讃には 智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまう と説いておられます。ここでいう浄土真宗は「(法然聖人が開いた)浄土宗こそ真の教え」みたいな意味で、現在の使い方とは違いますが自分が一宗派を立てたという感覚ではないことが分かります。  しかも、真宗内部においても親鸞聖人が初代と考えられるようになったのは、ある意味九代目の実如上人以降です。その証拠に現在八代目といわれている蓮如上人は自身を「七代目」と名乗っていて(詳しくは吉川弘文館『人物叢書蓮如』を参照)、親鸞聖人を初代と数えていません。これは、現在三代目とされる覚如上人は法然聖人⇒親鸞聖人⇒如信上人の「三代伝持の血脈」という教えの継承を示しその後継者は自分であるということを主張しましたが、直接の面識があるのは如信上人のみだったので、如信上人を初代としたと考えられます。しかし、蓮如上人の後を実質的に継いでいた順如上人が蓮如上人に先んじて亡くなってしまい、次を継いだのが現在九代目の実如上人が継ぐことになりました。本来七代目蓮如上人⇒八代目順如上人⇒(蓮如上人)⇒九代目実如上人であったわけですが、実如上人と順如上人は異母兄弟で不仲説が残っています。ですから、実如上人は自分は九代目のままで、兄順如上人の名前を歴代から消去するために、法然聖人とともに別格扱いであった親鸞聖人を初代に繰り上げて、初代親鸞聖人⇒二代目如信上人⇒覚如上人⇒・・・・・八代目蓮如上人⇒九代目実如上人という事にしたのではないかということも言われています。  また、浄土真宗外部からも浄土真宗が一派閥として認められるのは室町時代に入ってからです。それは、法然聖人の亡き後の門下をまとめた史料からも読み取れます。1257年成立の七愚勧住信著『私聚百因集』、または1311年成立の凝念著『浄土法門源流章』によれば、法然上人亡き後の教団を「五流」としています。名前だけを挙げますと、幸西上人の一念義、証空上人の西山義(現在の西山浄土宗の流れ)、隆寛上人の多念義、聖光上人の鎮西義(現在の浄土宗の流れ)、長西上人の諸行本願義、の五つです。この中に親鸞聖人のことは一切記されていません。親鸞聖人の流れが存在することが、真宗史料以外の浄土教内において客観的史料で現れる最初は1416年成立の浄土宗八代目聖聡上人の『浄土三国仏祖伝集』のなかに初めて「一向義」という名前で紹介されています。つまり、史料的に見れば、法然聖人の浄土教団内においても浄土真宗が一宗として認められるようになるのは、1311年~1416年の間くらいなわけで、親鸞聖人の直接の影響力とはいえません。  上述のような理由から、親鸞聖人が浄土真宗を開いたという事は一概には言えないと思いますし、親鸞聖人もそのつもりはなかったでしょう。  あと、余談ですが >>親鸞が真宗を作ろうとしたので、あれば法然の >>教えに異議があったという事でしょうか? という質問に関して、No,5のbragelonne氏が法然聖人と親鸞聖人の教義的な違いを『歎異抄』第八章を例に出して指摘しておられますが、これには大きな誤解があるので記しておきます。 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なり という『歎異抄』第八章の言葉は、他にも三代目覚如上人が『口伝鈔』第五章にも引用しておられます。 一 自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事。 たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。 『口伝鈔』のなかでは、 諸善万行を修行して法財(功徳)を貯めようとしても、悪業煩悩という泥棒に積んだ功徳が盗まれてしまって貯めることができないが、お念仏は阿弥陀如来の仏智によるものであって凡夫が自力でなす行でも善でもないから、悪業煩悩という泥棒によってによって盗まれることはなく、念仏は浄土往生の糧として蓄えられ報土に生れる正しい因となるととかれます。ここでいう「非行非善」とは「万行諸善」のことで、万行諸善と念仏の比較検討の意味があります。  また、『歎異抄』『口伝鈔』の元ネタとして親鸞聖人自身の御消息『末灯鈔』のなかに、 『宝号経』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」。名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについていふことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。本願の名号は能生する因なり、能生の因といふは、すなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁なり。所生の縁といふはすなはちこれ母なり。 とあって、引用文「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」は弥陀の本願は諸善諸行を修することではなくお念仏を称えることであるとし、続く「名号はこれ善なり行なり」名号とは阿弥陀仏が本願成就のためになされた善と行であると、対句表現で諸善諸行と念仏比較がなされいます。  上述のように「非行非善」の意図は、「弥陀の本願念仏は、諸行でもなく諸善でもない」ということを言っているわけです。そして、この諸善諸行と本願念仏の比較検討をして「諸行を選捨して、選称仏名を選取す」という「廃立」の立場を強く打ち出したのが法然聖人の『選択本願念仏集』です。つまり、この『歎異抄』第八章や『口伝鈔』第五章根拠、そして『末灯鈔』の根拠は法然聖人の『選択本願念仏集』にあるわけです。  ほかにも、親鸞聖人独自の解釈といわれている「三願転入論」も、法然聖人の「行具の三心」説をベースにしていて、また親鸞聖人の「浄土和讃」には「定散自力の称名は果遂のちかひに帰してこそをしへざれども自然に真如の門に転入する」とありますが、法然聖人の『十七箇条御説法』には「十九願は諸行の人を引入して念仏の願に帰せしめんとなり」とあり、三願転入論も法然聖人の思想がそのベースにあることがうかがえます。 また、称名に関しても親鸞聖人は「報恩の行」としての「報謝の称名」を説かれるわけですが、これも法然聖人は『つねに仰せられける御詞』の中で「人の手より物をえんずるに、すでに得たらんと、いまだ得ざるといづれか勝るべき。源空はすでに得たる心地にて念仏は申なり。」とあって、人から物をもらう時に、もうすでにいただいていると思うのと、これからもらうんだと思うのとどっちが優れてますか?という問いに、私はすでに往生を頂戴した心地でお念仏を称えていますと説かれていて、これが原型です。 そして、『歎異抄』の第三章「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、覚如上人の『口伝鈔』の中でも法然聖人の言葉とされ、現在では『法然上人伝記』(『醍醐本』)の中に法然聖人を看取った弟子である源智上人が法然聖人の言葉として書き残したものが書写されたものが発見されています。また第十条「念仏は義なきを義とす」は法然聖人の『沙弥随蓮に示される詞』に残っている「念仏はようなきをようとす」と一致します。  上述のごとく、親鸞聖人の御言葉を丹念に調べるとその元ネタは法然聖人の言葉の中に見出せるものがほとんどです。だからと言って二人が全く同じであるというわけではありませんが、別であるという事は言えないように思います。  時間がなくて二十分ほどで書き上げたので、引用等々は基本ネットで引きました。間違ってるところがあるかもしれません。時間がないため誤字脱字乱文ご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛

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