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親鸞は真宗を作ろうとしたの?

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.5

 こんにちは。  ▼ (歎異抄第8条) ~~~~~~~~~~~~~   http://ouraimono.terakoyapro.net/?eid=1399316  一 念仏は行者のために、非行・非善なり。   わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。   わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。   ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、   行者のためには非行・非善なりと云々。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 親鸞直筆ではありませんが ほかにも書簡などでこのように言っていたと思います。  これによって 法然の行き方とははっきり違うということを言いたいと考えます。  要するに 念仏をして それが修行となって さとりを得るのではないということ(非行)。  あるいは 称名念仏が 善行として 往生にみちびくというものでもないということ(非善)。  つまり 念仏をすることによって極楽往生するという法然のオシエとは 根本的に違っています。  念仏をしたから 救われるなんて あるわけがないだろうって言っています。  思わず 南無阿弥陀仏なる名号が口をついて出て来た場合は 仕方がない。ありがたいという思いがふと現われ出たというくらいに捉えておけばよい。  あるいは   ▼ (歎異抄 第六章) 親鸞は弟子一人も持たず候。  ☆ とも言っていたと受け取られます。  《非僧非俗》という立ち場だとすれば 市民一般とは少し別の者だという意味合いがあったのかも知れません。《非僧》なら 一般市民と同じであるが 《非俗》とも言うからには 市民一般とまったく同じ生活のかたちではないと思っていたかも知れません)。ある程度は 指導者であるという自覚を持っていたのでしょうか。  けれども けっきょくはあたかも M.ルーテルが《万人司祭》を言ったように アミターバ・ブッダの信徒は みな互いに《同朋》であるとも言った。  これぢゃ 組織はほろびるはずです。果たして そうなって行きました。  けれども ふつうの市民生活とそれとしての共生が 信徒であることの真骨頂であると心得られたからには例の一向一揆では そのような市民社会としての自由を打ち建てこれを守ろうとしました。  守ろうとして 為政者に楯突き 一時は――加賀一揆などは 一世紀にわたって 市民による共同自治を曲りなりにも 信長に敗れるまで 実行したように―― この自由市民のあり方を実践しようと試みました。  そのころ――つまり 組織がぼろぼろになっていたはずのころ―― 例の蓮如が出て来て この人間は あくまで政治的に成功しチカラのあることが 信徒とその集まりのためだという《教義》を立てて いまの一揆を煽り立てたということが 研究の成果として明らかにされています。  (加賀一揆に 時の権力との間合いを図りながら 政治的に――信徒らを煽り立てつつ――振る舞ったと言われています。その結果 宗門は《栄える》に到りました)。  浄土真宗が勢力をいまも持っているのは ひとえにこの蓮如の《活躍》によると考えられています。    つまり結論として 親鸞は 法然とは――タテマエでは 師匠をどこまでも立てていますが―― 信仰とそれによる生活日常の行き方として まるで違うと考えられます。  法然のオシエは いわゆる宗教として気休めの部類です。  親鸞は 共同の戒律というようなオシエは いっさいありません。《義無きを以て義とす》でした。  言いかえると 信仰はすべて 個人としての《わたし》にゆだねられています。いわばわたしの実存の問題であると言えるだろうと思います。

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