• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)は?)

ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)とは?

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.8

 遅くなりました。時間の関係で少しだけ。  私はブラさんと猫さんとさほど意見は違わないと思うんですがね?  そもそも、『六方礼経』なんかを読むと、仏教はバラモン教に新しい意味を付加する形で教線を拡大しているのがわかります。仏教は智慧と慈悲といいますが、知恵はさておき、他者に積極的にかかわるという意味での慈悲はバラモン教からの流用でしょう。梵天勧請なんかがそれを表現していると思います。また、中村元先生も確か仏教徒が仏教徒という固有性をもったのはアショーカ王が現れるちょっと前くらいだって言ってたと思います。  仏教の中には瞑想法において、サマタはバラモン教等のインド古来の宗教の瞑想法であり、ヴィバッサナーこそがお釈迦様が悟りを開いた本当の意味での瞑想だっていう人がいますが、私はこれをいまいち信用していません。降魔の伝承はお釈迦様の心の葛藤と一般書籍には書かれているように思いますが、本来これは成道そのものを三明六通に分けて説明しているものです。『阿毘達磨大毘婆沙論』でもそうなっていたはずです。その後、お釈迦様は縁起の観察に入るわけですから、サマタで悟った後ヴィバッサナーしていると考えています。つまり、サマタによって得たお釈迦様の悟り自体はバラモン教等の悟りと大きく違わないのでしょう。もっと極端なことを言えば、キリスト教における祈りにおける「神が隣にいたように感じた」とか、バラモン教の梵我一如、仏教の自他不二等も完全に同じではないでしょうが共通点を十分に見出せるの知覚的な作用であると思っています。  しかし、そこから表出された表現はそれぞれの宗教の個別性ではないかと考えます。その中で、アートマンの記述に関して、松本史朗氏でしたか、中村元氏をはじめとした仏教学者は仏教内部におけるアートマンの記述を翻訳や解釈でうまくごまかしてるみたいなことをどっかで書いてたはずです。確かに『スッタニパータ』の訳を見ると「自己の安立」とかあって、ここは「アートマンを確立する」ってことなわけですが、バラモン教ではアートマンは確立するものではなく、そもそもあるものですよね?そもそも、あるものが昇華していってブラフマンに至るわけですようね?この辺が違いではないかと思います。仏教におけるアートマンは確立する必要があるわけです。日韓仏教学交流の父と呼ばれた金東華氏がたしか仏教では実我を否定するが、仮我と真我は認めているとどっかに書いてあったのを読んだ記憶があります。つまり、実体のある固定で不変の我は執着でしかないが、五蘊化和合の仮に我と呼んでいる化我と、仏教の就業する中で確立される真我は否定するものではないという事かと思います。その辺が、西昭嘉氏の言いたいことなのではないかと思います。  私見ですが、『スッタニパータ』1146がそれではないかと思います。お釈迦様に焦点を当てれば「法を見るものは私を見る・・・」の定型句の表れとなるのでしょが、ピンギヤ尊者に焦点を当てればその前文1145は自灯明法灯明(自洲法洲)の事ですから、ピンギヤ尊者にとっては自(アートマン)灯明というアートマンの確立を表しているのではないかと思います。では、それ以前ピンギヤ尊者はそういう意味でのアートマンがあったのか?といえば、なかったはずです。それで、『イティヴァッタカ』では 彼を、自己(アートマン)を修めた唯一の者を、梵(ブラフマン)と成った如来 とあって、この確立したアートマンをブラフマンと呼んでるわけですな。  あと、化我と真我の関係ですが、この辺は私もまだ勉強中なんですが、いわゆる『中論』の勝義諦と世俗諦とか化論寂滅と化設の関係みたいな感じなのではないかと。  時間なくてこんな感じになっちゃってすいません。誤字脱字乱文御容赦を。では。 合掌 南無阿弥陀仏

bragelonne
質問者

お礼

 ばか‐はげさん こんにちは。ご回答・ご説明をたいへんありがとうございます。    そうですね。依然としてわたしは経文そのものに従っているわけではないのに それでもデカイ口をたたいているのですが これは――必ずしも ブディズム内部の教理に限った議論なのではなく そうではなく―― 宗派やそのひとつの宗教を超えてひとえに広く   《神および信仰 ならびに〔信仰のオシエ化された(つまり それはオシエを信じるとなるとマチガイである)〕宗教にかんする一般理論》  の問題ではないかと考えて来ましたし ご議論に接してもその考えを持ち続けます。  そしていま一つ 日曜日に図書館から次の本を借りて来て ちょうど触れておられる松本史朗の議論を真っ先に読んだところです。   高崎直道監修・桂紹隆/斉藤明/下田正弘/末木文士編:    シリーズ大乗仏教 第八巻 如来蔵と仏性 2014   ・松本史朗:第六章 如来蔵と空  ちなみに その結論のみを引いておきます。(議論全体としてもその推論の過程にしても 文献を引いての解釈を推し進めているかたちですので 容易には引用もまとめもむつかしいと思います)。  ■ (松本史朗:如来蔵は アートマンである) ~~~~~~  ・・・本論の結論を言えば    " dhaatu " = " buddha-dhaatu " = " tathaagata-garbha "    《界》  = 《仏性》    = 《如来蔵》  は  " aatman " 《我》であり 《実在》であって 《空》ではないということになるであろう。( p.292 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ じつはわたしは 松本説のうち 《 dhaatu-vaada (基体説)》についてまだよく分かっていません。  《基体( ダーツ)》からいっさいの法(現象でしょうか)が生起するといった見解について それが何を言おうとしているのか よく分かりません。  仮りに次のように捉えるなら:   《基体(ダーツ)》:非思考の庭(直観・ヒラメキ)   ---------------------   《経験事象(諸法)》:思考の緑野:思考・認識   《同上》:感性の原野:直感・知覚  こうであると仮りに捉えるなら それでも 一方で確かに《基体=非思考の庭(信仰)》と《経験行為やその世界》とはつながっているのでしょうが 他方では その経験世界はあくまで人間の《思考ないし意志》の行為として成り立っている。ゆえに 一般に《諸法(一切の現象)》は 〔自然界の自己運動をもふくめつつ〕人間の行為(カルマ)の相互依存的かつ錯綜構造的な関係でありその総和だと考えられます。  つまりむやみに《基体(ダーツ)⇒諸法(諸現象)》なる影響関係としての方程式をさだめる必要はないのではないか。と思っています。  さて―― 一気に要らぬことまで口走ったかも知れないのですが―― まづ《さとりなる境地》の状態ないし実態が どの信仰形態にあってもさほど違わないというご見解を示しておられます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・その後、お釈迦様は縁起の観察に入るわけですから、サマタで悟った後ヴィバッサナーしていると考えています。  つまり、サマタによって得たお釈迦様の悟り自体はバラモン教等の悟りと大きく違わないのでしょう。  もっと極端なことを言えば、キリスト教における祈りにおける「神が隣にいたように感じた」とか、バラモン教の梵我一如、仏教の自他不二等も完全に同じではないでしょうが共通点を十分に見出せるの知覚的な作用であると思っています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういった全体観からおおざっぱに見た場合には No.5のぼんぬふじさんとのやり取りで提出した構図は かなりその事情を明らかにしうるでしょうか?  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)    無梵:空(シューニャター・ゼロ)    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(有神論)    仏:アミターバ (阿弥陀)/ マハーワイローチャナ(大日)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ すなわち    アートマン(霊我)    = アン‐アートマン(無我)    = ブッダ‐ダーツ(ブッダター・仏性)    = タターガタ・ガルバ(如来蔵)  ☆ なぜなら これらは わが心なる《非思考の庭》にあってはたらくチカラだと――想定において――見るからです。理性による思考でもなければ 感性による知覚そのものでもない。つまり 経験事象ではない。――しかも そこからヒラメキをとおして 言葉にして表現しうる概念内容をも人間は得ることがある。  ★ しかし、そこから表出された表現はそれぞれの宗教の個別性ではないかと考えます。  ★ 確かに『スッタニパータ』の訳を見ると「自己の安立」とかあって、ここは「アートマンを確立する」ってことなわけですが、バラモン教ではアートマンは確立するものではなく、そもそもあるものですよね? そもそも、あるものが昇華していってブラフマンに至るわけですようね?この辺が違いではないかと思います。  ☆ この主題についてもわたしはただちに教理として議論しうる素地がありません。  それでもそんなわたしにも見えるところにしたがって ひとこと述べますが:  (あ) アートマンは すでに――ブッダダーツ(仏性)と同じく 一切衆生に悉く有るという想定ですから―― 《確立する》というよりは 《そのことに自覚しそれを受け容れそのアートマンとしてのハタラキに目覚める》のではないでしょうか?  (い) それが 梵我一如なる《信仰のかたち》が 現実にそのチカラを現わすことだと見ます。それによって人は《やすらぎ》を得ると言えば そうだと考えます。  (う) ★ そもそも、あるものが昇華していってブラフマンに至るわけですようね?  ☆ ここのところが 文献として教理としてどうであるか わたしには分からないのです。ですが いま上に述べたところによるとしますと やはりそうではなくすでに《非思考の庭》は 生まれつき自然の本性としてヒトにそなわっている。と見るわけですから ただただその神――ブラフマンならそれとしてのむしろ名前――を心に受け容れる。だけで 自覚ないし目覚め(つまり ブッダ)が成る。のではないかとは推測します。  (え) この《目覚め》は 即身成仏=即得往生であると考えます。名字即ないし理即の状態が そのまま一瞬のうちに 究竟即に到る。こういう《主張》です。  (お) 矢が患部から抜かれたからただちに傷が完治するというわけではなく その癒されて行くのは やはり過程をともなって時間的な経過にしたがうでしょう。けれども 矢が抜かれるのは 一瞬のうちにです。(これを そうではなく何だかんだと難癖をつけブツブツ言うから 一般に治癒が長引くのではないでしょうか?)  (か) これらの《さとり》の状態などについては ここまでの ねむねこさんとのやり取りでかなりしゃべっております。  (き) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   『イティヴァッタカ』では    彼を、自己(アートマン)を修めた唯一の者を、梵(ブラフマン)と成った如来  とあって、この確立したアートマンをブラフマンと呼んでるわけですな。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでの表現について ですからわたしからの見方では:    ● 自己(アートマン)を修めた    = ☆ 神を受け容れアートマンなる霊我にめざめ そのチカラのはたらき(ヒラメキなど)に《きよらかな畏れ》をいだいた    ● 梵(ブラフマン)と成った如来    = ☆ アートマンのハタラキを受け取ったとき ならば 《梵我一如》なる信仰のかたちをもその説明として得た。その状態は 非思考の庭にあって あたかも《如来ないし法身のブッダ》のようであると捉える。  (く) これは ひとが神に似るということ・ひとは神の似像であるということを表わしていると思います。百パーセント 神に成ったとかブッダに成ったとかということではないと受け取ります。  (け) つまり ブッダターのはたらきは あくまでこの梵我一如なる信仰の状態を確立した上で 娑婆世界ないし生活世界に還って来てその社会を――思いっきりベンチャラをすれば――仏国土に築き上げること。ここにあると考えられます。(これは 親鸞の理論だと思います)。  取りあえず こんなところでしょうか。  みなさんで このあたりの主題すなわち《それぞれの宗教の個別性》の問題について話し合って行ければ さいわいはこれに勝ることはないと思います。・・・

関連するQ&A

  • ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?

     なぜ直接には説かなかったのでしょう?  (α)の見解: バラモンないしウパニシャドの思想を改めさせるための開拓者として立ったから 直接には説かなかったが それはしかるべく後世において説かれるように用意はしておいた。  それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。  (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。  (γ):その他(?)  * もし(β)の見解を採る場合 ではブッダはいったい何を言おうとしているのでしょう? つまり潜在的な能力が普遍的にあるかないか分からないけれども いわゆる《さとり》を目指すということなのでしょうか?  * ブッダにかんしては 何もちっとも分かっていないのではないでしょうか? 活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。なければ はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?

  • 梵我一如に仏教は密着したのでは?

     ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

  • 《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

    仏教についてです。  はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。 →無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。 (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。 中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。 もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。 このような出で立ちですが よろしくお願い致します。

  • 空仏一如!?

     霊のお話です。  宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊と。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン    我:アートマン  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:空・シューナター・ゼロ    無:無我・アン‐アートマン;ニルワーナ  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・仏性  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  6. シントウイズム:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  ご教授ください。

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • 人間と言う概念が無かった過去は自己を我と表現した。

    人間と言う概念が無かった過去は自己を我と表現した。 アートマンとは人知の古典としてそれだけの意味でしかないのではないか。 人々とか我々とか、共同体に属する我を表現するにあたって、人間が判らないからアートマンにした。 それだと仏教徒に見下されるバラモンのアートマン説も捨てたものではないだろうと考えます。 私は仏と言う言葉を現代語訳すると人間を指すのだと考えていて、いわゆる仏陀が自己を完成した人物であれば、それは確かに人間だろうと考えます。 そこで釈迦の倒錯をどのように解釈するかが主題なのですが、その前に上記の考察で良いかどうかにもご意見ください。

  • 普遍神を名づけた個別神をめぐる主観は 特殊絶対性

     1. 神はすべて 同じひとつの普遍神である。これは 一般絶対性とよぶ。  2. 一般絶対性なる普遍神を 個別に名をつけて――あるいは 名などはなく神も無いのだと見て――主観がえらんだ神は 個別絶対性である。  3. すなわち 《無い神》または《有る神:オホモノヌシ;ブラフマン;ヤハヱ―;アッラーフなどなど》。  4. ブラフマン(梵)なる神は わが自然本性なるアートマン(霊我)と一体である――すなわち 梵我一如――と忖度するのは 特殊絶対性の始まり。  5. ただし アン-アートマン(無‐霊我:無我・非我)を唱える場合にも その元に言わば無梵(ア‐ブラフマン)なる《無い神》をかかげ そのようなマクロコスモス( 宇宙)とミクロコスモス(人)との一体を言うようであるから――つまり《無い神》派にあっても―― 類型としての梵我一如は 共通なようである。  6. アミターバ・ブッダなる《有る神》の場合は 主観が アートマン(霊我)の代わりに ブッダター(仏性)なる霊において呼応する。すなわち 仏仏一如なる梵我一如パタンである。  7. つまりここまでは 類型としての梵我一如が なお《一般絶対性=個別絶対性》のもとに その基礎となり基本となっている。  8. そこから主観はさらに 神についておのが思いを描き出す。  9. 神は われと――信仰なる《非思考の庭》としてだけではなく――思考においても・また感性にあっても つながっている・・・といったように 主観が 飛んで行く。これが 特殊絶対性である。  10. おれはきのうの夜 神を見たんだと言うのも ひとつの特殊絶対性である。そんなわけねえよと応じるのも 同じく特殊絶対性。なぜなら どちらも 証明できない。(だから 絶対性ないし神と呼んでいる)。  11. この理論で――つまり 添削をお願いしさらに実践理論を展開して行って欲しいのですが・それが 質問ですが――おおよそ世界に起きている《神をめぐる心的現象》のすべてについて 理解の基礎としての糸口を明らかにできるのではないでしょうか。  なお 次の趣旨説明欄をも参照ください。  【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説】  https://okwave.jp/qa/q9358717.html

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう?