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ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?

 なぜ直接には説かなかったのでしょう?  (α)の見解: バラモンないしウパニシャドの思想を改めさせるための開拓者として立ったから 直接には説かなかったが それはしかるべく後世において説かれるように用意はしておいた。  それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。  (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。  (γ):その他(?)  * もし(β)の見解を採る場合 ではブッダはいったい何を言おうとしているのでしょう? つまり潜在的な能力が普遍的にあるかないか分からないけれども いわゆる《さとり》を目指すということなのでしょうか?  * ブッダにかんしては 何もちっとも分かっていないのではないでしょうか? 活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。なければ はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?

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noname#135843
noname#135843
回答No.42

お久しぶりでございます。Hidocchiです。  愚見を述べたく、参加させていただきました。  Konsan29様の仰る以下の考えは、愚生とも共通しておりまし、またbragelonne様も、ほぼ同様かと存 じます。 >十二因縁は、人類発生以来、人間は愛欲の業を背負っている。 >(四諦と十二因縁によって)その業の世界から脱却し涅槃・悟ること。  >輪廻の苦からの解放である。  また、「“悟り”なる境地に達するには、“無明”の域から脱する必要があろう」ことも、誰もが認 めていることかと思っております。  ただ、ここで疑問が沸いてくるのです。 「実際の“実践”を通して、本当にそのような境地に達することが可能かどうか」をです。  その点、大乗仏教では、仏性が(以下に定義させていただいております)、全てのものに(ア・プリ オリに)備わっているため、“悟り”なる境地に達するための一種の“担保”が保障されています。 仏性:仏としての性質。仏の本性。仏となれる可能性。(goo辞典からです)  一方、(原点となっています)釈尊ご自身はかようなことをご教示せずに、どのような作用・志向性 ・潜在性でもって、“悟り”にたどり着けるのか? ということでございます(具体的な方法は四諦八 正道と示されてはいますが)。  極論を申し上げますと、「実践(修行)により、“悟り”の境地に達するのは、まぐれ当たりに頼ら なければならないのでしょうか?」、 「またその確証は何なのでしょうか?」 そしてまた、、、( これ以上話してしまいますと、お寺にはいけなくなりますので、差し控えさせていただきます) おそらく、ご質問者様がお聞きしたいことも、かようなことかと察しております(間違えていれば、深 くお詫び申し上げます)。 そこで、愚見を申し上げますと、 >なぜ直接には説かなかったのでしょう? (γ):あえて、求道者たる弟子達に伝える必要はなかった。  と解しております。 理由:舎利子ら十大弟子、および十大弟子のさらなる弟子達は、元々が実践化でもあり、求道者でもご ざいました。従いまして、彼らに対しては、あえてそのようなことを示さずとも、“教え”のみにより 、“悟り”に達することが可能だと、釈尊が判断されたものと 推察しております。実際、舎利子は「 弟子入りした後、その後すぐに最高の“悟り”を得た」とされています(以下のサイトをご参照くださ いませ。ただ、その“悟り”の確証は何だったのかは不明でございます)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/舎利弗  しかし、一般大衆化していきますと、そのようなことも言ってはいられなくなりました。そして、分 派の際、大乗仏教では、特に“仏性”なるものが求められたのではないかと考えております。  長文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  へぇーっ。極めて単純なんですね。つまり  ★(要約) ブッダもむろん 仏性を前提としていた。弟子たちかれを取り囲む人びとが 実践修行の過程にあるゆえ 取り立ててこの前提を言う必要がなかった。  ☆ となりましょうか。  ううーん。でしたら   ○ 大乗仏教にまでつらなる同じ一筋の道である。  ☆ こう考えられますね。ということは この一筋の道を受け付けないのは およそ上座部仏教の立ち場のみになるでしょうか?  あぁ それはそうと もう一点 問題があります。  ○ 諸法無我と仏性  ☆ との兼ね合いです。  ☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただし このとき――わたしにちらっと分かっている限りで言えば―― 次のような問題が生じます。  ○ もし《仏性》が 普遍的にして永遠のものとして 人間に誰ひとりとして残ることなく皆にそなわっているのだとすれば 《諸法無我》つまり《この世界にはそれ自身によって そしてそれ自身によってのみ 存在する普遍的にして不可変のものはない》というさとりの内容のひとつに抵触する。  ☆ ではないかと踏んでいます。どうですかねぇ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どうでしょう? けっこう難問であるように思うのですが?

その他の回答 (71)

noname#135843
noname#135843
回答No.72

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 Hidocchiでございます。 >ひととおりまとめておくことが出来たかと思います。  感謝致しておリます。どうもありがとうございました。 >そうですね。 konsan29 さんも この質問としてはひととおりの結論に――ただしその内容には幅を持たせつつ――達したと捉えてくださっているかも知れません。それに何度でもこの問題は 必要と思ったら提起すればよいと考えます。そろそろ締めようかと考えます。  お疲れ様でした。またお会い出来る日を楽しみにしております。 > もうしばらくして さらに新たな出発に向かいたいと考えます。  愚生と致しましても、シツコク(?)、愚見をお聞きしていただければと そう願っております。  どうも長々とした駄文をお読みくださいまして、厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。ここは もう締めましょう。  ご回答をありがとうございました。  みなさんに向けても述べますが 言い足りなかったことなどがあれば ほかの質問にても投稿していただけるでしょうから。  それではまたお会いしましょう。

noname#117439
noname#117439
回答No.71

オコリザルです。 削除されることを覚悟した暴言です。 たびたび、引用にされたのではないかと思い当たる節のあるお言葉をのたまう回答者さんは、私がたびたびお会いしたとお話している高次元の霊体様がそのまま人間として権現した様な方ですね。 彼に対しては 「くたばっちまいな」、だって同じですよ。「よりよく生きなさい」の意味です。 これを言いそびれる事は確実なんです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ほかの質疑応答からつづいてのかたちです。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ これを言いそびれる事は確実なんです。  ☆ 《言いそびれ》てはいないのではないですか? 現におっしゃっているのではないですか?  それだけを問うて あとは いまの場合 わたしは発言をしないかたちとします。

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.70

 「おめーは糞だ」と言われた事にたいして、怒るのでも、笑うのでもなく 対処できなければ、彼はまたあちらの世界でも罵られるでしょう。自分のことでもある、と受け入れることができない限り。(と、思います。)

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.69

 どれだけ愚を名乗ろうと、賢聖を気取ろうと、どちらかを標榜すること自体が嘘=悪=愚かなのは知っているわけで、それは意味のない言葉の連なりを見るだけでも、それはそれと解ります。例えて言えば赤ん坊のころ、自分自身が「意味のない言葉の雑音」を聞かされるが故に、「指をくわえてそれを見ている赤ん坊」を他者に対して想定し、文字通りの夫婦漫才を見せ付けて虜にし、麻痺させて仲間するか、でなければ追い出そうという魂胆でしょうか。しかし、それは自分がやられてきたことを半分は本能的に繰り返しているだけで、それを止めなければ親から受け継いだ不の連鎖を断ち切ることは、難しいでしょう。  曇ったダミ声が文章から聞こえるのはどうしようもなく、「もしかしたらコノ人(たち)正しいかも」と子供なら思ってしまいますが、汚物総理の醜さと、顔の在り様を観ると、やはりなんとも物悲しい気分になってしまいます。秋ですし。  前回「顔を真っ赤にして」と書きましたが、改めて観ましたところ、そこまではいっておらず(指摘したせいか?)、不満顔 をもう少しブザマにしたような感じです。「ブスッとして不機嫌」これが現在の彼を表す言葉として適切だと観ます。もし本人が「これは自分のことを言っているようだ」と思われるようなら、その是非を問うてみたいところです。  さて、質問の答えですが。 >ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?  これは、仏典を一行たりとも読んだことのない私が答えるべき質問ではありませんでしたね。「ブッダが真実を語っていたのなら、私と同じことを考えていて、それによって書かれた仏典であれば、その中の石ころの中からでも宝石を見出すことは出来るはずだ」という考えから回答をしたまでです。従って、「中犬ハチ公」なる言葉には、何の感慨も、感応もないので、その言葉の、画面からの浮き上がり具合というか、そこにこめられたパワーが飛び込んでくるのは感じますが、どうも見当違いのようですね。中犬ハチ公でないからそれなりの思想を得られたのです。 >はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?  これは、生かすものがあるかないかが解るまで黙ってほっとくが良いでしょう。なんやかんや言わずに、解る時がくれば、「これは違う」「これはまさにその通りだ」「この部分は構成の人間が曲解したのだろう」など、自然と解るときが来るでしょう。他者から「ここが正しい」「この部分がおかしい」「全体的に信用できない」などと言われたところで、自分が解らないなら、「ふーん そうなのか」としか言えないでしょう。美術品の良し悪しを見分ける目を持っている人は、自信の認識力で以って見ているだけで、「誰かからわけられた」技術、知識で判別、認識しているのではありません。  釈迦も誰かから教えられ、書物から得たのではなく、自分で悟ったのです。釈迦は自分がしゃべったことを仏典にしろとか書物に残せなどとは言ってない筈です。  そういう意味において、やはり『すでに解ったものが見れば解る』だけであって、そういった人にとっては自分の考えの確かさの再確認、時に現在に生きる他者との世界観の違いによる不安を生じさせないで済むとから活かせるとも言えますが、解らない人にとってはなんの役にも立たない紙切れでしかないのでしょう。人生における気付きでも同じですが、クリアして、後になって「そういうことだったのか」と解るのであって、解ったからクリアするというものではないんでしょう。  結局、それが正か誤か解らない者にとっては活かすべきものはない というのが結論です。  悪というものが幻想に過ぎないという結論が何処から導かれたのか解りませんが、もし汚物総理がブザマな醜態を実際に世界にさらしているのであれば、「おまえは醜い。醜いが故に悪である。」と言えば彼にも何を以って善悪というのか理解できるのではないでしょうか。実際に汚いものは汚いし、醜いものは醜いのです。そういう意味において、「不機嫌な仏頂面は悪である。」と言えます。「ふて腐れている」こと自体が甘え、依存と、自らの存在における正当性を主張するという欺瞞を表しているからです。  しかし、私が彼を「不当に」そうさせたと言うのであれば、「すまなかった」と言わねばなりませんが、さて、どうなんですかね。

noname#117439
noname#117439
回答No.68

オコリザルです。 ファンタジー小説です。 >何か修行のひとつのごとく捉えておられますか? 冒険紀行ととらえています。 実在する妖精の捕まえ方を身に付けた私に宿る聖霊「セレビィ」の物語です。 聖霊の解明に役立つ、考えるとっかかりではあるでしょう。 軽薄な考え方ですが、渦中を過ぎて今や安泰です。 神の所在は「はからい」のごとく舞い込むんですよね。 セレビィになぞらえるなら、わが子として向こうからなついてくるんです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 冒険紀行ととらえています。  ☆ 分かりました。  ただ一般的にどうかということも述べます。  それは 概念の操作だけで 両極のそれら概念の周り回って一致するところを捉えると思います。  これを物語にするというのは それもあると思います。どれと言っていま例を出せませんが ギリシャ神話などでは よくあるのではないでしょうか。発言内容とは反対のことが起こったなどという場合です。  なお ひとことですが その場合には  ★ 聖霊  ☆ というのは合わないと思います。細かいですが  ○ 精霊 とか 妖精 とか  ☆ がいいと思います。もっとも神話では 神々 と言っているのですが。

noname#117439
noname#117439
回答No.67

オコリザルです。 自分でも考えてみたのですが、無の信仰もタコつぼでなく信仰ととらえてしかるべきなんじゃないかと認識しました。 生きながらの入滅に関してはおっしゃるとおり、悟りなさいが本来の感覚的認識です。 観念上で克服するお題目には、いわば正反対のお題目と言うのが在ります。意味がさかさまなんです。わたしが「無」と言われる観想に至るほどに自らが生きている自覚が強まるのも同じことです。 我は在るとは、柔らかく「私は生きている」でもいいんです。 無がどうのなんてお題目(課題)はもう用済みです。 「くたばっちまいな」、だって同じですよ。「よりよく生きなさい」の意味です。 このような表現に至るのはなぜかについては「ミラーニューロン」が心理学的角度から判断するとっかかりだったのですが、大した収穫はなかったです。 正反対にすることが逆らうことであり悪とするのは早いです。 神経の機能にも表れているのですから、せいぜい情動を制御するバランス程度で悪の概念とは一致しないのではないかと推測しています。 心象の物語では「逆さまに吊られた男」とでも言うように伝承に登場していますが、それが悪とは限らないんです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 観念上で克服するお題目には、いわば正反対のお題目と言うのが在ります。  ☆ 《両極は互いに合う / 両極は一致する》というのは 一般にもよく聞きますよ。  ただ primeape さんは  ★ 観念上で克服するお題目には  ☆ というように 何か修行のひとつのごとく捉えておられますか?  ★ 心象の物語  ☆ というようにも捉えるかたちのようですね。  それだと わたしには分からない部分に入りますが 一般には けっきょく  ○ 相手の人によって その《正反対のお題目》を使う。  ☆ のだとは思います。そういうふうに捉えています。  あとは おっしゃっているところと同じように捉えています。    もっとも  ○ ほろびなさい。  ☆ という言い方をわたしはしますが これは 《古い人を脱ぎ 新しい人を着なさい》という意味で 初めの《脱ぐ》過程としては 文字通り《ほろびる》を表わすと思います。

noname#135843
noname#135843
回答No.66

 ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。   Hidocchiでございます。 > 【Q:イエスは 特異点か】  ☆ を読んでいただいてありがとうございます。  ☆☆ 自然児・野生児・反逆児スサノヲ  ☆ 以上に ほら吹きで山師だと思われたことと思います。さらにその上を行こうと頑張りますので  よろしくどうぞお願いいたします。 ほら吹きで山師だと思われたことと思います  → いいえ、全くその逆でございます。ここまで勉学に励まれているのかと思いますと、尊敬の念を感じさせられた次第でございます。  1)特異点について [特異点の定義] 特異点とは、 ・ ある“基準” ( or前提条件) の下、その“基準”が、“適用できない点”の総称である。 ・ 特異点は基準があって初めて認識されるものとなる(基準や条件がなければ認識不可能となってしまいます)。 一般に、「~に於ける特異点」「 ~ に関する特異点」という呼ばれ方をします。 (1例)特異点の“数学-有理関数”への適用例 関数1/x (基準、前提条件)の下、その関数1/x(基準、前提条件)が、適用できない点、つまり、x=0 が得意点となります。 [∵x = 0 で±∞に発散し、定義されないため 2)bragelonne様の“特異点” bragelonne様の場合では、 ・基準 → 因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断 ・その基準が、“適用できない”点 → 自由な一点(因果律あるいは経験合理性判断とは相反するものかと考えられます)  と定義可能かと考えられます。  従いまして、 → 「特異点とは、ある基準(因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断)の元で、上述基準が適用不可能とならしめる点、それが(自由な一点が)、この場合の特異点となる。」 さらにご質問の趣旨に沿って申しますと、  または、 → 「因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断の基準下で(主イエスの生存状態です)、これら基準が適用不可能となってしまう一点(主イエスが天に召されたとき)」  と表現可能かと考えております。  一方、http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5111414.html におけますNo.3のご回答者さまのたとえは幾分“逸脱感”は残ります。確かに、数式を用いて、証明可能だというならば、それに越したことはないと思いますが(数学的証明がなされますと、説明が容易になるからでございます)、これらの数式条件下(基準下)で、イエスなるお方を載せるには、幾分無理があろうかと考えているからでございます。 この件につきまして、末尾の“グリムによる神の非存在性定理”をご参照くださいませ。  私見(こちらは余談ですので、適当にスルーしてくださいませ)  愚生は、主イエスは、聖書にも記述されているように“神の子”であり、また“ひと”でもあったと解しております。つまり、2面性を持っていたと考えております。 “神の子”は聖書にも記載とおり大前提でした。一方、“ひと”は少なくとも、ゴルゴダの丘をかろうじて登っていくお姿は“ひと”そのものかと見えました。しかし、この2面性をどう考えるかでございます。  以前にもお話致しましたが、“光”のおける「波動」と「粒子」の二重性についても、ある特性を測定するか、別の特性を測定するかであって、「本当は」どういうものかをはっきりしておらず、むしろ区別させようとするのは見当はずれであろうかと考えています。いきなり、ここで物理的現象を述べましたが、“光”という自然なもの(ごく日常的なもの)も、そうなのですから、“ひと”の根源を探っていくと、“光”のような観察結果がえられても不思議ではないと考えております。  ですが、キリスト教の“原罪思想”等にも精通されておられるのですね。さすがですね!! [グリムの神の非存在性定理]  参考試料です。高橋昌一郎著 「理性の限界」講談社現代新書 からです。  グリムは、彼の証明が否定するのは、「人間理性によって理解可能な神」であって、神学そのものを否定するわけではないと述べています(実は神学を認めています)。つまり神は、理性では認識不可能な存在であり、かりに神が存在するとしても、理性では立証不可能です。それが、ゲーデルの不完全性定理からグリムの導いた結論です。  ★ konsan29様の意見も愚生側でもまとめ、共通点・相違点を列記したいと考えております。  ☆ ありがとうございます。こうお聞きして 共同主観は むしろ基本としては 《なぞ》において 成り立つほうがよいかとも思いました。  《無根拠》において非思考において 人間存在として生命力の共有のごとくして 自由な信頼関係において 主観を共同化していたほうが その共同主観において 互いの具体的な問題についての相違点をも明らかにし 自由に批判をし合っていける。この弁証法過程を堂々と歩んで行けるのではないでしょうか?  この度は、あえて、k_jinen様の分は省略させていただきました。k_jinen様のご都合上、再度、議論させていただくというのは、酷かと判断した次第でございます。  そこで、konsan29、ご質問者様、そして愚生の見解を、勝手ながらまとめさせていただきました。  なお、primeape様はじめ、他の方々もご参加希望ございましたら、少なくとも愚生(Hidocchi)と致しましては、大歓迎でございます。  なお、今回は、konsan29様も直接参加されていないため、愚生の意見は控えさせていただきました。 また、上記内容におきましてご指摘等ございましたら、ご遠慮なくお申し付けくださいませ。 konsan29様の場合(もしよろしければ、ご記入いただければ幸いです) 1)最初の質問 なぜ直接には説かなかったのでしょう? (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。 参考文献 『仏陀のいいたかったこと』 田上太秀 『日本仏教史』 末木文美士 2)仏性の特徴・定義: Hidocchiの場合 1)最初の質問 なぜ直接には説かなかったのでしょう? (γ)の見解: あえて、求道者たる弟子達に伝える必要はなかった。 理由:舎利子ら十大弟子、および十大弟子のさらなる弟子達は、元々が実践化でもあり、求道者でもあったからです 2)仏性の特徴・定義: ひとにはア・プリオリに普遍的に存在するもの。また、それは、ひとによりその程度が異なる。さらにまた、各ひとにおいても、時、場所等により変わりうるもの 3)仏性とその“非思考性”とのかかわりかた: 目標は、ひとの“苦からの脱却”です。現在ではわが国においても少なくなりつつある“しあさせ”の獲得ともいえるかもしれません。そのためならば、有神論、無神論かかわらずに、釈尊の教えは一助になってくれると信じています(信じたい?)と思っております。  ご一読いただきまして厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん たいへんありがとうございました。ちょっと このわたくしめも恐縮いたしました。すでにじゅうぶん――仏性の一筋の系譜という点で――おしえてもらっているのに長引かせてしまったように気づいてしまいました。でも ひととおりまとめておくことが出来たかと思います。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。 konsan29 さんも この質問としてはひととおりの結論に――ただしその内容には幅を持たせつつ――達したと捉えてくださっているかも知れません。それに何度でもこの問題は 必要と思ったら提起すればよいと考えます。そろそろ締めようかと考えます。  ○ イエスは特異点か?  ☆ についてもありがとうございます。  ★ [グリムの神の非存在性定理] ・・・それが、ゲーデルの不完全性定理からグリムの導いた結論です。  ☆ むろんのことでしょうが 研究は絶えずその上にその上にさらにさらに行なわれているのですね。  たしかに新書版の本などは 時には手に取って読むのですけれど。なかなか自分の考えにきちんと摂り入れるまでには 隔たりがあるように思います。  それに Hidocchi さんが 学生の頃を二十年ほど前だとかおっしゃっていましたが たぶんその二十年を後のほうにも重ねていただくと わたしの歳になると思います。ですので なかなか進展はむつかしいように感じております。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  愚生は、主イエスは、聖書にも記述されているように“神の子”であり、また“ひと”でもあったと解しております。つまり、2面性を持っていたと考えております。  “神の子”は聖書にも記載とおり大前提でした。一方、“ひと”は少なくとも、ゴルゴダの丘をかろうじて登っていくお姿は“ひと”そのものかと見えました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この点も わたしのほうとしましては No.55お礼欄でそのように述べておりますので 確認できました。そして  ★ “光”における「波動」と「粒子」の二重性  ☆ の様相(実態?)も問題なのですね。了解しました。(区別させればよいとも成らず では総合して どういうことかと問うても はっきりしないといったその方向性を理解したと思います)。  もうしばらくして さらに新たな出発に向かいたいと考えます。

noname#117439
noname#117439
回答No.65

オコリザルです。 ご意見伺いです。 「我に信じるものはない」「私は何も信じない」このように表明することはそれ自体が信仰であるとお考えでしょうか?それともただ決め込んでふて腐れたかのごとく、タコつぼに閉じこもっただけとお考えでしょうか?。 リクエストとしては、自らの信仰を表すのすら難しい。 との前提で、自らの信仰を他者に分け与えるのは人間には不可能かもしれないとの、合意を求めます。

bragelonne
質問者

補足

 つづきです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) 「我に信じるものはない」「私は何も信じない」このように表明することはそれ自体が信仰であるとお考えでしょうか?   (い) それともただ決め込んでふて腐れたかのごとく、タコつぼに閉じこもっただけとお考えでしょうか?。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その人それぞれでしょうから一概に言えるものではないのですが 一般に 「我に信じるものはない」「私は何も信じない」と表明することは 無神論というかたちの非思考つまり信仰の形態であると考えます。  超経験・超自然のなぞについて 少しでも思っているとすれば 非思考のこころの領域を持っていると見なされます。  ただし そんなことに一向に構うことなく  ○ 我は無宗教だ。無信仰だ。  ☆ という場合には この非思考のなぞについて 考えたことがないと見なされます。つまりは (い)の場合です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  リクエストとしては、自らの信仰を表すのすら難しい。  との前提で、自らの信仰を他者に分け与えるのは人間には不可能かもしれないとの、合意を求めます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二つの側面があります。  (う) わたしたちは ことば多ければ必ず有益であるとは言えませんが 時を得ても得なくても 言葉をかけることをします。  そしてその努力によって その相手の人が自分の持ち前の能力を十二分に発揮することができるようにと願います。  (え) 願うのですが その努力が報われるのは 自分つまりわたしたちの力によってではないと思っています。なぞの力のはたらきによると思っています。  ★ 自らの信仰を他者に分け与えるのは人間には不可能かもしれない  ☆ について細かく言うとすれば。  ○ その目標地点に向かって わたしたち人間が走ります。と同時に 目標地点にたどり着けるかどうかは なぞの力による。  ○ もしくは 目標を得ることは 人間の努力で出来るかも知れないが その目標の中身が意味を持ってくるのは 人間の努力だけではむつかしい。  ☆ 人間の《はからひ》や《思考》を超えたところの何かがあると思っているというわけだと考えます。  無神論は 《無神》というなぞをめぐってそのまま非思考の形態(そういう心のあり方)であれば 信仰の徒と同じように 《われ考えるゆえにわれあり》という経験思考の次元を とうぜん超えていると思います。つまり 無根拠を根拠としていると思います。

noname#117439
noname#117439
回答No.64

オコリザルです。 bragelonneさんにとっては井戸端会議以前の世間のうわさ話です。 売られたケンカを買う姿勢の表明です。 このところの私の突飛な意見は、要するに汎神を無神とみなす虚無の信仰を撃退するためと、今までのけんか腰の成り行きが成るでしょうか? 虚無の信仰とは「無」の信奉でもありますが、信仰心の無いとりすがりでもあります。 撃退劇の土俵はbragelonneさんの質問の掲示となる公算が強いのであらかじめご了解ください。 「生きながらに入滅しなさい」 で、納得しないで、 「おめーは糞だ」 と表明したのですが、 それでも納得しないなら、 「くたばっちまいな」 と表明するきっかけを準備することになります。 人間無罪なので、表明しそびれることを前提にした話です。 無残な格闘話は抜きです。 想定される忠犬ハチ公は自らの意思の表明以前の問題外の状態です。 本気を出さないであしらうのみです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。    ★ 要するに汎神を無神とみなす虚無の信仰を撃退するため  ★ 虚無の信仰とは「無」の信奉でもありますが、信仰心の無いとりすがりでもあります。  ☆ そうでしたか。わたしは primeape さんは 無神論でいらっしゃるから こういうご発言も 観想としての問題であってそれは現実にとって比喩だと採っていましたが この場合は 現実論でしたか。  ○ 次のご回答にもあるように 信仰以前の生活態度とは どういうものか?  ☆ この問題のようですね。次のご投稿への返答に継ぎます。  ★ 「生きながらに入滅しなさい」  ☆ あらためてですが この表現は ブッディスム関係としては 《さとりなさい》という意味に聞こえるのですが それはあまり関係ないのですか? つまり それとは別の意味で 聞こえる人には聞こえるということでしょうか?

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.63

 まあ、自分で愚かと言っておけば、それは愚かではないという証拠にはならず、やはり愚かなのだろうから、似たもの同士が感応しあうのは当然ですね。言葉の力がどのように働くか ですね。 肝心の、質問に対する回答を忘れていました。 >大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。  ネコに小判を与えてもネコにとっては財産とはならない。 >なぜ直接には説かなかったのでしょう?  ネコに直接小判を投げても、逃げるだけ、意味が解らず右往左往。  従って、まだ自分がそこまでのレベルに達していないと言う証拠です。  愚生同士で研鑽し合っていけば、そのうち 価値が解るようにもなるでしょう。まあ、私は仏典などは読んだことはないので憶測ですけどね。

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    ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか  (α) 末法が 現実であるのではないでしょうか。  (β) もう何も新しい思想は ブディズムからは出て来ないのではないでしょうか。あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  (γ) 後世に現われた広義のブディズムは ブッダをきちんと葬送して初めて その生きた思想は生きるのではないか。    (δ) 《慈悲》は 人間にとっておこなうことは出来ないと なぜ明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。無縁慈悲は 絶対の愛のごとく 実践はむつかしい。  (ε) 《縁起共生=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は当たり前だと なぜはっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただ精神において理念や美を描こうとしたその想像世界です。  (ζ) 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものはないのではないでしょうか。絶対普遍のことなら そうだと言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題に還元されます。  (η) 一たんきちんと 葬送をしておく必要があるのではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。  言いかえると いまもこれなら生きているというおしえを おしえてください。

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • 梵我一如に仏教は密着したのでは?

     ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

  • 「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょう。

    私がどうしてもわからないのが「輪廻転生」です。「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょうか? ブッダの生きた時代はバラモン教が主流であり「輪廻転生」は当たり前の概念だそうですが、ブッダは「輪廻転生」について何か述べたのでしょうか? 述べなかったでしょうか? ある本には、悟りを開いて「輪廻転生」のループから脱するのがブッダの教えであるとも書いてあります。普通、日本で「輪廻転生」と言うと、肉体と魂は別々で、肉体は滅びても、魂はまた別の肉体で生まれ変わるというような事ですよね。 ブッダは人間が生まれ変わるというようなことや、魂と霊魂とか・・・は、しょせん事実関係が証明できないことだから、そのままにしておきなさい!と教えています。 また、自分と言うものに実体はない?と言うことも述べています。自分に実体がなく存在していないなら生まれ変わることもないはずです。 つまり「輪廻転生」とブッダの教えはどう考えても容認し合えない思想かと思います。 それとも、バラモン教の「輪廻転生」とブッダの「輪廻転生」は全然別物なのでしょうか?

  • 美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。