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美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

 コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。

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noname#197435
noname#197435
回答No.15

宗教学者がたどり着くのは、ブラジュロンヌ なのでしょう。調べに調べ結局、人間ブッダ、人間イエスにしてしまう。本来すばらしいと思って研究したであろう仏教がなんの意味も無いどころか、恨みにも似た感情となってしまった。ブラジュさんがバカ正直なんです。今日に至るまで、幾多の犯罪が重ねられてきたことは神仏を真摯に信じていない証拠なんですね。 つまり衆生は基本的に神仏は頼りません しかし何かあるはずだと救済を求める気持ちでブッダを追求しているブラジュさんは、理屈こきの甘えん坊、主体性がない人なんです 宗教、ブッダは法律なき時代において、正しい生き方の見えない守り神、見えない法律として重要でした。食料、医療、法律が充実した現代においても同じなのですね。人間が入り込めない「神」としておくことです。幸福の道具ですよ。 nomark30t ( ノウマク30000ダラ~)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 宗教学者〔であろうが〕 衆生〔であろうが〕  ☆ 問題は ゴータマ・ブッダに一縷の(もしくは 絶大な)のぞみをいだいて来た人びとがいるということです。  これは けっきょくゴータマの思惟や行動をきちんと知るならば あたかも神格化にまで到ったゴータマ崇拝やあるいはふつうのゴータマ・ブディズムの顕揚も その心理としてイカレポンチになっていたということだ。と分析していますし それを問うています。中身は何らなかったという意味においてです。  シンキロウにうつつを抜かすことも おそらく時間を無駄についやしていることになる。とも言って みなさんの考えをつのっています。

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  • kurinal
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回答No.14

bragelonne様、こんにちは。お礼ありがとうございます。 今回のお礼で、随分クッキリと判ったように思います。 「「私は説かない」と言ったのに、説いているではないか」(笑) 【B】が、仰る通り、命令形なので、 尚更そんなふうに受け取られても仕方無いのかもしれません。 (【A】と【B】の関係) 【B】は、【A】の一例なのか、あるいは、【A】は【B】の一例なのか。 そんなふうに考えてみますと、 やはり【B】が「それら」と言っているので、「まとめ」の内容でしょうし、 文の前後関係からしても、【B】のほうが結論でしょうか。 ですが、私としては、ゴータマが言わんとされたところは、「わかる」つもりです。 あまりにも無制約?なので、やはり「信教の自由(の限界)」という視点から (「無制約?」が、実際の行動に出てしまった(笑)場合の、 行為に対する、社会からの制約として) タガを嵌めてやらないと危ない、とも考えています。 (ああ、だから、その点について、どうしても事後的な対応になってしまう、 そういう問題も、あるわけですね。) >「何もしなくても 生まれつきの自然本性において 《アートマン ないし 自性清浄心》がやどると言えば 済むことです。」 宗教を比較してみよう、というのは、とても興味深いと思いますけれど、 「コレの、ここは、もっと違うふうであるべきだ」と言ってしまったら、 ちょっと行き過ぎのような気もします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   >「何もしなくても 生まれつきの自然本性において 《アートマン ないし 自性清浄心》がやどると言えば 済むことです。」  宗教を比較してみよう、というのは、とても興味深いと思いますけれど、  「コレの、ここは、もっと違うふうであるべきだ」と言ってしまったら、  ちょっと行き過ぎのような気もします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ぎゃくに ゴータマ氏は《アン-アートマン(無我・非我)》というふうに アートマンをアンインストールしたわけですから それだけではダメだと言った手前 わたしは《言いなさすぎ》をおそれて これこれこう言えば済むではないかと言い及んだのです。  《言い過ぎ》となろうと 《言わなさすぎ》という批判に対してあらかじめこたえておいたのです。ただ それだけです。  あとは 理解してもらったと思います。  ★ 「「私は説かない」と言ったのに、説いているではないか」(笑)  ☆ 尋ねられらから説いたと言っても それは オシエになるのですから 《オシエによって清くなるとは言わない》というのは おかしい。  尋ねられても オシエになるようなことは言わなければよい。いえ むしろ言わないでおくのでなければ 自己矛盾に落ち入ります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ですが、私としては、ゴータマが言わんとされたところは、「わかる」つもりです。  あまりにも無制約?なので、やはり「信教の自由(の限界)」という視点から  (「無制約?」が、実際の行動に出てしまった(笑)場合の、  行為に対する、社会からの制約として)  タガを嵌めてやらないと危ない、とも考えています。  (ああ、だから、その点について、どうしても事後的な対応になってしまう、  そういう問題も、あるわけですね。)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《オシエを伝える》こと――あるいは いわゆる宣教〔することまで〕――これは 表現の自由としてみとめられており 信教の自由を侵すものではないですよ。  そして  ★ 事後的な対応になってしまう、そういう問題  ☆ にとどまるとは思えません。辻褄を合わせることすら出来ない失言です。  とにもかくにも《この上なき智慧のさとりを得た》と世界に宣言してしまったのですから それとの兼ね合いですでにアウトです。《その上の知恵》があったぢゃないかと 最初の項目においてわたしが述べています。(というより ゴータマの知恵が くだらんものが多いということですが)。

bragelonne
質問者

補足

 おぎないます。  わたしも まだまだイカレポンチの跡が残っていたみたいで 次のように批判すべきだと気づきました。  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみておくべきでした。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  ☆ もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  ☆ 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

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  • kurinal
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回答No.13

bragelonne様、こんばんは。 >「それでも 最後に 《迷いの生存を願ってはならぬ》というひと言を発したことによって やはりコダワリを持っていることが バレてしまっています。」 何にしても「願ってはならぬ」というのが、ゴータマの「オシエ」じゃないでしょうか。 「願うから、苦しい」 しかし、後世が、別にそれにコダワルことも無いはずです。 「こんなに苦しいのは、何故か、、、「願う」からだ!」と、判りながら、 あえて、そうしても別に、誰がどう、ということもないでしょう。 >「《女》のたとえを最後までつらぬいている。そうして ここでも《触れたくないのだ》という発言としては やはりコダワリを隠さないゴータマの姿が露見しています。触れたくないと言うことによって 触れないでいなさいというオシエにつながる。つまり オシエによって清くなると 先ほどとは矛盾したことを語ってしまった。・・・  つまり 《なまなましさ》を表現において追求したことによって コダワリが露見した。  そうではなく じっさいの《女》のことを言っているのではないか。と考えられますが。・・・」 はい。「捨て去って、捨て去れば、ラクになる」というゴータマのオシエ(というか、発見?)、 それを「ゴータマのコダワリである」というなら、まあ、そうなのかもしれません。 「(迷いの)生存」=「糞尿(なまなましさ)に満ちている」 ま、ゴータマは男だったから、「女」にたとえたのかも。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりません。ほとんど議論にならないことをおっしゃっています。  もとに戻って 次のふたつの命題 A と B とは 互いに矛盾しています。  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり 今回は 【B】の部分を広げました。  この【B】の内容は けっきょく《教義・学問・戒律・道徳》につながります。ほとんど道徳でありオシエです。  しかも  ▼ 【A】 『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。  ☆ と言っているのです。この【A】に従えば 【B】は 言う必要のないことであり むしろ言ってはおかしい。つまり 矛盾したことを言ったことになります。  前回は 【B】《それらを捨て去って》の《それら》を 【A】の全体として捉えて論じました。すなわち《オシエをいだく場合と いだかない場合とのいづれをも捨て去って》と読んだわけです。だから 《迷いの生存を願ってはならぬ》という禁止命令の部分だけを 問題としました。  けれども この《それら》とは 《教義・学問・戒律・道徳》のことであるようです。つまり 不利にならないように解釈してやったのですが どうも無理があったようです。  ですからその場合には 明らかに矛盾したことを ゴータマは言っていましょう。話になりません。  何もしなくても 生まれつきの自然本性において 《アートマン ないし 自性清浄心》がやどると言えば 済むことです。ゴータマは このアートマンを否定しました。その理論づけが 成っていなかったということです。(無神論という信仰につながる理論づけは できるのにです)。  《この上なき智慧のさとりを得た》割りには 阿呆です。  この阿呆に永らくつきあって来たわれわれは かなりのイカレポンチです。

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  • kurinal
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回答No.12

B様、こんばんは。 さっそく、小生の調べたところによると、誤解があるようです。 (曰く) 「何かによって清らかになることが出来る」とは説かない。 また、「何かによらないでも清らかになることが出来るのだ」とも説かない。 ・・・それらを捨て去って、こその平安である。 「マーガンディヤ」というのは、バラモンの一人であって、 彼が質問したのは、「女」に例えられる三つの欲望について、であった。 (「娘である美女を嫁がせようとした」ではなく、) 「糞尿に満ちた」という表現は、 その、捨て去ることの出来ない生々しさについての修飾でしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  「何かによって清らかになることが出来る」とは説かない。  また、「何かによらないでも清らかになることが出来るのだ」とも説かない。  ・・・それらを捨て去って、こその平安である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは この質問にかかわらない。つまり これとしてある。と言っておいてよいのではないでしょうか。  ただ こだわりをしないようにと・つまりは ものごとは 気の持ちようであると言っているだけであるようだと捉えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  「マーガンディヤ」というのは、バラモンの一人であって、  彼が質問したのは、「女」に例えられる三つの欲望について、であった。  (「娘である美女を嫁がせようとした」ではなく、)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。そういう解釈がありましたか。わたしは 見落としたことになります。  ただし 伝承については それとしてある。と言えると思います。つまり ゴータマに娘を嫁がせようとしたという話のことです。これは インドの英語による紹介記事がいくつかありました。  ★ 彼が質問したのは、「女」に例えられる三つの欲望について、であった。  ☆ となると 先ほどのくだりについて きちんと見てみなければなりません。  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、    「マーガンディヤよ。    『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。    『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。     それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり わたしの批判は 次の発言によって起きる矛盾に向かいます。  ▼ 迷いの生存を願ってはならぬ。  ☆ これだったら けっきょく《こだわりを持つ》ことになる。のではないか? その意志を起こせと言っている。  もっとも  ▼ それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく  ☆ という方針じたいにも こだわりはあるのですが この場合は 《オシエによる場合とオシエによらない場合との両方を捨て去って》と言っているかぎりで コダワリにはこだわらないと言っているのだと認めておきます。それでも 最後に 《迷いの生存を願ってはならぬ》というひと言を発したことによって やはりコダワリを持っていることが バレてしまっています。  ですからちなみに 親鸞は 《義無きを以って 義とす》というふうな表現に到った。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  「糞尿に満ちた」という表現は、  その、捨て去ることの出来ない生々しさについての修飾でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《三つの欲望》を女にたとえた割りには わざわざそこまで・つまり《糞尿に満ちた身》と言うまでに《生々しさ》を演出しなければならなかったでしょうか。  ★ 捨て去ることの出来ない生々しさ  ☆ を表現したとするなら 確かにそこまでの・つまり《身》のことにまで触れてその身についてさらに  ▼ わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。  ☆ と言っている。つまり 《女》のたとえを最後までつらぬいている。そうして ここでも《触れたくないのだ》という発言としては やはりコダワリを隠さないゴータマの姿が露見しています。触れたくないと言うことによって 触れないでいなさいというオシエにつながる。つまり オシエによって清くなると 先ほどとは矛盾したことを語ってしまった。・・・  つまり 《なまなましさ》を表現において追求したことによって コダワリが露見した。  そうではなく じっさいの《女》のことを言っているのではないか。と考えられますが。・・・

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回答No.11

話を変えます。 私は仏という言葉を現代語訳すると人間の意味だと考えていて、そして私は人間を自覚しています。 それでわざとらしくおりゃー仏陀だ。 とも言います。 この自覚した人間性にとって、それが仏陀と呼ばれた過去は、釈迦なる仏陀にとって、人間と見なせない猿のような人がいたのかもしれません。 彼の説によれば六道輪廻をめぐるような人です。 これは落ち着いて考えれば、現代では、宗教が違うから縁談はお断り、というだけでしょう。 ところが無の悟りに論理は、「君達には信仰は無い」という論理ですから、人としての配慮も無くぼろくそにけなした。 かの美女を、言葉で汚すのが慈悲であったかは判りません。 それから釈迦が王族の出であるのは単なる伝説でしょう。 政教分離のできていない過去ですから、釈迦の他者から取って「なんだかわかんないけどとにかくすげー」と言う畏怖と信仰は、それだけで王の権威を損なうもので、だからこそ釈迦自身を王族の出身にする必要があったのでしょう。事実であるかはもはや判りませんが、釈迦王族である必然は社会にのみあって、釈迦には無かった。彼は王と対話することが多かったようだが、それも王が国を治めるために求心力のあった釈迦と取引をしてそう言う文脈を整えたと言うだけでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 政教分離のできていない過去ですから  ☆ これは ただし 聖職者のバラモンと王族のクシャトリヤとの区別は しっかりとしていたとも考えられます。バラモンの優位のもとに推移して来て 当時は クシャトリヤ階級がのし上がって来ていたとも言います。  そのほかに あたらしい修行者ないし出家者が 大きな人気を博していたというのは 《王の権威を損なうもので》あったか? これは よく分かりません。そういう対立のようなものが 緊張感をともなってあったのかも分かりません。――というだけしか言えませんが。  あとは  ★ 私は仏という言葉を現代語訳すると人間の意味だと考えていて、そして私は人間を自覚しています。  ☆ については でしたら 《人間として目覚めた(ブッダ)》と言えば さほどふたつ(つまり ブッダと人間)のあいだについてこだわることもないように思うのですが。・・・

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.10

いやあ、別に論破にはなってないですよ。ただ、ブラジェロンヌさんの固有の見解を述べたに過ぎません。 私も、こういうことがあると、事実を提示したに過ぎないのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。早とちりでしたか。  気をつけないといけませんね。  まづは ご回答をありがとございます。

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  • a_hona
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回答No.9

NO4さんの回答は私のものではないですが、問題A,Bについては答えましょう。 A.マーガンディヤをきつい言葉で一蹴したのはただの本心である。 B,マーガンディヤが憤るのを放置したのも、ただ関心がなかっただけである。 おそらくこういうことだったと思います。 C,更に仏弟子が非業の死を遂げるのも予想できなかった。 というのが本当でしょう。あくまでマーガンディヤの説話を史実とした場合ですが。 遙か二千五百年前のこと、真実はもはや検証しようがないでしょうが。 ただ、私が聞いたところ、仏教の骨子は次のようです。 ・真実にやさしい人は、あなたの身近に必ず現れる。 ・真実のやさしさを知った人は解脱する(覚る)。 今までの、空や、釈尊の人格についての議論が虚しくなるような、そんな骨子のあるのを私は聞いています。 このやさしい人や、やさしさ、というのが専門用語で言えば善知識、仏智、智慧というものとなります。 まぁ、ブラジュロンぬさんがこの手の話にあまり関心を寄せないのを私は知っていますが。。 この骨子を、法華経の正法に当てはめてみると、 諸仏世尊(善知識=真実のやさしさ)は、一大事のあるときに、世に出現して、因縁ある菩薩(真実に覚りを望む人)を教える。 つまり、真実にやさしい人は、一大事に、因縁あるその人の前に現れて、その人に真実のやさしさとは何かを教える。 こんな感じだと思います。 ブラジュロンヌさんが次のような問いを持つかどうかはわかりません。 真実のやさしさとはなにか? しかしこれこそが、求道者の求めるところのものと言われるのです。 無論、ソースは私ではありません。別にあります。ですので説得力の小さいのは否めないでしょう。 それに、私自身、立派な修行者とは言えないようですから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ A.マーガンディヤをきつい言葉で一蹴したのはただの本心である。  ☆ つまり  ☆☆  《出家僧と女とのマジワリを断つ》という戒律を示そうとして こんな(=《糞尿に満ちた身の女》というような)バカな内容をもって おことわりの言葉とした。という意味でしょうか? 古代インドでは ありえたのでしょうか? とお応えするしかないようです。  ☆ というわけではなく そうではなく 《ただの本心》を述べたに過ぎない。ということですね。  ▼ (スッタニパータ 835) ~~~~~~~~~   「われは(昔さとりを開こうとした時に)、   愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、   かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。      糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。   わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という《本心》なのですね。  たとえばつまり 《欲望は起こるけれど じゅうぶんに無理なく おのれの心と意志に従わせている》というのではなく 《欲望さえも起こらなかった》というのが 本心であり事実だということでしょうか?  マーガンディヤーは のちに国王が所望するだけはある絶世の美女だったと言います。それは 関係ないということなのですね。  直前の回答で ふられおんさんは ブディズム擁護の側は 自然の反応がとぼしいと言っています。けれども 《悪女》だと見破ったからには 自然の反応は起こらず むしろ《欲望が起きなかった》ことが自然である。という見方ですね?  ひとつ疑問があります。  ▼ かれら(かのじょら)と婬欲の交わりをしたいという欲望  ☆ ここで 性行為を《淫欲》としか見ていないこと これが おかしい。議論を端折りますが 情欲のない生殖を打ち出したのは アウグスティヌスです。そのくらいのことは あのくたらさんみゃくなんたらかんたらのさとりを得たのなら 出してもいいものを。出し惜しみしたのですかね。  ★ B,マーガンディヤが憤るのを放置したのも、ただ関心がなかっただけである。  ☆ マーガンディヤーが恨みを持つにまかせた。ということですね。    ただ これをみとめるとすると 《転法輪》として すべての人にさとりを得るようにするという志は どうなっているのか? というウタガイが生じます。おまえ けっきょくペテン師なんだろというウタガイです。  のちの伝説によると その恨みによって 仏弟子が何人も焼き殺しに遭っている。そんなことにも《ただ関心がなかっただけである》なのですね?    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  おそらくこういうことだったと思います。  C,更に仏弟子が非業の死を遂げるのも予想できなかった。  というのが本当でしょう。あくまでマーガンディヤの説話を史実とした場合ですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ふつうは そうですよ。百人のうち九十九人は そうですよ。でも あのくたらさんみゃくさんぼだいとか言うさとりを得たと宣言した人の場合は それでよろしいのでしょうか?  このサーマーワティ―らの遭った焼き殺し事件の前にも すでに 弟子たちに対して 暴力行為が仕掛けられていたはずです。つまり 焼き殺し事件については 前もってじゅうぶん注意する時間ときっかけがありました。つまり ふつうのわれわれでも このように恨みによる復讐劇がつづいているのなら 警戒しますよ。  殺されてから サーマーワティ―は 永遠に生きているなどと言われても そのたましいは浮かばれないのとちがいますか? こういう自然の反応は いけないことなのですか ブディズムでは?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、私が聞いたところ、仏教の骨子は次のようです。  ・真実にやさしい人は、あなたの身近に必ず現れる。  ・真実のやさしさを知った人は解脱する(覚る)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 思いやりのあるひとは 身近にいると言ってよいと思いますよ。それは 日本人でなくても 世界中の人びとの本心には それがあるでしょう。何でそのことが ブディズムの専売特許になるのでしょう? おかしい。  だから 《解脱する(覚る)》とは どういうことなのか その中身を人びとに分かるように説明すべきです。理解できないとしても それを明らかにしておけば やがて人びとにも分かるときがくるでしょう。二千数百年前にそれをやっておくべきでした。  ★ 今までの、空や、釈尊の人格についての議論が虚しくなるような、そんな骨子のあるのを私は聞いています。  ☆ これは ゴータマを批判するわたしの議論がむなしくなるのですか? それとも わたしの批判が妥当であって ゴータマの理論がマチガイであり その説法はむなしいと分かるということですか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  この骨子を、法華経の正法に当てはめてみると、  諸仏世尊(善知識=真実のやさしさ)は、一大事のあるときに、世に出現して、因縁ある菩薩(真実に覚りを望む人)を教える。  つまり、真実にやさしい人は、一大事に、因縁あるその人の前に現れて、その人に真実のやさしさとは何かを教える。  こんな感じだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《地涌の菩薩》が現われるというのでしょ? それは 創価学会関係ですね。むろん それに限られないのですが。  それよりも その人がさとりを得るなら それに越したことはないのではありませんか?  それに  ★ 真実のやさしさ  ☆ とは何か? と哲学はただちに 容赦なく ツッコミを入れるのをつねとしています。  それに そうならば・つまり因縁のある人が現われるということならば それよりも 神の遍在を言えば済むことではありませんか? ブッダターのやどりを言えば 済むことではありませんか? このときにこそ《犀の角のごとく ひとりあゆむ》のではありませんか? さとりは そのひと固有の時間においてあたえられるものです。他人が介入することなどは ないでしょう。つねに他人の存在は きっかけとなるという問題にとどまるでしょう。  ごめんね。ことごとく論破してしまって。  次の箇所をすでに先取りしてしまいました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  ブラジュロンヌさんが次のような問いを持つかどうかはわかりません。   真実のやさしさとはなにか?  しかしこれこそが、求道者の求めるところのものと言われるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おそらく さとり――《わたしがわたしである》こと――の成就については ひとを突き放すことでしょう。これが 真実のやさしさでしょう。すでにその人にやどるブッダターに信頼(アマエ)を寄せていますから。つまり 神の――霊の――遍在です。  これが 人間の――移ろいゆかざるを得ない存在にとっての――この上なき論理(非論理)です。  * 《固有時》という言葉は 吉本隆明のものだとことわっておくべきでしょうか。

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回答No.8

A6の続きです。 ご返事の趣旨にのっとれば、伝承から類推するに釈迦は悪を屈辱したのでしょう。 悪人正機なんて思いもよらなかったでしょう。 信仰の継承よりも、絶対的に釈迦の方が偉いなら、悪人正機は背教で火あぶりの刑です。 そんなだと、そう考える旧人類は滅びるわな。 そして私は生き残る。 仮面ライダーとしてね。 ところが、当の悪魔自身が、自らを辱めた人類の命乞いを、実際は神さまのくせに私に「おねがい」するんですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答のつづきです。  ★ 釈迦は 悪を屈辱した  ☆ 悪なる側に屈辱をあたえた ですか?   悪に片向くくせを持っていたと見たのか その女マーガンディヤーに対して ズケズケとものを言って侮辱した。ということでしょうか。まだ 何もわるいことはしていなかったけれど 先取りして悪呼ばわりしたということでしょうか?  もしそのことを認めたとするならば そのゴータマの行為は けっきょく一生のあいだ マーガンディヤーなる人間の生きることについて お節介にならないかぎりで 面倒をみることを意味します。そうでなければ この上なき智慧のさとりを得たなどと言えたものではありません。  すでに何と言いましたか あのくたらなんたらかんたらのさとりを得たと宣言しているのですよ。おまえら一般の人間には 理解できないさとりだと言っているのですよ。  ★ 悪人正機なんて思いもよらなかったでしょう。  ☆ と言って済ませる問題ではなくなっているのです その段階においてすでに。どう考えても ペテンでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  信仰の継承よりも、絶対的に釈迦の方が偉いなら、悪人正機は背教で火あぶりの刑です。  そんなだと、そう考える旧人類は滅びるわな。  そして私は生き残る。  仮面ライダーとしてね。  ところが、当の悪魔自身が、自らを辱めた人類の命乞いを、実際は神さまのくせに私に「おねがい」するんですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 何のこっちゃいな? 分からんわい。しっかりと説明すべし。おれのあたまが おかしいのかなぁ。

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回答No.7

したたかに酒に酔った哲学タイムなので、久々にあなたが行った他の回答者さんとのバトルも少し見物してみました。 仏教でいう、自然の発露たる人の本性をあなたは十分に体現していて、仏教擁護派は、むしろその自然すなわち人としての自らに盲目です。 仏教を悪の根源に据えると、彼らは仏教を愛さないでしょう。 思うに、あなたは仏教を愛したので無く、日本人を愛したのでしょうが、彼らには仏教の愛を教えないと解決しませんよ。 感情(意思)から理性は発達し、論理は心がけできまります。 論理だけ他者に移植しようとしても魔物を産みます。 心をともさなければだめで、それには愛です。 イエスを通して愛を知らしめる哲学は、不完全でも確立していますが、東洋で哲学に取り組むのなら、釈迦を題材に、愛において説明する必要があると私は考えています。

bragelonne
質問者

お礼

 ええことゆうなぁ。ふられおん氏。  まづは ご回答をありがとうございます。  マーガンディヤなる父とそして母親とともに 目の前にいる女性マーガンディヤーに対して かのじょが何かわるいことでもしたわけでもないのに  ▼ 糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。  ☆ と言うわけないだろーって反応しなきゃウソでしょう。  さもなければ よほど重大な人間関係などの背景や人それぞれの内部事情があって それは われわれ読者には隠されている。ということなはずです。また それがあるかも知れないので こうやって問うています。  事情は何もないとなれば まさしくゴータマくんは あったま おかしいとなります。  このように見ない不自然を感じます。よく言ってくれました。長年のつき合いとは言え 酒のいきおい(?)とは言え。(失礼!)    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教を悪の根源に据えると、彼らは仏教を愛さないでしょう。  思うに、あなたは仏教を愛したので無く、日本人を愛したのでしょうが、彼らには仏教の愛を教えないと解決しませんよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むむ。あなたには仲裁人としての手腕もあったのですか?  まぁ ひとつには 批判の対象は――やーやーやーやーやー風に言えば 殴り込みの対象は―― あくまでガウタマ・シッダールタという野郎の考え方です。成っていない。  ★ 悪の根源  ☆ と言えば それを言ったのは このゴータマ・シッダッタです。生が苦だと言った。苦は 無明≒煩悩≒渇愛として・つまりは 根本的な生存欲=そのような自己形成力として さとりを得るのを妨げる。悪の根源であると言いました。  それでも 自分は・つまり人間のなかで自分だけは この苦の消滅という状態へと解脱したと言い放った。その宣言どおりのことをしてんのかよ? という殴り込みです。  この隣人くんを わがおのれと同じように捉えて思いやる。ゆえに このけんかを すでに何度もおこなって来ましたが まだなお必要であるという世音に観じて おこなっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  感情(意思)から理性は発達し、論理は心がけできまります。  論理だけ他者に移植しようとしても魔物を産みます。  心をともさなければだめで、それには愛です。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは よさそうな助け舟のようですが わたしの考えでは マチガイです。とはっきり申し上げます。(ま いつも そうですが)。  1. 《愛》は やはり日本人には分かりにくい。とっつきづらい。  2. その愛は もし神の愛のことならば 人間が自分の能力や努力によっては ついぞそこに達し得ません。ヒラメキなどとして あたえられるものです。  3. つまりあたたかい心でひとと接することはできますが――その周りやその人の心のありかを照らすことはできますが―― 《ひとの内面における心の燈心をともす》ことは 自分についても・ましてや他人に対しては 無理です。人間にできることではありません。補助線を示したり 振る舞いをつうじて 何かきっかけになることを感じてもらったりです できることは。  4. 補助線は 一般に《論理》ですよ。線形の論理を超えた構造的な論理です。非論理をも――間接的に指し示すようなかたちで――示唆できれば よいでしょう。  5. ★ 論理だけ他者に移植しようとしても魔物を産みます。  ☆ ん? これは 日本人のばあいということですかね?   ううーん。でも 魔物を産んでもよいのではないでしょうか。そのほうが 早いでしょう。しっちゃかめっちゃかな状態になって 何とか自分で解決するようになるでしょう。  ★ イエスを通して愛を知らしめる哲学は、不完全でも確立していますが、東洋で哲学に取り組むのなら、釈迦を題材に、愛において説明する必要があると私は考えています。  ☆ ゴータマを何とか庇って ブラフマニズムの霊我アートマンを否定した無我(アン-アートマン)説をも見直して けっきょくはアートマンにひとしいブッダターを考案した後世のブディストたちの思想には いくらか見るべきものがあるかに思われます。が ゴータマには 何もありません。  せいぜい 身分制に反対しこれの解体にいどもうとしたこと。あるいは 神ないし信仰についてはまるで何も知らなかったけれど 神学的雰囲気は 時空を超えるといった想像などにおいて かもし出していたこと。こういったところから 後世もその跡を継いだものと思われます。一切衆生 悉有仏性にたどりついた。  ゴータマは その思想において 悪魔の使いです。さとりを得たというそのさとりの中身について 永遠に明らかにしなかったその心の高ぶりにおいて そのゴータマ・マジックは いまにも大々的に・恥ぢ知らずにも受け継がれ 人びとをしてイカレポンチの状態にしてしまっています。  ブディズムに対して いみじくもあなたが指摘したように 自然の態度をうしなっています。自然に感じるところを自己表現するという姿勢が ほとんど見られなくなっています。まるで自分の急所をつかれたかのように まづ初めに出て来る反応は ゴータマ批判のわたしに対する憎悪と蔑みです。刷り込まれているようなのです。  ★ 愛  ☆ などというモノは ありません。ただただ事実を一つひとつ丹念に問い求め これを伝えるだけです。そのコトが 愛です。なぜなら 関係性に生きているからです。経験的な愛は この関係性において・そのマジワリにおいて けっきょくヱクトルとなって現われますが それは 好悪の感情もしくは理性による打算が入りますから このヱクトルは プラスとマイナスの方向性を持ちます。つまり 好悪・愛情と憎悪・思いやりと蔑みなどとなって現われます。  憎悪も蔑みも 経験行為としての愛ですよ。関係性に立つからです。  ですから このようなゴータマ批判を読んでほんとうは内心に反発をおぼえている人がたくさんいるはずです。しかも だまっている。行動を起こさない。この無関心 この空っぽの心が 愛の反対物です。愛に欠ける心です。   ★ 釈迦を題材に、愛において説明  ☆ しているぢゃないですか。

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回答No.6

単なる読書感想文だがね。 私は悪女でも愛らしいと感じるよ。 世間がその女を悪女と言うのも、野次馬連中はあてにならないしそんなもんだろうと考えるが、それでも、悪女が、世間の冷たい風をものともせず、自ら愛を実現しようとするけなげな姿に、グッとくるよ。 悪魔慣れしてんだ、当然だろう。 悪魔は神の仮の姿だ。 人間が恐怖におびえそのように辱めた。 しかし悪魔の本性は、それでも人を愛する神の力強さにある。 自らが聖霊を名乗り、神と心交わる私には悪は怖くねえチン。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  問いは ゴータマの態度について どう思いますか? です。  この求婚をことわる言葉をめぐって いろいろあれやこれやと見解を述べ合うことを ねらいとしています。    ★ 悪女が、世間の冷たい風をものともせず、自ら愛を実現しようとするけなげな姿  ★ 悪魔は神の仮の姿だ  ★ しかし悪魔の本性は、それでも人を愛する神の力強さにある。  ☆ ひとつの見方になるかと思います。  問題は 哲学としては それだけでは終わらない。つまり いまひとつその基本的なつとめとして ものごとの妥当性について判定するという役目があります。  《悪女》の思想ないし行動について これこれがマチガイであり あれそれが妥当性に欠くといったことを指摘しなければならない。これを怠ることは出来ない。と考えます。  いま上に引いた三つの姿は こんどは 特定の人について問題とし しかもその人がマジワリを持つ具体的な人びとをも問題として けっきょくそれらの人びとの関係情況を特定して 論じるものだと思います。《神》のところを このように《関係性》の問題として捉え 議論に付すのがよいと考える。こういう意味です。

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     これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?  ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~  「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.))   http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html  13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?  ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~  △  12章 45節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。  △ 5章 19節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  そこで、イエスは彼らに言われた。   「はっきり言っておく。   子は、父のなさることを見なければ、   自分からは何事もできない。   父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。  △ 10章 30節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたしと父とは一つである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。    ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ    聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト             ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス  すなわち  △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。  ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?  その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?  ▼ (スッタニパータ)  ~~~~~~~~~~~   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1074  師《ゴータマ)が答えた、     「ウバシーヴァよ。     たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は     滅びてしまって(火としては)数えられないように、     そのように聖者は名称と身体から解脱して     滅びてしまって、     (生存するものとしては)数えられないのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • スッタニパータのゴータマ批判

     コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • ゴータマ・ブッダは実在しなかった?

    ドイツの考古学者 Alois Anton Führer http://en.wikipedia.org/wiki/Alois_Anton_F%C3%BChrer はどうやら捏造していたようです。 詳しい情報をご存知の方は教えてください。 それから釈迦の骨は日本の日泰寺にもあるようです。 日泰寺 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/thailand/jpth120/knowledge/temple.html 日泰寺ができるまで  1898年、イギリス人のウィリアム・ペッペという人がネパール国境に近いインド北部で人骨の納められた古い壷を発見しました。その壷に刻まれていた古代文字を解読したところその人骨は仏舎利であることが判明し、当時インドを治めていたイギリス政府は仏教国であるタイ王国(当時のシャム)のチュラーロンコーン国王陛下に寄贈しました。そこからビルマ(現ミャンマー)やセイロン(現スリランカ)、日本といった国々に分与されました ~~~~~~~~~~~~~~~~ こんなことを書くのもどうかと思いますが ブッダの骨をDNA鑑定するとかそいうのはやらないのでしょうか? 個人的な感想は、アショーカ王碑文だとかスッタニパータだとかいろいろと調べてきましたが 結局、ゴータマ・ブッダは確実にいたとはいえないと思うようになりました。 ゴータマ・ブッダとはなんだったのでしょうか。

  • ゴータマ・ブッダは どう考えてもペテン師である

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言っているようです。  この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ    ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ    う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐    れおののくであろう》とゴータマが答えたので そのワ    ケ)だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは マボロシを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。