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美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

 コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.5

仏教は、覚った後で全てが明らかになる性質を持っています。つまり覚る前にはわからないのです。ですから、ブラジェロンヌさんが訝しくおもうのも当然でしょう。また、勝敗を超えた境地で議論に赴かない修行僧やブッダを、負かそうと思った時点でお門違いとなってしまいます。私が仏教の肩を持っているのではなく、仏教がそう言っているだけのことを、そう言っていると受け止めているに過ぎません。つまりは客観的に見ているので、ブラジェロンヌさんのように憤ることもないのです。 ブラジェロンヌさんは、ブラジェロンヌさんが仏教について抱く見解に憤っているのであり、仏教の真の姿、つまり覚らなければわからないそれについて、言を呈していることにはならない処が、残念です。そういう論理を仏教が持っていることについて、それをペテンという事は勝手です。 じゃあアホナは仏教の真の姿を知っているのかと言われると、同じく知らないと言わざるを得ないですが、 少なくとも議論によってブッダの教えを叩きのめそうなどとは思わないわけです。 ブラジェロンヌさんの肩も、仏教の肩も持たない見解ですが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 仏教は、覚った後で全てが明らかになる性質を持っています。つまり覚る前にはわからないのです。ですから、ブラジェロンヌさんが訝しくおもうのも当然でしょう。  ☆ ん? ん? ん?   ということは あ_ほなさんは さとりをすでに得ている。ということですか?   でもそれを言葉にして明らかにすることはしない。・・・  ★ また、勝敗を超えた境地で議論に赴かない修行僧やブッダを、負かそうと思った時点でお門違いとなってしまいます。  ☆ 勝ち負けや アホバカといった言葉を 話のあいだに挟む文体をここでは採っています。ですが 問題は 哲学の道理に反するところを指摘して その是非を問うています。  (もっと言えば 勝負は初めについています。わたしがかなわないのは 親鸞です。ほかにいません)。  ★ 私が仏教の肩を持っているのではなく、仏教がそう言っているだけのことを、そう言っていると受け止めているに過ぎません。つまりは客観的に見ているので、ブラジェロンヌさんのように憤ることもないのです。  ☆ 直前のNo.4への返答として スッタニパータから犀の角のくだりを持ち出しました。これについて それでは 《客観的に見る》といったいどういう評価が与えられるのでしょう?    つまり たたき台は 次です。   ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~   ▼ (スッタニパータ・犀の角) 37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。  ☆ 友だちとは 利害関係を超えようとするマジワリであるはずです。それにしても 無縁の人びとのあいだにあってさえも お互いさまということは通じるとも考えられます。   ▼ 心がほだされると、おのが利を失う   ☆ なんてバカなんだろう! とつくづく思います。思いませんか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ブラジェロンヌさんは、ブラジェロンヌさんが仏教について抱く見解に憤っているのであり、仏教の真の姿、つまり覚らなければわからないそれについて、言を呈していることにはならない処が、残念です。そういう論理を仏教が持っていることについて、それをペテンという事は勝手です。  ☆ ということは ひとつにわたしが理解してやり玉に挙げているところは それとして妥当な内容である。ということであり もうひとつに それでは 先ほど触れたとおり あ_ほなさんは すでにさとりを得ている ということなのですね。  つまり  ★ 仏教の真の姿、つまり覚らなければわからないそれ  ☆ は わたしの理解するところとは 別なのだと。  でも そのすでに得ているさとりの中身は 門外不出であるともいうことのようなのですね。理由は分かりませんが 致し方ないのかも知れません。  ★ じゃあアホナは仏教の真の姿を知っているのかと言われると、同じく知らないと言わざるを得ないですが、  ☆ ええっ? ええええっ? ええええええっ?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  少なくとも議論によってブッダの教えを叩きのめそうなどとは思わないわけです。  ブラジェロンヌさんの肩も、仏教の肩も持たない見解ですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 同じく直前のNo.4でのやり取りから ふたつの箇所を引きます。その議論をめぐって どういう見解を持つか。明らかにしてくれませんか?  ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  【問題 A 】  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原始仏教では出家と女との交わりを断つという戒律が、  その当時のバラモンたちに比べて  かなり厳しいものであったことを覗える一句であるということでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ えっ? ほんとうにそのようにお考えなのですか?  《出家僧と女とのマジワリを断つ》という戒律を示そうとして こんなバカな内容をもって おことわりの言葉とした。という意味でしょうか? 古代インドでは ありえたのでしょうか? とお応えするしかないようです。 【問題 B 】  ★ ただ、この経典は確かにきつい言葉で唐突に始まっている。 / それゆえに、マーガンディア伝説が生まれたのでしょう。  ☆ えっ? どういうことでしょう? 《きつい言葉で唐突に始めている》のは ゴータマであるか もしくはこの編集者ですよ。なのに どうして 《それゆえに・・・》という推理になるのでしょう?  確かにマーガンディヤーが 恨みを持ったことは かのじょ自身の問題であり落ち度です。  恨みを持ったままにして放っておかないほうがよい。・・・といった思いは ゴータマにはいささかも起こらなかったのでしょうか? それにしても 阿呆ではないでしょうか? なぜって 《この上なき智慧のさとりを得た》とみづから宣言している男なのですよ。どこが 天上天下唯我独尊なのですか。あったま おかしい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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  • itshowsun
  • ベストアンサー率41% (15/36)
回答No.4

伝説と経典は区別するべきと思います。 経典はバラモン・マーガンディヤと釈尊との対話であり、 その対話の内容を論ずるべきと思います。 伝説をもって来て、釈尊うんぬんを議論しても意味がないような気がします。 原始仏教では出家と女との交わりを断つという戒律が、 その当時のバラモンたちに比べて かなり厳しいものであったことを覗える一句であるということでしょう。 ただ、この経典は確かにきつい言葉で唐突に始まっている。 それゆえに、マーガンディア伝説が生まれたのでしょう。 法という観点からは、この「マーガンディア」という経典は、 スッタニパータのなかで最も重要なものの一つであることは間違いない。 しかし、伝説を信じれば、 あなたの言うようにこの経典の意味は半減してしまう。 この経典を中心に読めば、 宗教仏教において論じられることがほとんどない 原始仏教の核心部分に迫ることができる。 仏教者としてどちらをとるかは明らかと 私には思えるのだが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 伝説と経典は区別するべきと思います。  ☆ この問題は かなり探究しました。結論には到っていません。つまり 早く言えば マーガンディヤーとゴータマとのかなり長く切り結びした交通関係が どこまで史実であるかです。  その意味では 《経典》も 必ずしも史実ではないということでは それほど 経典を優位に置く理由もないのかも知れません。  いづれにしましても もし《伝説と経典とを区別するべき》だとすれば それゆえにも 《コーヒーブレイク》として みなさんの考えをうかがっている。と受け取ってくださいませ。  ただし ここに掲げた求婚を拒絶するゴータマの言葉は スッタニパータという経典の問題ではあります。  答えにはならないかも知れませんが このような姿勢で この問いでは臨んでいます。  ★ 経典はバラモン・マーガンディヤと釈尊との対話であり、 / その対話の内容を論ずるべきと思います。  ☆ ですから そういう問いもあり得ますし ここで採っている問いは 言わばエピソードのたぐいを材料として あれこれゴータマ観をやり取りする場としているわけです。  ★ 伝説をもって来て、釈尊うんぬんを議論しても意味がないような気がします。  ☆ 求婚をことわる言葉は 《伝説》の域を超えている。ゆえに 雑談にならない範囲で ゆるく見解を述べ合うという趣向です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原始仏教では出家と女との交わりを断つという戒律が、  その当時のバラモンたちに比べて  かなり厳しいものであったことを覗える一句であるということでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ えっ? ほんとうにそのようにお考えなのですか?  《出家僧と女とのマジワリを断つ》という戒律を示そうとして こんなバカな内容をもって おことわりの言葉とした。という意味でしょうか? 古代インドでは ありえたのでしょうか? とお応えするしかないようです。  ★ ただ、この経典は確かにきつい言葉で唐突に始まっている。 / それゆえに、マーガンディア伝説が生まれたのでしょう。  ☆ えっ? どういうことでしょう? 《きつい言葉で唐突に始めている》のは ゴータマであるか もしくはこの編集者ですよ。なのに どうして 《それゆえに・・・》という推理になるのでしょう?  確かにマーガンディヤーが 恨みを持ったことは かのじょ自身の問題であり落ち度です。  恨みを持ったままにして放っておかないほうがよい。・・・といった思いは ゴータマにはいささかも起こらなかったのでしょうか? それにしても 阿呆ではないでしょうか? なぜって 《この上なき智慧のさとりを得た》とみづから宣言している男なのですよ。どこが 天上天下唯我独尊なのですか。あったま おかしい。  ★ 法という観点からは、この「マーガンディア」という経典は、 / スッタニパータのなかで最も重要なものの一つであることは間違いない。  ☆ いえ。わたしは別にそこまでのことは感じません。  ★ しかし、伝説を信じれば、/ あなたの言うようにこの経典の意味は半減してしまう。  ☆ あぁ でも バラモンのマーガンディヤ(つまり父親)とゴータマとの対話について 検討してみなくてはまだ分からないというところでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  この経典を中心に読めば、  宗教仏教において論じられることがほとんどない  原始仏教の核心部分に迫ることができる。  仏教者としてどちらをとるかは明らかと  私には思えるのだが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですかね。  スッタニパータから どう見てもおかしいくだりを さらに示しましょう。  ▼ (スッタニパータ・犀の角) 37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。  ☆ 友だちとは 利害関係を超えようとするマジワリであるはずです。それにしても 無縁の人びとのあいだにあってさえも お互いさまということは通じるとも考えられます。  ▼ 心がほだされると、おのが利を失う  ☆ なんてバカなんだろう! とつくづく思います。思いませんか?

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.3

私は、仏教の一見して世間的に冷たい部分があるのを感じます。大乗が起こるのも無理ないなと思うのです。 仏道は賢者の道であり、愚者が覚ることはないと聞きました。愚者は、自ら徳度して賢者になり、それから道を歩むというのです。 マーガンディヤーはじめとする愚者にはとことん冷たかったのかもしれません。 しかし一方で、六祖慧能はこうも言っています。 何故だか世には知者と愚者があるが、そんな愚者を知者は導くと。 それなら私にも納得が行きます。 ということは、ブッダというのは知者でもなく愚者でもないのかもしれません。 マーガンディヤーの処遇については、私も釈尊の過ちだったのではないかと思います。もっと柔らかに説き伏せておれば、マーガンディヤーも改心していたのかもしれないからです。しかし釈尊はそうはしなかった。そこに生死を超克した常人ならざる考えがあったのかもしれません。良し悪しを別にして。 今本屋にいます。法華経を手に取り、読みやすい経典だなと思います。無類の衆生の徳度するのが描かれており、いかにも大乗らしいです。法華経を書いたのは釈尊ではなく、別の仏だと言われていますが、この経典のように一切衆生の解脱を説いた処に私は平等を感じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 私は、仏教の一見して世間的に冷たい部分があるのを感じます。大乗が起こるのも無理ないなと思うのです。  ☆ 二見しても三見しても 千見しても万見しても そうだと思います。  なぜなら 身分制を敷くブラフマニズムに抵抗し対抗して アートマンを否定したのはいいとして その意味について――ということは 神ないし信仰について――何にも知らなかった。のです ゴータマは。  無我(アン‐アートマン)と説けば けっきょくは 無神論になるということを知らなかった。知っていたとしても説明していない。  ですから のちのちブディストと称する人たちは(つまり マハーヤーナ―の人たちは) この梵我一如を否定した無梵無我一如なる無神論が分かりにくいというので ブッダターを考案し これを アートマンと同じ《非思考の庭〔なるハタラキ〕》に据えた。   仏仏一如  というわけです。無神論は 有神論とまったく同じ信仰であるにもかかわらず そこから繰り出される思想(つまり生活態度)は 心に背を向け モノを何かと重んじるくせが出て来ます。無い神を心にいだいているのですが。つまりは 神は無いと言っていることが そのまま世の中における無慈悲な残酷のありさまにつながってしまうところから来るのでしょう。  ★ 仏道は賢者の道であり、愚者が覚ることはないと聞きました。愚者は、自ら徳度して賢者になり、それから道を歩むというのです。  ☆ それでもいいですよ。  あるいはつまり 《神のおろかさは 人間の賢さよりもかしこい。神のよわさは 人間のつよさよりも強い》といった見方も出来るのですが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  マーガンディヤーはじめとする愚者にはとことん冷たかったのかもしれません。  しかし一方で、六祖慧能はこうも言っています。  何故だか世には知者と愚者があるが、そんな愚者を知者は導くと。  それなら私にも納得が行きます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここは 納得がいきません。たとえ愚者であったとしても その愚行や悪行という《思惟および行動》の問題とそしてそうではなく 存在の問題 これは 別箇にあつかうのが かしこい人ということなはずです。そうではありませんか?  ★ ということは、ブッダというのは知者でもなく愚者でもないのかもしれません。  ☆ ん?  ★ マーガンディヤーの処遇については、私も釈尊の過ちだったのではないかと思います。もっと柔らかに説き伏せておれば、マーガンディヤーも改心していたのかもしれないからです。  ☆ 《改心》っておっしゃいますが まだ何もわるいことはしていませんよ。ただ絶世の美女であったということだけです。  むろん もともと性悪であったかも知れません。けれどもそうだとしても その性癖を ゴータマが引き出した格好になります。  ★ しかし釈尊はそう(柔らかに説き伏せること)はしなかった。そこに生死を超克した常人ならざる考えがあったのかもしれません。良し悪しを別にして。  ☆ 《良し悪しを別にする》ことは出来ません。結果がわるければ 自業自得のわざにかんして悪の側に よけいに片寄らせてしまう。それでもよいと ゴータマは 内心で思っていたということでしょうか?  ★ 今本屋にいます。法華経を手に取り、読みやすい経典だなと思います。  ☆ 漢文ではなく 日本語の訳が出ていますから。  ★ 無類の衆生の徳度するのが描かれており、いかにも大乗らしいです。法華経を書いたのは釈尊ではなく、別の仏だと言われていますが、この経典のように一切衆生の解脱を説いた処に私は平等を感じます。  ☆ ですから そこまで大きな乗り物(マハーヤーナ―)であるにもかかわらず 《一大事因縁》ではゴータマは シャーリプトラの願いを聞き入れずこれを無視して さとりの境地を説明しなかった。なぜか? こちらのほうが 問題です。  つまり この説明がないとすれば そこに描かれた《無類の衆生の得度》にしても 眉唾物であると見ざるを得なくなります。そういう問題です。そうではないですか?    知らなかった・つまりペテンだったのでなければ つまり さとりについて確かにほんとうに知っている(つまり その境地にあった)けれども なぜか語らなかった。とすれば どういう理由が 考えられるか?  もし語っても人びとは理解できないと考えたとすれば それは 自分の説明能力の無さを語っています。自分の力不足であるに過ぎません。四十年もつづけて来て それでも説明の仕方を考え及ばなかったとすれば それは さとりの度合いが 低いということでしょう。それ以外に考えられません。  これが わづかにペテン師でない場合の解釈です。つまり 《この上なき智慧のさとりを得た》というのは 大法螺であったことになります。  どこから見ても ゴータマに勝ち目はありません。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.2

今、たまたまスタバにいます。はからずも本当のコーヒーブレイクとなりました。 マーガンディヤはじめ世間の人々の肩も、釈尊はじめ出家者の方々の肩も持ちませんが、想像を逞しくするなら、マーガンディヤは美貌を鼻にかけた嫌な奴だったかもわかりません。その世間の人々の心理を見て、常識に縛られず言いたいことをそのまま言ったのが釈尊だったかもわかりません。それが不自然なまでに威圧的であったとしても、そういう極端な遠慮のなさが彼にはあったのでしょう。良い悪いは考慮しない、物怖じしない、そんな感じではないでしょうか。俗世間の事を意に介さないといってもよいかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《スタバ・・・》。――それはそれは 偶然の一致とは言え。・・・  これからのことを考えて 用語を精確にしておきます。  ・マーガンディヤ:バラモンのひと。次の女の父。  ・マーガンディヤー:娘。  ★ 想像を逞しくするなら、マーガンディヤは美貌を鼻にかけた嫌な奴だったかもわかりません。  ☆ のちに コーサンビーの王の第三夫人になります。そのとき ふたたび・みたび ゴータマ・ブッダの弟子となっていた第二夫人のサーマーワティ―を ゴータマを恨む気持ちから その復讐として焼き殺しにします。  《嫌な奴》だったのでしょう。  けれども 問題は それをどうあつかうかです。マーガンディヤーなる女性が どのように成仏するかについて考え回らすのが ブッダなる人間の役目ではないか? にあります。  ★ その世間の人々の心理を見て、常識に縛られず言いたいことをそのまま言ったのが釈尊だったかもわかりません。  ☆ それならそれで かまいません。世間の秩序がそれによって保たれるのなら ひとつの手です。  ★ それが不自然なまでに威圧的であったとしても、そういう極端な遠慮のなさが彼にはあったのでしょう。  ☆ いえ。ですから その《放言ないし暴言》にしても 世の中の秩序のためといった一つの目的があるのならば 理解はできます。つまり 問題は それとともに マーガンディヤーの人間性をどのようなかたちで受け留め 互いにこれをどのように磨いて行けばよいか? こういう問題に問題は移ります。  ★ 良い悪いは考慮しない、物怖じしない、そんな感じではないでしょうか。俗世間の事を意に介さないといってもよいかもしれません。  ☆ 俗世間のことは意に介さないのなら それでもよいでしょう。問題は ひとりの人間ということです。いかに悪人だと言っても まだその悪行は この求婚とそのことわりの段階では なされてはいません。  そもそも ゴータマの暴言によってゴータマに恨みを持ったところから マーガンディヤーの悪人ぶりは 現われて来ます。いったい全体 このことを ゴータマくんは どう考えているのか? 恨みを買われるのは相手の勝手であり その恨みによって 仏弟子が犠牲になっても それは おれの知ったこっちゃねえと言うのか? どうなのか?   すでに別の質問でのやり取りの中で この仏弟子サーマーワティ―の焼き殺しを承けてのゴータマの言葉は 引用したことがありますので ここでも 掲げておきます。  △ (仏弟子の死を悼むゴータマ) ~~~~~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html(その趣旨説明欄)   僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。   この世でたとえいくら生きても 放逸でわがまま勝手で    道を需(もと)めない人間は すでに死んでいるのと同じで   生きていても価値がない。   それにくらべ いつでも熱心に道を需め 正しいことをし   ようと願い 慈悲の心の燃えている者には 永遠の命がさづ   けられている。   現実に肉体の死はあっても 魂の死はない。   マーガンディヤー(=ねたみを持った 犯人)たちは 生  きながら死んだも同然で 何の生命もなかった。   サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても 永遠に生  きつづける。   彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから すでに  聖者の位を得て死を迎えている。    (寂聴:『釈迦と女とこの世の苦』《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 p.158)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これに対しては どこまでも高ぶった心の恥ぢ知らずの高慢ちきのコンコンチキだとわたしは評してはばかりません。  このゴータマの肩を持つ場合には よほどの説明が必要でしょう。それもなければ その人は 正真正銘のイカレポンチでしょう。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.1

普通だったら、私は出家の身ですので、、、という断り方でしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  成仏得道について たとえば次のように説明されます。  ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 《難行苦行を捨てた》のち) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。  壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け悟りを開く。  これを「降魔成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その中身が何であるかはともかく ゴータマは 《さとりを得たし 解脱を得たし その内容としての法を説けるほどには 知っている》ということが あったと捉えられます。  そしてそのあとです。いろんな説法もおこなわれましたし この質問では バラモンとのやり取りをもしている。ということです。バラモンのマーガンディヤの問いかけとそれに対する答えも然ることながら ここでは 求婚をことわるゴータマのせりふを問題にしています。  つまりは 《さとりを得た》と言っているそのあと ここで取り上げたような求婚に対する断わり方をしている。これをめぐる受け留め方が 論点です。  ★ 普通だったら、私は出家の身ですので、、、という断り方でしょうね。  ☆ つまり 何故ゴータマは 《ふつう》ではないのでしょう? という問いです。さとりを得たと言っているその発言をめぐって考えるに この男は ペテン師だからではありませんか?    まぁ コーヒーでも飲みながらなのですが。

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     スッタニパータの一節から 次のゴータマ氏の受け答えではまづい。と異議をとなえます。  ▲ (スッタニパータ:<7、学生ウバシーヴァの質問>) ~~~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1069  ウバシーヴァさんがたずねた、   「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」  1070  師(ブッダ)は言われた、   「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」  1071  ウバシーヴァさんがいった、   「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」  1072  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」  1073   「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」  1074  師が答えた、   「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」  1075   「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」  1076  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1)  《論議》は――哲学としてならば――続きます。一般にボディサトワなる者は つねに衆生に説明を成す義務があります。(説教というよりはです)。  (2) 問題は 《ニルワーナ(火が滅びてしまっている状態)――法身? 報身?――》と応身(生身のからだ)とが 人間存在として両立・共存することにあるはずです。人はみなブッダであるなら。この上なくとうとい知恵のさとりを得たというのなら。  (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。  (4) じじつゴータマは その生身のからだで いまこのことを語っているではないか? それを説明しないのは ペテンである。すでに成道を終えたと言ったあとに このザマでは インチキである。  これを問います。

  • ブッダの美女マーガンディヤー事件

     いま得られている資料をかかげます。ご見解をおしえてください。  ▲ 【資料1:求愛をことわる】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・マーガンディヤーの父親が、たまたま釈迦に会い、その説法を聴聞すると父親は釈迦にほれ込んで、この男になら娘を嫁にやってもよいと思う。父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。  ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をするのである。内容は次のようであった。    「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人   の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。   大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは   この女の足にさえ触れようとは思わぬ」      (『スッタニパータ835』)  「大小便の詰め込まれた女」とは、ほかならぬマーガンディヤーのことである。  釈迦の真意は、娘を溺愛し、盲愛し、執着しすぎている両親をその苦から救うことにあった。いずれ死別はくる。両親が先か、万が一娘が先か、それはわからぬが。であるならば、娘に執着せずに手離しなさいとうのが釈迦の深い諭しである。この説法で両親は真意を悟り、出家を決意する。  しかし、救われないのは娘のマーガンディヤーである。目の前で「大小便の詰め込まれた女」と言われれば、傷つき「許せない」と思ったであろうことは容易に想像がつく。そして彼女は当然、釈迦を憎んだ。  その後、マーガンディヤーはコーサンビー国(* コーサンビーはヴァンサ国の都)の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たとき、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。そこで、釈迦に復讐するために、人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗を浴びせたのである。  このように誤解ゆえの迫害は、釈迦にもあったのである。  (『徒然草2001 法則編』     http://www.melma.com/backnumber_31267_1625651/ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆【資料2:その後の悲劇】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』によると。マーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーワ゛ティーに敵愾心を燃やす。しかも その遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかった。とうとう サーマーワ゛ティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中の侍女たちもろともを焼き殺したと言う。  《このサーマーワ゛ティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記すところ。  僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴が伝える。    僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら   生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで   に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い   つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて   いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても   魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で   何の生命もなかった。サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても   永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから   すでに聖者の位を得て死を迎えている。    (寂聴:前掲書《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 p.158)  さらに結語として。    人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は   考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で    はかってはならないのだろう。     (同上 p.159)  わたし(=質問者)の考えですが ブッダあやまてり ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ 【資料3:ブッダに好意的な議論】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【とびらの言葉】その第3回です。  http://www5a.biglobe.ne.jp/~houon/tobira-bk01.htm  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章

     ▼ (スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章) ~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  <6、学生ドータカの質問>   ---------------------------------------------------  1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」  1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」  1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」  1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」  1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」  1066 師は言われた、  「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」  1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」  1068 師は答えた、  「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  問い:このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか?  という質問です。質問者の感想は めちゃくちゃでござります です。問題外の論外の外でしょう。  どうかご教授ください。

  • 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》

     これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?  ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~  「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.))   http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html  13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?  ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~  △  12章 45節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。  △ 5章 19節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  そこで、イエスは彼らに言われた。   「はっきり言っておく。   子は、父のなさることを見なければ、   自分からは何事もできない。   父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。  △ 10章 30節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたしと父とは一つである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。    ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ    聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト             ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス  すなわち  △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。  ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?  その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?  ▼ (スッタニパータ)  ~~~~~~~~~~~   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1074  師《ゴータマ)が答えた、     「ウバシーヴァよ。     たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は     滅びてしまって(火としては)数えられないように、     そのように聖者は名称と身体から解脱して     滅びてしまって、     (生存するものとしては)数えられないのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • スッタニパータのゴータマ批判

     コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • ゴータマ・ブッダは実在しなかった?

    ドイツの考古学者 Alois Anton Führer http://en.wikipedia.org/wiki/Alois_Anton_F%C3%BChrer はどうやら捏造していたようです。 詳しい情報をご存知の方は教えてください。 それから釈迦の骨は日本の日泰寺にもあるようです。 日泰寺 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/thailand/jpth120/knowledge/temple.html 日泰寺ができるまで  1898年、イギリス人のウィリアム・ペッペという人がネパール国境に近いインド北部で人骨の納められた古い壷を発見しました。その壷に刻まれていた古代文字を解読したところその人骨は仏舎利であることが判明し、当時インドを治めていたイギリス政府は仏教国であるタイ王国(当時のシャム)のチュラーロンコーン国王陛下に寄贈しました。そこからビルマ(現ミャンマー)やセイロン(現スリランカ)、日本といった国々に分与されました ~~~~~~~~~~~~~~~~ こんなことを書くのもどうかと思いますが ブッダの骨をDNA鑑定するとかそいうのはやらないのでしょうか? 個人的な感想は、アショーカ王碑文だとかスッタニパータだとかいろいろと調べてきましたが 結局、ゴータマ・ブッダは確実にいたとはいえないと思うようになりました。 ゴータマ・ブッダとはなんだったのでしょうか。

  • ゴータマ・ブッダは どう考えてもペテン師である

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言っているようです。  この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ    ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ    う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐    れおののくであろう》とゴータマが答えたので そのワ    ケ)だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは マボロシを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • ゴータマ・《ブッダ》は なぜペテン師か

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答では おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《教え    が説かれても理解せず それを捨てよう》とゴータマが    答えたので その《理解せず 捨てる》ことのそのワケ)    だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは シンキロウを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

このQ&Aのポイント
  • DVDレコーダーにビデオカメラで撮影した動画を取り込もうとしているが上手くいかない。
  • ビデオカメラとレコーダーを接続し、指定の手順で取り込みを試みたが、動画が表示されず進行できない。
  • 間違った接続や手順が原因で動画の取り込みができない状況に困っている。掲示板で助言を求めている。
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