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ブッダの美女マーガンディヤー事件

 いま得られている資料をかかげます。ご見解をおしえてください。  ▲ 【資料1:求愛をことわる】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・マーガンディヤーの父親が、たまたま釈迦に会い、その説法を聴聞すると父親は釈迦にほれ込んで、この男になら娘を嫁にやってもよいと思う。父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。  ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をするのである。内容は次のようであった。    「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人   の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。   大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは   この女の足にさえ触れようとは思わぬ」      (『スッタニパータ835』)  「大小便の詰め込まれた女」とは、ほかならぬマーガンディヤーのことである。  釈迦の真意は、娘を溺愛し、盲愛し、執着しすぎている両親をその苦から救うことにあった。いずれ死別はくる。両親が先か、万が一娘が先か、それはわからぬが。であるならば、娘に執着せずに手離しなさいとうのが釈迦の深い諭しである。この説法で両親は真意を悟り、出家を決意する。  しかし、救われないのは娘のマーガンディヤーである。目の前で「大小便の詰め込まれた女」と言われれば、傷つき「許せない」と思ったであろうことは容易に想像がつく。そして彼女は当然、釈迦を憎んだ。  その後、マーガンディヤーはコーサンビー国(* コーサンビーはヴァンサ国の都)の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たとき、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。そこで、釈迦に復讐するために、人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗を浴びせたのである。  このように誤解ゆえの迫害は、釈迦にもあったのである。  (『徒然草2001 法則編』     http://www.melma.com/backnumber_31267_1625651/ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆【資料2:その後の悲劇】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』によると。マーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーワ゛ティーに敵愾心を燃やす。しかも その遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかった。とうとう サーマーワ゛ティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中の侍女たちもろともを焼き殺したと言う。  《このサーマーワ゛ティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記すところ。  僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴が伝える。    僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら   生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで   に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い   つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて   いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても   魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で   何の生命もなかった。サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても   永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから   すでに聖者の位を得て死を迎えている。    (寂聴:前掲書《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 p.158)  さらに結語として。    人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は   考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で    はかってはならないのだろう。     (同上 p.159)  わたし(=質問者)の考えですが ブッダあやまてり ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ 【資料3:ブッダに好意的な議論】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【とびらの言葉】その第3回です。  http://www5a.biglobe.ne.jp/~houon/tobira-bk01.htm  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.13

「全体的に」という視点に立つのであれば、スッタニパータ(ワイド版岩波文庫、1991年)の中村氏の註内に散見されるように、 1.ゴータマ・ブッダ自身、最初期には宗教へと変遷していくとは思いもよらなかった。(以後、当時のブッダの思索全体を「ブッダ思想」とします) 2.あとから加えられたであろう説話や、ブッダ思想が広まるにつれて(思想に対して)辺境の地に存在した文化や価値観が、ブッダ思想との相互作用で変遷していったことは容易に推察できる。それら変遷についてブッダの制御範囲を超えていたことは、たとえばコーサンビー国での破僧事件が物語っている(今回の問題が該当)。 http://www.sakya-muni.jp/shousai/ronbun19.html ブッダ思想と破僧の思想について、コーサンビー国内では区別することはできなかったであろうし、そうであれば、(外伝的な)マーガンディヤーの説話自体、破僧の思想と当時のコーサンビーの文化とが相互作用して生み出されたのかも知れない。(要検索) 3.ブッダ自身は、「ひとりの人間」として、当時の宗教概念や社会風習から「完全には」離脱できないし、ブッダ思想で扱われている主題・死生観(輪廻観)・神概念の多くは、従来からあったもの。(このことは、スッタニパータの中村氏の註にも明示されている) 4.スッタニパータは、ブッダ思想へと至る過程の経験を踏まえて、「どうすれば、そのような考えに至るのか」と「それは、どのような考え方か」という二つのことを、複数の立場の人に対して説いているものが、寄せ集まっている。それら二つの視点が混在すると言うことは、(当時のインドの風習や風土を顧慮するならば、異文化から見て)既に矛盾を含まざるを得ない状況にあるといえる。(たとえば、中村氏も註にて指摘しているお布施問題など) 5.「ブッダあやまてり」のブッダを、一人の人間であるゴータマ・ブッダ自身に向けるのであれば、彼自身、その後の歴史的変遷やインド以外の諸世界の文化を知り得なかったわけであるから、そういった諸問題(今回の外伝にも相当)については「ブッダを解釈する人あやまてり」にしか、なり得ない。 6.「ブッダあやまてり」のブッダを、スッタニパータ等の最初期レベルから離れて、その後のブッディズム(仏教)全体における「ブッダ」概念へと向けるならば、「ブッダ」概念自身が、解釈する方法・人によって異なることは当然であり、「仏説、○○」と付け加える人々(ブッダ概念を解釈する人々)に責任があることは明白。すなわち「ブッダあやまてり」とはならずに「ブッダを解釈する人あやまてり」になる。 7.もし、どうしても「ブッダあやまてり」と言いたい(マーガンディヤーが実際どのような女性であったのかは別として、質問の当初から既に解答を準備し、それ以外の説を排除したい。)のであれば、 http://www.sakya-muni.jp/shousai/ronbun19.html >>> このように釈尊は、成道後の12年余は王舎城を中心に活動されていたのであって、仏弟子たちは諸国に布教に出ていたけれども、新規の出家希望者が出るとそのつど釈尊の元に帰っていたのであるから、諸国に仏教が根を下ろすということはなかった。おそらく諸国に布教に出た弟子たちが、その地に根を下ろして布教活動を開始するようになったのは、三帰具足戒が許され、さらに白四羯磨具足戒法が制定されて、正式なサンガが成立したおそらく成道12、3年目のことであったであろう。 <<< にて見られるように、破僧を生み出す原因となった「直接の弟子以外を弟子としてみなすようになった制度を認めたこと」ぐらいでしょう。 直接の弟子以外を弟子として認める制度が発足するということは、まさに「ブッダ思想」が「ブッダ宗教」へと変遷することを意味しています。 以上です。 ※bragelonneさん。ワイド版はお勧めです。文字が大きいと、ほんとうに見やすいです。

bragelonne
質問者

お礼

 補足欄での《締める》予告を取りやめます。  調べておられるのは この主題にかんしてでしょうから そのままここも開けておくことにします。

bragelonne
質問者

補足

 k_jinen さん k_jinen さんの良さを引き出すには――あっ ご回答をありがとうございます―― どうも少々荒っぽい言い方をするに限る・・・のでしょうか。ま これは常習にはしませんが ぎゃくに言えば ありがたいですね。質問者の趣旨を汲んでいただけて。  むかしは新聞の文字も小さかったですね。一斉に大きくしたときがありましたね。大きくしたあとは ほかの書物などで小さいと 困るということが起きて来ますね。歯磨きを使うようになると これを使わずにいられなくなります。虫歯になります。蚊取り線香を使うようになると もうこれを使わないと困ります。  くだらない話から入りましたが おかげさまで一件落着なのではないでしょうか。  個人の信仰から 観想の内容が言葉に置き換えられ やがてこれが《おしえ》となる。この教義ないし/および教祖を押し立てて 組織としての宗教ができる。  この・信仰と宗教とはまったく違うという命題につながる歴史事例をもおしえていただきました。  そして質問としましては  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  6.「ブッダあやまてり」のブッダを、スッタニパータ等の最初期レベルから離れて、その後のブッディズム(仏教)全体における「ブッダ」概念へと向けるならば、「ブッダ」概念自身が、解釈する方法・人によって異なることは当然であり、「仏説、○○」と付け加える人々(ブッダ概念を解釈する人々)に責任があることは明白。すなわち「ブッダあやまてり」とはならずに「ブッダを解釈する人あやまてり」になる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ありがとうございます。そしてこまかくきちんと言おうと思えば  ○ 《美女マーガンディヤー説話》は――かのじょのブッダへのうらみとその仕返しにかんして―― 誰かが憶測によってつくったものであろう。  ○ この説話は 仏説でありとうといおしえであると受け取られている向きもあるが 内容は ブッダの振る舞いといい その後この振る舞いに恨みを持ったマーガンディヤーのその後の復讐劇といい 道理に合わない間違いを含むと捉えざるを得ない。  ○ ブッダの説話には ひとの手になる勝手な創作が交じっており あやまちと言わざるを得ないものが見られる。  ☆ となるでしょうか。  これでこの問いにかんしては 満たされたと思います。詳しい研究はむろん必要でありとうぜん続くはづです。このマーガンディヤー事件についても もし真相が判明すればなおいいでしょう。そのときにも このいま得た暫定的な結論およびその検討の過程が無駄になることはないでしょう。素人としてはこれで満足していいと考えます。  ありがとうございました。この問いは締めることにします。k_jinen さん どうぞまたよろしく。

その他の回答 (15)

回答No.16

ども、bragelonneさん。  ●わたしは常識のうそを暴く係なんでしょうか。 ↑ I don't know. ( ̄^ ̄) 知らんがなぁ ためしに過失表をつくってあてはめてみたらどない? 【過失割合】 http://www.kyoiku-shuppan.co.jp/math/mm_fam/mm021.html

bragelonne
質問者

お礼

 littlekiss さん ご回答をありがとうございます。  ふと思ったままを変な落ちに使ったみたいです。  ていねいに拾ってくださって澄みません。  知らんぷりの絵はきついですねぇ。  ★ 過失表  ☆ たぶん ここは 資料の信ぴょう性のもんだいと そしてあとは筋をつくってくださったように 全体観としてどういう評価ができるかの問題ですすもうと思います。  ですから ブッダのおっちゃんは薄情やでとなります。  ども。

回答No.15

こんばんは、bragelonneさん。 資料です。 【1 故意・確定的故意(殺意)・未必の故意(殺意)・認識ある過失】 http://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/program/data/houteiyougo8.pdf 【読書の手引き I(付・索引) 著者: 仏教教化出版センター】p62 http://books.google.co.jp/books?id=pQre3VJPQdAC&pg=PA1&dq=%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%BC%95%E3%81%8D+I(%E4%BB%98%E3%83%BB%E7%B4%A2%E5%BC%95)+%E8%91%97%E8%80%85:+%E4%BB%8F%E6%95%99%E6%95%99%E5%8C%96%E5%87%BA%E7%89%88%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC&as_brr=3

bragelonne
質問者

お礼

 littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 【読書の手引き I(付・索引) 著者: 仏教教化出版センター】p62  ☆ さすが サーチ・クイーンですね。ただし正直に申せば これはじねんさんにおしえてもらっていました。  ウデーナ王の物語でけっきょく質問趣旨の話と同じなんですよね。つまり何の疑いも持たずにこの説話を人びとは受け容れてきたと思われます。  ★ 【1 故意・確定的故意(殺意)・未必の故意(殺意)・認識ある過失】  ☆ 《認識ある過失》だと思われます。ブッダのです。ふつうにていねいに断わればいいわけですから。はじめの求婚のときにおいてです。  わたしは常識のうそを暴く係なんでしょうか。

回答No.14

こんばんは、bragelonneさん。 「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人   の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。   大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは   この女の足にさえ触れようとは思わぬ」 ↑ なんで、娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をしたのか? 思うに、本人(マーガンディヤー)の意向もきかずして親の意向でことをおしすすめていることに、わるいひとだと思ったんじゃないのかな?で、当の本人は黙ってただ従う。生きているようで死んでいる。死者を嫁にと差し出されりゃ、釈迦でなくとも引くって。何を考えてんねん!この親は…と。聞えよがしに「大小便の詰め込まれたこの女が…」などと言葉を投げかけられりゃ、生ある者ならば「失礼な!」と「こっちから願い下げよ!」と啖呵きり、その場で激怒して反発してみせようもの。そこはそうせず、親任せ。嫌なら、親元離れ野に下ろうが生きる道は他にもある。あるのにないと決め込み親のいいなり、生きているようで死んでいる。マーガンディヤーはわるい。運がわるい。運がわるいといえば、サーマーワ゛ティー。本人のあずかり知らぬところでいわれなき嫉妬をかってしまうのだから。とばっちりもいいところ。親がわが子をとおもうおもいが見ず知らずの他者とわが子を、時を経て傷つけてしまう。 諸行無常 【QNo.3965802 輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3965802.html

bragelonne
質問者

お礼

 littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  littlekiss さんが このたぐいの質問に答えてくださるとは思っていなかったです。女性にとっては 頭から《失礼な!》の話ですからね。  なるほど そういうふうに話をとれば 全体として一本通っているように思えますね。  ただ ただ です。ただですね。ううーん。  ★ 諸行無常  ☆ の中にも 無明(煩悩)を明知に変えて 同じ無常でも悪循環ではなく好循環にもっていく。それがブッダの説くところなんですからねぇ。  ★ マーガンディヤーはわるい。運がわるい。運がわるいといえば、サーマーワ゛ティー。  ☆ ほんとに運がわるいし かわいそう。しかも どちらにもブッダがかかわっている。ではないですか。これって ひとつの解釈として筋がとおったけれど 全部避けようと思えば避けられたのではないですか? それを思うとやはり  ○ ブッダは間違っている。  ☆ という結論にみちびかれる。のではないでしょうか? せっかくのご見解にけちをつけるようでいけませんが どうも原因ははっきりしていて それはブッダ・・・ではないでしょうか?  しつこいですが。

回答No.12

>>> No.10 への補足欄から(お礼欄は空白)  次の発言は スッタニパータ§837と明らかに矛盾しています。  ▲ (ダンマパダ§27) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  放逸に耽るな。愛慾と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は 知慧の高閣(たかどの)に登り 憂いを去って 憂いある愚人どもを見下ろす。――山上に立っている人が地上の人々を見下ろすように。  (中村元訳:ブッダの真理のことば〔感興のことば〕1980第7刷p.14)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 自家撞着もはなはだしいと言わざるを得ません。基本的な姿勢が成っていないという物言いです。そのブッダが言っている中味の以前の問題です。 (後略) <<< ですが、「ダンマパダ」は「スッタニパータ」よりも後にかかれたもののようです。 少なくとも、ブッダの説かれたものを「間接的に」記述していることが明確に記されている箇所があります。 >>>「真理のことば・感興のことば」、中村 元訳、岩波文庫, p.377 それの第14章「ブッダ」に現れているブッダ観が極めて素朴であるから、かなり古いものであろうが、しかし歴史的人物としての釈尊の時からはかなり隔たっていたであろう。何となれば『正しく覚った人(=ブッダ)の説かれた法を、いかなる人から学び得たのであろうとも、その人を恭しく敬礼せよ』(392)という。釈尊から直接に学んだのではないであろう(後略) <<< また、「ダンマパダ」は、ブッダの教えを布教する過程にて、さまざまな状況の人々に対する教えが混ざっているようです。 >>>(同、p.377-378) 『ダンマパダ』の諸詩句は主として出家修行僧のために説かれたものである。(中略)しかしまた他方では、世俗人のための教えも含んでいる。 <<< したがって、今回の問題に関連して、話をダンマパダとの矛盾へと拡張することは、無意味だと思います。 >>> No.11への補足欄から (5)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もし、解釈上「?」な部分が出てくるのなら、「なぜ?どうして?」といった視点にて明らかにするべきでしょうが、それをもって「○○あやまてり」といった一方的な「解釈」に立つべきではないと考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二千五百年のあいだ放ったらかしにしたのは 誰でしょう? そういう問題です。わたしが 条件づけした場合には《ブッダあやまてり》と判断するという意味は 実際とうぜんの内容です。もし判断が行き過ぎだと思うのなら とうぜんブッディストの側は その検証について怠るべきではないという意味です。  デーワ゛ダッタ悪人説については 今ではかなり緩和したようにも聞いています。マーガンディヤー悪女説については どうなのですかと問うているに過ぎないとも言えます。k_jinen さんは とがめられるべきは誰かについてしっかりと把握すべきと考えます。 <<< >>> No.11のお礼欄より しかも おしえてもらった英文のサイトでは このマーガンディヤー説話は ほんとうのブッダのおこないであるとしてその人びとは捉えているようです。§835などは そのままブッダのおしえであると受け取っているのですよ。  そのことについてどう考えるか わたしに聞くのではなく その人たちに いえいえ ご自分に尋ねて明らかにするべきなのです。  このマーガンディヤー事件は間違いであるしかない よって削除すべき記事である――というのならそれとして 明らかにすべきです。 <<< これらのことに関連するものは、先にリンクさせていたただいた http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0878.html すなわち、 第八百七十八夜【0878】03年10月28日 Seigow's Book OS / PIER ロジェ=ポル・ドロワ 『虚無の信仰』 2002 トランスビュー Roger-Pol Droit : Le Culte du Neant 1997 島田裕巳・田桐正彦 訳 に関する記事に、明確に記載されています。 今、関連する本を3冊読み始めているところですので、読み終わるまで、この質問を閉じないでいただきたいと思います。 >>> 意外なことかもしれないが、仏教という言葉はアジアにはなかった。インドにも日本にもなかった。親鸞は『教行信証』で「仏教と相応せり」と書いているが、これはブッディズムという意味ではない。  仏教、すなわちブッディズムという言葉は1820年代にヨーロッパで生まれた。ところが19世紀にこのブッディズムがヨーロッパで恐れられた。仏教は何も考えようとしない「虚無」を信仰するものとみなされ、そんな虚無にすがるアジアの人間そのものまでが、蔑まれ、恐れられたのである。 (中略)  1817年に「仏教」という言葉がフランス語にあらわれる。ミシェル=ジャン・オズレーが最初だったらしい。  これを嚆矢に、次々に仏教探索が始まった。その後、誰が「ブッディズム」という言葉をどこで使ったのかということは、本書に縷々追跡されている。  が、問題はそれよりも、そのように仏教とよばれた宗教思想が、なぜにたちまち極端なペシミズム哲学とみなされ、たまには「空のキリスト」(ヘーゲル)と呼ばれることはあっても、大半では「意志を否定するもの」と、また「永遠の死を願望するもの」とみなされて、ついには「一種の痴呆状態をつくるもの」というふうに歪められていったかということである。 (中略)  ぼくは、どちらかといえばショーペンハウアーの仏教解釈には、それまでのヨーロッパ思想がまったく気がつきえなかった「純粋意志」や「慈悲の表象」や「積極的ニヒリズムの萌芽」があると思っていて、かなりの好感をもってきたのだった。ところが、近代ヨーロッパは仏教を「神を否定する無神論」と決めつけ、その共犯者としてショーペンハウアーを指弾した。 (中略) 一番の問題はアジアおよび日本の仏教者たちが自分たちが従事している仏教が、いま世界のなかでどんな位置にいるかをまったく考えようとしていないことなのである。そういう“警告”のためにも、本書を採り上げてみた。 <<< 私は「いわゆる」仏教徒ではありません。 仏典関係で読んだ本は「スッタニパータ」と「般若心経」(講談社文庫、金岡秀友・校注)のみです、岩波文庫系の「真理のことば・感興のことば」および「悪魔との対話」、「神々との対話」を含め、他に数冊もっていますが、パラパラとみただけで、読んでいません。 したがって、既にご存じだと思いますが、「アドバイス」として各投稿をさせていただいております。 ご指摘の文章は、スッタニパータ(やダンマパダ)に直接記述されていない背景であり、注釈の部分で取り上げられているものの、スッタニパータでは質問をした人としての記述しかありません。さらには、質問の内容自体、本人が2段階の質問をしたということになっていて、その後段の質問について、説かれているという内容です。それ以上のことについては、「ブッダ」がどのように関与したかは、うかがい知れない内容になっています。 すなわち、pj("paramattha jotika")を読まない限り、「ブッダを取り巻くひとびと」の様々な解釈が入り乱れることが大きく関与している。としか、現段階では言えないと思います。 スッタニパータの中村氏の注にあるようにpjすなわち"paramattha jotika"(仏のことば註 パラマッタ・ジョーティカー)を探して、その起源を探るべきだと思われます。 ところが、 ※東大赤門前の古書のサイトでは、「村上真完・及川真介訳注 春秋社 函 A5判、昭60 3冊」1,2,4の3冊セットで9万円です(◎-◎)。 と、手も足も出ないので、これについては、図書館で調べる予定です。 また、ネットで「paramattha jotika Magandiya Kosambi」にて検索すると http://www.archive.org/stream/historyofpalilit035453mbp/historyofpalilit035453mbp_djvu.txt が引っかかってきました。 この辺りも参考になるかも知れません。 いずれにしても、(特に架空の人物についての)物語の解釈についてどうこうというのではなく、(実在したであろう人物について)その話が事実に基づいているのかどうかを検証したければ、 1.直接的には、Magandiyaの記述がある文献のみを検索する。 2.間接的には、上記文献が記述された時期の背景を調べる。 といった手順を追うべきでしょう。 そういったことをしないままにMagandiyaに関する話をするのは、帰って「あやまてり」へと自ら進むことになるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。  ですが k_jinen さんは 一つひとつのことがらについて資料の収集と検証からていねいに主題を追究されていますが その判断においては 個々の事項と同時に全体観に立っても見る見方が必要であり大事ではないでしょうか。  ★(要旨) ダンマパダは新しい文献でありしかも後世の手が加えられている。  ☆ からと言って わたしの物言いを却下するというのはいただけません。それぢゃ ダンマパダのほかの旧い文献ではいっさい《わたしはこれをとく》ということがないのですか? ダンマパダは たまたま例に出したまでです。そのくらいは 全体観に立ってくみとるのが ふつうです。そうではないでしょうか?  k_jinen さん あきれてものが言えないというのは このことですよ。  ★ そういったこと(検証)をしないままにMagandiyaに関する話をするのは、却って「あやまてり」へと自ら進むことになるでしょう。  ☆ その問題もあるけれど 説話として伝えられている〔疑似〕テクストもある。さしづめこちらのテクストについてはどうですかと問うています。  説話のかぎりで言えば 《ブッダあやまてり》ではないか。これのみです。

回答No.11

「慈悲は 経験現実か」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4531636.html での回答No.15にて >>> ☆ 出典を思い出せませんが 《大小便の詰め込まれた》という表現は 当時 慣用句だったそうです。 <<< ですが、出典は判りますでしょうか? No.2にて >>> もう一点あったのですが、こちらは少し調べてから、投稿させていただきます。 <<< と、記述していたのですが、(再購入した)「スッタニパータ」の注釈部分には載っていなかったので、ご教示いただけましたら幸いです。 さて、 >>> (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」 <<< では、一人の女性が対象なのか、三人の女性が対象なのか、明確ではありません。 もし仮に、「糞尿に満ちた」が慣用句であったなら話は変わってくるかも知れないのですが、そうでないなら、「さとりを開こうとする時に排除すべきもの」として、「愛執と嫌悪と貪欲」のみを述べるのであれば、対象として女性をだすこともなかったでしょう。 しかしながら、(男性の側から記述するという場合)「淫欲」をそれらに付加して並べようとするとき、「最も守りにくいもの」でしょうから、過度に戒めを説く目的から、あえて「糞尿に満ちた」といった萎えるような言葉を付け加えたのかも知れません。 「八つの詩句の章」は、伝承によって伝えられてきたため、「覚えやすいように」若干改編されていた可能性も考えられます。 ご指摘のこの部分は、比較的すんなりと繋がっている方であり、何度読み返しても「?」な部分は他にも多くあります。 おそらく、(伝承で伝えられたならなおのこと多く取り入れられているであろう)当時の慣用句的な表現が含まれていて、解釈を誤りがちになりやすいのかもしれません。あるいは、当時の風習を知らないゆえに、誤った視点からみているのかもしれません。 もし、解釈上「?」な部分が出てくるのなら、「なぜ?どうして?」といった視点にて明らかにするべきでしょうが、それをもって「○○あやまてり」といった一方的な「解釈」に立つべきではないと考えます。 二者択一的な評価(真偽への方向性)は、「○○を解釈するにあやまてり」への方向性しか向き得ないでしょう。 仏典にしても聖書にしても、また、新興宗教の類にしても、(人の思考と手を介して)書かれたものの意味よりも、「その向こう側」に「人々が(何かを)求めようとする方向性」こそが大切なのだろうと思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 しかも おしえてもらった英文のサイトでは このマーガンディヤー説話は ほんとうのブッダのおこないであるとしてその人びとは捉えているようです。§835などは そのままブッダのおしえであると受け取っているのですよ。  そのことについてどう考えるか わたしに聞くのではなく その人たちに いえいえ ご自分に尋ねて明らかにするべきなのです。  このマーガンディヤー事件は間違いであるしかない よって削除すべき記事である――というのならそれとして 明らかにすべきです。  一方でそして基本として 資料の確定につとめるという態度を受けとめ見習うべきとの教訓を胸に刻むとともに 他方ではしかも その初めの段階で同時に――その初めの段階で同時に―― 記事の内容はそれとして分かっており明確になっているのですから これはおかしいとまづ言って 検証・研究をすすめるというのが ふつうの態度だと考えます。二つの側面は 同時にです。  基本の態度が基本だという意味は 学問としてという意味でもあります。これを無視しては何にもなりませんが 生きるという問題の上では 学問の結論が出る前から ひとは自分の判断を持っているものです。そのことを明らかにし見解の交換をおこなっていても 学問をないがしろにするものではありません。いまある資料にもとづき これこれの条件をつけてなら これこれの解釈ができる――こういう見解の表明に何のおそれもありません。  ここまで来てやっとこのように話しが合うというのは これだけまじめな k_jinen さんにして いったいどういうことですか?   一定の条件のもとでなら こういう判断が下せるという見解の表明――これをぜひ k_jinen さんには もはやなれなれしく要請します。わたしからの絶対命令ですよ。なぜならそこには 何のおしつけも誤謬もないからです。

bragelonne
質問者

補足

 k_jinen さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。まづ k_jinen さんが いわゆるオブスクランティスモに陥っておられるのではないと分かっただけでも よかったです。先延ばし・先送り・お役所ことば(わたしの言葉でアマテラス方言)の常習の方ではないと分かっただけでも ひとまづ安心です。  要点を一つひとつ確認しておきます。  (1)   ☆☆ 《大小便の詰め込まれた》という表現は 当時 慣用句だったそうです。  ☆ これはそのときに検索して得た情報だったはづです。ですが 今回調べても出て来ません。サイトが変更・消滅したと考えられます。(こんなことは 想像やでっち上げで言うわけありませんから)。  (2)   ★★ (No.2) もう一点あったのですが、こちらは少し調べてから、投稿させていただきます。  ☆ これは k_jinen さんが見つけられた《おかしな点》ですから わたしは分かりませんですよ。  (3) スッタニパータ§835は   ○ もしマーガンディヤ(=父親)による縁談の申込に対する答えとすれば それはおかしい。  ☆ これだけを指摘できればじゅうぶんだという見方です。言いかえると この《もし》という条件をつけて判断を下すのなら 今の段階でも言えるという意味です。  それだけでじゅうぶんだという意味は あとはブッディストの見解ないし研究者の研究にゆだねてもよいはづだということです。  (4) したがって 本文に《編集つまり改編》がどれだけあったとしても 現在の資料について こちらの見解としては 条件づけをしておかしいと言えると指摘しますし ブッディストの側は 現在の状態についてとさらに研究検証のあとの状態についてと二つの段階において見解を明らかにすべきだという物言いです。とうぜんの主張であるはづです。  (5)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もし、解釈上「?」な部分が出てくるのなら、「なぜ?どうして?」といった視点にて明らかにするべきでしょうが、それをもって「○○あやまてり」といった一方的な「解釈」に立つべきではないと考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二千五百年のあいだ放ったらかしにしたのは 誰でしょう? そういう問題です。わたしが 条件づけした場合には《ブッダあやまてり》と判断するという意味は 実際とうぜんの内容です。もし判断が行き過ぎだと思うのなら とうぜんブッディストの側は その検証について怠るべきではないという意味です。  デーワ゛ダッタ悪人説については 今ではかなり緩和したようにも聞いています。マーガンディヤー悪女説については どうなのですかと問うているに過ぎないとも言えます。k_jinen さんは とがめられるべきは誰かについてしっかりと把握すべきと考えます。  ★ 二者択一的な評価(真偽への方向性)は、「○○を解釈するにあやまてり」への方向性しか向き得ないでしょう。  ☆ §835は 糞尿の箇所が慣用句である場合でも 答弁としておかしいことは 子どもにも分かることです。そこから出発しないのなら  k_jinen さんの感覚もおかしいとはっきりと訴えます。  そのあと このスッタニパータの記事はまちがいだったともし分かった場合には なるほど!という安堵が来ます。条件づけして判断していただけですから 何ら片寄った見解でも何でもないというのは 現段階で分かっています。  (6)  ★ 仏典にしても聖書にしても、また、新興宗教の類にしても、(人の思考と手を介して)書かれたものの意味よりも、「その向こう側」に「人々が(何かを)求めようとする方向性」こそが大切なのだろうと思っています。  ☆ 新興宗教については 気休めか金儲けです。聖書については 《文字は殺し霊は生かす》という大原則があります。文字通りの意味はきわめて限られた記事にのみ当てはまるという意味です。  仏典については たとえば容易に時空間を飛び越えて話が為されているのですから 明確に読み方についての原則を定めるべきです。  しかも k_jinen さん いいですか こんなことは前から分かっていることです。いまさら何を言うのですか。いまこの(1)から(6)までのことを k_jinen さんはどういう思いで述べておられるのか。五百年も千年も遅いということです。  (7) 経典にある事柄であるにもかかわらず その読みが確定していない。こんな懈怠がゆるされるはづがありません。自分の側に不利な内容の記事については 触れずに放っておく。いかにだらしないかの物言いでもあります。

回答No.10

>>> No.8 補足欄より  資料の収集あるいは検証の過程ですから お互い断定的な発言をひかえたいところですが スッタニパータおよびダンマパダの記事については 自由に批評してもよいのではないでしょうか。それについてのご見解はまだお聞きしていないように思います。 <<< 申し訳ないですね。 さて、スッタニパータを探し回ったのですが、どうやら引越し荷物のダンボール箱に入ったままのようであり、また、既にボロボロになってきいたはずなので、先ほど、新たに購入しなおしてきました(目も悪くなってきているので、ワイド版を買いました^^;) ご指摘のように、中村氏も他の文献について触れておられるのを確認しました。 で、 >>> No.2 お礼欄から  とにかく  ★ 圧倒的に情報量が欠落しており  ☆ なのですが けっきょく創作だとしても どうしてこういう内容として伝わっているかが問題だと考えます。  それに『スッタニパータ』835のブッダの発言だけを取り上げても おかしいとわたしは考えますが どうでしょう? 性愛論がはっきりしていず あとで《『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない》(837)と言いつつ 835では《欲望の無》をあたかも説こうとしていませんか?   もし  ▲ 諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、  ☆ ということであるならば 《欲望は欲望であると確かに知って・・・》という意味合いで はじめの835を説明しているのが普通です。矛盾していませんか?  もし矛盾しているとしたら そういう原因によって マーガンディヤー悪女説がつくられ いくつかの絡みも創作されたかも知れません。  そういう問題はありませんか? <<< 矛盾はないと思います。 ※随分以前に購入した(注釈つきの)「スッタニパータ」を探していたため、回答が遅れましたこと、お許しください。 スッタニパータでは、835の後、836にて質問が別の方向に向けられています。837以降は836に対する応答になっています。 >>> スッタニパータ 836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」 <<< したがって、スッタニパータにて835を単体として取り上げるのは、問題があると思われます。 特に、この部分は「八つの詩句の章」に収められているため、対話的な部分は前後から切り出すと無意味になる可能性が高いと思われます。また、「八つの詩句の章」は生成時期がもっとも古いとされているものなので、他の(少なくとも2つの)文の形成次期との関係を知りたいところであり、もう少し調べてみます。注釈にあるヘルレンのJARS. 1916, pp.515-20;528ff.関連が手に入ればいいのですが。。。 ところで、No.8のリンク先で触れている2冊と、少し関連するかもしれない1冊 === ロジェ=ポル・ドロワ『虚無の信仰』 2002 トランスビュー Roger-Pol Droit : Le Culte du Neant 1997 --- 幻想の東洋〈上・下〉―オリエンタリズムの系譜 (ちくま学芸文庫) (文庫) 彌永 信美 (著) 発売日: 2005/10 --- 複数にして単数の存在 ジャン=リュック ナンシー、Jean‐Luc Nancy 加藤 恵介 (単行本 - 2005/3) 出版社: 松籟社 (2005/03) === を買い込んできました。このあたりとの関連性については、もしかしたら後日、書かせていただくかもしれません。 なお、仕事の関係で図書館めぐりは今回不可能になりそうですが、森 章司氏のモノグラフはぜひとも読んでみたいものです。(図書館経由で取り寄せて見ようと思います) 個人的には、モノグラフ以外では、No.1での文献のうち、 奥村 浩基 著 コーサンビー諍論説話に見られる共通要素 大谷大学大学院研究紀要 といったタイトルに惹かれています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 k_jinen さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  とにもかくにも 資料の充実に心がけていらっしゃる。ほかの質問へのご投稿を見るにつけても そう感じられます。  もうその点につきましては 何も申しませんが 次のように問題提起をした場合には どうお答えになるでしょう? この一点のみまづはおつきあいいただけるならさいわいです。  ▲ (スッタニパータ:835の要旨) ブッダは自分について《欲望の無》を明かして伝えている。  ☆ ところが そこから質疑応答がたとえ旋回したとしても そのあとでは こうも言っています。  ▲ (同:837) 《わたしはこのことを説く ということがわたくしにはない》。  ☆ それでは §835は 何だったのかという問いです。しかも実際には §835を受けてマーガンディヤの問いは   ▲ (同:836要旨) 欲望の無をおっしゃるのなら それは一般にわれわれに分かりやすいように説明するとすれば どのような見解になるでしょう?  ☆ というものです。それを受けて上の§837の発言になります。いったい§835は 何のために言われたのか? 何を言おうとしているのか? さっぱり意味のないことになってしまいませんか?――この疑問です。  ▲ (§835) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いったいこれは 何の意味があるのか。疑わざるを得ないのでは? それゆえ 美女マーガンディヤーの悪女説なる説話が出て来た。こう解釈してもおかしくないでしょう。――それが事実であるという意味ではありません。史実がどうであろうと そういう問題をはらむ思想(言行録)のようである。という判断は そうとう程度において妥当性を持つはづです。そうではありませんか? という質問になっています。どうでしょう?  ここまでの見当をつけてさらにそのあと資料の検証や実際の内容の研究にすすんでも それほど大きくまちがいを侵すとは思えないのです。  蛇足のようにつけ加えます。  次の発言は スッタニパータ§837と明らかに矛盾しています。  ▲ (ダンマパダ§27) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  放逸に耽るな。愛慾と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は 知慧の高閣(たかどの)に登り 憂いを去って 憂いある愚人どもを見下ろす。――山上に立っている人が地上の人々を見下ろすように。  (中村元訳:ブッダの真理のことば〔感興のことば〕1980第7刷p.14)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 自家撞着もはなはだしいと言わざるを得ません。基本的な姿勢が成っていないという物言いです。そのブッダが言っている中味の以前の問題です。  ▲ 《わたしはこのことを説く ということがわたくしにはない》。  ☆ のではなく そのほか到るところで 自説を説いている。ではないか? という意味です。§835の内容が矛盾をきたしているゆえ おかしなやり取りが続いている――こうではありませんか?  もっとはっきり言うならば   ○ ちっとも解脱していないではないか ブッダのおっさんよ。  ☆ となります。しかも 成道していないことをなじっているのではありません。うそをついているではないですか?と問い詰めているのです。

回答No.9

No.8で、変換ミスがありました。 >>> これらの物語に共通することは、不況上の辺境であったコーサンビーの「ウダヤナ王」にまつわる <<< >>> これらの物語に共通することは、布教上の辺境であったコーサンビーの「ウダヤナ王」にまつわる <<< でした。 あと、No.1で引用させていただいた森氏のサイトのトップページ http://www.sakya-muni.jp/ から、多数の参考資料を閲覧できるようです。 たとえば、 http://www.sakya-muni.jp/pdf_data/01_01.pdf などです。 >>> これは原始仏教聖典を主な資料として、後世の注釈書文献などを参照しながら、釈尊の生涯(仏伝)と釈尊教団の形成史を明らかにしようとする研究で、宗教法人立正佼成会の一機関である中央学術研究所の事業の一端(委託研究)として行われているものです。  平成4年に始められ、その成果は「『中央学術研究所紀要』モノグラフ篇」として、現在までに13冊が刊行されており、今後も継続して行われますが、このたびこれを電子版として公開することになりました。ただし「資料集」の一部は未だ未完成で、さらに整備する必要がありますのでその公開を見合わせました。いずれはこれらも公開する予定です。 研究代表者 森 章司(2009.02.05) <<< やはり、このあたりから攻め込むべきでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 資料の検証とその研究 それについてきちんと学問としての作業を怠らない。この大前提は動きません。分かっています。  ▲ 私たちが釈迦と同じ事を仮に、行ったとすればそれは誤りとしての結果になるのでしょうね。  ☆ このように微妙な言い方で――つまり ブッダの名誉を傷つけないという前提でまづ自分を縛ってその上で意見を表明するという微妙な言い方で――述べる場合を見ていますが わたしたちが学問の研究過程の途中の段階においても 何らかの見解を述べてもそれほど大きな問題を起こすわけではありません。むしろその見解の発表を受けて研究者もしっかりと調べるということもあるでしょう。  と考えますが いかがでしょう?   つまり――k_jinen さんが慎重の上に慎重を期されるその態度は 見習うべきですが それでも考えるに――けっきょく慎重な態度と同時に いま現在で評価を下し得ると見なした部分については下すべきだともなるでしょう。それは 条件をつけて評価を表わせばいいわけです。  そこのところ どうも k_jinen さんのご性格をだんだん知るにつけ どうもじれったい こんな感想を率直に申せば持ちます。といったところです。

回答No.8

日本語でのネット検索が少なく、英文での研究が先行しているとなれば、 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0878.html にも関連しうる可能性があるので、合わせて関連図書を読んでみようと思います。 さて、当時、コーサンビーが(仏教の布教上)辺境であったのならば、誤解に基づく、どのような事件が生じたとしても不思議ではないように思われます。さらに、一つの事件に対して、火のないところに煙をたたせるような創作が加えられていた可能性も否定できません。 最初のサンガ形成にまつわる話(ブッダが直接布教可能かどうかが非常に大きな要因となっていたこと、雨期などの影響で移動が困難であったこと)からも、コーサンビーでの説話には、現実離れしたものが多いのかも知れません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E6%8B%98%E7%BE%85 また、「コーサンビー」で検索すると、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E3%83%8A が引っかかってきました。 『優填王経』では「無比」という名ででてきており、『四分律』ではでてきません。これらの物語に共通することは、不況上の辺境であったコーサンビーの「ウダヤナ王」にまつわる話だということであり、「無比」の話は補足的なように思われます。 全体をざっくりと読むに付け、当時の政治的な影響が見え隠れします。 中央が仏教を取り入れて行くに従い、辺境の王たちが仏教への帰依に遅れたことを、他者に責任転嫁する必要性があったのかもしれません。 いずれにしても、少し時間をかけて読み込みたいところです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 k_jinen さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。あなたとわたしとで 資料の周りを廻りながら ブッダに非がない いや非があると応酬がつづくだけのようですが そうでもないことを添えたいですね。  ★ いずれにしても、少し時間をかけて読み込みたいところです。   ☆ この基本的な姿勢は 大前提です。しかも それではあっても  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  全体をざっくりと読むに付け、当時の政治的な影響が見え隠れします。  中央が仏教を取り入れて行くに従い、辺境の王たちが仏教への帰依に遅れたことを、他者に責任転嫁する必要性があったのかもしれません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というようにここまで踏み込んで判断を下してもおられます。  さらにしかも 問題は わたしの側から言わせれば  ○ たとえ悪意に満ちた創作であったとしても 何故にブッディストを称する現代の人びとのあいだでもなおブッダにまつわるおしえ(スッタニパータなど)である部分を含む説話・伝説として伝えられて来ているのか。  ☆ ここにあるでしょう。ブッダのおしえとは関係のない作り話であるというのであれば――中間の暫定的な結論としてそうだとおっしゃるのであれば―― そのような専門の研究者の見解をきちんと示すべきです。つまりわたしの言おうとするところは ブッディストらのあいだで はっきりとこれこれの説話は 誤解や謬見にもとづく間違いであるという方向の見解を示すべきです。  ダンマパダなど経典もからんでいると言うのなら なおさら明確に述べるべきでしょう。そのことを k_jinen さんもブッディストらにまづ伝えて そのあと初めてここならここで どうも確証のない言い伝えにもとづく資料であるに過ぎないようだと こう表明すべきでしょう。  ★ コーサンビーでの説話には、現実離れしたものが多いのかも知れません。  ☆ ブッダにまつわる話で 現実離れしていないものがありますか?  ★ さらに、一つの事件に対して、火のないところに煙をたたせるような創作が加えられていた可能性も否定できません。  ☆ たとえ小さなものでも火があり煙が上がったことは間違いなかったという可能性も それと同じようにあると返さなければなりません。それが 学問の立ち場です。  ブッダに不利な話も有利な話も いづれのものも 煙が過大になっている場合があるでしょう。  資料の収集あるいは検証の過程ですから お互い断定的な発言をひかえたいところですが スッタニパータおよびダンマパダの記事については 自由に批評してもよいのではないでしょうか。それについてのご見解はまだお聞きしていないように思います。  比較対照しても始まりませんが たとえばイエスに妻がいたという伝説があります。これについては 仮りにそうだとしてもその生涯におけるかれの自己表現の内容に関して 何の差し障りもありません。  そういう問題が ブッダのこの件については関係して来ているのではないでしょうか? つまり差し障るような内容をもって伝えられているという嫌疑です。どうでしょう?

回答No.7

 bragelonneさん  私は最初の投稿で、自分の思うことを書きました。  そして長い英文のご引用なども、私の今の精進の方向と方法での理解となり、ご質問の趣旨には適さないと存じます。  私はどうもbragelonneさんのご質問にアクセスする状況のものではないのでしょうね。  アクセスし、自己の状況や能力が許せば、そして意志があれば投稿できる、という趣旨の場であると理解して、気軽に気のおもむくままに駄文を連ねましたが、bragelonneさんのご質問はそういうことではないというbragelonneさんの思い込みですね。  ここは教えてもらいたいことを質問し、そのことで投稿できることを投稿する場だと、私は理解しております。   はぐらかしではなく、気が起ち上がらないというだけですよ。  今後も私はどのご質問にも、私なりの誠意で、可能な限りの投稿を自己の意思と意志で行っていきます。  顔を見せるなといわれても、顕れもするし、去ることもします。どのご質問にも。当然なことですね。  そういうわけで、私はbragelonneさんのご意志には添いかねます。  一度思うこと、知っていることを投稿したら、それ以上のことは在りません。  補足やお礼でお書きくださっても、ご期待の対応ができなければ、致し方のないことです。

回答No.6

 回答番号:No.5 bragelonne さん  どうもご宸襟を煩わせているみたいですね。  どうも緻密な思考や読解ができないので、申し訳ありません。  よく拝読して、どのような表現をしたらよろしいのか、考えて見ます。  再度の投稿ができるかどうか、分かりませんが、どうかお許しください。  つまり対応ができなくてもお許しください。  またそれをどうかあまり深い意味にお取りにならないようにお願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりました。時間を取るのは構いません。一年待ってくれというのも まったく自由です。  ただし もう投稿せぬ・対話を交わそうとは思わぬ・おまえの質問は成っていないからよしな等々の投稿をすでに受け取っています。  再投稿の時点ですでに何度もそのことを質しております。  このままはぐらかしが続くのなら あなたを人間とは見なしません。  というやり取りをすでに何万回となくおこなってきております。  ★ またそれをどうかあまり深い意味にお取りにならないようにお願いします。  ☆ この文章の意味のとおりにこちらも振る舞うならば それは世間話を交わすということです。それは 規約に違反する行為です。 

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