ゴータマ・ブッダは実在しなかった?

このQ&Aのポイント
  • ドイツの考古学者Alois Anton Führerによる捏造が明らかになりました。詳細は以下のリンクを参照してください。
  • また、日本の日泰寺にも釈迦の骨があるとされています。日泰寺の歴史については以下のリンクを参照してください。
  • ゴータマ・ブッダの実在性については、アショーカ王碑文やスッタニパータを調査した結果、確定的な答えは得られていないとされています。
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ゴータマ・ブッダは実在しなかった?

ドイツの考古学者 Alois Anton Führer http://en.wikipedia.org/wiki/Alois_Anton_F%C3%BChrer はどうやら捏造していたようです。 詳しい情報をご存知の方は教えてください。 それから釈迦の骨は日本の日泰寺にもあるようです。 日泰寺 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/thailand/jpth120/knowledge/temple.html 日泰寺ができるまで  1898年、イギリス人のウィリアム・ペッペという人がネパール国境に近いインド北部で人骨の納められた古い壷を発見しました。その壷に刻まれていた古代文字を解読したところその人骨は仏舎利であることが判明し、当時インドを治めていたイギリス政府は仏教国であるタイ王国(当時のシャム)のチュラーロンコーン国王陛下に寄贈しました。そこからビルマ(現ミャンマー)やセイロン(現スリランカ)、日本といった国々に分与されました ~~~~~~~~~~~~~~~~ こんなことを書くのもどうかと思いますが ブッダの骨をDNA鑑定するとかそいうのはやらないのでしょうか? 個人的な感想は、アショーカ王碑文だとかスッタニパータだとかいろいろと調べてきましたが 結局、ゴータマ・ブッダは確実にいたとはいえないと思うようになりました。 ゴータマ・ブッダとはなんだったのでしょうか。

noname#207067
noname#207067

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回答No.2

大乗仏教非・仏論というのがあります。 ブッダが死んで500年後に大般若経とか、大乗仏教の経典が編纂され、どれも「尊師いわく」と言って、ブッダから聞いたように書かれているけど、500年後に書かれた仏典がブッダから聞いたなんてありえない。 そして現在の仏教は、たいてい大乗仏教で、大乗仏教の経典が偽典ならば、ブッダなんていてもいなくても良いことになります。 象徴的な意味しか持たない。 ブッダが実在したろうと、私は思っていますが、いなくても何も変わりはないと思っています。 どっちだってかまわない。 イエス・キリストだって実在しないのではないか、あれはパウロが作ったフィクションだという話がありますが、それだってキリスト教の信仰に何ら影響がないのと同じです。 ブッダが実在しなくても、実在しても、仏教に対する信仰に影響があるとは思えない。 それはイスラムにしても同じで、神が実際に存在しても、しなくても、神に対する信仰に何ら影響がない。 よく日本人は神がいるんだったら、科学的に証明してみろ、という人がいるけど、信仰は心の問題で、信仰の事実さえあれば、神は存在するのです。 神を信仰している人には神は存在し、神を信仰していない人には神は存在しない、というだけです。 ブッダが存在していても、存在していなくても、そんなことは信仰にとって大事なことではないし、無関係です。

noname#207067
質問者

お礼

インドのウッタル・プラデーシュ州ピプラーワー説 1898年にイギリス駐在官W・C・ペッペが、この地から、「ガウタマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘し、また近代に至って、「カピラヴァストゥ」という文字が刻まれた印章などが出土していることから、ほぼこの地ではないかと推察されている[※ 1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 Piprahwa http://en.wikipedia.org/wiki/Piprahwa ~~~~~~~~~~~~~~ 回答ありがとうございます。 どうしても、信じる「信仰」の要素が入ってくると思います。 仮にピプラーワー説が有力だとしても、まだまだこれからでしょうし なかなか難しい話のようです。

その他の回答 (3)

  • 0fool0
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回答No.4

>それから神は実在するのかしないのか 聖書は矛盾しているとか何とかいう意見はokwaveでも多いのに 仏教についてはそういった話がほとんどないので 同じようなことをしてみたというのもあります。 え~~と・・ 仏教には所謂「神仏」は存在しません。(「仏」と言っておいて其れは無いだろうw) 仏教は其の根源の教えに「神」の名は一切存在しないのです。 あくまでこの世の真理を解き明かす学問が前提だから、丸投げする相手を本質的に持っていません。 念仏教等は「仏」が神格化した為に起きた現象です。 現在の仏教はほぼ全てが「拝み」ますが、本来仏教の教えは「礼拝」の対象を持っていません。 ですので、「仏舎利」等は言語道断の行為なのです。 ただ、長く人の心に居続けるモノと言うのは「神秘」を伴う物なのでしょうね。 私もそれに救われた部分が間違い無く有りますので、修行の段階だという事でしょう。

noname#207067
質問者

お礼

非神話化 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E5%8C%96 私も勉強中なので、細かいことは困りますが 非神話化とか史的イエスとかそういうキリスト教の話の仏教版をやってみたということです。 要するにイエスは神ではなくて人間だよと解釈していくように、 神格化されたブッダではなくて、人間ゴータマ・ブッダを探求するという流れがあるわけです。 それについてあれこれ意見しているようなものです。

  • 0fool0
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回答No.3

「わが身を拝んで何とする」 仏陀の言葉として伝えられました。 真理です。 で、質問への私の回答ですが、すご~~~く嫌な言い方をします。 実在するかしないかを論じる方々は、その「事」によって得をするからするのです。 仮にDNA鑑定をして、犬の骨だった等と結果が出たら、寺院の経済的ダメージは深刻です。 真実だけが大事ならば、徹底検証する事に何の齟齬も無いはずです。 しかし大切なのが「真実」ではなく、「生活」だったら・・・・? また、その話を持ち出した側も大切なのは著書の「宣伝」だったら・・・? 大体骨が有ろうが無かろうが、ただのカルシウムが主成分の塊に過ぎません。 アホラシイ。 仏舎利の真贋とダイヤの宝石と子供の拾って来た鳥の羽。 どれが一番高価? という程度の話でしょう。 すいません、言い過ぎた気もします。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 人間としてのゴータマ・ブッダを追求するあまり DNA鑑定とか言い出すような方向性はどうなのか、 人間ゴータマ・ブッダとしての見方に疑問を投げかけています。 もちろんDNA鑑定の結果とかあるならそれはそれで興味ありますが。 それから神は実在するのかしないのか 聖書は矛盾しているとか何とかいう意見はokwaveでも多いのに 仏教についてはそういった話がほとんどないので 同じようなことをしてみたというのもあります。 思想とか哲学そして宗教としてはむしろこれからが大切だと思います。 専門家の間ではとっくの常識になっていようが、 こういう哲学カテゴリーにいるような人はどう考えていくか。 以前は、パーリ語のテキストはどこにありますか? と質問しても全然、教えてもらえなかったのです。 それに比べれば少しは仏教についての探求も進んだと思います。

  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.1

単に、ゴーダマ・シッダールタさんで(後に釈迦と呼ばれた人)とは別人ということではないでしょうか。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 かなり微妙な指摘ありがとうございます。 そうなんです。 ゴータマと釈迦が同一人物かどうか疑問なんです。 別人でしょうか。 またなにかありましたらよろしくお願いします。

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     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • ブッダ vs フロイト

     諸法無我の説によれば トラウマは    ( a ) 《永続しないし    すべて空観のもとに縁起として起こる仮りの現象であり     それ自体の本性(自性)は無い》  と見ることになると思われます。  つまり    ( b ) 心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。  と見ることになる。  これで よろしいでしょうか?  参考資料:  ▲(ヰキぺ:無我) ~~~~~~~~  § 初期仏教  『スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではない(諸法無我(パーリ語:sabbe-dhammaa-anattaa सब्बे धम्मा अनत्ता)と観察し、これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。  § 大乗仏教  ・・・無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起説であり、ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった。  このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説からより発展した空の思想が完成した。  龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。  ● (ヰキぺ:心的外傷) ~~~~~~~  § 心的外傷(しんてきがいしょう)とは、  外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す。  外傷体験 (traumatic experience) ともいう。  これが精神に異常な状態を引き起こすとPTSDとなる。  § 概念  典型的な心的外傷の原因は、幼児虐待や児童虐待を含む虐待、強姦、戦争、犯罪や事故、いじめ、暴力、アカハラ、パワハラ、セクハラを含む悲惨な出来事、実の親によるDV、大規模な自然災害などである。  重度の心的外傷(トラウマ)によりPTSDなどの精神疾患が生じた場合は、精神療法(心理療法)や薬物療法などの治療が有効である。  症例の目安としては(成人であっても)幼児還り現象が見られる事がある。これは保護を求めるSOS信号として罹患者から発せられるが、時に夜驚症の反応を交えるため、対応には慎重さが要求される。軽度の場合はヒステリー状態が短発的に継続発生(間を置いて寄せ返す波の様に)するのが平均の状態ではあるが、社会生活を営む上で若干の弊害がある為、専門的治療が必要な場合も有りうる。  全く治療せずに罹患者を放置した場合、自傷行動を含む危険行為を行う場合もある。仮に放置状況が継続しうる環境に患者が居ても、本人自身による回復迄の時間と費用は対数規模になる為、治療優先の判断が必要と思われる。  ~~~~~~~~~~~~~   もし たたき台としてなら  ( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。  この命題を掲げますが これらの事態について納得のゆく説明をおしえてください。いろんな観点からのお考えをお寄せください。

  • 悟りには、ゴータマ・ブッダと同じ身体が必要か?

    同じことを経験するには 同じ身体と同じ環境が必要ではないだろうか? つまり、悟りは無理か?