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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ブッダ vs フロイト)

ブッダ vs フロイト | センセーショナルなタイトル

このQ&Aのポイント
  • 諸法無我の説によれば、トラウマは存在しない現象であり、心的外傷は屁の河童と見なされる。
  • 仏教では無我の概念が重要であり、それによって平和な涅槃の理想に到達することができるとされる。
  • 心的外傷は外的内的要因による衝撃的な体験によって引き起こされ、精神療法や薬物療法の治療が有効であるとされる。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

ご無沙汰しております。 >( b ) 心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。 これでよろしいでしょうか? ☆ 仏教的にいえば 「心的外傷は現象として起きても、心的外傷は本質的に無我、空である」 とは言えますが、「屁の河童である」とは言えません。 なぜなら、仏教の「無我」、「空」は存在の否定を意味しておらず、 物質的、精神的現象の存在性を認めているからであり、 因縁で生じたさまざまな現象が我々の肉体、精神へ及ぼす影響力を認めているからです。 (おそらく、仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、 その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとるのでしょう、たぶん) bragelonnneさんは、「諸法無我」の「無我」を「我執がない」と解釈していらっしゃいますけれども、 この無我は「アートマン(我)」がないという意味で、 「あらゆる現象にはアートマン(実体)がない」、 「現象はさまざまな原因や条件で成立しているのであって、現象そのものに恒常不変のアートマンが存在するわけではない」 という意味です。 >( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。 ☆ 「トラウマは、さまざまな原因、条件があって生まれる(因縁所生)。 だから、その原因、条件を一つ一つ対治してゆけば直る」 ということを意味するのならば、仏教的にこの主張は正しいです。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこにゃあさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  いろいろあるようですが・つまり浅く乱暴に解したところがあるようですが 最後の命題について肯定の回答をいただきました。  ☆ ~~~~~   >( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。  「トラウマは、さまざまな原因、条件があって生まれる(因縁所生)。  だから、その原因、条件を一つ一つ対治してゆけば直る」  ということを意味するのならば、仏教的にこの主張は正しいです。  ~~~~~~~  ★ でしたら こんどは その直すことをやってるんでしょうか? と尋ねたくなりますが まづは この主張をきちんとはっきりと打ち出すことが大事だと思います。  ☆ トラウマは、さまざまな原因、条件があって生まれる(因縁所生)。  ★ つまり   ( d ) トラウマという心の傷は それとしての実体のある存在としてはいっさい存在していない。《生まれている》と言っても その現象には それ自体で自存するという実体はない。    とはっきり言えるのでしたら しめたものです。  ☆ 仏教の「無我」、「空」は・・・因縁で生じたさまざまな現象が我々の肉体、精神へ及ぼす影響力を認めているからです。  ★ ですから この影響力について  ( e ) トラウマという現象が われわれの身と心に及ぼす影響を具体的にきちんと分析し検証するという作業が望まれる。    と考えられます。ここは ブディズムの真骨頂であるのではないでしょうか?  精神分析では トラウマの完治については 懐疑的なのではないでしょうか? そんな思想にまかせておくわけにはまいらない。こう考えますが どうなのでしょう。  すでにこういうことは言われて来ていましょうか。すでに対処されていましょうか。  もし放っておかれているのならば 仏教もただの観念論だと蔑まれざるを得ません。  ありがとうございました。こんなふうに思いました。

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その他の回答 (8)

  • kurinal
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回答No.9

>「《根治》なら 心配はないわけですから。」 いかにもフロイトらしい、ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてご回答をありがとうございます。  いえいえ。これは 強いて言えば 確かにブディズムの《無我説=縁起説=空観》の立ち場として わたしが勝手に言ったことばです。  言いかえると フロイトは わたしはまるで敵対しています。ムイシキ説は おかしいと思っている者です。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

「卒業」と「根治」との違いを、よろしれければ、ご教授ください。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてご回答をありがとうございます。  それは  ★★(回答No.6) ・・・「必要以上に心配することは無い」、ということが判れば、トラウマ卒業、でしょうか。  ☆ とありましたから 《卒業》したとしても ちいさく傷の痛むこともあろうかと思ったからです。少し心配することが必要な場合が あるというかたちで。    《根治》なら 心配はないわけですから。

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  • kurinal
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回答No.7

>「早く言えば 《完治することではないが ほぼ終わったと言える状態にまでは成れる》ということでしょうか」 仏教的に、凄いことを示唆されていると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてご回答をありがとうございます。  いえいえ。わたしは ブディズムについて知識として知っていることがあるだけです。むしろ批判しています。もっとしっかりせえいと。  でも 《根治》すると行きたいところでもあります。

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  • kurinal
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回答No.6

bragelonneさん、どうも。 「トラウマ」に関して言えば、 「確かに(過去)生じた、危機的状況が、(仰る通り、)一生つづくというのでもない」 ですが(それは)「確かに(過去)生じたもの」なのですから、「全ては仮のこと」などとも言えない。 ・・・「必要以上に心配することは無い」、ということが判れば、トラウマ卒業、でしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいて ご回答をありがとうございます。  ★ 「確かに(過去)生じたもの」なのですから、「全ては仮のこと」などとも言えない。  ★ ・・・「必要以上に心配することは無い」、ということが判れば、トラウマ卒業、でしょうか。  ☆ としますと  ★ 「全ては仮のこと」などとも言えない。  ☆ というのは ひとまづとしてでも ブディズムの縁起説とは別だという主張のようです。  ★ 「必要以上に心配することは無い」、ということが判れば  ☆ ということは 早く言えば 《完治することではないが ほぼ終わったと言える状態にまでは成れる》ということでしょうか。  そうしますと いづれの場合も ブディズムによれば 《完治する》ものであり それはなぜなら ただ仮りにそういう現象が起きているだけなのだから と言うと思います。このところブディストは弛(たる)んでいますから はっきりと言わないし関心もないとさえ言うかも知れませんが これを放っておくわけにも行かないはずです。  あとは ブディストの側の問題になるということかも知れません。  くりなるさん ありがとうございました。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

bragelonneさん、こんばんは。 いわゆるPTSDからの立ち直りには、「そのような(PTSDの原因となったような)危機は既に去り(過去のものであり)、(現在から未来にかけては、過去に生じた危機とは無関係に)安全なのである」という安心感を得られることが肝要であると、聞きかじっております。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうしますと どうなりましょうか。  ★ いわゆるPTSDからの立ち直り  ☆ これは ありうるということになりますね。トラウマが 一生つづくというのでもない。これでよろしいのですかね。そして そのことは ブディズムが 無我説=縁起説=空観で トラウマもうつろいゆく現象であり すべては仮りのことであるとわざわざ言わなくても トラウマは直る。こういうことなんでしょうかね。  それでしたら 特に問題にすることもなかったかも知れませんが。  そういう見方もあるということ 承りました。ありがとうございました。

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  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.4

>心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。    屁の河童であるというほど、生易しいものではないですが。      本性(自性)を自覚すれば直るでしょう。      本性(自性)自覚すれば直そうとするのを止められますから、表面上の心の表れは   雲の流れのように変わっていくもの、それをトラウマ或いは症状とし智的はからいを遣ってしますので   本来、雲の流れのように変わって行く表面上の心が症状として固着していきます。   表面に現れる心が本来、本人の智でコントロール出来ないと解ればいいわけです   tumaritou1さんが神との和解とか無意識の意識に出会ったと言っていますが  これはtumaritou1さんなりの言い回し方だと思います、それにより直すことを止められた  のだと私は思ってます   自覚がなくても本人がとことん苦しんでもう直らなくてもいいと思えば直ります。   tumaritou1さんの言って、おられるのはフロイトの精神分析ではなく   禅に類似していると、いわれる森田療法が基盤になっています。       

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答ありがとうございます。  ★ 本性(自性)を自覚すれば直るでしょう。  ☆ 自性つまりアートマンなる・実体としての我がないと自覚すれば だと思います。  ところが けっこう むつかしい。もしくは ややこしいと あとで分かりました。  それは こうです。  ひとつは 例のアーラヤ識なる仮説とどうかかわらせるか。  種子とか薫習とかいうとき そのようなあたかも或る種の業としてのトラウマが 形成され受け継がれると見るのは あくまで仮りの現象である。とことわっているなら だいじょうぶなのですが。  もうひとつは 仏性です。  縁起説=無我説=空観に立って トラウマを生むような人間の実体としての本性(つまり 自性)はないと言うとき しかもその基礎には 仏性のやどりは 想定していると思われるからです。  あらゆるものに仏性がやどるという説は その仏性が じつは すでに何ものにも左右されない・変わらざる霊であると想定しているはずです。つまり 縁起を空と観る見方を超えて或る種のアートマンなる実体として 仏性を見ているはずです。そうでなければ トラウマからの自然本性の回復もかなわないと見ているはずです。  だから 仏性が 変わらざる実体であり自性であるなら トラウマないしそれを作ってしまうムイシキの領域もあるわいなと 勝手にうそぶくかも知れません フロイトなら。  あぁ こまった。困った。  必ずしもぜんぶにお応えしえていないとは思いますが このように述べて さらに進展を期します。  ご回答をありがとうございました。

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回答No.3

お気づきかもしれないが私は本来真面目な哲学が苦手で、質問文も最初の十行位しか読めませんでした。 それ以降は降参です。 むしろ無常に主眼を置くべきで、とらわれる処の執着なるものがあるなら、それは無常と異なる。 そこから我を悪玉にする無我の考えに発展したのではないか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 無常に主眼を置くべきで、とらわれる処の執着なるものがあるなら、それは無常と異なる。  ☆ そうですね。そうなのでしょう。そういうことなのでしょう。  そしてしかも それでよいのなら ふたつ そこからの発言や行動がすでに行なわれていて不思議ではない。こういう趣旨になります。  つまり  ひとつに トラウマは 心の傷としての現象が確かにまぼろしとしてではなく現実にあるが それとても 傷そのものとしての――自性としての――存在が つねにあるわけではない。つまりその傷とても 無常であるはずなのだ。必ず移りゆくものであり 直るはずであると。  こういうことをブディズムの側は 精神医学のトラウマ理論に対して しっかりとはっきりと言挙げしていなければウソである。と思います。    もうひとつに だとすれば 当然のごとくブディストとしてのあたらしい独自の精神医学がすでに切り拓かれていても 不思議ではない。こういう思いです。  こういう質問になっています。

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回答No.2

仏教は精神分析や精神医学、心理学といわれるものが生まれる2000年以上前に生まれた 宗教、思想なので、精神医学のトラウマについて触れられていないのは確かです。 歴史的にこれは仕方がないことだと考えます。 そもそも、仏教は、精神医学や心理学ではなく、心の平安を目指す宗教ですから。 さてさて、前置きはこれくらいにして、質問にお答えします。 > でしたら こんどは その直すことをやってるんでしょうか? と尋ねたくなりますが まづは この主張をきちんとはっきりと打ち出すことが大事だと思います。 ☆~~~ 日本の既成教団で現在そのような治療行為(?)を行っていないと思います。 >( d ) トラウマという心の傷は それとしての実体のある存在としてはいっさい存在していない。《生まれている》と言っても その現象には それ自体で自存するという実体はない。  とはっきり言えるのでしたら しめたものです。 ☆~~~ 「心的外傷は現象として起きても、心的外傷は本質的に無我、空である」 でおなじことを言ったつもりなのですが… >( e ) トラウマという現象が われわれの身と心に及ぼす影響を具体的にきちんと分析し検証するという作業が望まれる。  と考えられます。ここは ブディズムの真骨頂であるのではないでしょうか? ☆~~~ おっしゃる通りです。 「仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、 その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとる」 と書いたのは、そのためです。 心的外傷すなわちトラウマは、仏教的に言えば、 一種の迷い、心の動乱、迷乱、 あるいは、 ”幽霊を信じるような”誤った認識(虚妄分別・こもうふんべつ) に分類されるでしょうから、 仏教修行の実践(瑜伽)で本当に根治するかどうかは別にして たぶん、仏教の修行論のどこかに その解決策は示されていると思います。 仏教の修行論、教義(日本や中国のものではなくインドのもの)は、煩悩的迷い、知的迷いを含め、その構造を徹底的に分析し、 それを一つ一つ克服するために作られたものですから。 私は仏教の専門家でないので、 具体的にどのような修行(瞑想法)が該当するかは、答えかねますが… ☆~~~ 最後に 仏教修行が実際にトラウマの完治に役立つかどうかは別にして、 仏教は「仏教の修行法をただしく行えば誰でも悟りを得ることができる、 成仏することができる」という立場をとりますから、 トラウマも完治できるという立場になると考えます。 これが 「精神分析では トラウマの完治については 懐疑的なのではないでしょうか? そんな思想にまかせておくわけにはまいらない。こう考えますが どうなのでしょう?」 に対する私の答です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆ ~~~  最後に  仏教修行が実際にトラウマの完治に役立つかどうかは別にして、  仏教は「仏教の修行法をただしく行えば誰でも悟りを得ることができる、  成仏することができる」という立場をとりますから、  トラウマも完治できるという立場になると考えます。  ~~~~~  ★ これが 承け継がれて来ている伝統なわけですね。  そうしますと このこれまでの伝統の思想と修行に加えてさらに あたらしい心理学や精神医学を ブディストの人びとが切り拓いて行くということ これが望まれますし むしろすでにじゅうぶんに研究と実践が行なわれていてもおかしくない。こう思われます。  ☆ ~~~  「仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、  その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとる」  ~~~~~  ★ これは 基本的な伝統の哲学だと思われますので さらにそこへ精神医学を積極的にそしておそらく批判的に摂り入れて あたらしい医療哲学を形成して行けばよいと思われます。  そうでなければ 仏教はもう終わったかと言われても仕方がないのではないでしょうか。  勝手ながら。かつ ぶっきらぼうにて。

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     (α) 生まれつき《清浄心》であるとすれば そしてこれを《仏性》と呼んでしかもそれもあくまで経験事象であるとすれば 特別の修行を必要とすることなくふつうの勤勉な社会生活によってこの《自性清浄心》は 実現しうるし回復しうる。のではないか?  (α‐1) 特別のおこないを必要としないという意味を表わそうとして言うとすれば それは《聖なる甘え》において得られるのではないか?   (α‐2)  この世のシガラミによって清浄心がよごれて来ているとするなら そのつど余計な判断を中断して静かに世界の中に置かれたおのれを見つめるとき・つまり《エポケー》をおこなうとき そのシガラミはただ縁起によって起こるものとして空であり もともとの清浄心じたいも仮りの姿として空であると見られるようになる。ただ これだけのことではないのか?  (α‐3) 《白紙還元》あるいは《われにかえる》と言うだけで済むのではないかと問うたのであるが エポケーということを持ち出さずとも 日本語にはちょうどいい具合いに《甘え》という言葉もある。  (α‐4) シガラミにかかわる相手や社会力学上有力な派閥や組織に甘えるのではなく――そういうかたちのエポケーがあるとしたらそれは 思考停止によって動物状態になることであろうから そうではなく―― まづこの経験世界を こんどは赤子の状態になって 超えることである。(因果関係から自由な状態になるという意味である)。  (α‐5) つまりは 非経験の場としての神(または 無い神)を対象として・つまり非対象として わが心の《非思考の庭》において 《聖なる甘え》を持つ。これだけで済むことではないか?    (α‐6) 念仏称名は そのあと感謝の心からするものである。事前においては 関係ない。(絶対他力ということで 甘えと通じるかと思い この事項もつけ加えたい)。  ☆ かなり飛躍した議論であり また 粗い議論のままですが 以上のように問います。        *   ▲(ヰキぺ:自性清浄)  ~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84  §1 自性清浄(じしょうしょうじょう、prakrti-prabhasvara、prakrti-visuddhi)は、  ( a ) 自性として(本来、生まれつき)清浄なことを意味する言葉。  ( b ) 仏典では多くの場合、心について言われる。  §2. 概要  ( c ) パーリ増支部に、       「比丘たちよ、この心は光り輝いている。      ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」   とある(いわゆる心性本浄説)。  ( d ) 光り輝いている(光浄、清浄)とは白紙のような状態と解される。  ( e ) 自性として、には本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている。  ( f ) そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。  ( g ) 唯識説は瑜伽行によって心が離垢することを重視し、自性清浄と併せて「離垢清浄」を並べ、さらに「所縁清浄」(仏の法すなわち教説の清浄性)、「道清浄」(修行道の無漏性)と併せて、「四種清浄」という。この場合、自性清浄は真如、法界を意味する。  ( h ) 尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。  ( i ) 大乗仏教はすべてこれを承認する。  ( j ) ただし、『般若経』は清浄を「空」の意味に解し、広く法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。  ( k ) これに対し、如来蔵系の理論では、自性清浄心を如来蔵、仏性の名で、如来の法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性と呼んでいる。  ( l ) また、『大乗起信論』はこれを本覚とも呼ぶ。  ~~~~~~~~~~~  (β) 《自性》について これを あくまで経験事象として見るか〔( j )〕 または非経験の場として想定するか〔( k )〕のふたつの見方に分かれるようである。  (β‐1) 上の(α)の仮説は 自性が単なる経験事象であるとしても成り立つとするものである。  (β‐2) 《白紙還元》と言ってもおそらく複雑かつ微妙だろうと思われる。つまりは 清浄心に還るとかそれを回復すると言っても 子どもに成りきった状態で生きるのではないであろうから そうではなく おそらく白紙還元によって いまのシガラミを空と見るというその境地を築くことなのだと考えられる。つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。  (β‐3) げんみつで細かい議論があるかと思われますが あとは 互いのやり取りの中で明らかにし得たらよいと考えます。  よろしくどうぞ。

  • 初期仏教のわかりやすい本を探しています。

    初期仏教、原始仏教を勉強しています。 岩波文庫の「ブッダのことば」と「真理のことば 感興のことば」は 持っています。 それ以外で、五蘊や無明、無常、因果応報、彼岸、縁起、などを 簡単簡潔に説明した本を探しています。 特に、般若心経に書かれている「物体や精神には実体がなく空(無我)であるという教えを深く知りたいです。 よろしくお願い致します。

  • 最近、仏教のナーガールジュナ(龍樹)の哲学について調べています。そこで

    最近、仏教のナーガールジュナ(龍樹)の哲学について調べています。そこで一つ気になったことがあります。ナーガールジュナの帰謬論証、無自性空の論理に対して、二ヤーヤ学派や説一切有部は、どのような理論をもって対抗したのでしょうか。他の書物を幾つか読んでみても、その点が全く書かれてありません。 どなたか教えていただけると、非常に助かります。よろしくお願いいたします。

  • 死後の世界、魂(霊)について仏教での見解の相違

    仏教系の新興宗教では概ね、死後の世界、魂(霊)有りといいます。 仏教の現場の僧尼は、「よくわからない」「あると思う」などばらばら。 宗教学者、仏教学者、評論家は無いといいます。 仏典には、ちらっと読んだ場合は、 有ると取れる記述の方が多いと思います。 なのに、「空」や「無我説」をもって、死後の世界も霊も無いと 断定するのはなぜでしょうか。

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • お釈迦様本来の教えの範囲

    お釈迦様が自身で説かれた教えの範囲を教えて下さい. 最近仏教に興味を持つようになり関連する書物を読んだ者です. その中で仏教の教えの中にはお釈迦様が説かれたのではなく,後世の人間か中国を経由している間に付け加わった教えがあるような気がしてきました.お釈迦様本人が説いたとされる内容はどのような物でしょうか? ・諸行無常,諸法無我,涅槃寂静はお釈迦様の教えですよね? ・輪廻転生,六道は違いますよね? ・般若心経に出てくる空はお釈迦様の教えですか? 分かり易く纏められたサイトなどがあれば紹介してもらえないでしょうか? カテゴリが良く分からないのでここに投稿します(宗教を捜したのですが見つかりませんでした).

  • フロイトのタナトス

     ( a ) 生まれつきの自然本性には 《死の欲動》などはない  と見るものですが 現在の時点でどういうふうに捉えられているのか できましたら 解説をお願いしたいと思うのですが。  ▲(ヰキぺ:デストルドー) ~~~    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC  § フロイトの説  精神分析の臨床では死の欲動を確認する術は少ないとフロイト自身言っている。  事実この概念を想定するのはマゾヒズムやサディズムの発生機序や、陰性治癒反応、それに外傷神経症という夢の願望充足の例外を捉えるためである。  しかしこの概念は超自我の破壊性を説明するものとして考えられており(エディプスコンプレックスを通して父親からの去勢不安や父親自身への子供の怒りが超自我という分裂した自我に引き継がれて、死の欲動は子供の中心的な自我から分裂して存在するという理論)、それ故にフロイトにおいては重要なものとして後年まで考えられた。  ~~~~~~  ☆ というふうに   ( b ) フロイトの説じたいも あやふやなのでしょうか?  ▲(同上) ~~~~  § 後継者の発展  Federnは最重度のメランコリーに「死の欲動」が観察されるとし、同様の指摘はしばしばなされる。  フロイトの弟子にも受け入れた者はいたが、しかし大勢ではフロイトの「死の欲動」概念は批判が多く、フロイト死後になってから、死の欲動の考えを取り入れた学者達により新たな展開がなされてゆく。  継承発展させた人物はメラニー・クライン、ジャック・ラカンが代表的である。  現代では「死の欲動」という概念は精神分析の臨床では用いられにくく、むしろ「攻撃性(アグレッション)」それ自体が本質的なものとして考えられている。  それは臨床において現れるのは「死の欲動」という概念ではなく、むしろ医師への攻撃的な反応や怒りだからである。  また自傷行為や自罰行為も見られ、このことから「攻撃的なもの」としての死の欲動の概念が深く考えられるようになった。  ~~~~~~~~~  ☆ 質問者の理解では   ( c ) たとえば広義のエロスなる生の欲動は おそらく生物としての生まれつきのチカラとそのハタラキだと考えますが タナトスなる《死の欲動》は もしそれがあったとしても飽くまで後天的なクセとして形成されたものである。すなわち 派生的・第二次的な性癖であると捉えましたが その点 どうなのでしょう?  ( d ) ただし 次のような・元に戻るような見方も提出されていました。すなわちやはり 生来の欲動ではないかという。その点 どうなのでしょう?  ▲ (同上) ~~~~  § 現代への影響  フロイトに先立ちフリードリヒ・ニーチェが「神の死」を言明し、当時楽観主義は知識人の間では既に力を失っていた。  フロイトの思考の変遷も悲観的な世界情勢と無縁ではなかったであろう。  彼は第二次世界大戦の戦禍を見ずに亡くなったが、はからずもその後ヒロシマ・ナガサキへの核爆弾の投下、ホロコーストなどが起こって破壊衝動を「予言」したような形になり、水爆開発などで現在では計算上は人類を複数回滅ぼせるほどの大量破壊兵器を所持していることが明らかになっている。  後世多くの精神分析家が「死の欲動」論を援用してこのような人間の暗黒面の解明に切り込んだ。  ~~~~~~~~  ( e ) この《死の欲動》を 人間なる存在そのものの中に組み込む見方は まわり回って例のユングの《四位一体》説と軌を一にしていると思われるのですが その点 どうなのでしょう?  すなわち 神の三位一体に それと同等の位格を持つ悪なる神を加える見方です。この第四の位格のアクマが けっきょくタナトスなる死の欲動と類型的に同じ内容となっている。のではないか?  よろしくどうぞ。  ( f ) ヨーロッパの知性は 気がくるっている。のではないでしょうか? 四位一体説に立つなら 善は悪 悪は善というふうに 何でもかんでも うまく言いくるめることが出来ます。不法行為も犯罪もすべて 悪であるが同時に善であるとなります。善〔なる神〕と悪〔なる神〕とが互いに同等であるならです。  しかも わるいことに 神などは存在しないとする向きがあっても その説は――存在するという説についてと同じように――ついぞ証明しえないことなのですから。  組織宗教としてのキリスト教は 観念の神をいだきこれを何だかんだといじくるのは くるっていませんか?