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ブッダ vs フロイト | センセーショナルなタイトル
- 諸法無我の説によれば、トラウマは存在しない現象であり、心的外傷は屁の河童と見なされる。
- 仏教では無我の概念が重要であり、それによって平和な涅槃の理想に到達することができるとされる。
- 心的外傷は外的内的要因による衝撃的な体験によって引き起こされ、精神療法や薬物療法の治療が有効であるとされる。
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諸法無我の説によれば トラウマは ( a ) 《永続しない。 すべて空観のもとに縁起として起こる仮りの現象であり それ自体の本性(自性)は無い》 と見ることになると思われます。 つまり ( b ) 心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。 と見ることになる。 これで よろしいでしょうか? もし たたき台としてなら ( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。 この命題を掲げますが これらの事態について納得のゆく説明をおしえてください。いろんな観点からのお考えをお寄せください。 ( d ) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 仏教的にいえば 「心的外傷は現象として起きても、心的外傷は本質的に無我、空である」 とは言えますが、「屁の河童である」とは言えません。 なぜなら、仏教の「無我」、「空」は存在の否定を意味しておらず、 物質的、精神的現象の存在性を認めているからであり、 因縁で生じたさまざまな現象が我々の肉体、精神へ及ぼす影響力を認めているからです。 ( e ) ◇ ~~~~~~~~~~~~ (おそらく、仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、 その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとるのでしょう、たぶん) ( f ) ☆ ~~~~~~~~~~~ トラウマという現象が われわれの身と心に及ぼす影響を具体的にきちんと分析し検証するという作業が望まれる。――と考えられます。ここは ブディズムの真骨頂であるのではないでしょうか。 ( g ) ☆ ~~~~~~~~~~~ これは 基本的な伝統の哲学だと思われますので さらにそこへ精神医学を積極的にそしておそらく批判的に摂り入れて あたらしい医療哲学を形成して行けばよいと思われます。 そうでなければ 仏教はもう終わったかと言われても仕方がないのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ご見解を継いでください。あるいは初めにもどってご批判ください。 参考資料: ▲(ヰキぺ:無我) ~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 §1.1 原始仏教 『スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではない(諸法無我(パーリ語:sabbe-dhammaa-anattaa सब्बे धम्मा अनत्ता)と観察し、これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この無我は「アートマン(我)」がないという意味で、 「あらゆる現象にはアートマン(実体)がない」、 「現象はさまざまな原因や条件で成立しているのであって、現象そのものに恒常不変のアートマンが存在するわけではない」 という意味です。 ☆ 木に竹を継ぐ言い方になりますが これは《あらゆる現象には実体なるアートマンが無い》ゆえに 《〈我執〉という現象も 変わり得ない実体にもとづくものではない》と解しておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ § 1.3 大乗仏教 ・・・無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起説であり、ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった。 このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説からより発展した空の思想が完成した。 龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。 ● (ヰキぺ:心的外傷) ~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%9A%84%E5%A4%96%E5%82%B7 § 心的外傷(しんてきがいしょう)とは、 外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す。 外傷体験 (traumatic experience) ともいう。 これが精神に異常な状態を引き起こすとPTSDとなる。 § 概念 典型的な心的外傷の原因は、幼児虐待や児童虐待を含む虐待、強姦、戦争、犯罪や事故、いじめ、暴力、アカハラ、パワハラ、セクハラを含む悲惨な出来事、実の親によるDV、大規模な自然災害などである。 重度の心的外傷(トラウマ)によりPTSDなどの精神疾患が生じた場合は、精神療法(心理療法)や薬物療法などの治療が有効である。 ~~~~~~~~~~~~~
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以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。 【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。 ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。 空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。 みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。 慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。 そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。 【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。 ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】 【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】 次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。 ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?
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【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか? ・ これが 問いです。 【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。 【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。 【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。 【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。 ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。 ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99) § 2.2.2. 龍樹の空観 (あ) 龍樹は、 ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている ことを論証している。 * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか? (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、 ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。 * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか? (う) さらに、 ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない ことを明かしている。 * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。 つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。 * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。 (え) これを以て、 ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。 * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。 (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。 * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・ (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。 * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。 (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。 * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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(α) 生まれつき《清浄心》であるとすれば そしてこれを《仏性》と呼んでしかもそれもあくまで経験事象であるとすれば 特別の修行を必要とすることなくふつうの勤勉な社会生活によってこの《自性清浄心》は 実現しうるし回復しうる。のではないか? (α‐1) 特別のおこないを必要としないという意味を表わそうとして言うとすれば それは《聖なる甘え》において得られるのではないか? (α‐2) この世のシガラミによって清浄心がよごれて来ているとするなら そのつど余計な判断を中断して静かに世界の中に置かれたおのれを見つめるとき・つまり《エポケー》をおこなうとき そのシガラミはただ縁起によって起こるものとして空であり もともとの清浄心じたいも仮りの姿として空であると見られるようになる。ただ これだけのことではないのか? (α‐3) 《白紙還元》あるいは《われにかえる》と言うだけで済むのではないかと問うたのであるが エポケーということを持ち出さずとも 日本語にはちょうどいい具合いに《甘え》という言葉もある。 (α‐4) シガラミにかかわる相手や社会力学上有力な派閥や組織に甘えるのではなく――そういうかたちのエポケーがあるとしたらそれは 思考停止によって動物状態になることであろうから そうではなく―― まづこの経験世界を こんどは赤子の状態になって 超えることである。(因果関係から自由な状態になるという意味である)。 (α‐5) つまりは 非経験の場としての神(または 無い神)を対象として・つまり非対象として わが心の《非思考の庭》において 《聖なる甘え》を持つ。これだけで済むことではないか? (α‐6) 念仏称名は そのあと感謝の心からするものである。事前においては 関係ない。(絶対他力ということで 甘えと通じるかと思い この事項もつけ加えたい)。 ☆ かなり飛躍した議論であり また 粗い議論のままですが 以上のように問います。 * ▲(ヰキぺ:自性清浄) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84 §1 自性清浄(じしょうしょうじょう、prakrti-prabhasvara、prakrti-visuddhi)は、 ( a ) 自性として(本来、生まれつき)清浄なことを意味する言葉。 ( b ) 仏典では多くの場合、心について言われる。 §2. 概要 ( c ) パーリ増支部に、 「比丘たちよ、この心は光り輝いている。 ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」 とある(いわゆる心性本浄説)。 ( d ) 光り輝いている(光浄、清浄)とは白紙のような状態と解される。 ( e ) 自性として、には本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている。 ( f ) そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。 ( g ) 唯識説は瑜伽行によって心が離垢することを重視し、自性清浄と併せて「離垢清浄」を並べ、さらに「所縁清浄」(仏の法すなわち教説の清浄性)、「道清浄」(修行道の無漏性)と併せて、「四種清浄」という。この場合、自性清浄は真如、法界を意味する。 ( h ) 尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。 ( i ) 大乗仏教はすべてこれを承認する。 ( j ) ただし、『般若経』は清浄を「空」の意味に解し、広く法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。 ( k ) これに対し、如来蔵系の理論では、自性清浄心を如来蔵、仏性の名で、如来の法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性と呼んでいる。 ( l ) また、『大乗起信論』はこれを本覚とも呼ぶ。 ~~~~~~~~~~~ (β) 《自性》について これを あくまで経験事象として見るか〔( j )〕 または非経験の場として想定するか〔( k )〕のふたつの見方に分かれるようである。 (β‐1) 上の(α)の仮説は 自性が単なる経験事象であるとしても成り立つとするものである。 (β‐2) 《白紙還元》と言ってもおそらく複雑かつ微妙だろうと思われる。つまりは 清浄心に還るとかそれを回復すると言っても 子どもに成りきった状態で生きるのではないであろうから そうではなく おそらく白紙還元によって いまのシガラミを空と見るというその境地を築くことなのだと考えられる。つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。 (β‐3) げんみつで細かい議論があるかと思われますが あとは 互いのやり取りの中で明らかにし得たらよいと考えます。 よろしくどうぞ。
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( a ) 生まれつきの自然本性には 《死の欲動》などはない と見るものですが 現在の時点でどういうふうに捉えられているのか できましたら 解説をお願いしたいと思うのですが。 ▲(ヰキぺ:デストルドー) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC § フロイトの説 精神分析の臨床では死の欲動を確認する術は少ないとフロイト自身言っている。 事実この概念を想定するのはマゾヒズムやサディズムの発生機序や、陰性治癒反応、それに外傷神経症という夢の願望充足の例外を捉えるためである。 しかしこの概念は超自我の破壊性を説明するものとして考えられており(エディプスコンプレックスを通して父親からの去勢不安や父親自身への子供の怒りが超自我という分裂した自我に引き継がれて、死の欲動は子供の中心的な自我から分裂して存在するという理論)、それ故にフロイトにおいては重要なものとして後年まで考えられた。 ~~~~~~ ☆ というふうに ( b ) フロイトの説じたいも あやふやなのでしょうか? ▲(同上) ~~~~ § 後継者の発展 Federnは最重度のメランコリーに「死の欲動」が観察されるとし、同様の指摘はしばしばなされる。 フロイトの弟子にも受け入れた者はいたが、しかし大勢ではフロイトの「死の欲動」概念は批判が多く、フロイト死後になってから、死の欲動の考えを取り入れた学者達により新たな展開がなされてゆく。 継承発展させた人物はメラニー・クライン、ジャック・ラカンが代表的である。 現代では「死の欲動」という概念は精神分析の臨床では用いられにくく、むしろ「攻撃性(アグレッション)」それ自体が本質的なものとして考えられている。 それは臨床において現れるのは「死の欲動」という概念ではなく、むしろ医師への攻撃的な反応や怒りだからである。 また自傷行為や自罰行為も見られ、このことから「攻撃的なもの」としての死の欲動の概念が深く考えられるようになった。 ~~~~~~~~~ ☆ 質問者の理解では ( c ) たとえば広義のエロスなる生の欲動は おそらく生物としての生まれつきのチカラとそのハタラキだと考えますが タナトスなる《死の欲動》は もしそれがあったとしても飽くまで後天的なクセとして形成されたものである。すなわち 派生的・第二次的な性癖であると捉えましたが その点 どうなのでしょう? ( d ) ただし 次のような・元に戻るような見方も提出されていました。すなわちやはり 生来の欲動ではないかという。その点 どうなのでしょう? ▲ (同上) ~~~~ § 現代への影響 フロイトに先立ちフリードリヒ・ニーチェが「神の死」を言明し、当時楽観主義は知識人の間では既に力を失っていた。 フロイトの思考の変遷も悲観的な世界情勢と無縁ではなかったであろう。 彼は第二次世界大戦の戦禍を見ずに亡くなったが、はからずもその後ヒロシマ・ナガサキへの核爆弾の投下、ホロコーストなどが起こって破壊衝動を「予言」したような形になり、水爆開発などで現在では計算上は人類を複数回滅ぼせるほどの大量破壊兵器を所持していることが明らかになっている。 後世多くの精神分析家が「死の欲動」論を援用してこのような人間の暗黒面の解明に切り込んだ。 ~~~~~~~~ ( e ) この《死の欲動》を 人間なる存在そのものの中に組み込む見方は まわり回って例のユングの《四位一体》説と軌を一にしていると思われるのですが その点 どうなのでしょう? すなわち 神の三位一体に それと同等の位格を持つ悪なる神を加える見方です。この第四の位格のアクマが けっきょくタナトスなる死の欲動と類型的に同じ内容となっている。のではないか? よろしくどうぞ。 ( f ) ヨーロッパの知性は 気がくるっている。のではないでしょうか? 四位一体説に立つなら 善は悪 悪は善というふうに 何でもかんでも うまく言いくるめることが出来ます。不法行為も犯罪もすべて 悪であるが同時に善であるとなります。善〔なる神〕と悪〔なる神〕とが互いに同等であるならです。 しかも わるいことに 神などは存在しないとする向きがあっても その説は――存在するという説についてと同じように――ついぞ証明しえないことなのですから。 組織宗教としてのキリスト教は 観念の神をいだきこれを何だかんだといじくるのは くるっていませんか?
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お礼
ねむりねこにゃあさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 いろいろあるようですが・つまり浅く乱暴に解したところがあるようですが 最後の命題について肯定の回答をいただきました。 ☆ ~~~~~ >( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。 「トラウマは、さまざまな原因、条件があって生まれる(因縁所生)。 だから、その原因、条件を一つ一つ対治してゆけば直る」 ということを意味するのならば、仏教的にこの主張は正しいです。 ~~~~~~~ ★ でしたら こんどは その直すことをやってるんでしょうか? と尋ねたくなりますが まづは この主張をきちんとはっきりと打ち出すことが大事だと思います。 ☆ トラウマは、さまざまな原因、条件があって生まれる(因縁所生)。 ★ つまり ( d ) トラウマという心の傷は それとしての実体のある存在としてはいっさい存在していない。《生まれている》と言っても その現象には それ自体で自存するという実体はない。 とはっきり言えるのでしたら しめたものです。 ☆ 仏教の「無我」、「空」は・・・因縁で生じたさまざまな現象が我々の肉体、精神へ及ぼす影響力を認めているからです。 ★ ですから この影響力について ( e ) トラウマという現象が われわれの身と心に及ぼす影響を具体的にきちんと分析し検証するという作業が望まれる。 と考えられます。ここは ブディズムの真骨頂であるのではないでしょうか? 精神分析では トラウマの完治については 懐疑的なのではないでしょうか? そんな思想にまかせておくわけにはまいらない。こう考えますが どうなのでしょう。 すでにこういうことは言われて来ていましょうか。すでに対処されていましょうか。 もし放っておかれているのならば 仏教もただの観念論だと蔑まれざるを得ません。 ありがとうございました。こんなふうに思いました。