• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ブッダ vs フロイト)

ブッダ vs フロイト | センセーショナルなタイトル

畑 茂夫(@Flareon)の回答

回答No.3

お気づきかもしれないが私は本来真面目な哲学が苦手で、質問文も最初の十行位しか読めませんでした。 それ以降は降参です。 むしろ無常に主眼を置くべきで、とらわれる処の執着なるものがあるなら、それは無常と異なる。 そこから我を悪玉にする無我の考えに発展したのではないか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 無常に主眼を置くべきで、とらわれる処の執着なるものがあるなら、それは無常と異なる。  ☆ そうですね。そうなのでしょう。そういうことなのでしょう。  そしてしかも それでよいのなら ふたつ そこからの発言や行動がすでに行なわれていて不思議ではない。こういう趣旨になります。  つまり  ひとつに トラウマは 心の傷としての現象が確かにまぼろしとしてではなく現実にあるが それとても 傷そのものとしての――自性としての――存在が つねにあるわけではない。つまりその傷とても 無常であるはずなのだ。必ず移りゆくものであり 直るはずであると。  こういうことをブディズムの側は 精神医学のトラウマ理論に対して しっかりとはっきりと言挙げしていなければウソである。と思います。    もうひとつに だとすれば 当然のごとくブディストとしてのあたらしい独自の精神医学がすでに切り拓かれていても 不思議ではない。こういう思いです。  こういう質問になっています。

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