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ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?

 なぜ直接には説かなかったのでしょう?  (α)の見解: バラモンないしウパニシャドの思想を改めさせるための開拓者として立ったから 直接には説かなかったが それはしかるべく後世において説かれるように用意はしておいた。  それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。  (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。  (γ):その他(?)  * もし(β)の見解を採る場合 ではブッダはいったい何を言おうとしているのでしょう? つまり潜在的な能力が普遍的にあるかないか分からないけれども いわゆる《さとり》を目指すということなのでしょうか?  * ブッダにかんしては 何もちっとも分かっていないのではないでしょうか? 活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。なければ はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?

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noname#135843
noname#135843
回答No.42

お久しぶりでございます。Hidocchiです。  愚見を述べたく、参加させていただきました。  Konsan29様の仰る以下の考えは、愚生とも共通しておりまし、またbragelonne様も、ほぼ同様かと存 じます。 >十二因縁は、人類発生以来、人間は愛欲の業を背負っている。 >(四諦と十二因縁によって)その業の世界から脱却し涅槃・悟ること。  >輪廻の苦からの解放である。  また、「“悟り”なる境地に達するには、“無明”の域から脱する必要があろう」ことも、誰もが認 めていることかと思っております。  ただ、ここで疑問が沸いてくるのです。 「実際の“実践”を通して、本当にそのような境地に達することが可能かどうか」をです。  その点、大乗仏教では、仏性が(以下に定義させていただいております)、全てのものに(ア・プリ オリに)備わっているため、“悟り”なる境地に達するための一種の“担保”が保障されています。 仏性:仏としての性質。仏の本性。仏となれる可能性。(goo辞典からです)  一方、(原点となっています)釈尊ご自身はかようなことをご教示せずに、どのような作用・志向性 ・潜在性でもって、“悟り”にたどり着けるのか? ということでございます(具体的な方法は四諦八 正道と示されてはいますが)。  極論を申し上げますと、「実践(修行)により、“悟り”の境地に達するのは、まぐれ当たりに頼ら なければならないのでしょうか?」、 「またその確証は何なのでしょうか?」 そしてまた、、、( これ以上話してしまいますと、お寺にはいけなくなりますので、差し控えさせていただきます) おそらく、ご質問者様がお聞きしたいことも、かようなことかと察しております(間違えていれば、深 くお詫び申し上げます)。 そこで、愚見を申し上げますと、 >なぜ直接には説かなかったのでしょう? (γ):あえて、求道者たる弟子達に伝える必要はなかった。  と解しております。 理由:舎利子ら十大弟子、および十大弟子のさらなる弟子達は、元々が実践化でもあり、求道者でもご ざいました。従いまして、彼らに対しては、あえてそのようなことを示さずとも、“教え”のみにより 、“悟り”に達することが可能だと、釈尊が判断されたものと 推察しております。実際、舎利子は「 弟子入りした後、その後すぐに最高の“悟り”を得た」とされています(以下のサイトをご参照くださ いませ。ただ、その“悟り”の確証は何だったのかは不明でございます)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/舎利弗  しかし、一般大衆化していきますと、そのようなことも言ってはいられなくなりました。そして、分 派の際、大乗仏教では、特に“仏性”なるものが求められたのではないかと考えております。  長文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  へぇーっ。極めて単純なんですね。つまり  ★(要約) ブッダもむろん 仏性を前提としていた。弟子たちかれを取り囲む人びとが 実践修行の過程にあるゆえ 取り立ててこの前提を言う必要がなかった。  ☆ となりましょうか。  ううーん。でしたら   ○ 大乗仏教にまでつらなる同じ一筋の道である。  ☆ こう考えられますね。ということは この一筋の道を受け付けないのは およそ上座部仏教の立ち場のみになるでしょうか?  あぁ それはそうと もう一点 問題があります。  ○ 諸法無我と仏性  ☆ との兼ね合いです。  ☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただし このとき――わたしにちらっと分かっている限りで言えば―― 次のような問題が生じます。  ○ もし《仏性》が 普遍的にして永遠のものとして 人間に誰ひとりとして残ることなく皆にそなわっているのだとすれば 《諸法無我》つまり《この世界にはそれ自身によって そしてそれ自身によってのみ 存在する普遍的にして不可変のものはない》というさとりの内容のひとつに抵触する。  ☆ ではないかと踏んでいます。どうですかねぇ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どうでしょう? けっこう難問であるように思うのですが?

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その他の回答 (71)

noname#100496
noname#100496
回答No.1

仏性を悟り、説明したのがブツダです。

bragelonne
質問者

お礼

 なんともおこたえのしようがありません。

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  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

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