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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)は?)

ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)とは?

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

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回答No.13

 お返事遅くて済みません。 >>そうですね。依然としてわたしは経文そのものに従っているわけではないのに それでもデカイ口をたたいているのですが これは――必ずしも ブディズム内部の教理に限った議論なのではなく そうではなく―― 宗派やそのひとつの宗教を超えてひとえに広く >>《神および信仰 ならびに〔信仰のオシエ化された(つまり それはオシエを信じるとなるとマチガイである)〕宗教にかんする一般理論》 >>の問題ではないかと考えて来ましたし ご議論に接してもその考えを持ち続けます。  この辺は、立場の違いなんでしょうが、私は各宗教を総合的に解釈するという視点においては、副次的な専門である認知科学の視点で研究はしています。けれども、認知心理学者パスカル・ボイヤー氏なんかは「宗教を一つのものとして扱って説明しようとするのは間違いである」っておっしゃっててたはずですが、私もこちらの立場によります。ある意味、人間個人の信仰心は認知能力のもっているバグだったりして、そのバグを役に立つ形にまとめたのが集団としての宗教であって、まとめるもののチョイスの違いがそれぞれの宗教には違いがあると思っています。最初の回答の中で私が答えたことはあくまで、瞑想体験や祈りによる体験みたいなものは同じような認知機能のバグが下地にあると思っているという事にすぎず、それをほかのものとまとめて出来上がった集団としての宗教の教義が同じという事ではないんですよね。 >>☆ そういった全体観からおおざっぱに見た場合には No.5のぼんぬふじさんとのやり取りで提出した構図は かなりその事情を明らかにしうるでしょうか?  (略)  今申し上げたように、実は私の視点は全体観といえるようなものではなく、瞑想体験や祈り体験という狭い範囲の中で見ることができる共通性という大変狭い範囲なんですよ。まぁ、自他不二と、梵我一如にかんしては文献学的な経典とサマタ・ヴィッパサナーという瞑想方法の整合性(パーリ聖典のなかでビパッサナー単独で説かれているのは確か『相応部』の一か所のみです)の問題を加味してはいますが。  こういった細かい差異はさておいて、先に示された図は、確かに仏教やキリスト教やその他の宗教の共通点としてこのようなブラ氏のいうような構図をつくることは可能でしょうが、それに漏れる宗教も存在すると思うんですよね。  例えば、確かアフリカだったかなファン族って人たちがいるんですが、彼らの宗教の中には自然的なものの創造主と文化的なものをつくった創造主がいるんですが、だれもこの神を気にしませんでした。ファン族は神よりも、実際に私たちに危害を加える死者の悪霊を避けるための儀礼や何やはするんですが、神には無関心だったようです。この時、ブラ氏の構図は当てはまるのか?私も宗教学の古典といわれる海外研究をいくつか目を通しましたが、民族宗教の中には上の構図に当てはまらないものもあるんじゃないかと思うんですよね。どうなんでしょう?  私としては全体論というのであればやっぱり個別性の重視になるんですよね。こういう立場の違いはありますよね? >>高崎直道監修・桂紹隆/斉藤明/下田正弘/末木文士編:シリーズ大乗仏教 第八巻 如来蔵と仏性 2014 >>・松本史朗:第六章 如来蔵と空  私は松本先生の基体説といいますか「仏性や如来蔵思想は仏教じゃない」って視点には反対です。松本先生は無我がバラマン教的なアートマンへのアンチテーゼと考えていますが、私はそうは思っていません。あくまで、『六方礼経』ののように、バラモン教的なアートマンに仏教的な意味を付加して仏教的なアートマン説を打ち立て、その中における無我説と考えています。それが、先の回答で挙げた金東華氏や西昭嘉氏の言う説だと思っています。  仏教以前のウパニシャッド文献『ブリハット・アーランニャカ・ウパニシャッド』では、この世を構成する要素の根源はアートマンでありと説かれていて、そもそもすべての要素にはアートマンがあるとあります。また、同時期の『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』にはサンプラサーダ(肉体と魂が分離し純粋に魂になった状態)のアートマンがブラフマンであるとあって、もともと存在しているアートマンが昇華してブラフマンに至ると考えられています。(記憶便りなんで、あくまでそういう趣旨の意見だってぐらいに思ってください)この、そもそも存在しているアートマンてのが、私の言葉では「教理の中に存在するアートマン」です。  そして、仏教において金東華氏や西昭嘉氏の言うような、中村元氏の『スッタニパータ』では「自我の安立」という、仏教の実践の中において「アートマンを確立する」という考えがうまれます。これが「実践の中に存在するアートマン」です。  その考えは仏教のみならずウパニシャッドのなかにも逆輸入され、大乗が大乗として自覚を持ち始めるのと同じぐらいの一世紀前後に成立した『マンドィーキヤ・ウパニシャッド』にも、化論寂滅になったものをアートマンと呼ぶというような、「実践の中にあるアートマン」の考えが比較的広く広がりを見せたころ、仏性説が仏教の中にあらわれます。  で、いまブラ氏が読んでおられる本に幅田裕美氏の論考がると思うのですが、私の読んだ印象ですが『涅槃経』に説かれる仏性は、如来常住とともに説かれ、「常住」はそもそも時間的永続性ではなく「いまここに」という空間的な連続性を表す語のようです。この文脈に立ったとき「一切衆生悉有仏性」の訳語はチベット語やサンスクリットの断片との比較の中で原意としては「如来が『すべての衆生に仏性があるという』時は正しく今ここにという実践がある」という意味ではないかという趣旨ことがあると思います。(私はそれが『スッタニパータ』では1146に出てきたお釈迦様の事ではないかと思うわけです)つまり、『涅槃経』なんかにある仏性説は「実践の中にある仏性」であって、決して「教理の中にある仏性」ではなかったはずです。こののち、『宝性論』なんかでは、そんな感じで解釈されていると思います。同書第五章「宝性論の展開」を参照して。  けれども、仏性という訳語は性はもともと持っているって意味ですから、おいおい教理に存在しているアートマンによっていってしまった。ってことになるんじゃないかと。  結果だけを見れば、教理のアートマンの根強さは感じますね。けれども、上に書いたような展開を十分に検討せず、基体説という単純化(仏性=バラモン教のアートマン)は、案外仏教理解を遅らせる結果になるんじゃないかと思うんですよね。  すんません。ちゃんとお答えになってないかもですが、すいません。後引用等も記憶便りなんで、あいまいなので申し訳ないです。誤字脱字乱文ご容赦を 合掌 南無阿弥陀佛

bragelonne
質問者

お礼

 ばか-はげさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 認知科学の視点  ☆ ですか。これは 言語学でも始まっているようですね。言葉の発生・語や文の生成などについてあらたな視点や認識が得られるのでしょうか。  わたしは お手並み拝見という・やや冷めた見方をしていますが。  ★ 最初の回答の中で私が答えたことはあくまで、瞑想体験や祈りによる体験みたいなものは同じような認知機能のバグが下地にあると思っているという事にすぎず、それをほかのものとまとめて出来上がった集団としての宗教の教義が同じという事ではないんですよね。  ☆ これはですね。むしろ基本として同じ理解に立っていると思います。  なぜなら 《信仰――個人の心の内面にとどまる非思考の庭――》のかたちとしては 梵我一如が一般的な類型になると見ていますが  ★ 宗教の教義が同じという事ではないんですよね。  ☆ ともまったくそのとおりに見ていますから。  なぜって そもそも個別には《神》の名前からしてそれぞれ違っているのですから。信仰の成果が何らかの言葉化されオシエとなった場合には それとして違いが出て来るのは 否めないと考えるからです。  梵我一如は 神と我れとの関係についてのかたちを示すものです。その信仰の成果が オシエとされたときには 人間観や世界観としてその思想は違って来るものと考えます。  《認知科学》が 信仰の形態としてもその初源の生成にまで認識をおよぼすことが出来るなら まづはそのときの結果を俟つことになると思われます。  ★ 実は私の視点は全体観といえるようなものではなく、瞑想体験や祈り体験という狭い範囲の中で見ることができる共通性という大変狭い範囲なんですよ。  ☆ こまかい事柄にかかわると見ます。     たとえば《祈り》は 《神と我れとのあいだの関係》について 経験行為として人間が持つ心的現象でしょうね。そのように基本の理解は やはり共通の内容として捉えることが出来る。    ただしその《祈り体験》とそこから得たことがらを表現した内容については 宗教によって違うのはおろか 個人ごとに違うのではないでしょうか。組織宗教としてそのような個人差をまとめて 一定のオシエとして掲げるというのは さらにそのあとの問題ですから。  《瞑想体験》も 特にそれが《修行》にかかわるのなら 個人差の問題であり そのあと宗教のオシエとしてのまとめの問題が来ます。  《全体観》というのは それでも(つまり そのような個人差や宗派の差があっても) 原点とも言うべき信仰の生成なるかたち これは 梵我一如なる類型として 例外なく共通である。こういう見解です。  ★ ・・・このようなブラ氏のいうような構図をつくることは可能でしょうが、それに漏れる宗教も存在すると思うんですよね。  ☆ これにつきましては 二点あらかじめ添え書きを持っています。  ひとつは イスラームです。これについては いわゆる唯一神のもとにありますから 簡単に梵我一如の構図をあてはめてもよいかと思うのですが わたしには 実際に・生活感覚として 《アッラーフ 対 われの関係のあり方》についてよく分からないのです。よって保留としてあります。  あとは いわゆる原始心性にもとづくアニミズムなどの宗教としては すでに触れないという方針を採っています。詳しい分析をしようと思えば そのつど当の宗教を取り上げて 把握すれば足りる。こう考えています。  ★ 例えば、確かアフリカだったかなファン族って人たちがいるんですが、彼らの宗教の中には自然的なものの創造主と文化的なものをつくった創造主がいるんですが、だれもこの神を気にしませんでした。・・・  ☆ かんたんです。その《創造主》にしろ《神》にしろ 《非知――非経験の場――》であるか無いかで判定すれば済みます。  もしたとえば八百万の神々は どう扱うのか? と問われれば それは 《非知なるひとつの神》の分身だと言っておけば済みます。  ★ 個別性の重視  ☆ と梵我一如なる普遍的な類型を打ち出す全体観とは 無理なく両立します。    ★ 松本先生は無我がバラマン教的なアートマンへのアンチテーゼと考えていますが、私はそうは思っていません。  ☆ これにつきましては すでにほかのやり取りにて私見を述べています。  梵我一如なる信仰のかたちは その梵も我もあくまで非思考の庭なる想定のうえでの《議論》なのですから この世の経験世界における《有る無し》や因果関係を超えたところの問題です。  言いかえると アートマンが有ると言っても無いと言っても その霊我なるアートマン(ないしブラフマン神の霊)には 何の変化も影響もありません。有神論か無神論か いづれか好きなほうで人間は 神とあい対すればよい。となっています。  人間の思考の領域における《テーゼやアンチテーゼ》の問題ではあり得ないのですから。つまり 仮りにアートマンと言い あるいはアン‐アートマンと返し さらには いやいやブッダダーツだとひるがえす。いづれも 一般類型としての《アートマン》のことです。名前が違うだけです。そういうお約束で成り立っています。  ★ 同時期の『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』にはサンプラサーダ(肉体と魂が分離し純粋に魂になった状態)のアートマンがブラフマンであるとあって、もともと存在しているアートマンが昇華してブラフマンに至ると考えられています。  ☆ それは すでに触れて来ましたとおり 信仰の体験をめぐるその成果については 個人差や宗派の差があるといった問題だと考えます。  そしてそのような成果は すでに言葉で表現されているのなら すでに哲学思想の問題となっていますから 大いに経験思考にもとづき互いに自由な批判をしあえばよい。こういう見方です。普遍性に欠けるオシエは 淘汰されて行くでしょう。  ★ この、そもそも存在しているアートマンてのが、私の言葉では「教理の中に存在するアートマン」です。  ☆ 《非知》だと言っているのに オシエないし《人間の思考》の中におさめられる(そして あたかも操作されうる)というのなら それは 信仰の理論に反しています。  言いかえると――文献や信仰の歴史を措いて捉えるのですが―― 梵我一如なる信仰論を持ったなら それだけで《実践》に入り得る。と見て 差し支えないと考えます。《オシエ》に還元しないなら そのまま実践の問題に成り得ます。  ★ そして、仏教において金東華氏や西昭嘉氏の言うような、中村元氏の『スッタニパータ』では「自我の安立」という、仏教の実践の中において「アートマンを確立する」という考えがうまれます。これが「実践の中に存在するアートマン」です。  ☆ ブラフマ二ズムの中でも 《オシエになる前のアートマンとしての直感》とそのあと《オシエとなったアートマン説》とがあるのではないでしょうか?   そして 梵我一如なる《信仰の生成》が先であってそこから《アートマン》を取り出しこれを理論化し そのあと《アートマンを確立する》という考えが生まれたとしても その考えじたいが 思考の問題であり思考の領域に神ブラフマンをすでに降ろして来ている。それを 修行をとおして実現するといった考えは 二番煎じなのです。  神は 息(風・霊 すなわち=アートマン)なり。と捉えたその初源の生成が 信仰としてすべてなわけです。オシエ化は・つまり宗教は やはり二番煎じです。  梵我一如なる普遍性(全体観)のもとに そのオシエをもともなった信仰や瞑想や修行の体験の成果にかんする宗派・宗教は なるほど個別性を重んじなければなりませんが 全体観を破るものではない。こういう認識であり 理論です。  ★ (私はそれが『スッタニパータ』では1146に出てきたお釈迦様の事ではないかと思うわけです)つまり、『涅槃経』なんかにある仏性説は「実践の中にある仏性」であって、決して「教理の中にある仏性」ではなかったはずです。  ☆ もし仮りに大幅にゆづりまして このとおりだったとしましょう。ゴータマこそが アートマンについての実践を見出しとなえた最初の人間だとしましょう。  だとしても 梵我一如は 《神および信仰》の理論として 普遍性を持つ。こう言えるはずなのです。    要は 《唯我独尊》なる立ち場は 成り立たない。誰もが いまだ目に見えぬ・人類にとって一つなる神のもとに生まれ生きているというサンガなる共生の理論が 大事です。  クリスチアニズムは 旧約からの神ヤハヱ―を揚げて棄てました。《ひとつの神》のもとに揚げて そこでユダヤ民族なる選良のための神であることを棄てました。  そういう革命が ブディズムにもおとづれる。のではないでしょうか。  こういうあらたな道が待っているのではないでしょうか? つつしんで申し上げます。    

bragelonne
質問者

補足

 おいそがしいところを ご回答をよせてくださってありがとうござました。  信仰の普遍的な類型とそしてその個別のあり方 この関係具合いなどをめぐりさらに問い求めてまいりたいと考えます。みなさん よろしくどうぞ。

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     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう?