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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)は?)

ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)とは?

superkeroyonの回答

回答No.15

《それぞれの宗教の個別性》に入ったようですね。 私見を述べさせていただくとすると、言葉にする、表現する、その時点で個別性が入ってくる。そこには、自然環境・生活環境の違いもはいってくるでしょう。 ただし、非思考の庭、直観の世界を、科学でとらえようとしても、言葉にする、表現することですから、非思考の庭、直観の世界から脱落すると考えています。つまり、いくら科学的分析といえども、このことに関しては、科学自体が宗教の一つの教義に脱落すると考えています。 非思考の庭、直観の世界を、適切にとらえるのは、言語表現を極力少なくしたという意味で、瞑想が最適であると考えます。もちろん、それは経験でのことではありますが。 また、瞑想こそ最適の立場は、宗教に関する学問という視点ではないことは百も承知しています。ただ、瞑想や信仰対象との遭遇体験によって、日常生活にもたらされた恩恵・知恵は巨大なものです。例えば、シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャンなどは、何十年もたって初めて別の人に証明されたような、数々の数学公式を、女神が教えてくれたと主張しています。また、東洋医学の基本的な考えは、瞑想からうまれたと言われています。直観の世界、それにもっとも近つきえる瞑想が、完全な誤りならこういう現象は起こり得ないと、私は考えます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ:  ★ 例えば、シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャンなどは、何十年もたって初めて別の人に証明されたような、数々の数学公式を、女神が教えてくれたと主張しています。  ☆ このご指摘がおもしろかったので 触れます。すなわち二週間ほど前に おそわりました。    ○ 【Q:日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8690362.html  (その回答No.6)◇ ~~~~~~~~~~~~  ちょいと余談。 / インドには「魔術師」と形容された、ラマヌジャンという数学者がいたんですよ。  ・・・  大学で系統的な数学教育を受けなかったため、彼は「証明」という概念を持っておらず、得た「定理」に関して彼なりの理由付けをするに留まっていた(寝ている間にナマギーリ女神が教えてくれた、など)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《論理もしくは 論理的なこと》と《ヒラメキ・直観》とのつながりですね。  ★ ただし、非思考の庭、直観の世界を、科学でとらえようとしても、言葉にする、表現することですから、非思考の庭、直観の世界から脱落すると考えています。  ☆ この点は 大事だと思います。  ここまで来れば もう大丈夫 てっぺんに行き着いたと思ってしまうのでしょうか。たとえば《天上天下唯我独尊》と言いたい気持ちになっちゃんでしょうか。  ★ ただし、非思考の庭、直観の世界を、科学でとらえようとしても、言葉にする、表現することですから、非思考の庭、直観の世界から脱落すると考えています。  ☆ ですから この《脱落》が分からないようになってしまうと この辺でよしとしようと考え その地点での知恵および知識が いわば偶像の神となってしまう。  偶像視・偶像化だけでは いかんせん 《個別性》の問題にはなりません。個人的なバイアスになります。  ★ 私見を述べさせていただくとすると、言葉にする、表現する、その時点で個別性が入ってくる。そこには、自然環境・生活環境の違いもはいってくるでしょう。  ☆ ですから このバイアスは じつはわたしのバイアスなんですと言う風に あけっぴろげに言えるならまだしもなんです。そうではないと もう偶像の神に首ったけになってしまう。  個別性は その人の置かれた自然や社会生活の環境全般が いい意味でもバイアスとして入り込むでしょうし その人の母語も或る程度 かかわって来るのでしょうね。  非思考の庭――この磁場のような庭――を活かして 心の深さやまた高さを示すようなヒラメキ直観の成果を 個別性において 表現しあって行くことが これからの活動のひとつでしょうね。

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