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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)は?)

ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)とは?

superkeroyonの回答

回答No.11

こんにちは。 宗教を統一的に整理しようとされていて、なかなか面白い視点だと思います。 ただ、 非思考の庭(直観・ヒラメキ) --------------------- 思考の緑野:思考・認識 感性の原野:直感・知覚 の、この------の分断については、どうだろうかと感じます。 各宗教において、それぞれの経験や感じたことがあって、非思考の庭での「信仰内容」にいきついているはずなのです。 厳密に論理的には想定かもれないけれども、各宗教においては、ある程度、場合によってはかなりの程度、経験によって裏つけられているのではないかと思うのです。 この------の分断という枠組みを儲けることによって、単なる想定なんだというところが、始めから意図されているのではないか、そこに恣意的なものがないでしょうか。 あと、《それぞれの宗教の個別性》の問題については、是非質問者さんや他の方々の洞察をおうかがいしたいところです。

bragelonne
質問者

お礼

 すーぱーけろよんさん こんばんは。ほとんど 初めましてでしょうか。ご回答をありがとうございます。  ★ あと、《それぞれの宗教の個別性》の問題については、是非質問者さんや他の方々の洞察をおうかがいしたいところです。  ☆ これは ぜひわたしもお伺いしたいですね。たぶんそれらを交えて 一般的な信仰の類型が 現実的になるかと思います。  ★ この------の分断については、どうだろうかと感じます。  ☆ つまり ほかのところでは 実線(_______)で隔ててしまっています。  ☆☆ (No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~   ○ (わが心なる非思考の庭)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ____________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ___________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ そうですね。それほど意識していなかったと言えば ぐうたらになりますが つまり実際の気持ちは 区切っておくという感覚があったといったところです。  それは 何故かと言えば はっきりしています。  《非思考の庭》は 特殊な場(庭)です。非知なる神(その名)を受け容れそれによって成った状態が推移する庭です。  つまり 受け容れる対象は じつは《非知 つまり 非経験の場》です。受け容れるというのは 経験行為です。  むろん 思考の緑野と感性の原野とは すべて経験行為の世界です。  そうですね  ★ 各宗教において、それぞれの経験や感じたことがあって、非思考の庭での「信仰内容」にいきついているはずなのです。  ☆ 《宗教》は 信仰によって具体的にはヒラメキをつうじて得た直観が すでに或る種の世界観を形作るまでの知恵や思想を提供しているので その思想が オシエとして表現されたところから始まるとわたしは見ています。  アブラハムは 長男を神にいけにえとして捧げるという事態に直面して 悩みに悩んだ結果得た結論が 《ひとは 非思考の庭にあって神の心のもとにやすらぎ〈わたしがわたしである〉ならば 自分をも他人をもひとはころさない》という直観を得た。  これは 信仰のたまものであり その成果です。  この信仰の実りをさらに 倫理的な規範と為して《なんぢ ころすなかれ》としたのが 《おしえ》であり宗教の始まりです。    ひとつに 個人の境地としての信仰による心の状態とそして そこから出たところの事態として すでに集団における或る種の秩序をもとめてのごとく規範を必要としてこれを律法(法律)としてかかげ人びとのあいだの取り決めとしたことと。  すなわちおっしゃるように シュウキョウと信仰とはつながってはいます。いますが 大きな違いもあります。  すでにオシエとなったときには その内容は 信じることではなくなっていることです。《なんぢ ころすなかれ》は 考えることであって 信じることではありません。  言いかえると 律法(法律)は 神ではないからです。  しばしば 人びとは 《宗教を信じる》というワケの分からないことを言います。これは あり得ません。そう表現していても そんなことは出来っこありません。せいぜい強く思うとか思い込むとか念じるとかであって 決して信じるではあり得ません。  ★ 厳密に論理的には想定かもしれないけれども、各宗教においては、ある程度、場合によってはかなりの程度、経験によって裏つけられているのではないかと思うのです。  ☆ ということなのですが そうなのですが そのとき同時に 《考える》と《信じる(心に受け容れる)》とは 決してまぜこぜにはならない区別があります。考えるのは 経験事象についてです。経験事物を信じるということは ほんとうにはありません。(強調や修辞学的なアヤとして言うかも知れませんが)。  という意味合いで いちおう区別のために 線を引っ張って分断していますが まぁ どうでしょうか。理屈は合っていると思うのですが。  お分かりのようにわたしは シュウキョウをこころよく思っていません。二人や三人があつまって いざセイノでみんなで一緒に 神を信じましょうというようなことはあり得ないからです。  学習会とか聖書研究会とかあるいは生活協同組合のような社会運動体であるとかあるいは修道院だとか そういった集まりや活動であれば ふつうであると思いますが 信仰を看板にかかげてオシエを《信じよ》という組織宗教は あり得ないことだと思っています。  すみやかに自己解体すべしと言って来ています。  信じる者であるならば 見えざる教会や見えない集まりとして 互いに力を合わせて行けばよい。こう考えます。  マルティン・ルーターは 万人司祭を言いましたが そもそも《司祭》という聖職者じたいが要らないのだと考えます。オシエは いまではふつうに哲学思想として吟味検証すればよいものと考えます。  ですから 勉強会はあり得ると思います。けれども 《信仰》にかんして 誰かが誰かをみちびくといったことは すでにフザケタお遊びになっているのではないかと考えます。  例によって 言いたい放題になりました。皆さんにも ツッコミのほうをよろしくどうぞ。

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