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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)は?)

ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)とは?

superkeroyonの回答

回答No.12

No11へのお礼、ありがとうございました。 非思考の庭は、思考や感性として経験に結びつきうるけれども、非思考の庭は信仰対象との関わりに発するものであるから、一般的な思考や感性とは区別しておこうというお考えと理解しました。 非思考の庭が、思考や感性として経験に結びつきうるものとしては、例えば、《ひとは 非思考の庭にあって神の心のもとにやすらぎ〈わたしがわたしである〉ならば 自分をも他人をもひとはころさない》ことを実際に経験したということが一つと思いますが、例えばどうすればそのような経験ができるのかの教えがあってもいいと思います。修行方法や祈りの方法を教えるとか、、、そういう意味では「見える」集まりも有効ではないかと思いますが、、、。 すみません、本題への回答ではなくて、、、。 《梵我一如》で遠くまでいけるはずだ(bragelonneさん)、、、自分も以前それを思い描いていました。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 《梵我一如》で遠くまでいけるはずだ(bragelonneさん)、、、自分も以前それを思い描いていました。  ☆ そうですか。それは それは。    汎用性があるだけではなく 神がいかに名が違っても けっきょく同じひとつの神であるというところについても しっかりと見通せるだけの信仰のかたちを語っている。こう思っています。  ★ 非思考の庭は、思考や感性として経験に結びつきうるけれども、非思考の庭は信仰対象との関わりに発するものであるから、一般的な思考や感性とは区別しておこうというお考えと理解しました。  ☆ ありがとうございます。そうしたいと思っています。  ★ 非思考の庭が、思考や感性として経験に結びつきうるものとしては、例えば、《ひとは 非思考の庭にあって神の心のもとにやすらぎ〈わたしがわたしである〉ならば 自分をも他人をもひとはころさない》ことを実際に経験したということが一つと思いますが、例えばどうすればそのような経験ができるのかの教えがあってもいいと思います。修行方法や祈りの方法を教えるとか、、、そういう意味では「見える」集まりも有効ではないかと思いますが、、、。  ☆ いえいえ 《本題》にかかわっています。《アートマン=つまり 聖書に言う聖霊・神の霊》がどのように非思考の庭で 一般に経験世界のことがらと関係しているかの問題だと考えます。  ★ ・・・例えばどうすればそのような経験ができるのかの教えがあってもいいと思います。  ☆ 信仰によって得た成果――つまり アートマンのハタラキとしてのヒラメキにおいて得られたイメージや直感――を《オシエ》として言葉化することまでは ふつうにおこなわれると思います。  アブラハムの知恵と信仰命題が 人びとに こんどは思考の問題として表現されて来て 持たれる。ここまでは ふつうにおこなわれると思います。《ころすなかれ。むさぼるなかれ。・・・》。  そのあとです 問題は。  モーセの場合は――自分自身は アブラハムと同じように個人としての内面における信仰にもとづき生きていますが―― 集団としての民族にとっての秩序をもとめたときに 《オシエ》を必要としたのでしょう。これが シュウキョウとなりました。  問題は そのあとです。  すべてを端折って結論に走りますが このオシエは 次のようなかたち・またはそれらとしての扱いになる。こう考えます。つまり シュウキョウとしては 要らなくなり 消えるという見通しです。   オシエ   ⇒ひとつに ナラハシ・慣習・民俗   ⇒ 法律   ⇒ 思想   ⇒ (過去の歴史としての宗教)  ・ じっさいに聖書においても エレミヤ書(31:31以降)で 二点すなわち 神は人びとの罪をすでに覚えない・忘れる および 神を知れと言っておしえることはなくなる と言っています。これは 新約でもへブル書(8章)で取り上げられています。  ・ つまり ヤハヱ―は みづからをこのように揚棄したと捉えられます。高いところにみづからを揚げ そこですでにみづからを棄てた。《神は 人間にとって ひとつである。名が違っても・また〈無い神〉であっても 互いに違いはない。》という神へとみづからを変革した。と捉えます。  ・ そのとき――つまり イエス・キリストの歴史への登場のあとは―― 罪の問題は解決され 神を知れとうったえるオシエは 要らなくなり シュウキョウは影形もなくなるようになる。と捉えます。  ★ 修行方法や祈りの方法を教えるとか、、、そういう意味では「見える」集まりも有効ではないかと思いますが、、、。  ☆ 《「見える」集まり》は コミュニティにおいていくらでもいやと言うほどにも いろんな形で持って活用すればよいと思います。宗教は要りません。と思います。  この質疑応答の場も そのひとつですね。  《修行》も要らないと考えます。と言いますか 自由だと思います。やりたい人がやればよいと。  《祈りの方法》は 聖書なら聖書にちゃんと書いてあります。それについての研究や批評も いくらでも著わされています。  つまり 信教・良心の自由はもとより 一般に自己表現(生活)全般にわたる表現の自由も 公理であるのですから たとえば〔過去の〕宗教にかんする研究もありましょうし 現在にもおける信仰についての議論 これも 表現されてくると考えられます。むろん みんなで話し合ってもいいわけです。  おそらくこれらは 《見えざる〔広義の〕教会》のもとにこそ自由におこなって行けるのではないか。とも思います。  《聖》職者についての《ヒエラルキア(聖なる支配秩序)》 またその組織 これは 要りません。そんなものを持ち続けるのは アホか! とさえ感じられます。《内面を外の人間関係・権限関係でしばっている》だけだからです。  いまだに 誰かさんはみづからを《神の地上における代理人》だと言っています。《無謬性を帯びている》と。これらは 屁の河童です。自己解体を勧めて行きたいと思います。(韓国に行くそうですね)。

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