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  • 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》

     これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?  ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~  「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.))   http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html  13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?  ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~  △  12章 45節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。  △ 5章 19節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  そこで、イエスは彼らに言われた。   「はっきり言っておく。   子は、父のなさることを見なければ、   自分からは何事もできない。   父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。  △ 10章 30節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたしと父とは一つである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。    ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ    聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト             ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス  すなわち  △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。  ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?  その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?  ▼ (スッタニパータ)  ~~~~~~~~~~~   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1074  師《ゴータマ)が答えた、     「ウバシーヴァよ。     たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は     滅びてしまって(火としては)数えられないように、     そのように聖者は名称と身体から解脱して     滅びてしまって、     (生存するものとしては)数えられないのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 選択集について

    法然の「選択集」はどのように専修念仏を根拠づけているのでしょうか。 どなたか回答してくだされば助かります

  • 選択集について

    法然の「選択集」はどのように専修念仏を根拠づけているのでしょうか。 どなたか回答してくだされば助かります

  • 選択集について

    法然の「選択集」はどのように専修念仏を根拠づけているのでしょうか。 どなたか回答してくだされば助かります

  • 選択集について

    法然の「選択集」はどのように専修念仏を根拠づけているのでしょうか。 どなたか回答してくだされば助かります

  • 奇蹟と宗教との関係

    以下、まじめな質問なので、ひやかしでのご回答はご遠慮ください。 キリスト教や仏教・神道他の聖職者の方や信徒の方、宗教や霊的なことに詳しい方のご回答をお待ちします。 1.奇蹟と宗教との関係はあるのでしょうか? 例えば、宗教心が厚ければ、奇蹟を起こすことは可能なのでしょうか? 2.カトリックでは、直接の関連を認めていないようですが、それではなぜ、カトリックでは、列聖の条件として、奇蹟を必要とするのでしょうか? プロテスタントでは、聖人を認めていないようですが、奇蹟については、どのように捉えているのでしょうか? 3.宗教心がなくても、霊感が強ければ、奇蹟は行えるのか? 街中で見られるいわゆる霊感師や占い師は、全部が全部宗教心があるとは思えませんが、こうした人たちが施すいわゆる「おまじない」と奇蹟の違いは何でしょうか? 4.人に見えないものが見える人は、どういう人でしょうか? 原因として考えられる両極端として、(1)幻覚・妄想 (2)心眼・信仰心 があると思いますが、他にもあるのでしょうか? 神や聖人の姿が見える人は、やはり素晴らしい人なのでしょうか? 例えば、カトリックでは、ルルド・ファチマ・グァダルーペの三大聖母出現がありますが、聖なる心を持っていたから、俗人には見えない聖母マリアの姿が見えたのでしょうか?

  • 創価学会の「御書」の内容について

    創価学会の「御書」の内容について質問です。 創価学会がその教えの根本としているのが、「御書」と呼ばれる日蓮さんというお坊さんが書いた辞書のように分厚い本だと聞きました。 その本の中に、「この教えに反対する者はためらわずに殺すべし」というような内容が書かれている箇所があると聞いたのですが、本当ですか? 具体的に分かる方がいらっしゃったら、何ページのどの部分かを教えていただきたいです。 実家に(確か)創価学会の「御書」が置いてあったと思うので、自分で確認してみたいです。 (昔の言葉で書かれているため、自分では探せないので困っています。) 宜しくお願いいたします。

  • 創価学会の「御書」の内容について

    創価学会の「御書」の内容について質問です。 創価学会がその教えの根本としているのが、「御書」と呼ばれる日蓮さんというお坊さんが書いた辞書のように分厚い本だと聞きました。 その本の中に、「この教えに反対する者はためらわずに殺すべし」というような内容が書かれている箇所があると聞いたのですが、本当ですか? 具体的に分かる方がいらっしゃったら、何ページのどの部分かを教えていただきたいです。 実家に(確か)創価学会の「御書」が置いてあったと思うので、自分で確認してみたいです。 (昔の言葉で書かれているため、自分では探せないので困っています。) 宜しくお願いいたします。

  • 仏教の基本について教えて下さい。

    これまで私は、仏教とは、仏(ほとけ)=おシャカ様(釈迦如来)=ゴータマ・シッタータといいう、「三位一体説」の一神教だと思ってきました。 ところが、うちの宗派(真宗大谷派)の本尊は釈迦如来じゃなくて阿弥陀如来だと聞いて、よく分からなくなってきました。 しかし、うちの菩提寺のお坊さんは、葬祭の時の説教でお釈迦様がどうのこうのって話をしますが、阿弥陀様がどうしたとかって話は聞きません。 他にも釈迦には、生まれてすぐ立ち上がって唯我独尊と言ったとか、極楽から蜘蛛の糸をたらして悪人を救済しようとしたとか、逸話がいろいろありますが、阿弥陀の逸話は聞いたことがありません。 如来になる前の釈迦がシッタータであったように、如来になる前の阿弥陀はどんな人だったのでしょう? そもそも、如来って「悟りを開いた仏」のことだと聞いたことがありますが、このほかにも大日如来、薬師如来などいろんな如来があるようです。 また修行中の仏が菩薩で、こちらも弥勒菩薩や地蔵菩薩など何人もいるようです。 つまり、シッタータを初め様々な「仏」がいて、修行してある者は如来になり、ある者は未だ菩薩だということでしょうか? そうなると、結局仏教って多神教なのでしょうか? あるいは如来や菩薩という称号、それを併せた仏という称号も、キリスト教の聖者(セイント)にあたり、どれも人間である、つまり仏教は無神哲学ということになるのでしょうか?

  • 仏教の基本について教えて下さい。

    これまで私は、仏教とは、仏(ほとけ)=おシャカ様(釈迦如来)=ゴータマ・シッタータといいう、「三位一体説」の一神教だと思ってきました。 ところが、うちの宗派(真宗大谷派)の本尊は釈迦如来じゃなくて阿弥陀如来だと聞いて、よく分からなくなってきました。 しかし、うちの菩提寺のお坊さんは、葬祭の時の説教でお釈迦様がどうのこうのって話をしますが、阿弥陀様がどうしたとかって話は聞きません。 他にも釈迦には、生まれてすぐ立ち上がって唯我独尊と言ったとか、極楽から蜘蛛の糸をたらして悪人を救済しようとしたとか、逸話がいろいろありますが、阿弥陀の逸話は聞いたことがありません。 如来になる前の釈迦がシッタータであったように、如来になる前の阿弥陀はどんな人だったのでしょう? そもそも、如来って「悟りを開いた仏」のことだと聞いたことがありますが、このほかにも大日如来、薬師如来などいろんな如来があるようです。 また修行中の仏が菩薩で、こちらも弥勒菩薩や地蔵菩薩など何人もいるようです。 つまり、シッタータを初め様々な「仏」がいて、修行してある者は如来になり、ある者は未だ菩薩だということでしょうか? そうなると、結局仏教って多神教なのでしょうか? あるいは如来や菩薩という称号、それを併せた仏という称号も、キリスト教の聖者(セイント)にあたり、どれも人間である、つまり仏教は無神哲学ということになるのでしょうか?

  • 宗教での地獄の違いとは

    キリスト教と仏教での地獄とはどう違うのですか? 仏教での地獄は小さい頃に絵本とかで見た影響で、赤い炎に包まれた場所、というイメージを持っています。 キリスト教でも神様の救いを信じない者は地獄に行く、と言われていた気がします。 でも温かい光の中にある天国のイメージしかありません。 キリスト教でいう地獄とは何でしょうか。 仏教と同じ意味で使われているのですか? 誰か教えてください。 (どのカテゴリに分類したらいいかわからず、哲学に分類しました。間違っていたらすみません。)

  • ブッダのことば「マガダ語」の探し方

    ブッダが話したらしいマガダ語。 釈迦族がどんな民族かにもよると思いますが。 ゴータマ・ブッダもマハーヴィーラも マガダ語で思考したのでしょうかね。 ところで 今まで、経典のどの箇所がマガダ語であるか という話を私は見聞きしたことがありません。 経典の中で、どのことばが マガダ語かはわかっているのでしょうか? マガダ語とはどのような言語でしょうか? どうやってマガダ語を探すのでしょうか?

  • 「nibbuta」と「nibbāna」の違いとは?

    Suttanipata (Pali Text) PTS Version (Andersen/Smith) https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/suttanipata.html スッタニパータのパーリ語テキストを読んで 涅槃と訳される言葉には 「nibbuta」と「nibbāna」があることがわかったのですけど、 この違いは何なのでしょうか? それから、安らぎは「santi」でしたけれども すると、涅槃は必ずしも安らぎではないのでしょうか? THE TIPITAKA http://awake.kiev.ua/dhamma/tipitaka/index.html

  • 「nibbuta」と「nibbāna」の違いとは?

    Suttanipata (Pali Text) PTS Version (Andersen/Smith) https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/suttanipata.html スッタニパータのパーリ語テキストを読んで 涅槃と訳される言葉には 「nibbuta」と「nibbāna」があることがわかったのですけど、 この違いは何なのでしょうか? それから、安らぎは「santi」でしたけれども すると、涅槃は必ずしも安らぎではないのでしょうか? THE TIPITAKA http://awake.kiev.ua/dhamma/tipitaka/index.html

  • お釈迦様の言葉に一番近い本を推薦して下さい

    さんたです。 こんにちは。 お釈迦様のおっしゃることが好きです。ですので、本を読もうと図書館に行きました。沢山の本があるのですが、以前聞いたこととして、「お釈迦様が亡くなった後は口伝えだったので、お釈迦様の真意が伝わっていない部分が多い」ということをネットで読んだことがあります。 あまり心配しなくても良いのでしょうか? お釈迦様の真意、またはそれに付随するお釈迦様の言葉が載った本をご紹介頂けませんでしょうか?有名でなくても結構です。 1つだけお願いです。あまりにも難解すぎないものをお願い致します。 一般的な本でも結構です。 これから長い年月をかけて、あたらめて「生きるとは?」深く掘り下げたいと思いました。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。 失礼致します。

  • 進化心理学をかじったら人生の意味を見失いました。

    私はこれまで、人生の意味を漠然と幸福になることかなと考えていました。ところが、最近進化心理学を少し学んでみたところ(かじった程度なので間違っているかもしれません)、その考えが揺らぎ、人生の意味を見失ってしまいました。 進化心理学では例えば、人間が甘い物を好きなのは、その食べ物自体が甘いのではなく、糖分を甘いと感じる人間だけがより多くのエネルギーを摂取でき生き残ったために、現代人も甘い物が好きだ、といったように考えるようです。 この考え方を推し進めると、結局は幸福も、幸福を追い求める特性が生存に有利だったために、現代人にも幸福を追い求める特性が残っているだけで、幸福に意味はないということになってしまうのではないでしょうか。また、愛や道徳など人間が人生において重要だと考えているすべてのものが、同様に「生存に有利だから残っているだけ」になってしまうのではないでしょうか。 進化心理学的には人生に意味はないのでしょうか。

  • 心理学、宗教学入門の良書を教えて下さい

    人間の考え方や行動などに興味があり、特に心理学、宗教学に対して強い関心を持っています。 入門書的なものから詳しいものまで、本のレベルはどんなものでも構いませんので、「この本は良い!」といったものを紹介していただけると嬉しいです。 宗教については個別の宗教というよりは「人類の中での宗教の立ち位置・役割・人類に与えた影響」など総合的に書かれてるものが好ましいです。 ※個別のものでもかまいません。 本当は大学など行けばいいのかもしれませんが、なかなか時間もないので、まずは本を読んでみようかと思い立ちました。 しかしなにぶんそういったジャンルについては無知なもので、参考になる情報がいただけたらと思い、質問しました。 どうぞよろしくお願いします。

  • 仏教の、説話。子供を亡くした母親。

    子供を亡くして嘆き悲しむ母親に対して、お釈迦様が「あなたが、死人を出したことのない家を見つけることができたなら、子供を生き返らせてあげよう。」と言ったので、母親はそのような家をさがすが見つけられなかったので、子供の死を受け入れられるようになった。というような説話があったと思うのですが、私はこの説話があまり納得できません。これが、子供ではなく靴だったら理解できます。でも、靴とは違い子供には心があります。心あるものを亡くしたとき、人は「痛かったろう。つらかったろう。」とその者の立場や身になって悲しみます。また、早く医者に連れていってやれば死なずに済んだろう、と考え自責の念にも苦しみます。そのような悲しみ、苦しみに対して、この説話では何も答えていません。高価な靴に対する所有欲を断つのと同じように、子供の死に対する悲しみも断つことができるように説いているように感じます。このように考えた私は、「もしかしたら、さとりを開いた人は、心ある者の存在も、靴のような心のない物質の存在も同列にとらえるようになるのか。」という思考に至りました。しかし、そうだとすると次のようになってしまいます。、漫画では、悪の帝王が世界征服のために、自分の部下を捨石、捨て駒として使い、その部下がレンジャー部隊に倒されても、武器が一つなくなったぐらいにしか思っていないのですが、そんな悪の帝王は悟りの境地に近いということになってしまいます。悟りを開くと、心ある者の存在も、靴のような心のない物質の存在も同列に見えるようになるのでしょうか?

  • 念仏も6万回唱えたら自力じゃないか

    先日、NHKの方丈記のテレビ番組を見てたのですが、 その中で「法然が念仏を6万回唱えたら、それはもう自力じゃないか」という 趣旨の発言があり、たしかにもっともだと思ったのですが 法然はこれについて何か反論してるのでしょうか?

  • 親鸞がやり遂げた大曼の難行とは?

    千日回峰行より厳しいようですが、どんな修行なのですか? また、親鸞は千日回峰行も満行されたのですか?