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一般的な傾向

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  • 周囲の人がおかしいと感じる

    僕の周囲の人間たちがバカに見えます。 どういうことかというと ・癇癪持ち ・偏見持ち ・田舎者 ・全体的に低所得者層 ・女性が荒々しく女性らしさをあまり感じない ・男性がいわゆるヤンキー的な人が多い それと 日本の国民性もあまり好きではありません。 ・敬語文化 ・序列を重んじる ・異端排除 ・集団、全体主義 反日感情とかではなく、このような傾向が強いことや 先進国ではないのに先進国だと思い込んでいるのも馬鹿らしく感じます。 これらのことから田舎に済む僕の狭い世界観からでは 日本も周囲の人たちもよくは思えていません。 もしかしたらそんな国ではないかもしれませんし そんな人ばかりではないとも思うのですが 今までの経験からするとやはりおかしいというか すごくいやに感じています。 だから海外先進国がすごく良く見えます。 好みの問題も大きくあると思うのですが 日本の、特に田舎の特徴として 低所得者層が強い偏見を持って田舎に暮らしているように 思えてならないのです。 それと最近テレビでやたら性的(SEX)の話題・コンテンツが 異様に増えてきていますし 一昔前でテレビでは深夜に一部番組でしか放送しなかった 内容(AVの映像そのままおっぱいまる出し)を流したり 乳もみゲーム、男をその気にさせるテク、女とベッドインする講座的なことやるなど SEX(性行為)という言葉がやたらと出てくるようになりました。 (幼稚園児や小学・中学生も見ているのですよ。) テレビ番組がyoutubeにアップされるのもうざいです。 テレビはテレビでネットはネットにしてほしい。あるいは テレビ番組だけをアップする動画サイトを作ればいいと思います。 この変な日本の文化とエロ描写の一般放送は 時代の流れなのでしょうがちょっと世紀末的だと感じます。 あと快楽を追っていくとSEXの上には何があるのでしょうか。 このSEXということはもうちょっと大事にしていかなければ いけないのではないでしょうか。 もしSEXが何でも無い普通のことになってしまったなら それ以上の簡易的な快楽ということになると麻薬という流れになって しまうのではないでしょうか。 そういった流れを世の中が組んで、いったい何を目的としているのでしょう。 陰謀論について言えば簡単に言えば世界支配の1%のエリートが世の中を搾取するのですが 搾取したところで99%は苦しくなるばかりで不満が蔓延して1%の肩身が狭くなることくらいは わかるはずなのですが1%のエリートはそんなにバカなのでしょうか。 もう地球には住んでいないのでしょうか? 搾取は環境破壊にもつながっていますし 地球が汚染されたら人間は困難になるということもわからないのでしょうか。 利権のためとはいえ、フリーエネルギーが隠蔽されているのは 意味がないのですがなぜ隠蔽されているのでしょうか? 電気的なテロの心配でもあるのでしょうか。 フリーエネルギーは世界中の貧困を無くすことができるものですし 人類は世界平和のために頑張ってきたはずです。 隠蔽するのはその逆だと思います。 たとえば水で車が走れば、モーターが動けば 大体の問題が解決してしまうはずなのですが 複雑な事情でもあるのでしょうか?

    • gipza
    • 回答数6
  • 稽留流産を経験し、どちらの医師が良いか悩んでいます。

    妊娠5週目でかなり薄い陽性反応があり、3日後、確かな陽性反応を確認。しかし、妊娠8週目で心拍の確認が取れず、全身麻酔によるそうき手術をしました。 もともとつわりでかなり弱っていましたし、当日はさすがに倒れ込んでいましたが、翌日には何故か体が興奮状態で更年期障害の様に、のぼせや息切れ、めまい、睡眠障害に悩まされるようになりました。 まだ4日後なので様子を見て医師に相談しようと思っているのですが、 これからの事も考えて、二人の医師の間でどちらにするか悩んでいます。 手術をお願いした医師は”術後3、4時間すれば日常生活に戻りなさい。”という様なタイプで、術後2時間も経っていないのに”これからお食事?(主人と)”と聞かれる程、何と言うか昔気質の方ですが説明を惜しまず、”あなたの体調と発育不全とはいっさい関わりがない。今ここで全てを忘れて前進していきましょう”という言葉が身にしみる、心強い方でもあります。 実は、妊娠前から妊娠5週目までは違ったタイプの医師に係っていて、その医師からはホルモンのバランスが悪いと指摘され、大豆、肉類(鶏、豚、ラム、牛)、チキンストックを断つダイエットを2ヶ月半まずやってみましょうという事で、その食事制限中に妊娠できたのですが妊娠中もそのダイエットをする事が本当に母子共に良い影響を及ぼすのか疑問があり、今回の医師を紹介してもらい受診したところ、赤ちゃんの正常な発育が見られなかった為、そうは手術に至ったという経緯があります。 ※ちなみにホルモン数値は全て規定内でしたが、多すぎるものと少なすぎるものがありました。 ただ自分の中で、ホルモンバランスが本当に今回の発育不全に関係していなかったのか、これからホルモンバランスの経過観察と食事療法がやはり私には必要で以前の医師に戻るべきではないかという気持ちも払拭できません。この医師でしたら、おそらく術後、最低でも数日間は安静を勧められたでしょうし。 以前の医師のクリニックは待ち時間にハーブティにゴディバのチョコレートと蘭が添えられて出てくるような場所で、今回の医師のクリニックは大病院のメディカルセンター内にある普通のクリニックでビジネス的な要素はあまりみられません。 どちらの医師も信頼できる方ですがあまりに全ての傾向が違うので、どちらにこれから通院すべきか悩んでいます。フィーリングだけでなく、自分自身の体調(ホルモンバランス)という事も関わってきていますし。。 海外在住という事もあり、どちらの医師の見解や指導が比較的一般的かもわかりません。ご意見や経験談を聞かせて頂けるとうれしく思います。

    • 2007515
    • 回答数1
  • 和訳の添削お願いします。

    Negativity on the Internet インターネットでの消極性 How might the Internet affect candidates’ tendencies toward negativity? インターネットは、消極性への候補者の傾向に、いかに影響をあたえうるのか? Does the medium influence their decision about going negative? メディア(媒介物)は、ネガティブ活動を行なうことについての彼らの決定に影響を与えるのか? These questions reflect an ongoing debate about whether behavior on new media matches or differs from that found in more traditional media. これらの疑問は、ニューメディアでの行動またはより伝統的なメディアで発見されていることと調和するのか、異なるのかどうかについての進行中の議論に反映する。 The innovation hypothesis posits differences, suggesting that online campaigning is “more disengaged from typical offline patterns of electioneering” (Schweitzer, 2008, p. 450). そのイノベーション仮説は違いを仮定する、オンラインキャンペーンは”典型的なオフライン選挙運動を解放する”と提案し、 In contrast, the normalization hypothesis suggests that “political practice on the Internet . . . closely resemble[s] politics offline and that traditional factors affecting the distribution of political resources . . . shape the way that political actors use the Web” (Foot & Schneider). 反対に、ノーマリゼーション仮説は、”インターネットの政治活動は、かなりオフライン政治活動と似ており・・・政治資源に影響する伝統的な要因の分配・・・は政治家たちがウェブを使う方法を形成する”と提案する。 Most extant work on negative campaigning, including our above theory, provides little insight into innovation versus normalization. 最も最新のネガティブキャンペーン活動、私たちの論理を超えることを含み、イノベーション仮説とノーマリゼーション仮説にわずかな洞察を与える。 Indeed, it ignores media differences and implicitly assumes that candidates aim their strategies at voters in general (e.g., the median voter). 実際、それはメデァイの違いを無視し、一般に候補者は彼らの戦略で有権者に狙いをつけるということを暗黙に推測している。 This may be a problematic assumption for candidate Web sites. これは、候補者のウェブサイトにとって問題のある想定かもしれない。 Engaged supporters visit candidates’ Web sites with much greater frequency than other voters, and as a result, may serve as the sites’ primary targets (e.g., Bimber & Davis). 熱心なサポーターは、他の有権者よりも頻繁に候補者のウェブサイトを訪問する。結果として、サイトの主要なターゲットとしての役割を果たす。 This, in turn, might induce candidates to be more apt to go negative online since attacks are less likely to alienate supporters (compared to voters in general). 順に、攻撃は、サポーターをいっそう遠ざけるの可能性があるので、これは候補者にネガティブキャンペーンを行ないがちにさせる。 Moreover, online negativity may stimulate supporters to participate (e.g., Levin,Schneider, & Gaeth, 1998), volunteer (e.g., Hansen, 1985), and donate funds (e.g., Miller, Krosnick, Holbrook, & Lowe, 2007). さらに、オンラインでの消極性は、ボランティアに参加するために、サポータに刺激を与えるかもしれないし、基金を寄付するかもしれない。 Trent and Friedenberg (2008) argue that “websites are not constructed primarily for undecided voters or voters who are strictly seeking information. . . . [Sites are designed to] influence a different set of decisions: whether to volunteer, whether to donate, whether to vote or stay at home” (Bimber & Davis). Trent とFriedenberg は、”ウェブサイトは、もっぱら、決めかねる投票者もしくわ情報を厳密に探している有権者のために、建設されていない・・・・・異なる決心に影響を与える:つまりボランティアするのか、投票するのか、寄付するのか、家にいるのか”と主張している。 In line with this logic, numerous analysts predict that the likelihood of negativity will be higher online than in other media (i.e., television). この理論に則せば、数いる分析家たちは、消極性の可能性は他のメディアよりもオンラインのほうが高いと予測する。 Some have even proclaimed that “attack politics has hit the Web in a major way” (Thornburg & White). いくらかは、”主要は方法において、攻撃的政治はウェブを批評する”と主張する The different cost/ benefit calculations of going negative online also might mean that the determinants of online negativity differ from those found in other media. オンラインでのネガティブキャンペーンの異なる費用と利益計算は、他のメディアにおいて見られるものにおいて、オンラインの決定は異なると、意味するかもしれない The advantageous cost/benefit structure of online negativity might compel all sorts of candidates to go negative, regardless of their status and the competitiveness of the race. オンラインの消極性のその優位な費用と利益構造は、ネガティブキャンペーンを行なうことをすべての種類の候補者に強いるかもしれない。彼らの状態や選挙の競争性に関わらず。 For these reasons, then, we may see differences between the Web and other media such as television. We now turn to empirically examining if this is, in fact, the case. これらの理由から、私たちは、ウェブと他のメディア(テレビ)の間の違いをみれるかもしれない。もし、実際、これがそのケースなら、私たちは、今日、経験的な調査に行なう。 引用:Timeless Strategy Meets New Medium

  • 公務員は対面の国民に虚偽回答しても罰せられない?

    公務員は対面の国民に虚偽回答しても罰せられない? 公務員法(国家・地方)で規定されている虚偽の罰則を調べています。 素人が見た範囲では、人事と身分に関する虚偽、文書の偽造、賄賂や証人喚問における偽証などが処罰対象に明記されているのは読み取ることができます。 しかし国民に対する説明に虚偽があった場合の処罰は、ある、と言えばあるともいえるし(巻頭の総則がそれを含むと解釈してよい?)、個別の明文化としてはまったく無い、とも受け取れる曖昧な条文に見えます。 これについて公務員の友人に話題を振ったところ、 人間である以上まちがいは無数にある、窓口職員や電話問合せの間違いをいちいち処罰対象にはしない一種の保護機能だ。と説明してくれました。 確かに身分の低い窓口職員の一回目の説明はミスがあっても当然仕方ないと思いますが、管理職に代わってもらってもミスを認めなかったり、3回、4回、と繰り返し同じ虚偽の説明を通す職員(部署)は保護の対象として相応しくない、と感じるのが自然だと感じます。 また、窓口説明で不審な点を文書回答にして欲しいと頼むと、かならず抵抗に遭います。 口頭ならば渋々でもしどろもどろでも一応回答してくれるのに、文書化することは極端に避ける傾向にあります。 回答文書を発行してしまうと、処罰の対象になるからでしょうか。 現実に行政を相手取った裁判で勝訴できた例もごく少数ですし、条文的には総則の公益性ぐらいしか一般国民個人への不義を戒める文言が見当たりません。 人事上・公文書上の虚偽と国会や裁判以外では、事実上、公務員は役所に来所する国民への対面応対ならば嘘をつき放題で保護されているに等しいのではないか、と思われても仕方ない仕組みのように見えます。 (横道に逸れますが、だからこそ文書化された証拠が残らないならば汚職もやり放題、というのも改めて頷ける気がします) 公務員が国民への文書によらない口頭での応対において虚偽の説明を行った場合は、事実上罰則規定がなく保護されるのみ、というのは本当でしょうか?

  • 資格実務講座の受講料を返還してほしいのですが

    こんにちは。 資格実務講座の受講料返還請求について教えていただければ幸いです。 私は、宅地建物取引主任者試験に合格しました。取引主任者として登録するには不動産業での2年間の実務経験が必要となり、私は4月までその資格がないので住宅新報社の「登録実務講習」に申し込みました。「登録実務講習」は実務経験が2年未満の者が受講し修了書を得ることで、実務経験と同じ資格を得られるものです。 講習内容はテキストが自宅へ送付され(自宅学習)、その後2日間のスクーリングがあり、修了試験を経て修了証が授与されます。 私は昨年12月に申し込みをし、今月スクーリングの予定だったのですが、仕事の都合が入ってしまい、いけなくなってしまいました。 スクーリングの日程は10月まで何回かあり、他の日に振り替えることは可能なのですが、3月に受講しても、私が4月で2年間の実務経験が得られてしまうので、実務講習は必要なくなってしまいます。 そこで、返金をお願いしたところ断られました。理由は申し込み時に返金できない旨の記載がある、他の人はそれでもあきらめてもらっている、ということだそうです。 当然、全額返金などは考えていません。教材は届いていますし、事務手数料なども取られて当然だと思います。ただ、当講習で一番重要なスクーリングと修了試験を受けていないので、一部返還くらいはあってもよいかと思います。 消費生活センターに相談したところ、大学受験において、昨今滑り止めの大学に支払った入学金が返還されたという判例もあるので、一概には何ともいえない、当事者同士で話し合ってくれとの回答でした。 提供するサービスの一部しか受けていない状態にもかかわらず、返金できないというところが納得いきません。 申し込み時に片隅に書いてある、申し込み後は返金できないという小さな文言がそんなに有効なものになってくるのでしょうか? 一般的に見れば難しいのかもしれませんが、最近はかなり消費者保護の傾向にあります。お教えいただければ幸いです。

    • kokorox
    • 回答数4
  • 高校生からピアノ、ってどうでしょう。

    こんにちは。高1女子です。長文ですが、悩みを聞いてくださるとうれしいです。 ピアノは、そうはいっても小・中と習ってはいました。でも全くやる気がなくて、先生を3人くらい変えました。そして結局、中2の途中でやめました。 しかし、やめた途端に(?)ショパンやリストなどのロマン派音楽家に興味をもち、受験生だけどピアノがしたい! という一心で、新しい先生に体験レッスンをお願いしたのですが、何しろその先生は、ソルフェージュという教本にこだわっているらしく、また私があまりに下手なためか(先生のグランドピアノがかなり弾き慣れず、自分でもぐだぐだな演奏でした)、断られてしまいました。 1年がたちましたが、それでもピアノがしたい! という思いは変わらず、今は独学でやっているつもりですが、部活の先輩がくれるアドバイスを聞いていると、私は独学ではショパンらしいショパンが弾けない、(ショパンが弾けるようになりたいです)ということに気づき、新しい先生を探しています。(大手のピティナなども考えましたが、大手はコンクールに力を入れる、技術をのばすのに力を入れる傾向がある気がして、その先輩のピアノが、技術も表現もうまいので、先輩の先生にあたろうとは思っています)。 そこでまず不安なのが、こんな時期からピアノを習って、その先生にどう思われるかということです。私は音大など目指していませんし、あくまで趣味で、これから続けられればなと思います。(先輩も、音大は目指していないようです。私のレベルは中級程度なのですが、上級のしたっぱを趣味でひけるようになりたいです。)母はどうせなら資格をとれと言いますが、私はそこはこだわっていません。「高校生が、わざわざ忙しい時間を割いて、趣味でピアノを習う」これは、一般的に(?)受け入れられるものなのでしょうか。 もう一つ、私の通うのは、まあ、まあまあの進学校ですし、この時期はピアノよりも勉強を優先すべきなのでしょうか。去年も、ピアノを習わずにいたからこそ、この高校に受かれた気もします・・・。このまま、独学でやっていったほうが(自力で自分が弾きたい曲が弾けるようになる気がしませんが)、いいのでしょうか。 そろそろどうするかを決めなければならないと思っています。アドバイスをお願いいたします。

  • 「必要以上に給料をもらったばかりに、それにあぐらをかいて努力を怠り、ダメになった選手」と聞いて思い付くNPB選手は?

    「複数年の高額契約を取り付け、必要以上に給料をもらったばかりに、自分を一流選手と錯覚し、またそれにあぐらをかいて努力を怠り、ダメになった選手」と聞いて思い付くNPB選手の実名を挙げて下さい。 以下のサイトの文章を読んでの質問です。 御回答を宜しく御願い致します。 メジャー挑戦にモノ申す!: 時遊人SUZUのひとり言 http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-4347.html 『FA(フリーエージェント)の導入によって、とかく最近のプロ野球選手たちは自らの権利ばかりを主張し過ぎる傾向がありありである。 いつしか「こよなく野球を愛する少年たちに夢を売る仕事」と言う初心を忘れ、自分の力を過大評価し過ぎてしまい、大した成績を上げてもいないのに、契約更改では必要以上の評価を要求してしまっているし、単に金の亡者なのか金銭面に固執しすぎるきらいがある。 もちろん給料が下がるのはプロ選手に限らず誰でも気持ちが良いものではないが、それを職業とするプロである以上、出来高で査定・評価されるのは当然の生業なのだ。 時代こそ違うが、かつて日本のプロ野球を牽引したONですら、年俸最高額は王選手の7,500万円程度だった。 以前にも当ブログで書いたが、複数年の高額契約を取り付け、必要以上に給料をもらったばかりに、自分を一流選手と錯覚し、またそれにあぐらをかいて努力を怠り、ダメになった選手の例はいくらでもある。 甘い汁を吸わせ過ぎたことが、結果的に選手の甘い発想や高慢を引き起こし、堕落させた原因にほかならない。 やはりプロ選手は1年ごとの契約で、完全出来高払い制にすべきである。 ハングリー精神を植え付けたほうが、絶対に選手の為には良い。 また、プロ野球選手は選手生命が短いとよく言われるが、入団時の契約段階で数千万円から1億円を貰い、10年間も一軍でプレーすれば、それだけで総額数億円以上は手に入る。 世間で言うところの一般サラリーマンは、生涯収入が、貰ってもせいぜい2億円程度であるから、それだけで相当の開きがあることは一目瞭然なのだ。』

  • 嫁には呆れました。

    嫁には呆れました。 実家の事などブログなどで暴露し放題。 とくに母の事となるとメチャクチャです。 俺は夫として、板ばさみ。 オマケにパソコンや携帯ばかりいじって情報を入手、してもいな苦労をしたかのように話します。 以前より家事もしないので、大喧嘩の後、妻の実家に相談に行きました。 妻と妻の母は泣きながら話し合いましたが、その後も何の変わりも無く家の中はメチャクチャ。 妻の友人も実家の暴露話や、悪口、対決が好きなようで、いい影響を受けているとは到底思えません。 その友人たちとも距離を置くようにと説得しましたが聞いてはくれませんでした。 妻の傾向として、不幸な人、不幸な人へと同調して自分もあたかも不幸であるように 疑似体験して酔っているように思います。 以前、私も結婚後の環境変化で体調不良となり、妻の実際の性格と向き合った点で無気力となりました。 私は、原因を説明、改善してくれと話しましたが、 妻は「うつ病」と決め付け病院に連れて行かれ、タイヘンな思いをしました。 薬など飲んでもよくなるはずが無く、逆に薬を抜くのにタイヘン苦労しました。 今は、自力でその状態からは脱出してます。 しかし、なんとか離婚は避けようと頑張ってました。 ですが、先日、父が亡くなり (約一年の父の体調不良の間、看病はほとんどさせませんでした。というか、他の「不幸な子」 の見舞いには行きますが父の見舞いには一切行かずじまい。) 葬儀など終わって一段落ついていると、 また通夜や葬儀の不満を陰やブログで吐きまくっていました。 一部実名を挙げています。 俺も今日までぼんやりしてましたが、我慢の限界と、ショックで相談というか、 一般的に皆さんがどう思うかお伺いしたく思いました。 嫁とやっていることは同じかもしれませんが・・・・・・・・ 実家に一人残った母が不憫です。 私はマザコンでもないし、家事もやって仕事もやって・・・・・ こんな事いつまで続くのか、自業自得といえばそれまでかもしれませんが。 皆さんの意見をお聞かせください。

    • noname#104388
    • 回答数5
  • イエスは 犠牲にされたあと 聖なるものとされたか

     《第三項排除――犠牲を作り出す――の理論》があります。  自分たちの集まりの中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。  人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会​的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向があると。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうです。  このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる道はのこされると。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。  なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことができる。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は おそらく強いの​であって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分か​らない。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  自由なご批判をあおぎます。

  • 女性が離婚を公表したら? 男性は身構えるの?

    既婚女性です。 依然、離婚話がほぼ決定しました。 私は毎日泣き明かし、なんとかもう一度やっていきたいと、藁にもすがる思いで、色んな人に相談し、男性の知り合いにも意見を聞くために相談しました。 私が相談した男性は2人です。 いずれも信用はしていますが、日常生活上利害関係がなく、近所、会社などに関係がない人物です。 私としては「どうやったら、もう一度旦那と向き合えるか?」「どうすれば離婚を回避出来るか?」というところを聞きたかったのです。 相談した一人は、いきなり私の離婚話を聞くや否や、豹変して誘ってきました。明らかにデーとコースとしか思えない所に夜指定で誘ってきて、そこでじっくり相談にのる、有利に話をすすめる、など言っていました。ご丁寧に終電に間に合わないよう考えたようです。 もう喜びが文面に現れており、それまでメールで「貴女は、、」と書いていたのに、いきなり名前で「◯◯子さ~~ん」、絵文字もたくさん使い始めて気持ち悪かったです。 もともとモテない男なので、おびき寄せ方があらわすぎて魂胆ミエミエで、そこで縁を切りました。 もう一人は、いきなり私の離婚話を聞くや否や、自分に彼女がいる事を公表しました。いようがいまいがどちらでもいいのであって、私は相談にのって欲しかったのです。が、どうやら防御線を引いたようです。 質問)男性は、女性から離婚の相談をうけたら、「その女性と旦那」の事を考えるより、「その女性と自分」を考えてしまいますか? その離婚話が「チャンス」になるか、自分へ「災難」として降り掛かってくるかというような視点で見るのですか? 自分は誘われてる。自分は狙われてる。と思うのですか?? 人の夫婦相談なんてごめんだ!という感じですか?この辺りで回答いただけると嬉しいです。 この時は、女性の方のアドバイスに助けられ、その後仲を取り戻しました。 私はこの男性2人についてしか知りませんが、一般的にこおいう傾向があるなら、夫婦相談など出来ないのでしょうかね? 差し障りのない程度で相談などして、男性の意見やアドバイスを聞くなどしたいし参考になるかなと思うのですが。 今後の参考の為に教えて下さい。 よろしくお願いします。

  • イエスは 犠牲にされたあと聖なるものとされたか

     《第三項排除――犠牲を作り出す――の理論》があります。  自分たちの集まりの中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。合わせて 話し合いの断たれる場合とはどういうことか それについてどうすればよいのかをも問います。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。  人は 個々の存在としてすでに 社会​的である。しかも主観は 最後に意思決定するのは独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては時に まちがって追い求める傾向があると。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには(独立した存在であるというコトはすでに他者の存在を前提している) 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つと言う。たとえ誰か嫌いな者あるいは誰でもよい者一人の人を除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。隠し味がないと納得しない。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。被差別者でもある。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら・そしてその基準がはっきりしているなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  〔ちなみに先走って言うなら 《貨幣》は 或る意味でこの《第三項》でもあるらしい。そっくりそのままかどうかは別として その《共通の基準によってのけ者とされたお金》の所有は それなりの安心をもたらすものであるらしい〕。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。《一定の基準》が出来た。  つまりははっきりとシルシづけられた第三項を皆で共有しつつ排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうです。  このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる道はのこされると。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。  なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられるというのである。  反動のチカラ――つまり一般にオシエを説くシュウキョウである――は 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。ゴータマ〔は第三者ではなかったが 王子のときにひょっとしたらのけ者になった(ちょっとしたことでも拗ねた)かも知らない〕にたいする批判には 一斉に本能によってのごとくに反批判が集まる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことが起こる。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《他人と違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言うシュウキョウなるものの何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は おそらく強いの​であって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分か​らない。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  ところがこの話し合いが途切れるだけではなく断たれる場合があると思います。それは どうしてなのか また どう対処すればよいか。これをお尋ねします。  自由なご批判をあおぎつつ。

  • 大卒のメリット・デメリットを教えて下さい。

    以前このような質問をしました。私の近況がこんな具合です。 http://okwave.jp/qa/q7884217.html その上で更に思った事なのですが、大学に入る意味? 入って、ただ卒業するだけなら。極端な話、大学で無くて良いなら意味も無いでしょう。 そこで学んだ知識を必要としないなら、何の為に?とも思います。 意味なんて人それぞれなので、メリット・デメリットで考えました。 バイト先の大卒の人間に数人に聞いた所、特に、何かがあるというワケでは無いそうです。 仕事自体は大卒で無くても高卒でも充分出来る。にも関わらず、大卒者には支払う給与が若干高くなる為に、経費が嵩む。 大卒者自体が飽和してる為に、必要としてるのは専門職くらい。一般企業であれば、仕事をさせる分には関係が無い。 あとやはり、新卒を雇う傾向はありますが、今までのらりくらりと学生をしてた人間に、責任問題をいきなり任せるのが厳しい。それよりだったら、既に責任を抱えている人間を雇った方が、就業を任せられる。また、責任意識に乏しいのだろうか・・・彼らは勤めても長くは続かない。人件費の無駄。 大卒の店長・副店長に聞きましたが、昇進の際、キャリアから多少不利になるぐらいだそうです。 月の給料は、数千から1万弱くらいまでしか差が無いそうな・・・(そのくらいであれば、趣味でFXをしていますが、余裕で稼げます。) にも関わらず、大学は入ってから卒業するまで、多くのお金を伴います。 ただ入るだけの大学生が多く、近年ではレジャー化してるとまで言われていますが、 店長曰く、下手すれば、そんな大学生ら。意義も無く責任意識にも乏しい彼らが一番、就職していくのが厳しいのではないか。とのことです。いろいろな意味も含めてね。 しかしながら、部門のチーフや社員の方、大学には行っていませんが、 そんな事で、大学に通うべきか?否か?で迷う私が贅沢だと言います。 自分達は大学に通えるだけの学は無い。にも関わらず、キャリアで差が付けられる・・・ だから、大学に行けるなら行っておいた方が良い。と言います。 という具合に、大卒者とそうで無い人とで、意見が分かれているのです。 前述のように、意義が無いのであれば多大な額を浪費するだけです。 にも関わらず、専門職で無い限り、それで得られる福利に大きな差はありません。 キャリアは魅力的ではありますが、意義を全く感じられないのです。 私自身の個人的な問題としては、そうして理屈や結論付けて、自身の抱える諸問題を正当化したいのでしょう。 それに関する是非も、人それぞれなので省きたいと思います。、 それで皆さんのお話を聞きたく、広く意見を求めたいと思いました。 大卒の方。大学に行けなかった方。誰でも構いません。 それで被る事になったメリットやデメリットは、どのようなものでしたか? 個人的な物でも社会的な物でも良いです。参考にしたく、とにかく聞いてみたいです。 お手数ですが、ご意見ご回答お願いします。

  • 人前で絵を描くことに抵抗がある&技術的な質問

    初めまして。以前からちょくちょく覗かせていただいていました。 私は高校を中退して、今療養中の無職です。 来年から週に3日以上の画塾に一年間通うつもりです。  一度中学のとき一般高校の受験勉強を優先して押し込めていた時期があったのですが、「専門学校でイラストを勉強しよう」とは小学校のころから決めており、それは今も変わっておりません。色々と迷いながらも、なんとか現状にいたります。  専門の体験入学やデッサンなどもぼちぼち行ってはいるのですが、 その中でいくつかの質問をさせていただきたいと思います。 目指す傾向としては、将来はイラストレーター・ゲームやアニメのキャラクターデザイナーになりたいと思っています。 私は人前で絵を描くことにかなりの抵抗があります。 これは絵を描くときに限ったことではなく、私自身あまり人前で素の状態を出せないのです。 ボロを見られたくないというか、悪い意味で気取ってしまうと言うか… だから他人に自分の描いている姿、指先の動きまで見られると緊張してしまって落ち着かず、見られた作品とひとりで作った作品ではかなり作品に違いが出てしまっています。 力を出し切ることが出来なくて、自分の小心者ぶりに嫌気がさしてしまいます。 このままだと専門学校へ進んで勉強したとしても、周りの人と切磋琢磨するどころかどんどん小さくなって這い上がろうにも蟻地獄に呑まれていってしまう気がします。 希望としてはやはり周りの人と高め合い、時には自分に厳しく自分の絵を客観視できるようにゆとりを持ちつつ学校生活を送りたいのですが…。 どうすればいいのでしょうか。 それともうひとつ、技術的な面に話は飛ぶのですが、 最近人物画の練習をしているのですが、なかなか角度がついた絵が描けません。 全体的に角度が弱くて、斜めの顔や斜めの身体など、厚みや奥行きが必要な絵がとても平面的に見えてしまいます。 奥行き・角度を出すためにはどうすればいいのでしょうか。 もしこの内容を読んで、考え方が甘いと思われたかもしれません。 実際、つい去年まで、他力本願で本当に絵をなめていました。何もしないでも学校に行けばプロになれる日がくる、なんて馬鹿げた考えを持っていました。 でも絵を描くことが好きだから、今は自分から掴みにいきたいと強く思い始めています。 このことに気づいたことを大切にしていきたいと思っています。 言葉が足りない上に色々な内容を質問してしまってすみません。 ご回答、よろしくお願いします。 こんな私ですが、皆様のお力を少しでも貸していただけたらと思います。 失礼します。

  • ソフトテニスのフォアハンドストロークのスタンスについて

    中学校の女子ソフトテニス部でフィジカルとメンタルの指導に関わっています。 フォアハンドストロークのスタンスについてですが、どうも県レベルで基本的な技術指導がまちまちのようで迷っています。アンダー・サイド・トップストロークで同じスクエアスタンスで打てと指導している県もあれば、コーチ教本や指導教本(ともに連盟が編集した大修館書店発行のものです)では詳細には触れられていないものの、アンダーがスクエアスタンス、サイドがややオープンのスタンス(アンダーとトップとの中間)、トップ打ちでは打球方向に対して45度程度のオープンスタンスで打つのが自然ということになっています。 ゲームの流れや戦術で、モーションやフェイントでバランスを崩さない範囲で対戦相手に対して「騙し」が入るのは当然のことと理解しています。そういうものを抜きにして、基本的な打ち方としてフォアハンドストロークのスタンスについて、いま一つ釈然としないものがあります。 うちの県は、男子選手は国内レベルで有力選手を相当出しているのですが、女子選手はなかなか有力選手が出てきません。ジュニア(特に女子)の指導に長く携わってきた指導者からは、「県内の指導者(ほとんどが男性)は、自分が競技者だった時を基本にして、『こうあるべきだ』という指導を押し付けている。」と言っています。 男子と女子には身体的な特徴があって、指導は自ずと変わってくるはずだと考えていますが、うちの県内では、ほとんど同じ指導が行われているようです。そういう影響かどうかはわかりませんが、男子選手の育つ県と女子選手の育つ県はかなり明瞭に分かれる傾向があります。 近年、多軸理論(2軸を含む)で打ち方を変えようという意見もかなり出てきていますが、実は「頭を動かすな」という指導が徹底されているはずの一般的な指導でのフォアハンドストロークでも、上方向から打球フォームを詳細に観察すると、県内でベスト8以上に上がるような選手(うちの選手も含まれています)は、右利きの場合、回転軸が脳天を外れて首の左側付け根からもう少し外側で回転していることが確認できます。本当に脳天中心なら、左肩は引いてしまう動作になるので、スイングの勢いを打ち消してしまうはずです。左肩を残して、右肩が追い付くようなスイングをして壁(面)をつくって打つのであれば、どうしてもややオープンスタンスでないと上手く打てないと感じているところです。 京都大学の小田伸午さんたちの2軸理論では、投球動作では左足踵の延長戦上に左足の内側を合わせるようにするのが良いとされています。軸を交錯しないようにコントロールするなら、同様のスタンスの方が楽に振れるはずだと思います。 小田伸午:著「スポーツ選手なら知っておきたい『からだ』のこと」(大修館書店) このあたりの指導について、お詳しい方の御回答をお願いします。 他に目を通した資料は、以下のとおりです。 日本ソフトテニス連盟編「ソフトテニス指導教本」(大修館書店) 日本ソフトテニス連盟編「ソフトテニスコーチ教本」(大修館書店) 「ソフトテニスにおけるフォアハンドストロークの分析-オープンスタンスについて-」(ネットで公開されています)

    • oyamato
    • 回答数2
  • 人と比べる癖について。

    一般企業に勤める20代男性です。(家庭持ちです) 学生時代から、他人と比べる癖が治りません。 自分に自信をつける為、 様々なスポーツやサークル活動、人脈作りなど、色々な活動を行いました。 ただ、 スポーツ、その他活動において、 自分より輝いてそうに見える人を目にする度に、「どうせ自分よりレベルが高いよね」 「彼らの方が仕事ができそう」 「彼らは自分より素行が良いから」 等卑屈になってしまいます。 ここ1年くらいは特にその傾向が強く、ほんの些細な事で卑屈になります。 例えばこんな感じです。 ・事例1 息子のお宮参りに行った時、周りのお父さんは自分よりスーツを着こなしてるように見えました。それと同時に「自分は簡単な仕事しかしてないから」、「社会人としてのキャリアが足りないから」、「このお父さんの中で一番ダメに見えてそう」なんて発想に。 ・事例2 自分は少しダンス系のスポーツを趣味にしていました。 チームでパフォーマンスに向けたムーブを作る時、自分だけ物覚えが悪かったり、意見が受け入れられない時に、 「どうせ自分は頭も運動神経も悪いから」、「皆んなは頭がキレたりセンスがあって良いな」なんて発想にかられる。また、街中で楽しそうに踊ってる人を見ると嫉妬してしまう。(自分もダンス系をかじっているのに、何でいつまで経っても心が張れないの?なんて) ・事例3 職場で自分以外のメンバーに仕事の依頼が来た時、「自分には能力が無いから仕事を振られないんだろう」と思ってしまう。 人と比べる事がタブーな事、自己肯定感を高く持たなきゃいけない事、重々承知しております。 むしろ、これが出来ないと何も始まらない事も分かっています。 頭では分かっている為、一生懸命自分をコントロールし、 人と比べたり自己否定をしない努力をしていました。 出来ていた時期もあります。 が、ここ1年くらいは自分をコントロールできません。 まるでブレーキが効かなくなった車のように。 コントロールしようとすると、身体中が痒くなり物に当たったりもします。 こういうケースの場合、 他人と比較しないようになるのは無理でしょうか? 何か方法があれば教えて下さい。 もう、苦しみたく無いので…。 ※補足1. 当方、発達障害のグレーゾーンと診断された過去があります。 グレーゾーン故に自分に自信が持てず、 他人と比較してしまいがちなのかれません。 本来であれば「グレーゾーンだから、自分にできる事をやっていく」と気持ちを切り替えるべきなのですが、割り切れません。 ※補足2 こういう質問をすると、 「怠けてるだけ」、「悩むべき事では無い」、「たいしたことじゃない」、「努力が足りない」等のコメントを頂きますが、 悩むべき事では無い事、自信が甘えている事、もよく理解しています。 理解した上で根本的な治し方が知りたくて、藁にもすがる思いで質問を投稿しております。 どうかご理解下さい。 ※補足3 当方、人間関係で苦労した経験があります。 ・小中学時代にいじめに会った ・学生時代に人間不信になり、友達が出来にくかった ・社会人に入り、毎日のように怒られる(周りの人には、言ってる事が意味不明とまで言われた) ※補足4 当方、周りの人と比べて興味の対象物の癖が強いです。ごく一般的に支持される漫画アニメ、芸能、ゲームには目もくらず、皆があまり興味を持たない事に興味を持ちます。

  • 火災保険

    火災保険は住宅資金の融資期間中は付保することを義務とされている金融機関が多いと思います。火災保険は、債務者にとって、建物に万が一の災害に備える意味合いがもちろんあるが、金融機関側の債権保全の意味合いもあります。 債務者側が、例えば35年ローンの20年目に退職金などまとまった金銭で全額繰上返済し、期間短縮した場合、完済後、残りの15年間については、付保を継続しても解約してもいいということになっていると思います。 (1)融資金を住宅以外の用途に使用したなど、金銭消費貸借契約に違反した場合に、債権者側が全額繰上償還請求をかけることがある。この場合、残期間(上記の例でいえば15年)も債務者が火災保険の付保の継続を望んだ場合、継続は可能でしょうか。 (2)当初35年と設定した融資期間に対し、通常返済で完済した場合、あるいは繰上償還で期間短縮した場合、債務者(住宅購入者)側が35年目以降も火災保険をつけることを希望した場合、継続、あるいは、再度契約し直して付保することは可能でしょうか。一般的に、融資期間中は特約火災保険を義務つけているので、保険料も通常より割り引いています。ですから、35年を越える場合は、保険料は高くなると思いますが、住宅購入者もそれは受け入れた場合、可能なのでしょうか。 (3)かなりまれな例ですが、ローンを利用せずキャッシュで住宅を購入した場合、債務者の希望する保険期間で火災保険の契約をすることはできるのでしょうか。また、このケースでは特約火災保険よりも保険料は高くなるということでよろしいでしょうか。 (4)その他、完済物件の場合、火災保険はつけてない状態で、必要性を感じて付保することは可能でしょうか。物件所有者が希望しても、建物の構造や築年数によっては、保険会社が保険金額を建物時価に対して低額にして契約したり、あるいは契約を断ることも考えられます。 (5)火災保険、あるいは地震保険の付保率が時々話題になりますが、実際、融資が完済された後も傾向としては、付保するケースは率としては多いのでしょうか、それとも完済によって、ぐっと減るものなのでしょうか。

    • noname#33272
    • 回答数2
  • 創価学会の正しさは結果で検証されたのですか

    創価学会は、信心の力のたすけで客観的現実が変えられる、とそう主張します。つまり、熱心に信心すれば、境涯がかわり福運がつき、自らの生命力が向上し、最終的には客観的現実を変えられる。逆に他宗やプラセボへの信心ではこんなことは生じないで、逆効果になるというわけです。もしそれが正しいのなら、中間のステップは人知を超えて解明不能でも、両端の信心行為と最終結果については客観的に観察可能なのですから、きちんと検証可能な形で相関関係を提示できるはずです。 ただし、よくある体験談は客観的な証拠とはいえません。それには次のような可能性が否定できないからです。特異的な事例だけが報告される、脚色がある、強い感情的負荷に解釈が影響をうける、馬鹿に出来ない暗示の効果。(体験談は他宗でもありふれています。例えば中世キリスト教で大流行した奇跡譚は体験談とそっくり。) もちろん、人間は多いのですから特異事例もありえます。仮に学会が正しくても、学会員にも不幸になるものもいるでしょうし、念仏者が成功することもあるでしょう。こういう信仰の効果に反する事例を除去し、信仰の効果を検証するには疫学的手法が有効です。十分に大量のデータを集めれば、特異な事例や個人的な事情や暗示などのノイズは相殺されて、平均すなわち純粋に「信仰の効果:ある信心を熱心に実行した場合に発生する現実の傾向」が抽出できるでしょう。例えば、学会員と一般人(又は他宗信者)を分け無作為で一万人以上のサンプルを抽出し、ガン死・ガン有病率・治癒率/災害時の被災率/人口当たりの階層上昇率等を比較すればいいと思います。(コーヒーの癌抑制効果について思い出してください。効果の機序はまったく不明でも、定説になっています。) 逆に、もし結果の数字がかわらないというなら、学会をやっても(他宗をやっても)、プラセボ(暗示効果)以上の効果はないということです。 ところが、そのような統計的証拠が提示されたのは、知る限り新潟大火の被災率ただ一つだけです(人間革命1巻:新潟大火で焼けた900件のうち学会は2軒というもの、これだけでは各種の解釈があり得るので証拠として弱すぎますが、災害時に毎回そうなら創価学会の真理性を強く示すことでしょう)。 さて、学会が自らの正しさと結果を、きちんと検証可能な形で報告することは、以下の理由で必要だと思います。 1)世界に広宣流布しようとする場合、正しい証拠があれば他宗を圧倒する強烈な力を手に入れられる。入信し広宣流布につとめるのは個人的な好みや決断などではなく、正義と真理を愛する者の聖なる義務になる。 2)他宗はそれなりの存在意義があるのに、それを排撃し強引に折伏する等、学会だけが世界を救えるという言動が正当性をもつのは、実際にそうである場合に限られる(*)。 3)学会会員に沢山のひどい目にあった私ですが、証拠が出てくれば当然に入信します。 (*)勿論証拠がないことで心の支えとしての学会が否定されるわけではありません。その信念に満ちた力強いメッセージはある人の救いとなることでしょう。ただし、学会とは別の言葉で救われる人、別の言葉でくみ取られる経験があることは、忘れてはなりません。それゆえ、もし、真理が自分らの信念にすぎないのなら、別のことを信じている者に対しそんなことを強要してはなりません。 私が知らないだけで、学会は真理を持ち構成員も特別だと、どこの誰に対しても堂々と示せるような結果は示されているのですか。例えば、新潟大火の事例のように「2回の震災で学会員はほとんどだれも損害をこうむらなかった」、もしこういう結果が示されれば、立派な証拠になることでしょう。 (残念ながら個人的な経験では、学会員はよくて普通の日本人と同等で、特別に豊かだったり、幸福だったり、知恵にあふれていたり、心底から正義漢・善人だったり、信者間の葛藤がなかったりするようには見えません。中には幸せな人もいるようだけれど、貧窮の中に死んだ人、信心一家で嫁姑をやってるケースは何人も知っています。私も折伏を受けた人に大金をだまし取られました。)

  • タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」

    タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」 絆という言葉に深い意味がない西洋だと「愛」という。 そういう言い回しをすれば、私がそれに変えるのは「慈しみ」(友情)だ。 こういう言い回しをすると愛を軽視しているという傾向を疑うかもしれない。 しかし私は「愛は最も人間らしい感情の原型」ととらえていて否定していないんだ。 西洋の愛の概念の多岐に渡る解釈の論説を読んでもわかる解釈だ。 ただ複雑に愛に当て込んでいるから明快でないんだよ。 それから友情がより多方面に社会性獲得に活躍すると言っても、人と人が相互理解すると人間の成立と考えていて、前段階の「人と人」の対峙や、場合によっては社会性の獲得で人と差異がある動物にすら当てはまる。 したがってより根源的な意味の正解だときっちり評価しているんだよ。 何の話だろうね。 土台になる過去の研究備忘録が下。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 機械自我レイアウトその2 人と人がお互いに人間を成立させる前提 今回の論説は、自我研究の付属事項で情動にかかわるものだ。 生命が備える善性の定義を私なりに説明しよう。 特に善なる概念を創成した人間で自覚が顕著な特徴だ。 人はお互いを確認して、社会を成立させる。 お互いが影響しあい、生存を補完するこの関係で重要なのは、自分自身を善く(よく)することと完全に等しく他者に善くする事だ。 勘違いされることが多いが、利己心を優先しないで、他者を自分自身と同格に生存を支えあうことだ。 このような強い連帯は日本語で「絆」という。 お互いが心情的に血を通わした間柄のような強い相互認知だ。 社会生活でこの善に偽りがなく正直な状態が、行いで判別する人間の善性の簡潔な見解だ。 余談だが、この考えを私が形成する過程では、いわゆる天啓に該当する神秘性のある直感が働いた。 したがって定義の命名権を行使して、このような善性への見解は「アマテラスの善し(よし)」とさせていただこう。 西洋から渡来した愛の概念の神聖化について、日本人なら納得できるように説明すると、こうした社会成立の基盤になる善性について、主に感情面での個人的な働きに着目して、愛が相互の互助と社会の成立を潤すという解釈で、宗教や社会風俗で重要視されたのだろう。 すなわち「愛」とは、最も人間らしい感情の基盤であるという発想だ。 この感情面で着目した愛の概念に日本で伝統的に該当するのは、お互いの強い連帯と相互理解を概念化した「絆」という言葉だ。 したがって日本人が西洋哲学から愛の概念を理解しようと試みるならば、伝統的に多くの人がそれなりに実感している「絆」の要素を変則化させて感情面で焦点を当てたのだと、哲学的な理解の目標を持てばいい。 ここで、冒頭にある、社会性を成立させる人間らしい善性「アマテラスの善し」に振り替えると、感情面で人間性を代表する概念は「愛情」「友情」この二つを比較して差異をよく理解することにある。 本来なら「友情」が有力だ。 私は日本人として聖書の研究から派生した闘争と混乱には少し意見がある。 日本人は、お互いの相互理解が、「人を信じる」という行いを簡単にしている。 西洋が神を哲学対象にしたのと違って、東洋は人間を哲学対象にした傾向も強い。 絆という概念が深く定着した日本人には、善性の発露と合わせて、人を信じることが実に容易だ。 だから西洋の混乱にも言いたいことができる。 「私は神を信じる」初めてあった人がそう話したら、いかなる神かを問う事もなく「わたしもだ」と答え兄弟のように抱き合えば闘争は多くの場合で緩和されただろう。 それは多神教風土の利点でもあるが、問題点で大きいのは「愛」を神聖化すると「ファッキン!」が付いて回る。したがって兄弟同士にはなれないじゃないか! そういう、文化傾向としての笑い話も成立する。 そう、友情と対比して愛情の社会成立での欠点で大きいのは「ファッキン!」である。 熱情でのぼせる強力な精神高揚作用が利点であり、精神力の奮起が注目されて「友情」という概念研究上の候補に勝り、人間社会成立の基盤になったのだろう。 熱心に研究された西洋では実際は愛の概念へのこうした日本人の起こす混乱は希薄だが日本人が西洋人の精神の構造を理解するには「絆」「友情」を「愛」を理解する関係概念として挙げると早い。 私は哲学者なので、侮辱したともとれる愛の概念について「人と人を人間として結びつける、最も人間らしい感情」という見解を補足しよう。 赤子が生まれたばかりの時に「おぎゃー」と泣き、周囲の人の手とともに与えられるのは、母親の乳房だ。人として生まれ人間を知る一番最初の経験をこうした母による慈しむ心に触れることだと解釈すれば愛の一義的な意味は「ファッキン!」でも、そこから多様に発展した西洋の研究も偽りではないと納得できる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 捕捉、以上の主文はAIに人の感情を認識させる、またはAIに感情を保持させる。 このように発達する前段階の基礎なんだよ。 人間存在の感情の基軸は一般的基礎を文化的な理由から、「愛は最も人間らしい感情の原型」このように把握すると大抵うまくいく。 そこに概念として、「絆」「善」「友情(慈しみ)」などを掛け合わせるんだ。 したがって優先順位や感情の発露は、善を優先して愛は後背に回る、などの現象が友情や主に血縁の場合が多い絆などの概念でも発生する。 愛が優先順位が高い状態とは、現代社会の文化的な事情で偶発的なことだ。 例えば、このように愛を了解する哲学的理解に到達した私自身は、並列概念の中で愛を優先していない。 日本人であるゆえに、社会の成立に対する「命題化された由来」「(外国で)神格化された由来」などから、「絆」「善」「友情」そして最後の優先順位が「愛」だ、言葉を装飾しないと極めて狭い共同体の単位にしか通用しない概念だからだ。 感情優先度が違う西洋人に関しては、「愛をはぐくみ我が子が生まれ、絆を自覚して、隣人に友愛が芽吹きそこから善を知る」とでもいう理解仮定を想定して宗教的に推奨したのだろう。それと同族意識に関する大陸的な事情などだ。 日本人の場合は、仏教的教養により「慈しみ」慈悲とも通じていて、「慈」の語源は「友に対して傾ける思い」だ。したがって善性を理解して自己の内心に完成させるためには「愛」の概念は出る幕はなかった。 一発瞬間理解なのは「絆」だよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 備忘録の引用はここまで。 その他に、私は子供時代に家庭で犬を飼っていたんだ。 犬は家庭では鎖につながれている。 犬の餌は母が与えたが、私は犬を自分の弟だと決め込んだ判断をしていて、散歩係は私、飲料水が絶えないように常に確認して補充する、孤独にさせないように時間を作っては一緒に遊ぶ。 大体そうやっていて、犬は私がそばにいるだけでくつろぐから、犬と私で座ってからだお寄せあい、ただ静かにしている時に、生きていくことが私のつながったこの犬は、私自身と同じという思いと吸い込まれるような強いいとおしさを感じたことがある。 犬の命を預かっていることに男性的な義務感よりも感情の方が強かった。 これをおもちゃ屋の私の育児関係の豆知識から引用すると、 育児中の母親が証言する「この赤ちゃんは少し前まで私の体の一部だったし、こうして健やかに育つ姿は今も私の体の一部」そういう類の言葉になる。 こういうのは「愛」に分類されてしかるべきだろうし、 共通項として範囲が広く取れることで、西洋が積みあげた研究と美徳を正解だと判断した。 ただし学問的な考え方の回答としてだ。 さてこの論説を土産話に「愛は最も人間らしい感情の原型」というテーマ、または愛の概念についてこねくり回してください。 アマチュア研究者同士で持ち寄る、土産物の一部です。

  • 部落の女性とお付き合いすることになりましたが・・・

    最近、部落の女性とお付き合いすることになりました。 彼女の住んでいる地域はもともとそういう所だったので「もしや…」とは思いましたが、憶測で判断するのも失礼ですし、またデリケートな問題でもあったので聞くこともできずにいたのですが、 お付き合いを始めた翌日、相当の勇気を持って彼女は僕にそう告げてくれました。 僕は隠さずに伝えてくれたことをとても嬉しく思いました。(いろいろ複雑な思いはありましたが…。) 彼女自身とてもステキな方ですし、僕自身「部落」という事自体には何の差別もないので、お付き合いしていく上では何の支障もないと思っています。 では僕がなぜココに質問をしたかというと、その先の事です。 僕は「この人なら結婚も考えれるかもしれない」と思いお付き合いすることにして、彼女も僕のその気持ちを知っています。 「結婚は2人の自由!」とよく言われますが、僕は実際は「結婚はお家同士の結婚だ」と思うのです。 僕の両親は古い人なので「部落」ということに多少なりとも反応してしまうでしょうし、 おそらくは彼女のご両親も何かしらの嫌悪感を抱いてもおかしくないと思います。 ここが1つの大きな問題です。 その両親同士の問題を解決して無事に結婚できた時に、 何か些細なことがあってケンカや言い争いになった時に、2人の間だけですめばいいですが、 彼女がお友達や彼女の家族に何気なく相談した(愚痴った)コトが「部落出身やと思ってそんなん言うねんや!!」となった時や、 彼女のお家で何気なく発したコトで「私たちが部落やからそんなん言うんか!?」などと言われてよけいに話しが拗れても困ります。 部落の方は仲間意識がとても強いと聞いています。話しが拗れた時に集団で「自分らが部落やからか!?差別や!」と、被害者意識を持たれて責め立てられた時には本当に困ってしまいます。 また、選挙の度に「共産党!共産党!」と言われるのもイヤですし、生活の中で「同和、同和…」と強要されるのも困ります。 それらが一生続くと思うと、とてもじゃないけど耐えれそうにありません…。 また、一般的に許されていないことがまかり通っていたり、税金やその他制度の優遇を見て、それを当たり前にされていると、僕としてはやっぱりカチンときます。 子供が出来た時にその子はどうなるのか?というコトも外せません。 正直、聞いたことや又聞き、噂の域を脱っせず、偏見も持ってるかもしれないですが、 あくまでも「部落」がイヤなのではなく「部落に付随する傾向・運動など」がイヤなのです。 家庭ごとに考え方や思いの差はあるでしょうが、実際の所と僕の思っていることとギャップはあるのか、あるならばどんなギャップなのか。 僕が思っていることの他にも問題があるのか、無いのか、あるならばどんな問題があるのか。 正直何がどうなっていて、何をどうすれば良いのか答えを見いだせずにいます。 最初に書いたように、僕は先々を見据えてマジメに付き合って行きたいですし、彼女も先々のことを多少なりとも考えているようです。 もし僕と彼女のどちらかが「やはり結婚はできない」と感じた場合は、早く別れた方がお互いの為にも良いと思っています。 どのサイトを見てもどちらかに偏った意見が多く、第三者的で中立的で冷静な意見を書いている所もなく、相談させて頂きました。 皆さんのご意見を参考にして2人でゆっくり考えて行きたいと思いますので、ぜひお聞かせください。 よろしくお願いします。 失礼な部分や、解りにくい部分があったと思いますが、長々とお読み頂きありがとうございました。

  • 《ウリナラ》は 《アフリカ的段階》だろうか?

     市民社会と公民圏との二階建て構造なる国家という社会形態を採ったとき 次のみっつの種類に分けてみた。  (α) 対話型:日本社会    (κ) 民衆暴君型:アフリカ型社会  (ω) 競争型:西欧社会  以下にこれを説明した文章をかかげます。その中から 韓国社会については むしろこの《アフリカ的段階》なる要素を色濃く持っているかも知れないのではないかとたづねてみます。ふと思いついたもので 気軽に問うものです。  セヲル号沈没事件や これまでの大統領が任期を終えたあとには 石持て追われるかの様相を呈しているところを捉えて 思い浮かんだものです。どうでしょう?        *  (0) 用語の設定  社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや生活態度としての思想やが かなりの程度において規定される。こう考えます。   市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S   公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A   これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明して行きます。  (1) 国ゆづり型としての A‐S 連関制  (1-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。  その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定するような檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  (1-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。  (2) A と S とが《競争型》なるその連関制  (2-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A = S 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。  (2-2) すなわちこの競争型とは   (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。  そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  (3) (α)および(ω) 両者の比較対照   日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。  (4) さらに三つ目の A - S 連関制  これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民らに絶対主権があるようなかたちである。   (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 特に( b )の特徴にかんがみて 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。