映画(及びテレビ)の画面内のお約束について教えて!
映画(及びテレビ)の画面内のお約束について教えてください
概要
映画(及びテレビ)においては画面内にあるものを限りなく本物を使うのはなぜか?
このお約束は誰かが定義したのか?
お世話になります。
TV,映画、舞台演劇、落語などを見ていて、ふと発見しました。
舞台演劇、落語、講談などのエンタメにおいては、セットを組んだり、ロケをしたり、衣装を着たり、ということがありません。
たとえば落語や講談で登場人物が
「時は元禄、江戸城 松の廊下で・・・」
と言えば、セットも衣装も無くても、そこは松の廊下になります。
まあ、落語や講談は一人で演じるもの、と決まっていますから良いでしょう。
でも舞台演劇においても、背景画がかきわりでも、観客は誰も文句を言いません。
もし空を飛ぶシーンがあったとして、ワイヤーで釣ったり、舞台用クレーンで支えたりしますが、これも観客が文句を言うことはありません。
舞台上での衣装替えでクロコが出てきても、観客は「見なかったもの」としています。
その他、セットが貧弱だったり、もっと言えばセットも何もなくても、登場人物が一言、
「ここはニューヨークのマンハッタン」
「ここはギャングが暗躍する禁酒時代のシカゴ」
「ここはベルサイユ宮殿」
と一言いえば、観客はみな納得して脳内で補完します。
いわゆるお約束って事です。
ところが映画(及びテレビ)ではこういう演劇を見たことがありません。
画面に出ているものはすべからく
「そこに存在する実物」
として扱われます。本物を使うこともあるし、本物が使えなければあらゆる手で本物に見えるものを使います。
たとえば、忠臣蔵の松の廊下であれば、松の廊下のセットを組まねばなりません。
登場人物がホリゾントの前で
「ここは江戸城殿中、松の廊下でござる」
と言っても、観客は納得しません。
(もしそれで納得するなら、それは映画やTV劇ではなくて「劇中劇」でしょう)
討ち入りの雪のシーンは舞台なら
「む、雪が降ってきた」
と言えば、別に紙ふぶきで雪を撒かなくても観客は
「ああ、雪なんだな」
と思いますが、映画やテレビでは雪のシーンでは雪を降らさなければなりません。
空を飛ぶシーンではクロマキーなどの合成を使わねば、空を飛んだことにはなりません。
(月9の某ドラマでは、女の子がぶん投げられるシーンで、明らかにぬいぐるみとわかる人形を使いましたが、そういうのは、ぬいぐるみを使ったことをツッコミを受けずに笑いに転換できるほどの、よほどコメディ色が強くて、「許される状況」でない限り、許されません)
その他、舞台でよく使う、「物を何かに見立てる」「ジェスチュアで済ませる」ということは映画(及びテレビ)ではまずやりません。
舞台なら水色の布1枚やかきわりで「海」を表現できますが、映画(TV)ではロケをするか、合成を使ってでも水面を映さなければ海にはなりません。
舞台なら逮捕された泥棒は両手を前に組めば「お縄頂戴」の格好となり、それで十分ですが、映画(TV)では手錠を掛けなければ画になりません。
また舞台では役者の胸のピンマイクが客に見えても特に問題ではありませんが、映画、TVでは絶対にNGです。
こういった舞台と映画(及びテレビ)のお約束の違いってのは、見る側としては誰に教わったわけでもなく、自然といつの間にか
「こういうもんだ」
と覚えていったわけなのですが、特に、映画(及びテレビ)の劇では、
「画面内に映った物は全て本物(とみなす)。
無いはずのものは絶対に映ってはならない」
というお約束は、誰かが定義し、どこかに明文化されているものなのでしょうか?
補足
違う