nfhpt224 の回答履歴

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  • われ歩く、故にわれあり(Ambuulo,ergo sum)

    ではダメですか?

  • 彼女が亡くなってしまった方に質問です。

    彼女が突然の交通事故で、亡くなったことでうつになりました。 8年も前の事です。 当時22才だったので、結婚は口には出しませんでしたが、お互い妙に意識していた時期です。 みなさんは、どうでしたか? また、何年くらいで納得できましたか? きっかけはなんですか? 通院し薬も服用していますし、認知行動療法も試しています。 病院もあわない所を変えたこともあります。 それでも、思い出したようにつらくなります。 浴衣が思い出に残っているので、町で浴衣姿をみると、胸が苦しくなり、いまだに涙が出ます。

  • われ歩く、故にわれあり(Ambuulo,ergo sum)

    ではダメですか?

  • デカルトとマルブランシュとライプニッツ

    私は大学で哲学を学び始めたものです。初心者のなかでも一番したのランクです。デカルト、ライプニッツ、マルブランシュの3人について10回くらい講義を受けた中で引っ掛かかった箇所があるので聞いてください。身体と精神は別物で神の力によって精神から身体に働くという場面がありました。例えば腕を上げるのも神が都合よく手を動かしにくるというのです。 3人に共通するものに神の存在がありました。一番納得できないところはそこです。デカルトは「実体とは実在するのにそれしか必要としない。、、、厳密に言えばそうした存在は神しかいない」と書いてありました。この文の意味もよくわからないんです。人形とかも単一(人形のみ)で存在しているといえないんでしょうか? 神という目に見えないものを3人とも出してきています。ここまで物事を深く考えている人たちは目で見えないものをどうしてこんなに信じているんでしょうか。考えても不明なものはみんな神のせいにできる気がします。 ここまで自信ありげな文章になっていますが、間違っている箇所もあると思います。それから絵がないと説明も難しいとは思いますが回答よろしくお願いします。 ながくなってすみません。

  • 「悲しみ」の原因は「時間」ではないか?

    エントロピーが増大していることが、「悲しみ」と「焦り」そしてその諦念に乗った、人生論的悲観論と直結しているのではないでしょうか。 思い出に浸るというのは、私の場合ですが、精神的苦痛をもたらします。やり直せないからです。もっといえば、時間がたつにつれ、人生面白くなくなっていくからです。 もし、多少なりとも、年をとる事が美しさを増していくようなことだとしたら、あるいは、肉体的可能性を増大させるようなことだったらば、後悔や感傷はなくてすみます。多くの悲しみもなくなります。 自然的なエントロピー増大の中に生きることは、人間のように思考できる生物にとっては不幸なことではないでしょうか?

  • 世の中は全て二択

    これは、単なる私の「思いつき」で宗教や学問などに影響されたものではありません。(たぶん) 私は寝つきが悪く、いつも布団の中であれこれ考えてしまう癖があるのですが、先日「ふっ」と思いついたのです。 世の中は、全て二択で構成されている。宇宙も地球も歴史も全てです。 二択とは、有と無、YESとNO、表と裏などの反意語?です。 今では考えれば考えるほど、この「思いつき」が正しく思えてきます。 質問します。 この「思いつき」は間違っていますか? また、同じような考えの人はいますか?

  • デカルトとマルブランシュとライプニッツ

    私は大学で哲学を学び始めたものです。初心者のなかでも一番したのランクです。デカルト、ライプニッツ、マルブランシュの3人について10回くらい講義を受けた中で引っ掛かかった箇所があるので聞いてください。身体と精神は別物で神の力によって精神から身体に働くという場面がありました。例えば腕を上げるのも神が都合よく手を動かしにくるというのです。 3人に共通するものに神の存在がありました。一番納得できないところはそこです。デカルトは「実体とは実在するのにそれしか必要としない。、、、厳密に言えばそうした存在は神しかいない」と書いてありました。この文の意味もよくわからないんです。人形とかも単一(人形のみ)で存在しているといえないんでしょうか? 神という目に見えないものを3人とも出してきています。ここまで物事を深く考えている人たちは目で見えないものをどうしてこんなに信じているんでしょうか。考えても不明なものはみんな神のせいにできる気がします。 ここまで自信ありげな文章になっていますが、間違っている箇所もあると思います。それから絵がないと説明も難しいとは思いますが回答よろしくお願いします。 ながくなってすみません。

  • 自己決定権の倫理と共同体の倫理?

    大学で倫理に関する授業を取っているのですが、私は倫理に関しては全く無知なので、出された課題について何を調べればいいのかすらわからず困っています。 課題そのものを書くのはまずいと思うので自分なりに内容を噛み砕いて書くと、「自分のことは自分で決める」のと「周りに合わせて自分の結論を出す」のとどちらが良いと思うか、ということだと思います(後者は和辻倫理学を元にしているようです)。 が、調べてもピンと来る資料が見つからず、レポートに出来るほどの知識が得られていません。 何か参考になる本など教えていただけないでしょうか? 月曜に出た課題で提出期限が来週なのでとても焦っています(泣)

  • 著名な哲学概論

    当方のような素人にもわかりやすい哲学概論などありましたら教えてください。

  • ポスト構造主義・ポストモダンとはどういう意味??

    ポスト構造主義とかポストモダンという言葉をよく目にするのですが、簡単に言うとどういうことなのでしょうか?又、両者は同義なのでしょうか?

  • 「私」とは、という問題

    「私」の認識において、デカルトの「われ思う故にわれあり」は非常に有名だと思うのですが、社会学ではそれ以前に他者とのかかわりが前提となっているという考えで「私」が扱われています。 私は私のみでも認識可能なのか、それとも他者がいるからこそ可能なのか。どちらなのでしょうか? こういった事柄に関する参考資料などでもいいので提供していただければうれしいです。

  • 教えてください

    「他者」について、お勧めの哲学者の説があったら、ぜひ教えてください。

  • 教えてください

    「他者」について、お勧めの哲学者の説があったら、ぜひ教えてください。

  • 教えてください

    「他者」について、お勧めの哲学者の説があったら、ぜひ教えてください。

  • 「私」とは、という問題

    「私」の認識において、デカルトの「われ思う故にわれあり」は非常に有名だと思うのですが、社会学ではそれ以前に他者とのかかわりが前提となっているという考えで「私」が扱われています。 私は私のみでも認識可能なのか、それとも他者がいるからこそ可能なのか。どちらなのでしょうか? こういった事柄に関する参考資料などでもいいので提供していただければうれしいです。

  • どんなに正しそうな意見にも反論することはできますか?

    哲学カテに初投稿です。よろしくお願いします。 デカルトはどこまでも疑って、ついに疑いえない真実 「我思う、ゆえに我あり」 を見出したそうです。 世の中の政治問題、または人間同士のトラブルや意見の相違などを聞いて、双方の意見を聞いていると、まっこうから対立する場合が多く、絶対に正しい意見、誰もが絶対に反論できない意見はなさそうに思います。 そこで、絶対に正しいと思われそうな意見にも、反論できることは可能ですか? たとえば、「人を殺してはいけない」は、絶対に正しいと思われそうな意見ですが、死刑制度では、「人によっては殺してもいい」と言っていることだと思います。 たとえ、「罪の無い人を殺してはいけない」だったとしても、「現代人のために地球環境悪化してしまったから、人口削減のために罪の無い人を殺すこと」、は100年後の人間にとってはいいことかもしれません。

  • 他者を理解するというのはどういうこと?

     ここで「理解する」というのは、自分を「理解する」ように他者を「理解する」ということです。または、そういう状態に可能な限り近づくという意味です。  他我問題の観点からは上記の内容は無意味です。ですが、人間には他者、特に自分と関わりの深い他者(親、兄弟、恋人他)を何とか理解したい、という切実な願望が生じることが珍しいことではありません。「理解した」と思うこと自体が一種の幻想であるという解釈は、ヒリヒリした諦観とともに納得する(文学的表現でスミマセン)訳ですが、それでもなお「他者を理解したい」という欲求は止みません。  そこで質問なのですが、どういう理解ができれば、「他者を理解した」と思えるのでしょうか?  ちなみに、わたしは、初恋が実らなかったとき上記の点について考えはじめ、そして数十年の後の現在、「他者は理解できない」という結論に達しつつあります。  再度繰り返しますと、「他者を理解する」とはどういうことか、についてお答えを頂ければ幸いです。もしくは、どういう理解に達すれば「他者を理解した」といっていいのか、ということです。よろしくお願いします。

  • 他者を理解するというのはどういうこと?

     ここで「理解する」というのは、自分を「理解する」ように他者を「理解する」ということです。または、そういう状態に可能な限り近づくという意味です。  他我問題の観点からは上記の内容は無意味です。ですが、人間には他者、特に自分と関わりの深い他者(親、兄弟、恋人他)を何とか理解したい、という切実な願望が生じることが珍しいことではありません。「理解した」と思うこと自体が一種の幻想であるという解釈は、ヒリヒリした諦観とともに納得する(文学的表現でスミマセン)訳ですが、それでもなお「他者を理解したい」という欲求は止みません。  そこで質問なのですが、どういう理解ができれば、「他者を理解した」と思えるのでしょうか?  ちなみに、わたしは、初恋が実らなかったとき上記の点について考えはじめ、そして数十年の後の現在、「他者は理解できない」という結論に達しつつあります。  再度繰り返しますと、「他者を理解する」とはどういうことか、についてお答えを頂ければ幸いです。もしくは、どういう理解に達すれば「他者を理解した」といっていいのか、ということです。よろしくお願いします。