ENERGEAR の回答履歴

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  • 究極の謎(少なくとも私にとって)

    こちらのカテゴリーで合ってるのか分かりませんが、 意見をお願いします。 私は28歳の男ですが、小さいころから、 「今って分かるのがなぜ今なのか」って疑問を持ってます。 「今、現在2010年、ココに自分がいる」 って自分の中で分かると思うんですが、 それがナゼ今なのか! 戦国時代でもよかったのに、さらに未来の3000年でもよかったのかもしれませんし、 でも「今ココに自分が生きてる」って分かるのは今2010年なんです。 なぜ? なぜ今生きてるって自覚できるのが1000年先じゃなかったのか? 1000年前じゃなかったのか? 魂が生まれ変わってるのなら、ナゼ自覚できるのが、過去のいつか、ではなく、今、なのか。 魂が生まれ変わらないなら、ナゼ今の時代に生まれたのか?ナゼ1000年先ではなかったのか? 言ってる意味がよく分からないかもしれませんが、よろしかったら意見お願いします。 ず~っと疑問に思ってます。

  • 大岡裁き

    報復をしている者が手を引けるような「大岡裁き」をサポートがしないことに腑に落ちないとは思いませんか?

  • なりふり構わず

    「なりふりなんて構っていられない!」という行動をする人がいます。 このような人が非難されることは良くあります。 しかし、そのような行動を取らせるまでに追い込んだ側も非難されるべきですよね? ましてや追い込んだ人間が非難するなど言語道断ではないでしょうか? N氏:ちょっと道をお尋ねします。 U氏:こう行ってあぁ行って~で到着です。 N氏:やれやれ、説明下手やな。w U氏:人に道を尋ねておいて無礼ですね。 N氏:あなたのようなナイーブな方は答えるべきではなかった。 U氏:謝罪してください。 N氏:誹謗中傷 U氏:報復 N氏:誹謗中傷 U氏:報復 N氏:挑発 U氏:報復 N氏:挑発 U氏:なりふり構わず N氏:なりふり構わずを非難 私は圧倒的にN氏が悪いと思いますが間違っていますか?

  • 極右がもたらした代償

    このカテでいいのか迷いますが。 個人としての人生論しては部分的には良い線いっているのかもしれませんが。 近代の会社の経営や教育にそのままとり入れるには害が大きすぎると思っています。 ・芸は身を滅ぼすという考えが日本の産業デザインが発達しない元凶 ・皆が岡目八目なら誰が碁を打つのだろうか。理念を示さない人間こそが卑怯ではないだろうか。 ・仕事に建設的な創意工夫をしたりまたは建設的なアイデアを上げることを否定していたら何も改善されないのではないだろうか。 ・他の人間のすることばかりを、探偵の様な油断のならない眼で良い悪いと心の中で判断している様な人間は、本質が何かを見ようとしていない。 いづれも変化を阻み経済の成長を低迷させるものと思えてしまいます。本来の伝統とは日々変化してきたものだと思っています。

  • 極右がもたらした代償

    このカテでいいのか迷いますが。 個人としての人生論しては部分的には良い線いっているのかもしれませんが。 近代の会社の経営や教育にそのままとり入れるには害が大きすぎると思っています。 ・芸は身を滅ぼすという考えが日本の産業デザインが発達しない元凶 ・皆が岡目八目なら誰が碁を打つのだろうか。理念を示さない人間こそが卑怯ではないだろうか。 ・仕事に建設的な創意工夫をしたりまたは建設的なアイデアを上げることを否定していたら何も改善されないのではないだろうか。 ・他の人間のすることばかりを、探偵の様な油断のならない眼で良い悪いと心の中で判断している様な人間は、本質が何かを見ようとしていない。 いづれも変化を阻み経済の成長を低迷させるものと思えてしまいます。本来の伝統とは日々変化してきたものだと思っています。

  • 植物の葉は、なぜ緑色じゃないのか?

    . 「植物の葉は、ほとんどが緑色をしています。」 と思ってた。 しかし、よく考えると、その言い方はおかしい。 なぜなら、太陽光は(赤、青、黄色、緑、ピンク、紫・・・ect) と、様々な色を持って、地球上に振り注ぐいるのだ。 植物の葉が「緑」色に見えるのは、「緑」の色を反射・散乱させているからだ。 つまり、植物の葉は、「緑」の色を嫌いっているのだ。 故に、「食物の葉は、緑じゃない」と言えるのではないか? (これは、海や空が「青い」のも同じ理屈だ。) ちなみに、黒い着物が黒く見えるのは、ほとんどの光を吸収しているからだ、これは正しい。透明も、同様に正しい赤色表現だ。 植物の葉が緑色じゃないのは、言葉場の遊びか、パラドックスか? .

  • あらゆる不信がうずまく世の中

    現在の世の中は、政治への不信、検察への不信、民度への不信が渦巻いているように思えます。 ただ、個人の人生と仕事を振り返ってみれば、簡単に解決したり、完全に信じたり、完全に相手に信じられたりすることは少ないのではないでしょうか。 私なんか「三日坊主だよな」とか「甘いもの食べ過ぎるな」とか反省の日々の連続です。悪気が無くてもうまくいかないことはざらです。 それなのに、なぜ他人に対しては不信感を感じ幻滅するのでしょう?

  • 何故怒ったのか?

    こんばんわ。 よく利用させていただいています。 次の会話でBさんは怒って行ってしまいました。 その理由をお教えいただきたいです。 A:「Bさんには師匠と呼べる人はいますか?」 B:「いや、いないですね。」 A:「何処に行ったら出会えると思いますか?」 B:「人は学ぼうという姿勢があれば何からでも学べると思います。」 A:「私はこのことばは結構「重い」と思うのですよ。」   「つまり自身が強く希求し続けた経験なしに吐いては「いけない」と思うのです。」   「そうでなければ一般論という「ホワイトアウト」の世界に紛れてしまうと思うのです。」 B:「・・・・・・」 A:「Bさんは得心して、つまり一般論としてではなくご自身の経験から割り出した真実として    そういう「美しいことば」を吐かれたのでしょうか? B:「お前とは話したくない!」 以上です。 短文などでもかまいませんので、お気軽にお答えいただければと思います。 必ずお礼とポイント付与を行うつもりです。 よろしくお願いいたします。

  • あらゆる不信がうずまく世の中

    現在の世の中は、政治への不信、検察への不信、民度への不信が渦巻いているように思えます。 ただ、個人の人生と仕事を振り返ってみれば、簡単に解決したり、完全に信じたり、完全に相手に信じられたりすることは少ないのではないでしょうか。 私なんか「三日坊主だよな」とか「甘いもの食べ過ぎるな」とか反省の日々の連続です。悪気が無くてもうまくいかないことはざらです。 それなのに、なぜ他人に対しては不信感を感じ幻滅するのでしょう?

  • 植物の葉は、なぜ緑色じゃないのか?

    . 「植物の葉は、ほとんどが緑色をしています。」 と思ってた。 しかし、よく考えると、その言い方はおかしい。 なぜなら、太陽光は(赤、青、黄色、緑、ピンク、紫・・・ect) と、様々な色を持って、地球上に振り注ぐいるのだ。 植物の葉が「緑」色に見えるのは、「緑」の色を反射・散乱させているからだ。 つまり、植物の葉は、「緑」の色を嫌いっているのだ。 故に、「食物の葉は、緑じゃない」と言えるのではないか? (これは、海や空が「青い」のも同じ理屈だ。) ちなみに、黒い着物が黒く見えるのは、ほとんどの光を吸収しているからだ、これは正しい。透明も、同様に正しい赤色表現だ。 植物の葉が緑色じゃないのは、言葉場の遊びか、パラドックスか? .

  • 我はあるは動かしがたい

    こんばんは。 オコリザルとしてごく一部でけんかもしていますがお手柔らかにお願いします。 最近の私の質問はテーマが関連付けられており今回は以下に続きます。 仏教における観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5586098.html 私は信仰心を表ざたにしない、一般的な日本人気質を持ち合わせていますが「無」と言う言葉と「非思考」と言う言葉について以下のように考察しました。 我は有る。この事は動かし難い。 仏教での宗教的な無の観念の内訳は、無いものは無いと明らかにする事。 無いものをそれ以上、探さない、求めない、実は有るのではないかと疑わない。 無いものとは煩悩である。 生きる行為が煩悩と離れきれなかった過去においては、我とはすなわち煩悩であり、したがって我は無いとも言いえたのかもしれない。 しかしこれは、はるか昔のインド社会に身を置いたお釈迦様の口癖でしかない。 実のところこのような無に確定なり悟りは、煩悩を滅却して強い生きる事の実感をもたらし、よって我はある事が動かしがたい状態になる。このような実感を備えた状態での我とはケンケンガクガクの論議がある自我ではない。我の所在を求めるとブラフマンに行きつく。ブラフマンとはインドの哲学の源流に現れる神の名である。生活日常に現代でも色濃く仏教文化の片鱗を残す日本社会では、仏教を突き抜けて我の所在をブラフマンに当てはめることで存在は揺るぎないものとなる。 そもそも無の悟りと言われる状態を、判りやすい現代哲学に翻訳すると、完全非思考と言う言葉が当てはまる。完全非思考をお釈迦様の無の口癖に当てはめると、彼は全てを信仰のままに生きたのであろうと推測できる。最も大切な「神」と言う言葉すらも非思考に預け、口にしなかった。その人間として理想的な信仰形態なり思考方法が仏である。 このような考え方に対して、無を信奉する立場から、私の異端論に対してご批判ください。 もっと徹底的に仏教批判をしたい方からのアピールも歓迎です。 思索さらに進展させる助けとなれば何でも大歓迎です。

  • 呪術性

    >言葉は呪術性を持っている。言葉をそのまま見るとただの記号に過ぎないが、 >その言葉に 含まれている意味があることで連想なり会話なりが成立します。 >映像は、見た物自体がすべてでありますが、言葉は辞書に載っている意味ではなく、 >その裏側にある別の意味合いがあるから、それによって言葉が意味をなします。 >つまり、一意の意味にしか取れないのではなく、言葉は辞書には載っていない意味があって、 >それがあるから言葉に意味がある、ということ。 キリがないのでは?

  • 極右がもたらした代償

    このカテでいいのか迷いますが。 個人としての人生論しては部分的には良い線いっているのかもしれませんが。 近代の会社の経営や教育にそのままとり入れるには害が大きすぎると思っています。 ・芸は身を滅ぼすという考えが日本の産業デザインが発達しない元凶 ・皆が岡目八目なら誰が碁を打つのだろうか。理念を示さない人間こそが卑怯ではないだろうか。 ・仕事に建設的な創意工夫をしたりまたは建設的なアイデアを上げることを否定していたら何も改善されないのではないだろうか。 ・他の人間のすることばかりを、探偵の様な油断のならない眼で良い悪いと心の中で判断している様な人間は、本質が何かを見ようとしていない。 いづれも変化を阻み経済の成長を低迷させるものと思えてしまいます。本来の伝統とは日々変化してきたものだと思っています。

  • 呪術性

    >言葉は呪術性を持っている。言葉をそのまま見るとただの記号に過ぎないが、 >その言葉に 含まれている意味があることで連想なり会話なりが成立します。 >映像は、見た物自体がすべてでありますが、言葉は辞書に載っている意味ではなく、 >その裏側にある別の意味合いがあるから、それによって言葉が意味をなします。 >つまり、一意の意味にしか取れないのではなく、言葉は辞書には載っていない意味があって、 >それがあるから言葉に意味がある、ということ。 キリがないのでは?

  • 動物も宗教するか

    人間の場合ピンチに陥ると神頼みしますが、動物の場合どうでしょう。 例えばライオンに追われるシマウマも最後は宗教家になっているとおもいますか。

  • ニーチェはどのように気が狂ったのでしょうか?

    ニーチェはどのように気が狂ったのでしょうか? ツァラトゥストラを書き終えた44歳から死ぬまでの晩年、ニーチェは狂気に陥ったといわれていますが、具体的にはどのように気が狂ったのでしょう?

  • 意識(心)は、どこからやって来たのか?

        哲学では、意識とは何か?とか、 死んだ後、意識はどうなるか? と、現在と未来については問われ、語られる事は多い。 しかしながら、私達の「意識」、これは幼心にいつ、どのように生じたかについて、問われ、語れる事が少ない様に思う。 けれども、現在、死後の意識を考える上で、その発生起源を考える事は重要なはずだ。 そこで、問いたい。 あなたの主体である意識は、いつ、どのように生じたか? 記憶をさかのぼる、自己観察、現在ある根拠と思われる物、現象から論理を展開し、この問いを考え、答えてみて欲しい。 ちなみに、意識、心、精神、は区別していない。  

  • 動物も宗教するか

    人間の場合ピンチに陥ると神頼みしますが、動物の場合どうでしょう。 例えばライオンに追われるシマウマも最後は宗教家になっているとおもいますか。

  • 意識(心)は、どこからやって来たのか?

        哲学では、意識とは何か?とか、 死んだ後、意識はどうなるか? と、現在と未来については問われ、語られる事は多い。 しかしながら、私達の「意識」、これは幼心にいつ、どのように生じたかについて、問われ、語れる事が少ない様に思う。 けれども、現在、死後の意識を考える上で、その発生起源を考える事は重要なはずだ。 そこで、問いたい。 あなたの主体である意識は、いつ、どのように生じたか? 記憶をさかのぼる、自己観察、現在ある根拠と思われる物、現象から論理を展開し、この問いを考え、答えてみて欲しい。 ちなみに、意識、心、精神、は区別していない。  

  • ????  迷い を定義してください そして 最適化へのアルゴリズムへ

    ????  迷い を定義してください そして 最適化へのアルゴリズムへ落とし込むか その前段階を教えてください 2|経営学メンタルヘルス人生哲学 これらの観点からの ご回答お願いします ・<消しこみ用マァカ> ・