ENERGEAR の回答履歴

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  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

  • 独我論

    ひとり回転し続けるモノローグ。 どこまでも自己を主張し続けるという意味では無際限だが、 一面的であるという意味では有限である。 身近にそんな方いらっしゃいませんか?

  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

  • 独我論

    ひとり回転し続けるモノローグ。 どこまでも自己を主張し続けるという意味では無際限だが、 一面的であるという意味では有限である。 身近にそんな方いらっしゃいませんか?

  • 3千年かけて腐朽した人の心の自律的社会性

    >原始共産制から3千年かけて腐朽した人の心の「自律的社会性」を、一代で何とかしようというのがどだい無理で(^^;) と知人から言われましたが、マトモに考えれば異論なしです。 しかし『3千年かけて腐朽した人の心の「自律的社会性」』が、日本の一般の人々に見えるでしょうか?世界中の貨幣制度もない地域にでも行かない限り無理です。「腐朽した」という認識さえ見えぬ状態では、どうしたものやら。 「腐朽した」と言われたが、それも「他律的社会化(アリ型進化)」であり、それが優秀でないこともない。事実、私の兄弟は「上位意識が出現すれば、それはそれでいい」とさえ豪語しています。 皆さんには見えないでしょうが、現代は社会進化における移行期であり、「ヒト型進化」から「アリ型進化」へと進行しています。「アリ型進化」に近いのがスタートレックの「ヴォーグ」です。女王アリのようなホストコンピュータを中央集権的に持つシステムです。個体に意識(宇宙)がないのが特徴。 さて、この進化の移行を、知人は論文などで発表していないように思いますが、これを物語として映画にでもすれば、おそらく『3千年かけて腐朽した人の心の「自律的社会性」』も少しは見えるのではないだろうか?

  • 動物も宗教するか

    人間の場合ピンチに陥ると神頼みしますが、動物の場合どうでしょう。 例えばライオンに追われるシマウマも最後は宗教家になっているとおもいますか。

  • 独我論

    ひとり回転し続けるモノローグ。 どこまでも自己を主張し続けるという意味では無際限だが、 一面的であるという意味では有限である。 身近にそんな方いらっしゃいませんか?

  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

  • 動物も宗教するか

    人間の場合ピンチに陥ると神頼みしますが、動物の場合どうでしょう。 例えばライオンに追われるシマウマも最後は宗教家になっているとおもいますか。

  • 動物も宗教するか

    人間の場合ピンチに陥ると神頼みしますが、動物の場合どうでしょう。 例えばライオンに追われるシマウマも最後は宗教家になっているとおもいますか。

  • 独我論

    ひとり回転し続けるモノローグ。 どこまでも自己を主張し続けるという意味では無際限だが、 一面的であるという意味では有限である。 身近にそんな方いらっしゃいませんか?

  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

  • 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4

    イタズラ回答を回避しながら断続的投稿です。 その一12月22日付 ​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5539308.html​ 宗教と言う組織の特徴的な現象として「神様争奪戦」の弊害の原因として神仏に取りすがる姿勢を提起したつもりです。 その2 12月31日付 質問趣旨が誤解されてアラシにあったので削除されました。 その3 1月6日付 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5573063.html 自助と互助のバランスとして信仰の共同体(宗教)の役割を問おうとしました。 思いがけずA1さんより健全な信仰心の在り方についてコメントをいただいていますが、そのような感謝とは別にあらかじめ神仏に要求を突き付けるのはとりすがりと言うべきではなかろうかとも考えます。 宗教が健全な信仰をはぐくみより良く生きるための互助団体として機能すれば話は早いのですが、実情はご利益追求のための信仰とは無縁の欲望の成就を祈願するとりすがり団体の側面があり、肥大化した求心力ゆえの暴挙として、要するに神様争奪戦として歴史に現れる失点があるのではないか。 その原因の一つとして曲がった求心力を信仰に期待するとりすがりがあり、集団として暴力と化しているからこそ、神仏に取りすがる姿勢は個人の自由として容認せざる横暴ではないか。 私は平均的な日本人らしい生活をしており、信仰を表ざたにしたり意識的に生活に取り入れたりはしません。このような普通人にとって信仰を表ざたにする立場とは、とりすがりに代表される神仏への辱めを行う人間としての裏切り者、廃人、とも受け止められます。もちろんこれは偏見と判りますが、一般的に信仰におぼれる者の特徴として毛嫌いされる要素です。この点について信仰の内側よりの説明をいただきたいと思って質問しています。

  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

  • 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4

    イタズラ回答を回避しながら断続的投稿です。 その一12月22日付 ​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5539308.html​ 宗教と言う組織の特徴的な現象として「神様争奪戦」の弊害の原因として神仏に取りすがる姿勢を提起したつもりです。 その2 12月31日付 質問趣旨が誤解されてアラシにあったので削除されました。 その3 1月6日付 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5573063.html 自助と互助のバランスとして信仰の共同体(宗教)の役割を問おうとしました。 思いがけずA1さんより健全な信仰心の在り方についてコメントをいただいていますが、そのような感謝とは別にあらかじめ神仏に要求を突き付けるのはとりすがりと言うべきではなかろうかとも考えます。 宗教が健全な信仰をはぐくみより良く生きるための互助団体として機能すれば話は早いのですが、実情はご利益追求のための信仰とは無縁の欲望の成就を祈願するとりすがり団体の側面があり、肥大化した求心力ゆえの暴挙として、要するに神様争奪戦として歴史に現れる失点があるのではないか。 その原因の一つとして曲がった求心力を信仰に期待するとりすがりがあり、集団として暴力と化しているからこそ、神仏に取りすがる姿勢は個人の自由として容認せざる横暴ではないか。 私は平均的な日本人らしい生活をしており、信仰を表ざたにしたり意識的に生活に取り入れたりはしません。このような普通人にとって信仰を表ざたにする立場とは、とりすがりに代表される神仏への辱めを行う人間としての裏切り者、廃人、とも受け止められます。もちろんこれは偏見と判りますが、一般的に信仰におぼれる者の特徴として毛嫌いされる要素です。この点について信仰の内側よりの説明をいただきたいと思って質問しています。

  • 坂本龍馬

    内田樹さんが龍馬ブームの予兆に関して面白い評論をしています。 http://blog.tatsuru.com/2010/01/07_1037.php 自分なりに独自に解釈すると 日本を生物と、国民をその細胞と仮定したとき 細胞に一斉に発せられるシグナル(リズム、命令)が龍馬的なイメージであるということかなと思います。 そうだとすれば、このシグナルの方式の欠点は、龍馬的なイメージしか伝えられないことにありそうです。 もはや、日本が大量生産型経済を維持できない以上、単一のイメージを伝えるのではなく、西郷隆盛的なもの、大久保的なもの、勝海舟的なもの、土方歳三的なもの等、各細胞に複数のシグナルを送ることが日本再生には必要と思います。 具体的には、「踊る大捜査線」のスピンオフ(別物語)の「交渉人 真下正義」「容疑者 室井慎次」などような形式になればと願います。 皆様、他にアイデアがあればお願いします。