ENERGEAR の回答履歴

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  • 動物も宗教するか

    人間の場合ピンチに陥ると神頼みしますが、動物の場合どうでしょう。 例えばライオンに追われるシマウマも最後は宗教家になっているとおもいますか。

  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

  • 植物の葉は、なぜ緑色じゃないのか?

    . 「植物の葉は、ほとんどが緑色をしています。」 と思ってた。 しかし、よく考えると、その言い方はおかしい。 なぜなら、太陽光は(赤、青、黄色、緑、ピンク、紫・・・ect) と、様々な色を持って、地球上に振り注ぐいるのだ。 植物の葉が「緑」色に見えるのは、「緑」の色を反射・散乱させているからだ。 つまり、植物の葉は、「緑」の色を嫌いっているのだ。 故に、「食物の葉は、緑じゃない」と言えるのではないか? (これは、海や空が「青い」のも同じ理屈だ。) ちなみに、黒い着物が黒く見えるのは、ほとんどの光を吸収しているからだ、これは正しい。透明も、同様に正しい赤色表現だ。 植物の葉が緑色じゃないのは、言葉場の遊びか、パラドックスか? .

  • 仏教のいける観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである

    お正月にソクラテスの考え方のダイジェスト版みたいな本を読みました。 高校時代に習った古文の書かれた平安時代などの信仰の在り方や今なお息づく神道などから古代ギリシャの精霊信仰は容易に理解できます。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 今回の質問は流れとして前回の 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5575674.html これに続きます。 知を愛すると言いますね。 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。 なのに取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。 それから、信仰を表ざたにしないのが主流の日本で宗教におぼれる少数派はあくまでも肩身が狭いでしょうが、誤解を解こうとする回答をいただいていません。 これらを題材としてお考えをお寄せください。

  • 仏教のいける観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである

    お正月にソクラテスの考え方のダイジェスト版みたいな本を読みました。 高校時代に習った古文の書かれた平安時代などの信仰の在り方や今なお息づく神道などから古代ギリシャの精霊信仰は容易に理解できます。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 今回の質問は流れとして前回の 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5575674.html これに続きます。 知を愛すると言いますね。 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。 なのに取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。 それから、信仰を表ざたにしないのが主流の日本で宗教におぼれる少数派はあくまでも肩身が狭いでしょうが、誤解を解こうとする回答をいただいていません。 これらを題材としてお考えをお寄せください。

  • 仏教のいける観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである

    お正月にソクラテスの考え方のダイジェスト版みたいな本を読みました。 高校時代に習った古文の書かれた平安時代などの信仰の在り方や今なお息づく神道などから古代ギリシャの精霊信仰は容易に理解できます。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 今回の質問は流れとして前回の 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5575674.html これに続きます。 知を愛すると言いますね。 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。 なのに取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。 それから、信仰を表ざたにしないのが主流の日本で宗教におぼれる少数派はあくまでも肩身が狭いでしょうが、誤解を解こうとする回答をいただいていません。 これらを題材としてお考えをお寄せください。

  • 仏教のいける観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである

    お正月にソクラテスの考え方のダイジェスト版みたいな本を読みました。 高校時代に習った古文の書かれた平安時代などの信仰の在り方や今なお息づく神道などから古代ギリシャの精霊信仰は容易に理解できます。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 今回の質問は流れとして前回の 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5575674.html これに続きます。 知を愛すると言いますね。 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。 なのに取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。 それから、信仰を表ざたにしないのが主流の日本で宗教におぼれる少数派はあくまでも肩身が狭いでしょうが、誤解を解こうとする回答をいただいていません。 これらを題材としてお考えをお寄せください。

  • 仏教のいける観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである

    お正月にソクラテスの考え方のダイジェスト版みたいな本を読みました。 高校時代に習った古文の書かれた平安時代などの信仰の在り方や今なお息づく神道などから古代ギリシャの精霊信仰は容易に理解できます。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 今回の質問は流れとして前回の 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5575674.html これに続きます。 知を愛すると言いますね。 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。 なのに取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。 それから、信仰を表ざたにしないのが主流の日本で宗教におぼれる少数派はあくまでも肩身が狭いでしょうが、誤解を解こうとする回答をいただいていません。 これらを題材としてお考えをお寄せください。

  • 仏教のいける観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである

    お正月にソクラテスの考え方のダイジェスト版みたいな本を読みました。 高校時代に習った古文の書かれた平安時代などの信仰の在り方や今なお息づく神道などから古代ギリシャの精霊信仰は容易に理解できます。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 今回の質問は流れとして前回の 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5575674.html これに続きます。 知を愛すると言いますね。 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。 なのに取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。 それから、信仰を表ざたにしないのが主流の日本で宗教におぼれる少数派はあくまでも肩身が狭いでしょうが、誤解を解こうとする回答をいただいていません。 これらを題材としてお考えをお寄せください。

  • 仏教のいける観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである

    お正月にソクラテスの考え方のダイジェスト版みたいな本を読みました。 高校時代に習った古文の書かれた平安時代などの信仰の在り方や今なお息づく神道などから古代ギリシャの精霊信仰は容易に理解できます。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 今回の質問は流れとして前回の 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5575674.html これに続きます。 知を愛すると言いますね。 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。 なのに取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。 それから、信仰を表ざたにしないのが主流の日本で宗教におぼれる少数派はあくまでも肩身が狭いでしょうが、誤解を解こうとする回答をいただいていません。 これらを題材としてお考えをお寄せください。

  • 哲学しすぎて死んだバカ

    藤村某以降で哲学しすぎて死んだバカっていますか?

  • 仏教のいける観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである

    お正月にソクラテスの考え方のダイジェスト版みたいな本を読みました。 高校時代に習った古文の書かれた平安時代などの信仰の在り方や今なお息づく神道などから古代ギリシャの精霊信仰は容易に理解できます。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 今回の質問は流れとして前回の 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5575674.html これに続きます。 知を愛すると言いますね。 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。 なのに取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。 それから、信仰を表ざたにしないのが主流の日本で宗教におぼれる少数派はあくまでも肩身が狭いでしょうが、誤解を解こうとする回答をいただいていません。 これらを題材としてお考えをお寄せください。

  • 植物の葉は、なぜ緑色じゃないのか?

    . 「植物の葉は、ほとんどが緑色をしています。」 と思ってた。 しかし、よく考えると、その言い方はおかしい。 なぜなら、太陽光は(赤、青、黄色、緑、ピンク、紫・・・ect) と、様々な色を持って、地球上に振り注ぐいるのだ。 植物の葉が「緑」色に見えるのは、「緑」の色を反射・散乱させているからだ。 つまり、植物の葉は、「緑」の色を嫌いっているのだ。 故に、「食物の葉は、緑じゃない」と言えるのではないか? (これは、海や空が「青い」のも同じ理屈だ。) ちなみに、黒い着物が黒く見えるのは、ほとんどの光を吸収しているからだ、これは正しい。透明も、同様に正しい赤色表現だ。 植物の葉が緑色じゃないのは、言葉場の遊びか、パラドックスか? .

  • 楽しいことないかな?

    楽しいことないかな?

  • 植物の葉は、なぜ緑色じゃないのか?

    . 「植物の葉は、ほとんどが緑色をしています。」 と思ってた。 しかし、よく考えると、その言い方はおかしい。 なぜなら、太陽光は(赤、青、黄色、緑、ピンク、紫・・・ect) と、様々な色を持って、地球上に振り注ぐいるのだ。 植物の葉が「緑」色に見えるのは、「緑」の色を反射・散乱させているからだ。 つまり、植物の葉は、「緑」の色を嫌いっているのだ。 故に、「食物の葉は、緑じゃない」と言えるのではないか? (これは、海や空が「青い」のも同じ理屈だ。) ちなみに、黒い着物が黒く見えるのは、ほとんどの光を吸収しているからだ、これは正しい。透明も、同様に正しい赤色表現だ。 植物の葉が緑色じゃないのは、言葉場の遊びか、パラドックスか? .

  • インターネットに自分の名前が出てきたら

    インターネットに自分の名前が出てきたら、あなたはどう思いますか? あなたの許可を得ていなく、あなたを侮辱する内容ではない場合です。

  • 植物の葉は、なぜ緑色じゃないのか?

    . 「植物の葉は、ほとんどが緑色をしています。」 と思ってた。 しかし、よく考えると、その言い方はおかしい。 なぜなら、太陽光は(赤、青、黄色、緑、ピンク、紫・・・ect) と、様々な色を持って、地球上に振り注ぐいるのだ。 植物の葉が「緑」色に見えるのは、「緑」の色を反射・散乱させているからだ。 つまり、植物の葉は、「緑」の色を嫌いっているのだ。 故に、「食物の葉は、緑じゃない」と言えるのではないか? (これは、海や空が「青い」のも同じ理屈だ。) ちなみに、黒い着物が黒く見えるのは、ほとんどの光を吸収しているからだ、これは正しい。透明も、同様に正しい赤色表現だ。 植物の葉が緑色じゃないのは、言葉場の遊びか、パラドックスか? .

  • 仏教のいける観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである

    お正月にソクラテスの考え方のダイジェスト版みたいな本を読みました。 高校時代に習った古文の書かれた平安時代などの信仰の在り方や今なお息づく神道などから古代ギリシャの精霊信仰は容易に理解できます。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 今回の質問は流れとして前回の 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5575674.html これに続きます。 知を愛すると言いますね。 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。 なのに取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。 それから、信仰を表ざたにしないのが主流の日本で宗教におぼれる少数派はあくまでも肩身が狭いでしょうが、誤解を解こうとする回答をいただいていません。 これらを題材としてお考えをお寄せください。

  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

  • 植物の葉は、なぜ緑色じゃないのか?

    . 「植物の葉は、ほとんどが緑色をしています。」 と思ってた。 しかし、よく考えると、その言い方はおかしい。 なぜなら、太陽光は(赤、青、黄色、緑、ピンク、紫・・・ect) と、様々な色を持って、地球上に振り注ぐいるのだ。 植物の葉が「緑」色に見えるのは、「緑」の色を反射・散乱させているからだ。 つまり、植物の葉は、「緑」の色を嫌いっているのだ。 故に、「食物の葉は、緑じゃない」と言えるのではないか? (これは、海や空が「青い」のも同じ理屈だ。) ちなみに、黒い着物が黒く見えるのは、ほとんどの光を吸収しているからだ、これは正しい。透明も、同様に正しい赤色表現だ。 植物の葉が緑色じゃないのは、言葉場の遊びか、パラドックスか? .