52ndstreetのプロフィール

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  • 日本で漫画が発展した理由。外国との違い、分業とか

    日本で漫画が発展した理由は何だと思いますか? 間違っている点も多々あると思いますが、個人的に何となく思うのは 日本の漫画は、漫画家が居て、それをサポートする弟子・アシスタントが居て、漫画を商品として成立させる編集者が居てが主流だと思いますが、海外はマーベル・コミックなんかの分業制の漫画製作システムが主流というのも意外です。 日本の方が独特らしいですが、傑作を数多く生み出して発展しているのは日本なので、日本が正解だったと思いますが。 日本は漫画を作品、漫画家を作家として扱い、小説なんかの作家と同じように接した点も良かったと思います。 あんまり関係ないかもしれませんが、敗戦後の物の無い時代・経済成長にも上手く適応出来た気もします。 皆さんは、日本で漫画が発展したのは何故だと思いますか?

  • 国語の質問(難)

    現代の都市に暮らす人びとの心は、都市の建物、雑踏、シッソウしたり渋滞したりする自動鮮、ショウ・ウィンドウや街旅 のテレビ・スクリーンに映し出される映像、郊外住宅地の風景、携帯電話の小きなディスプレイ上の文字列、小さなイヤフォン から流れつづけるリズムやビートといったものたちのなかにトウエイされ、表象されている。それだけではない。そこに暮ら す人びとの心的生活が、そうした事物に規定され、それらを通じて現れ、それらなしにはまったく別棟のものになるであろうと いう意味で、それらの事物は、そこに暮らす人びとの心の一部なのだ。 物質が見る夢、物が抱く感情、メディアのなかの記号やイメージとともに明滅する心や感情が、都市や社会のなかで私達 を捉え、私(たち)によって生きられる。私たちが見てきたのは、そのような場としての都市や社会ではなかっただろうか。 物質が夢を見る。あるいは、心が物の中に、あるいはものを通じて現れる。こうした一見すると奇妙な物言いは、ヴアルター・ベンヤミンやマーシャル・マクルハーン、ミシェルフーコーの思考を通過したあとの社会学的思考にとっては、必ずし も奇異なことではない。 、′ たとえば都市をめぐるベンヤミンのテクストでは、商品や室内、パサージユやその内外をイロドるモードといった、十九 世紀から二十世紀はじめの都市空間に見出される端的にモノである存在群は、そこに人びとの意識が表象されるだけでなく、そ れ自体が集合的な心的現象であるかのように取り扱われる。 芸術家が作る建物からエンジニアが作る建物へ。絵画から写真へ。これらは建築やイメージを「精神」から解放していくかの ように見える。だが、実際、そのようなテクノロジーとともに現れたパサージユやプルジョワジーの室内、博能会やパノラマと いった事物が示すのは、それらの事物を生み出した人びとの意識や欲望である。そしてそれらは、単に人びとの意識や欲望を表わしているだけで ではない。そのようなテクノロジーに支えられた事物はまた、積極的に人びとの意識や欲望を駆動し、作り出す ものであり、その意味で入びとの意識や欲望の一部をなしてもいるのである。 マクルーハンは、「メディアはメッセージ」という警句的教現によって、種々のテクノロジーが社会のなかに生み出す行為や 関係のペース、スケール、パターンへの注目をカンキしただけではない。彼はまた、みずからの警句をさらにもじった「メデ ィアはマッサージ」という言葉で、そうしたテクノロジーが生み出すペース、スケール、パターンが人びとの意識や感覚に働き かけ、たとえば「活字人間」や「テレビ人間」のような、特定の思考や感覚の形式を備えた人間類型を生みだすことに注目した。 マクルーハンによれば、メディアとはそもそも「人間の拡張」を可能にするものである。活字人間やテレビ人間にとって、活字 やテレビ、そしてそれらが可能にする意味や表現やイメージの空間は、人間に外在するものでほない。それらは拡張きれた人間 の一部なのである。同じことは、鉄道、高速道路と自動車、高層ビルといった〝メディア〝についても言えるだろう。現代の都 市に暮らす私たちほ、〝鉄道人間″や〝自動車人間〝高速道路人間〝や〝高層ビル人間〝であり、私たちの意識や思考、精神は、そうした〝拡張された身体″と相関した存在でしかありえない。 また、フーコ-が監獄の誕生で示したことの一つは、監獄や教室、兵舎のような物的施設の空間内の配置が特定の運用規 則と組み合わされることで、その内部に位置づけられる人びとのなかに、「不断に自分を監視し、管理する自分」という という特異 心的メカニズムを生み出すと同時に、そのような心的メカニズムに支えられた身体間の相互関連のなかの存在へと、人間を形成 していくということであった。「身体の監獄たる精神」という監獄誕生のなかの言葉は、身体に内在する多様な運動性が精神を蝶番にして規律・訓練されていくことを示しているのだが、その精神は人びとの身体のなかにだけあるのではない。監 獄の建物に、そして教室や兵舎の建物にそうした精神が宿り、身体を攻囲しているのである。 十九芸世紀以降の都市と社会を特徴づけていることの一つは、こうした物質的であると同時に社会的な世界のなかに、高速交通や高速通信を可能にするメディアに媒介された、それまでに存在しない「場」や「地形」が生み出されていったとい うことである。 たとえば、鉄道敷設は、その沿線の空間を線状に結び付けていっただけではない。以前であれば五感によって経験されて いた移動する途中の空間が、そこでは車窓の外を飛び去っていく「風景」という像として経験されると同時に、「移動する車内」と という新たな場と、居眠りや読書、とりとめのないおしゃべりや、車内の中吊り広告をほんやり眺めるといった、新たな行為や経験の様式を作り出す。して、そのような行為や経験を通じて、鉄道路線で結ばれた駅の数珠状の鎖列を軸として国土や地域や都市をイメージする空間了解の形式が共有されていく。と同時に、通勤や通学、業務のための移動などの活動を、鉄道の運行時間にしたがって管理・調整するという、時間的・空間的な行動の管理も、日常生活を送るための必要な技術として浸透 く。それは、社会化された機械装置を軸とするものへと社会的な空間や時間が編成されて、そのような機械装置とそれに媒介さ れた空間・時間のなかで、身体の集合的な活動が編成されていくということ、それを通じて新たな質や構造をもった「場」や「社会の地形」が、社会生活の物質的な基盤であり、かつまた時空間上の広がりをもったイメージとして、成立していったというこ とである。私たちが知っている「都心」や「郊外」という場は、物質性とイメージと、そこでの人びとの行為や問係のスイコ ウを通じて編成された社会の地形のなかに現れるのであり、そのような地形のなかで固有の実定性を与えられるのである。また、映画のうな映像メディアや、電話やテレビのような電気的な通信メディア、グラビア化した雑誌のようなプリント、メディアの普及と浸透は、地理的な場とは異なる言語やイメージの伝達の場を、聴覚や視覚という物理的かつ身体的な位相で存在することを可能にすることで、新しい社会的な環境を形成していくものだった。こうしたメディアは、文字や絵画を媒体とするそれ以前のメディアに媒介された環境とは異なる遠近感、身体感覚、現前性をもつ場を、社会の中に切り開いていく。そこでは、ひとびとにとって有意味な社会の広がりが、みずからの身体の近傍に経験される広がりだけでなく、種種のメディアを通じて拡張され、自己や生活の理想的なイメージメディアもメディアを通じて日々降り注ぐファッショナブルな幻像のなかに求められるようになる。そして「経験」「結びつき」「理想的」といった言葉が意味するものも、かつてそれらの言葉が意味していたものとは異なるものへと変貌する。それはつまり、「世界」や「社会」に対する人々の了解と想像の形式が変わるということ、端的にいって「世界」や「社会」のあり方が変わってしまうということだ。都市の「境界」という伝統的には地理的空間上に見いだされる存在すら、そこではメディア媒介的な現実の位相において思考され、経験されるのである。私たちが生きる世界は、十九世紀以降に出現したこうした諸メディアが切り開く新たな物質性の次元も、その素材として取り込むとこに成立している。 映画スタジオにおいては、器械装置が現実の奥深くまで侵入しており、その程度たるや、現実の純粋な姿、器械装置という異物から解放された姿のように見えるものはある特殊な処理の産物、つまりその目的のために特別にセットされたカメラで撮影したものを、同種の他の撮影フィルムとモンタージュした結果なのである。器械装置から解放された現実の姿は、ここでそのもっとも人工的な姿となった。なまの現実の光景は、技術の国の青い花となった。ここで述べられているのは、映画というテクノロジーのなかでは、器械装置が現実の構成に深く浸透しており、最も自然に見えるものこそが器械的な技術や処理を通じて現れてくるということだ。そして、映画というテクノロジーとその表現が、大衆的な娯楽を通じてひとびとの日常的な環境の一部になっていくとき、映画をつうじて現れてくるさまざまな映像は、ひとびとにとっての現実の一部を構成していくようになることができるだろう。このとき、そうした技術に深く支えられた技術の国では、なまの現実なるものは伝説の青い花のような、決して手の届かないロマン主義的な憧れの対称という位置を、技術化された環境のなかで、夢みられるものとしてあてがわれることになる。 問題1 それらの事物は、そこに暮らす心の一部なのだとあるが、そのように言える理由として、最も適切なものを選べ。 1人々の欲望から生み出された都市の事物は、一方で人々が抱く欲望の多様性を奪う拘束となるから。 2都市の事物は、そこで暮らす人々の心の反映であるとともに、人々の欲望を現出させるものであるから。 どちらが正しいか解説お願いします。

  • 卵の中のひよこが自力で卵の殻を割ることができない

    卵の中のひよこが自力で卵の殻を割ることができない そんなことがあるんでしょうか。 どうか回答お願いします!

    • ベストアンサー
    • noname#144689
    • 生物学
    • 回答数2
  • 話し相手がいない…。友達がほしい…。

    アクセスありがとうございます。 実は話し相手は友達がいなくて、ほとんど休日は一人で過ごしているので、休みの日でもうまくストレスが発散できないと言うのが悩みです。 今年私は29歳になる男です。大学入学と同時に東京で一人暮らしをして、そのまま就職しました。もう東京での一人暮らしは10年になります。 学生時代はそれなりに友達もいましたが、卒業と同時に地元の就職したり、卒業後、数年は東京で就職したが、地元で就職先を見つけ地元に戻ったり、結婚したりして家庭を持ったりということでどんどん友達が少なくなり、今は休みの日に会えるような友達があまりいません。 そうなると休みは一人で過ごすことになるのですが、一人で行くとこは、ランチ、カラオケ、ショッピング、ジム、漫画喫茶、映画館、居酒屋、焼肉屋等になります。 独りは気楽でいいのですが、さすがにこうゆう生活をしていると飽きてきます。 一人で楽しめても、話し相手がいないので少しさびしさを感じます。 なので、家でお酒を飲みながら、お風呂に入りながら、誰かと話す事を想像しながら、ぶつぶつしゃべったり、起こったり、怒鳴ったり、説教します。 仕事はいつも上司に怒られてばっかりだし、ストレスのはけ口として使われることがあります。 イライラしたから、ストレスがたまったから、あいつに説教してやろうという感じで。 説教されても言い返せないし、耐えるだけなので周りはもっともっと説教してきます。 いいように扱われます。 正直僕も誰かを説教してやりたくなります。 お金を払ってでも説教させてくれるところがあれば行きたいと思うくらいです。(ちょっと情けないですよね。) 社会時になった今からでも友達や社会人のサークルに入って話し相手を作りたいと思うのですがどうすればいいでしょうか。

  • ボードゲームに詳しい方!子供が飽きずに楽しめる物

    クリスマスに、ボードゲームまたはテーブルゲームを増やそうかなと考えています。 今現在家にあるのは、人生ゲーム、おばけ屋敷ゲーム、くるりんパニック、ドラエモン日本旅行ゲームです。 ドイツのボードゲームを購入したいなと前から思ってるのですが、なにかおすすめのゲームはないでしょうか。条件としては、家族でゲーム好きじゃないとなかなかはまれないものとか、3人4人じゃないと面白くないものではなく、子供2人でも盛り上がって飽きずに楽しめるものがいいです。 今候補に考えているのは、カタンの開拓、ナイアガラ、ブロックス、ズーロレット、カヤナックあたりなんですが、これらのゲームは下の条件的にどんな感じでしょうか。 また、他にももりあがるものがあれば教えて下さい。 ●小学校2年生と3年生から楽しめて、長く遊べるもの ●子供2人だけで遊ぶ機会が多いので少人数で何度やっても飽きずに盛り上がるもの ●下の子が飽きっぽいので準備が簡単でプレイ時間が長すぎないもの ●友達が遊びにきたときに難しいルール説明なく子供同士で教えあえるもの 最初の何回かは子供に教えるために私がやったりします。 夫はそういうものに全く興味がない(仕事も忙しく子供ととれる時間がほとんどない)ので一緒にやることはほとんどありません。 4人家族ですが、私も子供のころは大好きでしたが、大人になってからは楽しく駆け引きなどができるとか、面白さに関わらず、ボードゲーム自体に興味がなくなりしょっちゅうやるのはつかれてしまうようになったので、ごくたまにやれば満足、という感じです。 なので、家族で楽しめる、というよりも、たまーに親子で、また、普段は子供同士だけで大人を誘わなくても満足できる、飽きずに繰り返し遊べるボードゲームを増やしたいです。 カタンの開拓などは3人以上でないとつまらない、というのをみたのですが、ナイアガラなどはどうでしょうか? またカヤナックは幼稚園などから楽しめるようですが、小学校4、5年生になれば面白みがなくなってしまうでしょうか? 大変申し訳ありませんが私や主人がいなくても兄妹メインで遊べるものを探しているので「ボードゲームは家族で楽しむほうがいいからつきあってあげてください」とか「これなら大人でも飽きずに遊べます」という類の回答はご遠慮下さい。