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自由を得る経験
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- 神論のエセンスは これだ
0. 標題のごとくに自負して考えるのですが なお仮説ですので よろしくご教授ください。 疑問については是非ぜんぶお知らせください。 神論は その問い求めによって 世界におけるわれわれ人間の立ち位置が現実によく分かるようになるのだと思いますが どうでしょう。 神の世界に相い向き合うからだと思われます。 1. 神は 《人間の知性を超えている》。 2. 人間の知性で分かったと主張するその神は 人間がつくった――観念の――神に過ぎない。 2-1. そもそも その《分かったということ》は証明し得ない。その否定も じつは証明し得ない。 3. 人間の知性で分からない(不可知だ)と説く神は これも 人知でそのようにつくっている(決めつけている)。 3-1. 不可知とは 知り得ないと証明し得て初めて言えるもの。知り得ないと証明し得たなら 或る意味で人知の範囲内だ。 4. 人知を超えたところとは 《知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ:非知 incomprehensible incomprehensibility 》です。 ・ 可知(既知&未知)&不可知 に対して 非知 5. 非知なるものは 非経験(その場ないしチカラ)であり 絶対性および無限である。 ・ 経験 に対して 非経験 (自然および経験) (超自然および超経験) ・ 相対性 に対して 絶対性 ・ 有限 に対して 無限 6. 無限とは 二で割っても三で割っても 商はもとのままの無限であることを言う。 6-1. 一神教か多神教かまたは汎神論かの――神の数にかんする――問いは 無意味である。 6-2. すべては――やほよろづの神々はみな――《全体として一つの神・ただ一つの柱で全体をふくむ普遍神》の分身であるゆえ。 7. 絶対性とは 《何ものにも拠ることなく ひとり満ち足りているもの》を言い それと相対世界とは 絶対のへだたりがある。 8. 非経験は たとえば《有るか無いか》という規定が適用される経験的な事象(事物および現象)を超えている。 8-1. 《有る》と《無い》とを超え しかも両状態をおおいつつむ。 8-2. 《有ると無いとが つねに――つねにである――重ね合わせになっている》。 9. 事物が有るか無いか つまり 現象が起きたか起きていないか つまり ものごとの因果の関係として捉えられること(そして その知性)を超えているのが 非経験・絶対性・無限である。 10. 人間は このように《人知を超えているものを人知で推し測っている》。 11. 人知で捉え得たと思っている神について ひとはいろいろ忖度する。 11-1. 余計なことはやめろと言われても 余計か本計かを究めあぐねる。 11-2. 忖度するような対象ではないと考える向きは 端的に言って《無い神〔という神〕》が 心にいだかれている。cf. [8-2]。 12. 忖度のいろいろは こうだ: ① その属性として: 〔つねに真偽をまぬかれない人間の主観真実を超えた〕真理 〔善悪を超えた善悪の彼岸としての〕至高の善(スムム・ボヌム) 〔相対的な美醜を超えた〕美 〔愛憎を超えた〕愛(アガペー) 〔真理がすべてにおいてすべてであることを実現させる〕全知全能 ② 絶対性からそれを擬人化して:絶対者 ③ 全知全能なる絶対者を物語化して:創造主(非経験と経験世界とは絶対の へだたりがあることを言っている) ④ 創造主のチカラのおよぶところとして:摂理(因果律を超えているチカラ による人間への因果応報なる説) 13. 神についての忖度は すべて おのおの心の内面に主観真実としておさめている限りは 自由である。良心・信教の自由。 13-1. 神についての忖度――神観――が 良心・信教の自由のもとに自由であり それとして主観真実におさめられることを 《特殊絶対性》と言う。一般性とは別次元にある。 13-2. 忖度に成る神観を成るたけ避け一般性を問い求め得た神論は 《一般絶対性》なる理論であり これを個人として抱くゆえ 《個別絶対性》とよぶ。 13-3. 神観が 或る種体系的な神学となりこれがオシへとされ得る。さらにしかもオシへが神と同等のものだと説く場合がじんるいの歴史にあった。そのような神学ないし自称神論はアウトである。人間が神をこしらえている。《文字もしくは聖なる書》という偶像が建立される。 13-4. オシへを神と説くシュウキョウというシュウキョウは その説くという発想が無意味であり ぜんぶアホンダラ教である。 14. なお《一般絶対性かつ個別絶対性》の具体的なあり方は 次のように図示できるはずだ。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我(生命性) B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如(生命性‐生命体一如) 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如 霊:かみ(超自然および〔その依り代としての〕自然) 霊:われ(自然本性 + α ) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ I. タオイズム:道人一如 道:タオ(?) 人:われ 14-1. 個別絶対性とは 信仰である。《非知なるナゾを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》を言う。 14-2. 《信じる》は 《感じる・考える》を超えている。言いかえると 《信じている》ときに《感じ考える》ことを同時におこなえる。無思考や思考停止ではない。 14-3. 【梵・仏・霊】 :信じる(生命性):非思考の庭 ------------------------ 【我(霊の分有)】:考える(知性) :思考の緑野 感じる(感性) :感性の原野
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- 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと
・・・思います。そのことをめぐって 問います。 おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。 すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。 たたき台です。 1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。 1-1. その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。 2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。 2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。 3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。 3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。 4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。 4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。 5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。 5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。 5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。 6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。 6-1. 《絶対》の二重構造: ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠 ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果 関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に すら用いられることがある。 たとえとして都合がよいのだと思われる。 6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。 以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。 ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。 ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~ 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞) http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html ~~~~~~~~~~~~~~
- 女の子のリゾートバイトについて
こんにちは☆大学4年(女)です。 今年は学生生活最後の夏なので、思い切ってリゾートバイトをしてみたいと思っています。 私がリゾートバイトで得たいものは、友達、お金、忍耐力、自由などです。自由というのは、うちは家が厳しいので、学生のうちに親元を離れて生活してみたいという考えからです。 リゾートバイトには出会いがある、とよく聞きますが、異性との出会いは友達としての出会いは歓迎ですが、それ以外は今は気が進まない状態です。 ただ、女の子のリゾートバイトなんて危ない、と親に言われるのですが、実際はどうなんでしょうか? また、リゾートバイトってどんな人が集まってくるんでしょうか? 人見知りはそこまでしない方ですが、心配性なのでなじめるかちょっと気がかりです。 経験者の方、ご意見お願いします><
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- 神とは何か?
神とは何か? 決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。 ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y =考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X =考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく) ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により 【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。 【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html ☆ それではよろしくどうぞ。
- 宗教批判:一般および個別絶対性理論&特殊絶対性仮説
0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが むしろ 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 経験的な思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0] 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。 経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する) 可知(認識しうるものごと) 既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする) 未知(いづれ既知になるであろうと推察されている) 不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間 違い得る) 非経験の場(絶対性) 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ incomprehensible incomprehensibility ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心) ----------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ) 【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/ヤマシサ反応) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター);ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如 霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然) 霊:われ(自然本性 +α ) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ I. タオイズム:道人一如 道:かみ 人:われ 8. したがって これら前項の霊性なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか・どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。〔ダ・カーポ〕。 15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《経験思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として人知なる思想なのだ。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。(オシへだけなら 中立)。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。 ☆ 添削をどうぞ。
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- bragellone
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- 履歴書の書き方について
35歳の男性です。 直近入社した企業が反社会的勢力とのつながりがあったため、入社2ヵ月で自己都合退職いたしました。今回の短期での転職についてはしっかりおつたえできるのですが、実はこれで転職回数が6社目になります。 過去に試用期間内に1社(A社)退職した経験があるのと、 とある企業(B社)在籍中に一度退職して1ヶ月ほど他社(C社)で働いて出戻った経験があります。 A社とC社は履歴書に記載せずに転職活動をしても良いのでしょうか? 決して嘘を記載するわけではないのですが、 『記載しない』ということも私文書偽造や経歴詐称として、入社後解雇の自由になりえるのでしょうか? 法律に詳しい方がいらっしゃいましたらご教示ください。
- キリスト者の《脱ナラワシ》とは 異化作用である。
表題のごとく さらにヒラメキを得ました。 【Q:イエスの指し示した経験行為とは 脱ナラワシ?】 http://okwave.jp/qa/q8246542.html という質問からの展開なのですが その質問をとおして行ない得たやり取りからさらに あたらしい発想を得ることが出来ました。 ○ キリスト者の《脱ナラワシ》とは 異化作用である。 1. 既成のナラワシから自由であること。これが 社会にあってそのオモテでの経験行為として持つに到る具体的な内容のひとつだと考えられた。 2. しかもこの《ナラワシからの自由》とは じっさいのナラワシを前にしてその中身を異化させてしまうこと これが さらに具体的な行為になるのではないか? 3. 異化作用と言うと 何だかお笑いや芝居の演出方法みたいに受け取られるかも分かりませんが おそらく《ナラワシを単純に否定する》ことではないからには 目の前のナラワシの内容を ズラセてみせる。これではないかと考えました。 4. たとえば (あ) アマテラシテ象徴家は 万世一系と言いますが これは いま生きているわれわれ一人ひとりの誰にも当てはまります。万世一系として いま存在するのでない人はひとりもいません。 (い) ただし一般市民の場合には 男系によるそれではないようです。女系も含まれましょうし あるいは養子縁組による・つまり血筋は絶えている場合もあります。(後者の場合でも 血筋をたがえて やはり万世一系であることに変わりはありません)。 (う) つまりあるいは 男系による万世一系というのは しかしながら 側室によってその血筋がつづいているという実態があります。これは 現代では 好ましからぬ事態です。 (え) (婚姻は 互いにその連れ合いと言わば人格が一体になるほどのきづなですから どちらか一方のひとりだけの意志によっては ものごとを決めてはならないと考えられます。そういう人格関係があるなら 側室という人間関係は 人間の意志行為として成り立たない。と考えられます)。 (お) 《大政奉還》というのは アマテラス公民が 主権の存するスサノヲ市民らに対しておこなう行事でしょう。 5. というように 異化作用をおこなって ナラワシからの自由を得る。という例を示しました。 果てさて あなたのお考えは?
- 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ
神は 《非知》である。 ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った) 非経験の場 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~ 非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神) _______________________ ↓ ↓ ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。 オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。 《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく: A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空・シューナター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如 仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。 すなわち中で 《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく 《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。 以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。
- 結婚後の自由度
26歳女、通信制の大学生です。 今現在、大学卒業(経済学部)に向けて1日のほとんどの時間を自宅勉強に費やしています。 卒業後、おつき合いしている彼と結婚する予定です。 私の結婚後の進路ですけれど、現役時代(高校3年生)に果たせなった夢を実現させたいと思っています。 それは地元の国立大学の薬学部に進学することです。 そのためには受験勉強そして合格後には4年間通学しなければなりません。 ほかにも通信大学で得た知識を生かして、簿記や税理士、会計士など資格をとったり、起業したいとも考えています。 上記のことは独身であれば可能だと思いますが、結婚後であればどうなるのか・・・ 結婚する彼は、家庭のことをきちんと果たせば私の進路に協力的です。 しかし実際は私が主となって家庭のことはしなければいけないと思っています。 結婚経験もないため、はっきりとしたライフプランを決めるのにいきず詰まっています。 あくまで結婚・妊娠・出産を優先したいと考えています。でももし両立できるのであれば可能な範囲で、家庭と仕事や勉強を両立したいです。 結婚後忙しくて学業に時間を充てることが厳しければ、15、20年後に再び自由な時間がとれるようになってからでも良いと考えています。なぜならば、私は勉強することが好きだからです。 そこで質問なのですが、独身時の自由度を100%とした場合、結婚後の自由度、子供ができてからの自由度を教えてください。 特に結婚、子育て経験のある女性からの回答をお待ちしております。 もちろん男性の意見も大歓迎です☆
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- milk1618
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- 恋愛して良かった事教えてください♪
恋愛できて、良かった!と思えることがあったら教えてください。 私は、高校時代ずっと勉強一筋で恋愛に興味がありませんでしたが、 特に後悔はしていません。十分なお金も時間もない高校生が、自由な恋愛ができないと思っているので・・・。 しかし、先日テレビで付き合って3ヶ月祝いをしているカップル特集をしていて、そのとき友人に 「うわぁ、こんなことする男いないでしょ?キザだわー。 (私)は、どう思う?こんなんやった??」 と聞かれ、 「いや、付き合った人今まで居ないからわかんない。」 と答えましたが、これをきっかけに恋愛について少し考えるようになりました。 今もあまり恋愛については興味がなく、勉強とサークル活動で大学生活を満喫していて特に問題はないのですが、やはりいろいろな経験もして見たいので、みなさんがどのようなことを過去の恋愛経験から得たのか知りたく、相談させていただきました。 良かった事、悪かったこと・・・何でもいいので教えてください。 よろしくお願いします。
- 重力が意志なら 社会の時空間は意志関係で歪むのか
1. ここはすべて タトエと想像の問題です。 2. ちなみにタトエではない問いとして 重力が空間のユガミだと言うとき 時間はどのようになっているのですか? 3. 重力が仮りに人間の意志だとすると 社会という時空間は 人間の意志行為が錯綜して形作られており そのときユガミを生じている。と言えるか? 4. シガラミによる制約――あるいは分かりやすく言えば 社会力学じょう有力な勢力による脅しによって行動の自由が制約されること―― これが ユガミか? 5. 重力があるということは 一義的に空間にユガミが生じるということであるとすれば 社会力学じょうも 人間関係の時空間におけるユガミは 人間に意志がはたらくからには 避け得ない経験則であるのか? 6. これは 自由意志の存在を明かしているだろうか? 7. なぜなら 《オドシ》というような意志を たとえ必然的な成り行きだと見るとしても それでよいとは誰も思っていない。オドシなる意志行為がよいとは誰も考えていない。――というような思弁としてだけだとしてもの意志自由が 人間にはもともと自然本性においてそなわっている。と言えるか? 8. ということは 人間の意志には 好ましい(または中立の)内容としてのハタラキと好ましくないオドシとしてのハタラキとがあると帰結しうるか? 9. オドシなる意志を発揮するのも 自由意志としての意志行為ということか? 10. 重力は 中立か? それとも 初めから世界が決定されていてその中で重力も 決定されているチカラであるに過ぎないのか?
- 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?
人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか? A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか? A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか? B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか? B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか? B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか? B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか? C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか? C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか? D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか? D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか? D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。 E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか? * ○ (神とは何か?) ~~~~~ §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y=考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X=考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。 §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の 歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。 これに対する答えは むしろ簡単である。 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。 いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。 以上の定義だけの理論は 次が その心である。 吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 ~~~~~~~~~~~~
- 《まだ知られていない》には未知と不可知と非知がある
1. 《既知》ではなく《まだ知られていない》という場合 そこには 未知と不可知と非知とがある。 2. 《まだ知られていない》が いづれ――推量なのですが――《知ることが出来るであろう》と見なす場合は 《未知》です。 3. 《未知》の中で これこれの問いはどうも正解が見つからないし その知り得ないことが証明されたという場合 これは 《不可知》です。知り得ないと知った そこまでは知り得ている。 4. 《未知》ではあるが それと同時に 《いづれ知ることになるだろうとも言えない》場合 これを《非知》と呼ぶとよいはずだ。 5. 《いづれ知ることになる》とは決して言えない場合というのは 《絶対》の領域のことだ。この経験世界を超えた場のこと。 6. 経験的で相対的で限りあるその生と能力が移ろいゆかざるを得ない人間にとって 絶対は いつかはそれを知ってやろうと思っても 無理である。仮りに 無理でなく知ったという場合には その人はみづからが絶対なる存在になったことになる。あり得ない。 7. ただし・ぎゃくに絶対なる場は 《知り得ない》か? と言えば それについての答えも分からない。というのが 人間の成し得る自然な理解である。 8. 知り得るか? も分からないし 知り得ないか? についても分からない。しかも この二つのことが 同時に成り立っている。これが 非知だ。 9. まとめよう。《知り得るか 知り得ないか いづれとも知り得ないナゾ》 これが 非知だ。 10. 言いかえると ひょっとすると 人はこの絶対――神のことだが――を知り得るかも知れない。そのとき同時に 知り得ないかも知れないと認識していれば 成り立つ。 11. 知り得るとも 知り得ないとも どちらか一方にだけ片寄った捉え方をまぬかれていれば その神を人間は如何ようにも 捉えて間違いではない。 12. 《無い神》を同時にみとめつつ《有る神》派に立つことは 可能である。そのぎゃくも 然り。 13. 《非知》からみちびいたこの《普遍神》にもとづくなら わたしたちが 《これこれなる神のみ》と暴言する・かの宗教から完全に自由になること 請け合いである。世界は どれだけ富士山の日本晴れになることか。 ☆ どうでしょう?
- 軽貨物等個人事業者の税金について
軽貨物事業者は商人となるのでしょうか。 なると勝手に想像します。 また、商号等登記(法人登記)をしない状態において法人税は課せられるのでしょうか。 そんなの、税務署に聞け!といわれると痛いのですが、会社勤めの経験しかなく、例えば、道端で、アクセサリーを売ったとか、似顔絵を描いて、収入を得たとしたら、それは単なる申告(数百万円を稼いでいても(似顔絵で!)、どうやって、白色と青色を税務署は判断するのか。 とにかく、分からないことだらけです。 源泉徴収でなく、自由に人からお金を貰って、いるとしたら、どう税金と向き合うのか。 簡単な言葉で教えていただけると助かります。
- 妻の実家は兼業農家で、20アールぐらいの田があります。
妻の実家は兼業農家で、20アールぐらいの田があります。 最近まで人に貸して米を作っていましたが、 昨年度、収穫した後、休耕田の状態になっています。 その田は、実家から車で5分ぐらいの所にあります。 現在、近くに電源を取るところはありません。 そして、実家に住んでいる義理の両親は高齢のために維持管理は難しい状態です。 私は1時間ぐらい離れたところに住んでおり、土日は自由に時間が使えます。 家庭菜園ぐらいの経験があるサラリーマンです。 この田を有効利用して副収入を得たいと考えていますが、 参考になるサイトがあれば教えてください。
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- 一般および個別絶対性理論 (神論です)
一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対的批判 0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 存在を想定してなお模索する。ご検証を。 0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規定することはできる。⇒7‐B。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に基本的に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒(#0) 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。 経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する) 可知(認識しうるものごと) 既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする) 未知(いづれ既知になるであろうと推察されている) 不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間 違い得るが) 非経験の場(絶対性) 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド:(*ヒラメキ・**良心) --------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観) 【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応・恥ぢ) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター);ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如 霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然) 霊:われ(自然本性 +α ) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ I. タオイズム:道人一如 道:かみ 人:われ 8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神と個別なるわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前がひとによって異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. (12-1)に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。 * 15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2.シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。
- どのような道をたどれば良いか迷っています
25歳女性です。 2年の一般事務経験しかなく、現在無職です。 「将来的に」ファイナンシャルプランナー、アドバイザーの仕事をしたいのですが、 どのように動けばいいのか迷っています。 資格といえば資格ですが、 無職で資格取得をしてもあまり意味がない(ですよね?)ので 実務経験を積みたいのですが、 「では実務経験とは?」と考えた所、よくわかりません。 証券会社に営業として応募するのがベストなのでしょうか??? でも、営業の経験もなく、多少勉強を始めたものの 金融の知識もありません。 1証券会社の営業として応募する(正社員) 2証券会社の営業として応募する(派遣・契約社員・パート) 3証券会社の一般事務として派遣で働きながら 自由な時間を利用して試験勉強する→その後営業職に応募 4その他 要するに、現在無職なので、働きたいのですが どうしたらいいのでしょうか? 条件的に正社員は無理なわけですが、一応選択肢に入れました 契約社員でも構いませんので、働きながらそのような知識を得て FPの仕事を目指したいです どうぞよろしくお願いいたします。
- 締切済み
- その他(ビジネス・キャリア)
- akiko749
- 回答数2
- 車が必要に、しかしペーパードライバー10年
10年前に車の免許をとったきり全く乗っていません。 が、このたび、育児の都合で車を導入せざるをえない 状況になりました。 現在、関東の首都圏(東横線ぞい)で、車がなくとも 不自由はないのですが、たびたび家内の実家の方に 車を出してもらったり、タクシーを使ったりする機会 が多く、また、子連れで遠くに遊びにも行きづらいので、車を導入せざるをえなくなりました。 詳細は割愛しますが、、問題は 「原付も恐る恐るなので、車など乗りこなす自信がない」 ことです。私は慎重なほうで、自転車でこけて怪我したなどという経験は一度もありませんが、同じような感覚で車など乗ったらえらく問題がおきそうで恐怖心が先立ちます。どうすれば不安を解消し、確実にスタートを切ることができるでしょうか。また、教習所を活用する際のアドバイスなどありましたらレスおねがいします。
- ベストアンサー
- その他(生活・暮らし)
- Yepes
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- 貞淑な女性・処女の女性の方が結婚対象として人気があるという事実が女性にもっと浸透して欲しい。
あるアンケートで知ったのですが、男性は 遊び相手には、性経験豊富な女性を好むけれど、 結婚相手には、性経験自体ないくらいの女性(処女)を望む傾向があるとのことです。 これが本当なら、もっと世の中に広めるべき情報だと思います。 昨今の日本では、恋愛をすれば、即、肉体関係という風潮をメディアが煽り、 それに付随して、未成年の軽はずみな行為や、性病の蔓延、 中絶率の上昇など、問題は尽きません。 なのに今のメディアはこぞって「性に自由である女性」をカッコ良く描いています。 これは危険な状況だと思います。 ハイティーンから20代前後にかけて 特に女性内では処女であることが恥ずかしいという風潮すらあります。 そういった現実に対して 先のアンケート結果は問題解決への道へ 一石を投じるとても良い情報だと思いました。 つまり 男性をとっかえひっかえ遊ぶ人生を選ぶなら、性に自由で結構、 1人の男性に愛され、家庭を持つ人生を選びたいなら、身持ちは固いほうが 結果的に男性から人気を得る=「モテる」わけです。 婚活という言葉に象徴される、女性の結婚願望が高まるなか、 簡単に女性の貞操観念をひっくり返せる良い情報だと思うのですがどう思われますか。 回答には可能でしたら 性別・年代をお書き添えいただけると幸いです。 なくてももちろん構いません。 よろしくお願いします。
- 大型犬:引越しで屋外飼いから室内飼いへ
8ヶ月の大型犬を飼っています 田舎のため6畳くらいのスペースのテラスで飼っていました おとなしく親バカですがとてもいいこだと思っています やむを得ず引越しが決まり、どうしても室内飼いになりそうです 今まで屋外から室内飼いをして何か大変だったこと、アドバイスなどみなさまの経験をお伺いしたいです テラスでけっこう自由にできたので室内はストレスがたまるのではないか 情報によっては犬は自分が寝られるスペースがあればストレスはたまらないとか いろいろ情報が多すぎて混乱します もちろん室内での生活環境はきちんとやります ただ犬にとっていいかどうか考えてしまいます よろしくお願いいたします
- ベストアンサー
- 犬
- jasmine-xian
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