• ベストアンサー

「価を持って実を買うのや」

お待たせしました、最終奥義の一つです 「あたいをもってじつをかうのや」、おやさまは、女性の体 でしたので「や」が付いてると思います 心で神を動かすんですよ!、そう言う事ですよ! 商売でも何でもそうなんです!、やってみて下さいね! さて、貴方は何を実としますか? 何を価としますか?、これ、自動書記ですよ! 教えて下さい、お願いします! 最終段階ですよ!、お願いしますよ!!! 余分に成るかも知れませんが、私個人から >奇跡~大きな愛のように~さだまさし

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

お久しぶりです。 価=物語。実=創造世界。 でどうでしょうか?

romanda201
質問者

お礼

難しいですねえ・・ 価>あたい>亜体>亜態>色々有りますわねー、おほほほほ! 実>日>實>? みんな、ひらがなのを、漢字変換して書きました 本当の事はあの人に教わりたいなあー、何て、思っています・・? 回答有難うございました

関連するQ&A

  • 愛を知る・・

    >案山子[さだまさし]デビュー30周年記念特別仕様盤  この歌詞の主人公が人間の心じゃないでしょうかね?!  貴方は愛とはなんだか分りましたか?  教えて下さい、お願いしまーす!

  • あなたの好きな歌詞のフレーズ

    歌の中には、とりわけ心に残るフレーズがあったりします。 忘れていた歌でも、その言葉がすべての詞をおもいださせてくれる、 そんなことってありませんか? 私は、さだまさしの「雨宿り」 うたい出しの  「それは私がまだ神様を信じなかった頃」 のフレーズが好きです。 オッサンがなんという少女趣味な歌を・・と笑われようが、あのフレーズに 心惹かれます。 糸井重里のほぼ日にも、オフィスで誰かが「それは私がまだ神様を信じなかった頃」と口ずさんだら、最後は大合唱になったという話がでていました。 さて、みなさんの「好きなフレーズ」教えてください。

  • 終に頭に来た(悟った)?

    存在が価値であり、目的であり、意味であり、意義であり、正義であり、愛の目的です。 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー(物質を含む) 人間は存在を目指す、永遠に。存続 永遠と続く。 人間は存在することに意義がある。 人間は精神である。精神は性質である。性質は物質とは独立して真理に則して現れる。 悟った(真理を知った)人間が神の子である。 神が宇宙のエネルギーと真理である様に似せて 人間は体・脳・環境等の物質(エネルギー)と性質である精神である。 (人間は脳と精神である) イエスも釈迦も真理を悟った(一部)神の子であった。 仏も神も実は同じような意味。 物質の性質が心(精神)を成している訳ですから 唯物論と唯心論は統合できる。 エントロピーはコントロールできる。引力と循環と秩序をコントロールして永遠を目指そう。 ブラックホールは蒸発しない のでは?  ビッグバンとは 超巨大なブラックホールの特異点の爆発だったのでは? 我々は 神の実験? 奇跡の星地球に奇跡の存在人間精神(命に宿る)が発生。これが神の奇跡。 しかし 神はあまりに残酷だ 何故だ?何故こんな残酷な事させたのか? 以下略。どう思いますか?存在や神について?

  • 催眠療法で、被験者が6割の高確率で「光の存在」から教訓を受けることがで

    催眠療法で、被験者が6割の高確率で「光の存在」から教訓を受けることができるそうです。(飯田史彦、奥山輝実氏の著書より)。また、アイリーン・キャディ氏は「内なる神」の言葉を著作にしました。こうした「光の存在」や「内なる神」とは潜在意識にあるもう一人の自分だと考えていいのでしょうか? そうすると、霊媒が霊言や自動書記で受ける通信も、心の中にあるもう一人の自分から受けたものだと考えられますか?

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味ではないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰を わが心なる《非思考の庭》として現わした。    という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味でもないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。おそわりたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切って逃げたという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から闇を晴らす光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰一般を わが心なる《非思考の庭》として現わした。  (κ) ところが 人びとの中には この世に闇はあってもらわなくては困ると説く人がいる。闇を晴らしてもらっては困ると言う人がいる。のではないだろうか? 懐中電灯――にんげんの科学と芸術――があれば充分という主張である。これについて どう考えますか?

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。  この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。    そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。  という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 信仰とは?

    私はクリスチャンではないのですが 高校の時に四福音書を読みました 日本ギデオン協会?が新約聖書を高校で配ったからです。 しかしイエスの復活が信じられなかったので他は黙示録とか創世記とかを読みました しかし此処に至り 読めるうちに使徒行伝も読んでみようと思って読んでいますが メシアでもないのに奇跡が続出 死人は蘇り 病気は治り こりゃなんだと思いました。 しかしクリスチャンはこの信じ難き事を信じるほどの信仰を持たねばなりません 私も解釈改憲じゃないですが こういう意味だろうかああ言う事だろうかと 首を捻り捻り読んでいますが、どうにも信仰がないため分かりません。 世界には数億のいや十数億のクリスチャンがいるでしょうけど その人たちはこれを信じているのでしょうか? バスが土砂に埋まったとき 遭難や地震(阪神淡路、東日本等)後藤さん湯川さんの時も 及ばずながら祈りましたが 祈りは一度も通じません 私だけが祈ったのでしょうか? 多くのクリスチャンも祈ったはずです。しかし結果は何時も祈り虚しく・・・ そしてたまに祈りと現実が一致したら「奇跡的に」「奇跡だ」と言って喜びます。 果たしてこの様な信仰 クリスチャンに限らず 神頼みの信仰は何のためにあるのか? それは己の心を強く持ついために在るのではないでしょうか? しかしその反面 祈るばかりで現実に出来ることを諦めて 今は皆で祈りましょう と 言うこともよくあります。 これは思考停止にもつながります。行動しながら祈るのが一番なのです 「天(神)は自らを助くるものを助く」と言います ところがその結果 突出したのがアメリカです。USAです。 それはクリスチャンが投票してるとはとても思えないような軍事力と資本主義 格差社会と大国のエゴ そして権利の主張と裁判の数です。 他にも宗教は仏教系、神道系、イスラム系、新興宗教も日本でも見られますが 信仰とは一体何でしょうか?死人が蘇ると信じる事?祈るより他無い時に頼るもの? 皆で一つの教えを信じて仲間になること? しかし宗教内部でもそうそう仲が良いばかりではありません。 かと言ってマルクスのように信仰を否定すると 信仰と共に在った道徳・倫理や教えまで 一緒にかなぐり捨ててしまいます。 その結果が粛清だったりしますし。 一体現代、現在に生きる我々は 何を信じるべきでしょうか? 科学? 人間? 愛? お金? 神? 家族? 自分の心?・・・ 人は全く何も信じないでは行動できません。足元に大地があるだろうと信じて 足場が壊れないことを信じて歩き、生きているのです。 哲学として皆さんが考えた結果 これは信じられるというものはなんですか 信仰の対象とできるのはなんでしょう? 皆さんの日頃思うところを教えていただけると有難いです。 我々は何を信じればいいのでしょう? コギトでもイデアでも 真心でも愛でも 言葉でも理性でも何でも来いです。 どうか教えて頂きたいm(_ _)m

  • 組換え価について

    ある個体の組換え価というのは、変わらないのでしょうか。 一つの個体は配偶子を作る際、必ず決まった割合で組み換えを起こすものなのでしょうか。 それともその種類全体に決まった組換え価というのが存在するのでしょうか。