権利と義務という次元を掘り下げることはできないか? (もののあはれ)
権利と義務という次元を掘り下げることはできないか? (もののあはれ)
たとえば おそらくもっとも存在の奥底にあると思われる権利は 《生きる権利》であろうと思います。ここでの問いは これをなぜ《権利》と言うのか? です。権利や義務の次元をはるかに超えた(もしくは それよりも深いところで希求される)なにごとかであると思われるからです。
たとえば こうです:
▲ (ヰキぺ:人権) ~~~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A8%A9
§ 基本的人権
基本的人権とは、人間が、一人の人間として人生をおくり、他者とのかかわりをとりむすぶにあたって、決して犯してはならないとされる人権のことである。
すべての人間が生まれながらにして持つ。
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☆ 《すべての人間が生まれながらにして持つ》のならば なぜそれが《権利》として表わされるのか? 権利に行き着くであろうけれど その前の段階があるのではないか?
《もののあはれを知ること》とか《自然本性》とか〔それと同じ意味になりますが〕《生まれつき》とか あるいは 《公理》であり《すでに無根拠を根拠としている》であるとか このように言うとよいとただいまでは思っています。《人間がその知性で考えても ただしい答えが出て来ないところの現実》であるように思います。
表象しえず表現しえないからと言って 《権利と義務》という概念で代理して表わすのには まだ間がわるいのではないでしょうか? 具体的な表現にし過ぎているのではないか?
▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~
基本的人権は、生命、財産、名誉の尊重といったような個別的具体的な権利の保障へと展開することが多い。
このため、体系化されているさまざまな権利を総称して「基本的人権」ということもある。
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☆ この総称としての基本的人権のさらに根拠は 無根拠としての根拠であると いちどは言っておくほうがよいのではないか?
言いかえると 植物人間と極悪人とふつうの人とそれぞれの間には 人間という存在として 何の違いも隔てもない。これが 無根拠という根拠なる次元での思想なのではないでしょうか?
日本では もののあはれを知ると言われてきたことがらなのでは?
お礼
釣りはかかったときビビビとなる所が 醍醐味ですね、巻くのは疲れるけど 回答有難うございました
補足
ジャストインタイムなら尚更 ここちいいですね