tokytime の回答履歴
- 転生しなくなるのを目指せ
よろしくお願いします。 人生上の様々な困難や軋轢に遭遇したとき 俗に『魂の修行のため』『輪廻転生』といったたぐいのことばが、よく用いられます。 それらは、確かにうまく構成された論理であるようにも思いますが、また 『真理とは結局、最もよく機能することのわかった仮説に過ぎない』 ということばを思い出させもします。 私としては、いずれ確認がとれないものであれば 『魂の修行のため』といった理由づけがされても 「なるほどね」程度の感慨で終わりますが それよりも疑問なのは 『魂の修行』を行って最終的には『完全な境地』のようなものに至らなければならぬとすれば、それは何のため(転生しないため、とかいうレベルの話でなく) であるのか、それを目指さなければならない「システム」になっているのであれば何故なのか このあたりを、うまく御説明いただけるかたがおられましたら御教えください。
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- schneewittchen7
- 哲学・倫理・宗教学
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- キリスト教 人格的な神
信仰者にとって、何故人格的な神こそが人間の自由なる人格を支える唯一のものであったのでしょう? 宜しくお願いいたします。
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- noname#19332
- 哲学・倫理・宗教学
- 回答数8
- 転生しなくなるのを目指せ
よろしくお願いします。 人生上の様々な困難や軋轢に遭遇したとき 俗に『魂の修行のため』『輪廻転生』といったたぐいのことばが、よく用いられます。 それらは、確かにうまく構成された論理であるようにも思いますが、また 『真理とは結局、最もよく機能することのわかった仮説に過ぎない』 ということばを思い出させもします。 私としては、いずれ確認がとれないものであれば 『魂の修行のため』といった理由づけがされても 「なるほどね」程度の感慨で終わりますが それよりも疑問なのは 『魂の修行』を行って最終的には『完全な境地』のようなものに至らなければならぬとすれば、それは何のため(転生しないため、とかいうレベルの話でなく) であるのか、それを目指さなければならない「システム」になっているのであれば何故なのか このあたりを、うまく御説明いただけるかたがおられましたら御教えください。
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- schneewittchen7
- 哲学・倫理・宗教学
- 回答数14
- 子孫が絶える人間の存在意義について
自分は妻との二人暮らしで、経済的事情で子供は居ません。 要するに、「我が家」は、家系的にも遺伝子的にも、何ら生物学的な機能を果たさないまま終焉することがわかっております。 これまで、歴史上でも、食をはむこともできぬ経済的弱者の集団は、絶滅の憂き目にあい、そのたびに、有力者の子孫のみが繁栄し、その何割かが没落して、結果、身分制度が(表沙汰にはならなくとも)維持されているものと愚考します。 となると、滅び行く家系の構成員は、いつの時代も存在したことになり、現在の我々が特別な存在ではないことはわかります。 ですが、このような「滅び行く人間」としては、どのような心構えで「人生」というものをとらえればよいのでしょう? 「DNAの指令を果たした」とか「とりあえず後は子供に任せた!」という投げやりな引退劇は、我々には望むべくもありません。 ただ、生まれ、ただ、死ぬだけで、後には何も残りません。 「社会的な功績を残せば良いではないか!」と言われるかも知れませんが、そんな人間は一握りでしょう。 また「その日その日を幸せに過ごすことが出来れば、それでいいじゃないか?」とも言われそうですが(というか、現によく言われます)、それは論点をずらしただけであって、本質的な疑問の解決にはなっていません。 「人類は、どこから来て、どこへ行くのか?」という問いならばまだ救いがあるのですが、「自分は、先祖から生まれてきて、ただ死ぬだけなんだが・・・なんか意味あったの?」と考えると、やはりただの乱数の一つであったとしか思えません。 他の皆さんはどう思われますか? 何を目標に、何を考えて、生きてゆくのでしょうか?<我々 意味など無いことがわかった上でも、なお修羅の道を最後まで歩く価値があるのでしょうか? <なお、宗教関係者のご回答は丁重にお断りさせていただきます。>
- 子孫が絶える人間の存在意義について
自分は妻との二人暮らしで、経済的事情で子供は居ません。 要するに、「我が家」は、家系的にも遺伝子的にも、何ら生物学的な機能を果たさないまま終焉することがわかっております。 これまで、歴史上でも、食をはむこともできぬ経済的弱者の集団は、絶滅の憂き目にあい、そのたびに、有力者の子孫のみが繁栄し、その何割かが没落して、結果、身分制度が(表沙汰にはならなくとも)維持されているものと愚考します。 となると、滅び行く家系の構成員は、いつの時代も存在したことになり、現在の我々が特別な存在ではないことはわかります。 ですが、このような「滅び行く人間」としては、どのような心構えで「人生」というものをとらえればよいのでしょう? 「DNAの指令を果たした」とか「とりあえず後は子供に任せた!」という投げやりな引退劇は、我々には望むべくもありません。 ただ、生まれ、ただ、死ぬだけで、後には何も残りません。 「社会的な功績を残せば良いではないか!」と言われるかも知れませんが、そんな人間は一握りでしょう。 また「その日その日を幸せに過ごすことが出来れば、それでいいじゃないか?」とも言われそうですが(というか、現によく言われます)、それは論点をずらしただけであって、本質的な疑問の解決にはなっていません。 「人類は、どこから来て、どこへ行くのか?」という問いならばまだ救いがあるのですが、「自分は、先祖から生まれてきて、ただ死ぬだけなんだが・・・なんか意味あったの?」と考えると、やはりただの乱数の一つであったとしか思えません。 他の皆さんはどう思われますか? 何を目標に、何を考えて、生きてゆくのでしょうか?<我々 意味など無いことがわかった上でも、なお修羅の道を最後まで歩く価値があるのでしょうか? <なお、宗教関係者のご回答は丁重にお断りさせていただきます。>
- 子孫が絶える人間の存在意義について
自分は妻との二人暮らしで、経済的事情で子供は居ません。 要するに、「我が家」は、家系的にも遺伝子的にも、何ら生物学的な機能を果たさないまま終焉することがわかっております。 これまで、歴史上でも、食をはむこともできぬ経済的弱者の集団は、絶滅の憂き目にあい、そのたびに、有力者の子孫のみが繁栄し、その何割かが没落して、結果、身分制度が(表沙汰にはならなくとも)維持されているものと愚考します。 となると、滅び行く家系の構成員は、いつの時代も存在したことになり、現在の我々が特別な存在ではないことはわかります。 ですが、このような「滅び行く人間」としては、どのような心構えで「人生」というものをとらえればよいのでしょう? 「DNAの指令を果たした」とか「とりあえず後は子供に任せた!」という投げやりな引退劇は、我々には望むべくもありません。 ただ、生まれ、ただ、死ぬだけで、後には何も残りません。 「社会的な功績を残せば良いではないか!」と言われるかも知れませんが、そんな人間は一握りでしょう。 また「その日その日を幸せに過ごすことが出来れば、それでいいじゃないか?」とも言われそうですが(というか、現によく言われます)、それは論点をずらしただけであって、本質的な疑問の解決にはなっていません。 「人類は、どこから来て、どこへ行くのか?」という問いならばまだ救いがあるのですが、「自分は、先祖から生まれてきて、ただ死ぬだけなんだが・・・なんか意味あったの?」と考えると、やはりただの乱数の一つであったとしか思えません。 他の皆さんはどう思われますか? 何を目標に、何を考えて、生きてゆくのでしょうか?<我々 意味など無いことがわかった上でも、なお修羅の道を最後まで歩く価値があるのでしょうか? <なお、宗教関係者のご回答は丁重にお断りさせていただきます。>
- 死相
人間は死期がちかづくと死相があらわれるそうですね。でも私は死相の人の顔がどのようであるか知りません。死相の人の顔の特徴ってどのようなものなのでしょうか?またなぜ死相があらわれるのですか?死相が現われた人は必ず死ぬのでしょうか?できれば素人にもわかりやすいようにお願いいたします。
- 締切済み
- penntarou
- その他(占い・超常現象)
- 回答数6
- 不条理は何の意味があるのか
昨日新聞で、原爆症のことをよんで、この人たちがまったく自分のせいではない不条理によって、結婚や出産を断念したり、社会から疎んじられる存在になったりという人生を送っていることなのですが、これをきっかけにふと以前から疑問になっていたことがよみがえってきました。 不条理にどんな意味があるのか? 私はなぜか昔から 「人生は幸福度において人間等しく一様であるべき」 という考えを持っていて、不幸はそれを補う幸福によって相殺されるべきだということです。それでいえば、例であげた原爆症の人は、その災難ゆえになにか一般人にはない幸福を与えられなければという感覚があるのです。 これを自分の卑小な例にも当てはめることができて、18くらいの時にいろいろ滅入ること(性格、孤独、肉体的ハンデの意識、家族との齟齬)で結構うつ的になっていましたが、 「こんなことで受験に影響出してたまるか!」 (身に起きている気を滅入らすような外力で、受験のレヴェルを落とされてたまるか!むしろこの代償的にB勉強には好影響がでなければならない) そういう気持ちでいて、とにかく気がめいっていても、無理やりにも勉強していました。平行してジムなどにも通っていました。人生幸福度0レヴェルに補正しなければという強迫観念が働いていました。 もちろん自然に逆らっていたことで、うつもちっともよくなりませんし、受験もたいしたレヴェルに達しないまま終了しました。が、抵抗したことには納得しています。 つまるところ、世の中にあふれている「不条理」を肯定できないのです。それにどうしても身をゆだねることができません。 なにか納得するような考え方ってあるでしょうか。 、
- ベストアンサー
- noname#32495
- 哲学・倫理・宗教学
- 回答数10
- あの世は平等?
「占い」ジャンルで投稿すべきものか分かりませんでしたが、霊的なものなのでこちらにさせて頂きました。 現世でいいことをした人、苦労した人にはそれ相応のご褒美を、悪いことをした人にはそれ相応のおとがめを、あの世で受けるのが平等ではないかと思うのですが、非常にショックな話を聞きました。 現世では散々ひどい目に遭い、若くして壮絶な苦しみを受けながら亡くなった方がいました。しかしその人は死後何百年とその苦しみを引き摺ったまま成仏できていないというのです。 これを聞いて、これまで「あの世は平等なんだから大丈夫」「この世で苦しい思いをしても、あの世でその分幸せになれるんだから」という安心が壊れ、なにかにつけて心配になってしまいました。苦しい思いをして亡くなった人の冥福を、笑顔で祈ることなんてできません。 現世で苦しい思いをした分、あの世で幸せになれるというのが平等ではないのでしょうか? ついでに、現世で悪事を働いた人にはちゃんと罰が与えられるべきではないでしょうか・・・? 真実を知ろうと読み漁った霊学者さんの話はとてもアテにはならず、不安は募るばかりです。 あの世って、平等なんでしょうか?
- ベストアンサー
- saku-mag
- その他(占い・超常現象)
- 回答数18
- あの世は平等?
「占い」ジャンルで投稿すべきものか分かりませんでしたが、霊的なものなのでこちらにさせて頂きました。 現世でいいことをした人、苦労した人にはそれ相応のご褒美を、悪いことをした人にはそれ相応のおとがめを、あの世で受けるのが平等ではないかと思うのですが、非常にショックな話を聞きました。 現世では散々ひどい目に遭い、若くして壮絶な苦しみを受けながら亡くなった方がいました。しかしその人は死後何百年とその苦しみを引き摺ったまま成仏できていないというのです。 これを聞いて、これまで「あの世は平等なんだから大丈夫」「この世で苦しい思いをしても、あの世でその分幸せになれるんだから」という安心が壊れ、なにかにつけて心配になってしまいました。苦しい思いをして亡くなった人の冥福を、笑顔で祈ることなんてできません。 現世で苦しい思いをした分、あの世で幸せになれるというのが平等ではないのでしょうか? ついでに、現世で悪事を働いた人にはちゃんと罰が与えられるべきではないでしょうか・・・? 真実を知ろうと読み漁った霊学者さんの話はとてもアテにはならず、不安は募るばかりです。 あの世って、平等なんでしょうか?
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- saku-mag
- その他(占い・超常現象)
- 回答数18
- 意識について
この質問は心理学の方がいいのか迷ったのですが、、、、 昔、学生時代に麻酔科の先生から、冗談だと思うのですが次のような話を聞かされました。 全身麻酔を使うより、麻酔しないでサクシニルコリンで神経筋を遮断しておいて手術した方が安全に手術できる。また脳でのタンパク合成を阻害しておけばその間の記憶は一切残らないから、本人は手術中の痛みの記憶は一切残らない。 私の思うに、神経筋の遮断だけなら交感神経を通して痛みによる脂汗がでたりすると思うのですが、現代の麻酔の技術ならあらゆる脳の出力を遮断することができると思います。そうしておいてその間の記憶が一切残らないなら、手術が終わった段階では、全身麻酔でいっさい意識がなかったのと同じではないかという気がするのですが、残念ながらその先生は、自分の地位が大事だったのかそういう手術はしませんでした。 実際のところ、こういう場合に全身麻酔で全く意識がないのとなにか違いがあるでしょうか?
- カルマの原則について
こんにちは、占いの箇所でこのような事聞いてよいのか分からないのですが、ちょっと長い事不思議に思っている事があるので、思い切って投稿しました。 私は、小さい時から、いわゆる虐められてる人や何かしら身体や心のやんでいる人に追い回される傾向が非常に強いのです。 私自身、その人たちに手を差し伸べる事は、全く嫌だとは思っていません。 しかし、一度仲良くなり始めると、ドラキュラが血を吸っていくがごとく、私の運勢が下降していくのが、見る見るうちに分かるという経験を何度もしています。 恋愛においても、大抵家庭に問題を抱えて人とばかりです。そして、その男性たちからも、私が何かしら仕事や学業の面で頑張っていると、足を引っ張られたり、辛らつな事を言われたりして、いつもゴールまでたどり着かず終わっています。 しかし、これではいけないと思い、気合を入れて頑張ったりもしましたが、精神的に生死をさ迷うほどの、悪辣な事を回りから言われたりされたりされたりして、心身ともに疲れきってしまいました。 誰に相談しても、<気にしすぎ>といわれますが、ここ2.3年、特に色々と続いたので、ちょっと最近本気で気になり始めています。 いつもこうだと、自分自身何のためにガン張っているのか分からなくなってしまうからです。 私が思うに、私の事を気にいらないと思っている人が2,3人確実にいる事は知っていますが、どのような事から、このような不祥事が続くか、ちょっとここに来て解明したくなりました。 これは、何かカルマの原則と関係があるのでしょうか?? アドバイス、お願いします。
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- LEIRA
- その他(生活・暮らし)
- 回答数9
- 意識について
この質問は心理学の方がいいのか迷ったのですが、、、、 昔、学生時代に麻酔科の先生から、冗談だと思うのですが次のような話を聞かされました。 全身麻酔を使うより、麻酔しないでサクシニルコリンで神経筋を遮断しておいて手術した方が安全に手術できる。また脳でのタンパク合成を阻害しておけばその間の記憶は一切残らないから、本人は手術中の痛みの記憶は一切残らない。 私の思うに、神経筋の遮断だけなら交感神経を通して痛みによる脂汗がでたりすると思うのですが、現代の麻酔の技術ならあらゆる脳の出力を遮断することができると思います。そうしておいてその間の記憶が一切残らないなら、手術が終わった段階では、全身麻酔でいっさい意識がなかったのと同じではないかという気がするのですが、残念ながらその先生は、自分の地位が大事だったのかそういう手術はしませんでした。 実際のところ、こういう場合に全身麻酔で全く意識がないのとなにか違いがあるでしょうか?
- 人類の次の課題はオカルトの解明では?
科学的アプローチで解明されることは限られていて、どんどん狭い領域に深く入っていく印象があります。 翻って、オカルト現象解明はここ何十年も結局は何の発展もないのではないでしょうか。霊体験、共時性、既視感など、30年位何の発展もない様に思えます。 これらに真剣に取り組むことが、たとえば「核」を持つことに匹敵するような、科学的な人類のステップアッぷと言えないのでしょうか?結局は「人生」に対する「幸せ」に対する「運命」に対する科学的アプローチです。それが重要課題に思えます。
- ベストアンサー
- noname#32495
- 哲学・倫理・宗教学
- 回答数5
- 因果応報は本当にありますか?
悪いことをしたら悪いことが、いいことをしたらいいことが 返ってくるのは本当でしょうか? 私の場合そっくりそのまま返ってきました。 それに対して、ものすごく悪いことをした人たちは今ものうのうと生きています。 この両者の違いは一体何によるものでしょうか? 私の考えではやはり罪の意識がある人間とない人間がいるせいだとおもいます。罪の意識があると、いつか爆発して不幸になります。 しかし、罪の意識すらないと不発弾のごとく死ぬまで爆発しないで生きられます。世の中そううまくはできていないから、復讐とか天誅という言葉があるのでしょうか? 因果応報。信じたいですが、やはりないのかもしれません。
- キリスト教
キリスト教においていう「憐み」とはなんですか? キリ教においてでなくてもかまいません。 みなさんが考える「憐み」を教えてください
- ベストアンサー
- xleighannx
- 哲学・倫理・宗教学
- 回答数2
- 因果応報は本当にありますか?
悪いことをしたら悪いことが、いいことをしたらいいことが 返ってくるのは本当でしょうか? 私の場合そっくりそのまま返ってきました。 それに対して、ものすごく悪いことをした人たちは今ものうのうと生きています。 この両者の違いは一体何によるものでしょうか? 私の考えではやはり罪の意識がある人間とない人間がいるせいだとおもいます。罪の意識があると、いつか爆発して不幸になります。 しかし、罪の意識すらないと不発弾のごとく死ぬまで爆発しないで生きられます。世の中そううまくはできていないから、復讐とか天誅という言葉があるのでしょうか? 因果応報。信じたいですが、やはりないのかもしれません。
- リアルを訪ねる方法
わたしは自然の背後には大精霊(The Great Spirit)-いのちの奔流-があってそれに対して人の一生なんてまったくの一瞬時のことであるにすぎないのに、それをじゅうじゅう承知のうえでなにかを、生きた証を、この世に創りたいと願う、哀しみに裏打ちされたひとの在りように対する共感、共鳴をいつまでも感じていたいし失いたくないのですがそれにはなにかをあるいは誰かを愛し続けないといけないのでしょうが持続的にそれを為しえないことにひとは(わたしは)二重の哀しみを背負っているような気がしたりします。 こんなことを書いていてもやがて現実に染まって精霊に対するアンテナを無くして、無知の人になってしまうのでしょうが。 そこで質問です。 人は語彙を獲得すればするほどその思考力が深められるのでしょうか? 言葉を多く知る人は物事の本質にそのことでより正確に焦点を当てることが容易になるのでしょうか?言葉を多く知りすぎることによりまた経験を多く積むことによりかえってリアルなものに対する感受性を費消してしまいがちな気がするのですが。本当の意味で知るためには素直なこころをできるだけそのうちに宿しまっすぐに見据える態度を保つことが必要だと想うのですが、いわばこどもの姿勢で、愛の観察眼で。でもこれを無意識のうちに体得するには火の出るような思考、経験、反復、反芻、失敗、成功、瞑想、絶望などが必要でもあるんですよね?多分。いわば上質なスープを得るための。生きるって子供に帰還するための訓練なんですかね?
- なぜ私達は存在したのでしょうか?
この森羅万象の宇宙は、どうして存在したのか? 原因があるから結果があるのは間違いありません。 無から有がつくられたという意味も理解できません。 無が存在するとはどういうことでしょうか? そしてなぜ私達は存在したのでしょうか?