mikeneko1178 の回答履歴

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  • この批判の姿勢についての批判をお願いします。

    批判するときには相手の受けていれているドグマ、相手の自己矛盾などなどを基盤として、、、つまり相手の土俵にたって行わなくてはならない。 同意(肯定)するときも同じように相手の土俵にたって行わなくてはならない。 そうでなければお互いが自分の宗教論争と同じく、全くもって何も産まないものとなってしまう。 私ではなくあるところで聞いたのですが、なるほどとは思ったんですね。もしかしたらアタリマエのことかもしれませんが。 これに対して批判があるとすれば問題点の指摘からお願いします。ただ、問題点の指摘の最後にはよりよりと思う批判のあり方について書いていただけると助かります。

  • 御教示下さいませ。

    質問はその様な意図は無いつもりですが…傲慢極まり無い質問を御容赦下さいませ。 質問は個々個人や団体等々で無く日本と言う1つの固まりとしての質問です。 今の日本は政治家や経済、社会、教育…全てを作り上げて居るのは1人1人の人間の集まりです。 その人間が大きく見て…、人として考え方や道徳や倫理、常識、他者への思い遣りや生命の尊厳、精神的…に荒廃し始めてると私は思ってます。 こうした社会全般を根本的抜本的に改革するには西洋や諸外国(ソクラテスやプラトン、釈尊や天台等々…)に則り生命哲学又は宗教哲学…民衆や弱者…尊敬し守り、育て将来を反映させる、そこに個人的利益を一切必要としない…民衆が心から信頼出来る…それに裏打ちされた聖職者、指導者的な存在(大統領や支配者的な存在では有りません。)が不可欠だと思いますが今の日本は国として存在しないと思います。理想論、夢物語に成ってます。 私は靖国信仰崇拝者では有りませんし昔に帰る事も正しいとは思えません。 何故なら戦前戦後から今に至るまでの道程がその答えです。 新たなる物を必要としてると思いますが皆様方々は如何御考えですか?… 又、もし、そうした新たな哲学や指導者の候補が有りましたら理由を含め、御教示下さいませ。 何卒、宜しく御願い致します。

  • 私の本当の願い

    洗脳されすぎて、飼いならされすぎてわかんなくなりました。 でも、たぶんランバダを踊りまくる的なにか・・・ プラトニックな交換日記的ななにか・・・ しとかないと、絶対輪廻する・・・ みなさんの本願は何?

  • 神の存在を証明できるか?(改)

    削除されたので再度質問します。利用規約違反があったとのこと。以後気を付けます。以前回答してくださった方々、申し訳ありません。 それで、改めて質問します。 神の存在を証明できる方いらっしゃいますか。 あるいは存在しないことを証明できる方でも結構です。 よければ、その理論をお教えください。 そして、下に私の見解を記します。よければ、これに関するご意見もお聞かせ願います。 -------------------------- 神の存在を証明できるか?    「できる」と私は考えます。ここで言う「神」とは、キリスト教的な神のことで、当然人間の目には見えません。それなのに、なぜ見えない神の存在を証明できると言えるのでしょうか。その根拠は大きく分けて以下の2つです。    (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。 -------------------------- (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    例えば、「1、2、○、4、5・・・」という虫食い問題の○で隠されているのは当然「3」ですね。しかし、なぜ○で隠されて見えない「3」が分かったのでしょうか。要するに、見えている数字の並びとの相互関係から推理した結果それが分かったというわけです。    同じように、例えば推理小説の名探偵などが実際に事件を目撃したわけではないのに、現場の状況や遺留品、関係者からの証言などに基づいて推理した結果、あたかもその事件を目撃していたかのようにそれがどのように起きたかを言い当てることができるのではないでしょうか。      このように人間は見えないものでもその存在を識別する能力を持っているということが確認できました。ですから、「神は目に見えないから信じることができない」という論理は人間の能力からすれば当てはまらないということができるでしょう。    では、以上を踏まえて、次に、(2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる、という点についてご説明しましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その1)    上で証明したように、人間には「見えないものでも推理によってその存在を識別する能力」を持っているということでした。ではその能力を使って、見えない神の存在を識別できないものでしょうか?    私がここで言う「神」とは、キリスト教の唯一神で、万物の創造者のことです。聖書によると、存在するすべてのものはこの創造者によって造られました。つまり、宇宙も地球もその中にある動植物、そして人間も神が造ったということです。    もしそれが事実なら、そのような神が造ったもの(被造物)を観察する時、見えない神が存在することを識別する手がかりを得ることができるはずです。    では、それらの被造物を人間と比較してみましょう。    まず、人間以上に大きいものは存在しますか。はい、当然存在します。例えば大型動物がそうですし、もっとスケールを大きくすれば地球も太陽もさらには大宇宙もあり、それらと比較するとき人間の存在の小ささを実感せずにはいられません。    また、人間以上に強い力が存在しますか。それも存在します。台風や地震や火山、さらには太陽の核エネルギーなど挙げればきりがありません。    では、次の質問はどうでしょうか。人間以上に賢いものが存在しますか。さて、その点どう思われますか。人間は地球上で最も賢い生物だと考えていますし、実際そうなのですが、しかし多くの研究者たちが様々な分野の研究をしてきたにもかかわらず、現実には人間の知性では到底及びもしない高い領域(人間ではまだ理解できていないこと)が存在することがいよいよ明白になってきました。    あなたは人間にはまだ「未知の領域」があることを認めることができますか? 次に、その具体例を考慮してみましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その2)    人間ではまだ及ばない「未知の領域」について、その具体例を考慮してみましょう。    例えば、鳥は人間が飛行機を発明するよりもはるか大昔から空を飛んでいました。ライト兄弟が飛行機を実用化するまでにどれだけ多くの人が苦労して「空を飛ぶ」ための研究をし、また失敗を繰り返してきたかを考えてみてください。    重力のある地球上で空を自由に飛行するということは実際には並大抵のことではないということです。それには綿密に計算された飛行設計が必須であり、それなくしてどのように空を飛ぶことができるでしょうか。    にもかかわらず、鳥は当たり前のように空を飛んでいます。人間の研究者たちは鳥の体の構造などについても研究を深めてきました。内臓の軽量化、骨の構造、羽毛のしくみなど飛行のための工夫が施されていることに彼らは驚きました。    では、そのような鳥の飛行設計や工夫を鳥自身が考えて設計し、製作したのでしょうか。そんなことはあり得ません。では、どうしてそのような人間でも驚くべき綿密な飛行設計や工夫が施されているのですか。    それは、人間よりも高い知性を持つもの(そのような設計・製作ができる者)が実在するということを意味しているのではないでしょうか。そのような設計・製作者なしでどのようにしてこのような高度な飛行技術が実用化され得るのでしょうか。 -------------------------- 結論    被造物(例えば地球上の動植物など)には人間以上の知性が見られるという事実から、    (1)被造物は綿密に設計され、製作された、ということが分かり、    さらに、(1)に基づいて、    (2)被造物を設計・製作した者、つまり創造者が実在する、    ということが推理できる、または証明できるのです。    しかも、それには人間にとってもっと重要な意味があります。例えば、人が何かを作る時それには何らかの目的があるはずです。同じように創造者が何かを造る時それには目的があったはずです。つまり、それは神が目的をもって私たち人間を造ったということを意味しています。    ということは、「なぜ自分は存在しているのか」、「人生の目的は何なのか」などという古今東西の人々が考え続けてきた疑問の答えを創造者は知っているということになります。ですから、神(創造者)が存在するかどうか、または人間が神から造られたかどうかは、私たちの人生観をも左右させるほど重大なテーマであることがお分かりでしょう。

  • 抱擁、接吻の次はチチをもげである。

    ギャグネタだよ。 チチをもげ http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/ko/gash/chichi.html 愛する者に親愛の情を示す時、挨拶として、抱擁する。接吻する。 まあいいじゃないか。 そこからさらに発展して、愛する者に親愛の情を示すために、 いきなりおっぱいわしづかみ。 まあいいじゃないか。 私のナンパテクニックを伝授しよう。 アイポットなどにスピーカーを付けて、チチをもげをガンガンならしながら街を歩く。 大抵の女性は逃げるが、面白がる女性もいるだろう。 そうしたならばレッツチチをもげダンスだ。 これは痴漢行為ではない。 現代の最先端を行く愛情表現だ。 そのようにして愛を確かめ合うのだよ。 ナンパ成功の前に警察官の職務質問があるかもしれない その職務質問で、君の愛の真が試される。 痴漢として連行されたくなければ、君の愛を証明するのだ。 このように愛は一歩間違えば悪だ。 以上はギャグとして考えた事だが、どのカテゴリーで相談しようかと考えたら、お笑いネタは哲学カテゴリーが最適だと判断した。 知性を進め先進性のある考えを表明するのは哲学の果実である。 したがって笑い話が哲学だ。 君達がそれ以外の何を哲学とするか聞かせてくれ。

  • この批判の姿勢についての批判をお願いします。

    批判するときには相手の受けていれているドグマ、相手の自己矛盾などなどを基盤として、、、つまり相手の土俵にたって行わなくてはならない。 同意(肯定)するときも同じように相手の土俵にたって行わなくてはならない。 そうでなければお互いが自分の宗教論争と同じく、全くもって何も産まないものとなってしまう。 私ではなくあるところで聞いたのですが、なるほどとは思ったんですね。もしかしたらアタリマエのことかもしれませんが。 これに対して批判があるとすれば問題点の指摘からお願いします。ただ、問題点の指摘の最後にはよりよりと思う批判のあり方について書いていただけると助かります。

  • この批判の姿勢についての批判をお願いします。

    批判するときには相手の受けていれているドグマ、相手の自己矛盾などなどを基盤として、、、つまり相手の土俵にたって行わなくてはならない。 同意(肯定)するときも同じように相手の土俵にたって行わなくてはならない。 そうでなければお互いが自分の宗教論争と同じく、全くもって何も産まないものとなってしまう。 私ではなくあるところで聞いたのですが、なるほどとは思ったんですね。もしかしたらアタリマエのことかもしれませんが。 これに対して批判があるとすれば問題点の指摘からお願いします。ただ、問題点の指摘の最後にはよりよりと思う批判のあり方について書いていただけると助かります。

  • 宗教と哲学は同じものですか?

    それとも異質なものですか? もし 異質であるとすれば 違いは何処にあると思いますか? ・

  • 抱擁、接吻の次はチチをもげである。

    ギャグネタだよ。 チチをもげ http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/ko/gash/chichi.html 愛する者に親愛の情を示す時、挨拶として、抱擁する。接吻する。 まあいいじゃないか。 そこからさらに発展して、愛する者に親愛の情を示すために、 いきなりおっぱいわしづかみ。 まあいいじゃないか。 私のナンパテクニックを伝授しよう。 アイポットなどにスピーカーを付けて、チチをもげをガンガンならしながら街を歩く。 大抵の女性は逃げるが、面白がる女性もいるだろう。 そうしたならばレッツチチをもげダンスだ。 これは痴漢行為ではない。 現代の最先端を行く愛情表現だ。 そのようにして愛を確かめ合うのだよ。 ナンパ成功の前に警察官の職務質問があるかもしれない その職務質問で、君の愛の真が試される。 痴漢として連行されたくなければ、君の愛を証明するのだ。 このように愛は一歩間違えば悪だ。 以上はギャグとして考えた事だが、どのカテゴリーで相談しようかと考えたら、お笑いネタは哲学カテゴリーが最適だと判断した。 知性を進め先進性のある考えを表明するのは哲学の果実である。 したがって笑い話が哲学だ。 君達がそれ以外の何を哲学とするか聞かせてくれ。

  • 宗教と哲学は同じものですか?

    それとも異質なものですか? もし 異質であるとすれば 違いは何処にあると思いますか? ・

  • 無知の知...。

    知る もしくは、知っている 分かる もしくは、解る といったことの違いは何でしょうか? 無知の知 汝自身を知れ は何を意味していると思いますか? ・

  • 無知の知...。

    知る もしくは、知っている 分かる もしくは、解る といったことの違いは何でしょうか? 無知の知 汝自身を知れ は何を意味していると思いますか? ・

  • 宗教と哲学は同じものですか?

    それとも異質なものですか? もし 異質であるとすれば 違いは何処にあると思いますか? ・

  • 神の存在を証明できるか?(改)

    削除されたので再度質問します。利用規約違反があったとのこと。以後気を付けます。以前回答してくださった方々、申し訳ありません。 それで、改めて質問します。 神の存在を証明できる方いらっしゃいますか。 あるいは存在しないことを証明できる方でも結構です。 よければ、その理論をお教えください。 そして、下に私の見解を記します。よければ、これに関するご意見もお聞かせ願います。 -------------------------- 神の存在を証明できるか?    「できる」と私は考えます。ここで言う「神」とは、キリスト教的な神のことで、当然人間の目には見えません。それなのに、なぜ見えない神の存在を証明できると言えるのでしょうか。その根拠は大きく分けて以下の2つです。    (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。 -------------------------- (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    例えば、「1、2、○、4、5・・・」という虫食い問題の○で隠されているのは当然「3」ですね。しかし、なぜ○で隠されて見えない「3」が分かったのでしょうか。要するに、見えている数字の並びとの相互関係から推理した結果それが分かったというわけです。    同じように、例えば推理小説の名探偵などが実際に事件を目撃したわけではないのに、現場の状況や遺留品、関係者からの証言などに基づいて推理した結果、あたかもその事件を目撃していたかのようにそれがどのように起きたかを言い当てることができるのではないでしょうか。      このように人間は見えないものでもその存在を識別する能力を持っているということが確認できました。ですから、「神は目に見えないから信じることができない」という論理は人間の能力からすれば当てはまらないということができるでしょう。    では、以上を踏まえて、次に、(2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる、という点についてご説明しましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その1)    上で証明したように、人間には「見えないものでも推理によってその存在を識別する能力」を持っているということでした。ではその能力を使って、見えない神の存在を識別できないものでしょうか?    私がここで言う「神」とは、キリスト教の唯一神で、万物の創造者のことです。聖書によると、存在するすべてのものはこの創造者によって造られました。つまり、宇宙も地球もその中にある動植物、そして人間も神が造ったということです。    もしそれが事実なら、そのような神が造ったもの(被造物)を観察する時、見えない神が存在することを識別する手がかりを得ることができるはずです。    では、それらの被造物を人間と比較してみましょう。    まず、人間以上に大きいものは存在しますか。はい、当然存在します。例えば大型動物がそうですし、もっとスケールを大きくすれば地球も太陽もさらには大宇宙もあり、それらと比較するとき人間の存在の小ささを実感せずにはいられません。    また、人間以上に強い力が存在しますか。それも存在します。台風や地震や火山、さらには太陽の核エネルギーなど挙げればきりがありません。    では、次の質問はどうでしょうか。人間以上に賢いものが存在しますか。さて、その点どう思われますか。人間は地球上で最も賢い生物だと考えていますし、実際そうなのですが、しかし多くの研究者たちが様々な分野の研究をしてきたにもかかわらず、現実には人間の知性では到底及びもしない高い領域(人間ではまだ理解できていないこと)が存在することがいよいよ明白になってきました。    あなたは人間にはまだ「未知の領域」があることを認めることができますか? 次に、その具体例を考慮してみましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その2)    人間ではまだ及ばない「未知の領域」について、その具体例を考慮してみましょう。    例えば、鳥は人間が飛行機を発明するよりもはるか大昔から空を飛んでいました。ライト兄弟が飛行機を実用化するまでにどれだけ多くの人が苦労して「空を飛ぶ」ための研究をし、また失敗を繰り返してきたかを考えてみてください。    重力のある地球上で空を自由に飛行するということは実際には並大抵のことではないということです。それには綿密に計算された飛行設計が必須であり、それなくしてどのように空を飛ぶことができるでしょうか。    にもかかわらず、鳥は当たり前のように空を飛んでいます。人間の研究者たちは鳥の体の構造などについても研究を深めてきました。内臓の軽量化、骨の構造、羽毛のしくみなど飛行のための工夫が施されていることに彼らは驚きました。    では、そのような鳥の飛行設計や工夫を鳥自身が考えて設計し、製作したのでしょうか。そんなことはあり得ません。では、どうしてそのような人間でも驚くべき綿密な飛行設計や工夫が施されているのですか。    それは、人間よりも高い知性を持つもの(そのような設計・製作ができる者)が実在するということを意味しているのではないでしょうか。そのような設計・製作者なしでどのようにしてこのような高度な飛行技術が実用化され得るのでしょうか。 -------------------------- 結論    被造物(例えば地球上の動植物など)には人間以上の知性が見られるという事実から、    (1)被造物は綿密に設計され、製作された、ということが分かり、    さらに、(1)に基づいて、    (2)被造物を設計・製作した者、つまり創造者が実在する、    ということが推理できる、または証明できるのです。    しかも、それには人間にとってもっと重要な意味があります。例えば、人が何かを作る時それには何らかの目的があるはずです。同じように創造者が何かを造る時それには目的があったはずです。つまり、それは神が目的をもって私たち人間を造ったということを意味しています。    ということは、「なぜ自分は存在しているのか」、「人生の目的は何なのか」などという古今東西の人々が考え続けてきた疑問の答えを創造者は知っているということになります。ですから、神(創造者)が存在するかどうか、または人間が神から造られたかどうかは、私たちの人生観をも左右させるほど重大なテーマであることがお分かりでしょう。

  • 神の存在を証明できるか?(改)

    削除されたので再度質問します。利用規約違反があったとのこと。以後気を付けます。以前回答してくださった方々、申し訳ありません。 それで、改めて質問します。 神の存在を証明できる方いらっしゃいますか。 あるいは存在しないことを証明できる方でも結構です。 よければ、その理論をお教えください。 そして、下に私の見解を記します。よければ、これに関するご意見もお聞かせ願います。 -------------------------- 神の存在を証明できるか?    「できる」と私は考えます。ここで言う「神」とは、キリスト教的な神のことで、当然人間の目には見えません。それなのに、なぜ見えない神の存在を証明できると言えるのでしょうか。その根拠は大きく分けて以下の2つです。    (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。 -------------------------- (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    例えば、「1、2、○、4、5・・・」という虫食い問題の○で隠されているのは当然「3」ですね。しかし、なぜ○で隠されて見えない「3」が分かったのでしょうか。要するに、見えている数字の並びとの相互関係から推理した結果それが分かったというわけです。    同じように、例えば推理小説の名探偵などが実際に事件を目撃したわけではないのに、現場の状況や遺留品、関係者からの証言などに基づいて推理した結果、あたかもその事件を目撃していたかのようにそれがどのように起きたかを言い当てることができるのではないでしょうか。      このように人間は見えないものでもその存在を識別する能力を持っているということが確認できました。ですから、「神は目に見えないから信じることができない」という論理は人間の能力からすれば当てはまらないということができるでしょう。    では、以上を踏まえて、次に、(2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる、という点についてご説明しましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その1)    上で証明したように、人間には「見えないものでも推理によってその存在を識別する能力」を持っているということでした。ではその能力を使って、見えない神の存在を識別できないものでしょうか?    私がここで言う「神」とは、キリスト教の唯一神で、万物の創造者のことです。聖書によると、存在するすべてのものはこの創造者によって造られました。つまり、宇宙も地球もその中にある動植物、そして人間も神が造ったということです。    もしそれが事実なら、そのような神が造ったもの(被造物)を観察する時、見えない神が存在することを識別する手がかりを得ることができるはずです。    では、それらの被造物を人間と比較してみましょう。    まず、人間以上に大きいものは存在しますか。はい、当然存在します。例えば大型動物がそうですし、もっとスケールを大きくすれば地球も太陽もさらには大宇宙もあり、それらと比較するとき人間の存在の小ささを実感せずにはいられません。    また、人間以上に強い力が存在しますか。それも存在します。台風や地震や火山、さらには太陽の核エネルギーなど挙げればきりがありません。    では、次の質問はどうでしょうか。人間以上に賢いものが存在しますか。さて、その点どう思われますか。人間は地球上で最も賢い生物だと考えていますし、実際そうなのですが、しかし多くの研究者たちが様々な分野の研究をしてきたにもかかわらず、現実には人間の知性では到底及びもしない高い領域(人間ではまだ理解できていないこと)が存在することがいよいよ明白になってきました。    あなたは人間にはまだ「未知の領域」があることを認めることができますか? 次に、その具体例を考慮してみましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その2)    人間ではまだ及ばない「未知の領域」について、その具体例を考慮してみましょう。    例えば、鳥は人間が飛行機を発明するよりもはるか大昔から空を飛んでいました。ライト兄弟が飛行機を実用化するまでにどれだけ多くの人が苦労して「空を飛ぶ」ための研究をし、また失敗を繰り返してきたかを考えてみてください。    重力のある地球上で空を自由に飛行するということは実際には並大抵のことではないということです。それには綿密に計算された飛行設計が必須であり、それなくしてどのように空を飛ぶことができるでしょうか。    にもかかわらず、鳥は当たり前のように空を飛んでいます。人間の研究者たちは鳥の体の構造などについても研究を深めてきました。内臓の軽量化、骨の構造、羽毛のしくみなど飛行のための工夫が施されていることに彼らは驚きました。    では、そのような鳥の飛行設計や工夫を鳥自身が考えて設計し、製作したのでしょうか。そんなことはあり得ません。では、どうしてそのような人間でも驚くべき綿密な飛行設計や工夫が施されているのですか。    それは、人間よりも高い知性を持つもの(そのような設計・製作ができる者)が実在するということを意味しているのではないでしょうか。そのような設計・製作者なしでどのようにしてこのような高度な飛行技術が実用化され得るのでしょうか。 -------------------------- 結論    被造物(例えば地球上の動植物など)には人間以上の知性が見られるという事実から、    (1)被造物は綿密に設計され、製作された、ということが分かり、    さらに、(1)に基づいて、    (2)被造物を設計・製作した者、つまり創造者が実在する、    ということが推理できる、または証明できるのです。    しかも、それには人間にとってもっと重要な意味があります。例えば、人が何かを作る時それには何らかの目的があるはずです。同じように創造者が何かを造る時それには目的があったはずです。つまり、それは神が目的をもって私たち人間を造ったということを意味しています。    ということは、「なぜ自分は存在しているのか」、「人生の目的は何なのか」などという古今東西の人々が考え続けてきた疑問の答えを創造者は知っているということになります。ですから、神(創造者)が存在するかどうか、または人間が神から造られたかどうかは、私たちの人生観をも左右させるほど重大なテーマであることがお分かりでしょう。

  • 哲学がわからない

    大学で初めて哲学を学んでいるのですが、難しい言葉が多く、書いてある内容もさっぱりわかりません。  全くの初心者が理解していくにはどうすればいいのでしょうか?今は、ただ読んでいるだけの状況です。

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?