ピカソも大好きな一素人美術愛好者です。
ピカソに限らず、優れた絵画はいずれも単純に写実的なだけではないかと思います。
と言うか、古来、優れた画家たちというものは、例外なく、それぞれの時代にあって、最も正確に対象を観察し、それを描き出そうとしてきたのではないでしょうか。
私自身は、最初にピカソを見たとき、いわゆるカルチャー・ショックに近い衝撃や戸惑いを受けました。
それを私なりに説明すると、「理解する」にも二通りあって、自分の慣用としてきた知の鋳型に合わせて対象をそれに当て嵌めて理解する場合と、自分の慣用としてきた理解の範型に合わない対象との出遭いによって、自分の知の鋳型が対象から無効宣言される場合とがあるのではないでしょうか。
ピカソをはじめとする、前衛的、革新的な芸術作品というものは、概して鑑賞する側の慣れ親しんできた知の鋳型を否定したり、批判したりする力として作用するのではないでしょうか。
つまり、ピカソを「理解する」というのは、実は自分の古い知の鋳型が壊されることであり、だからこそ筆舌しがたい、言語道断のいわゆる感動、恍惚、無我の境地にいたるのではないでしょうか。
その時、ピカソによって自分が支配されたり、征服されたりする、その意味では一種のマゾヒスティックな快感に溺れているのではないでしょうか。
鑑賞を終え、その体験を反芻するようになったとき、間違いなく自分の内部にはこれまでのものとは違った、新しい知の鋳型が出来上がっているはずです。
芸術の鑑賞というのは、そしてそこで感動するというのは、実は自分の古い知の鋳型をいったん死に至らしめ、新たに蘇生させるという秘儀であると言えるのかもしれません。
だから、しばしば優れた芸術作品は鑑賞する者をして自己発見せしめる力を内在させていると古来言われてきたのだと思います。
その上で、質問者さんの
>ゲルニカなんかは、説明されるとなるほど
>そうなのかと時代背景が思想から
>絵を理解する事ができるのですが・・・
という鑑賞態度について申しますと、失礼ながら、こういう姿勢では、ご自分の慣れ親しんできた知の鋳型が頑固に自己保全している、一度死んで蘇るのを拒絶していると言われるかもしれません。
その他、絵画の技法、時代・社会背景、画家・題材に関する知識等々も、すべて既成の知識という鋳型であって、本当言えば、虚心坦懐に絵を鑑賞する上では邪魔物でしかないと思います。
それに囚われた眼でどんなに優れた絵画に向き合っても、絵画の方では決して深奥の魅力を見せてはくれないと思います。
>ピカソの絵のどこがどう世界的に評価されているのか
>教えていただけないでしょうか?
たとえば、ピカソの立体主義について申しますと、彼はこれまでの画家が対象をカメラアイ(=パースペクティブな視点)から眺めることを写実的な態度だと思い込んでいたとすれば、はじめて、他ならぬ人間の眼で、しかも先入観や偏見をできる限り排除して対象を眺めればこう見えるはずだ、という確信を持つに至った最初の画家である、と少なくても私はそう考えております。
人間の眼は、カメラアイと違って、人間の横顔の裏側にもう一つの眼が付いていることを知らないフリして横顔を観察することなんかできませんからね。