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  • 原発の哲学的考察

    原発の是非を問うスレはいくつかありますが、ここにはなかったように思い、たててみました。 この議論は、結局人間が高度な文明生活をすることが是か非かということになるのでしょうか。 あるいは、 これからも犠性者はあっても、それが許される範囲にとどまるなら進めて良いということになるのでしょうか。その程度はどのくらいでしょうか。 放射能は”本当は怖くない”のでしょうか? なら廃棄物処理は意外と簡単だったりして。 これは先進国、低開発国を問わず、人命に軽重は無いということが関係すると思いますし、ゆえに これは経済問題である以上に優れて哲学的な設問の範疇かと思います。 人間が火を使い始めたころは、なかなかコントロールが難しく、しかし様々な試行錯誤を重ねて、今ではなくてはならないものになっていますが、時には火事になったりして人命が失われることもあります。 火を使ってもいいということは人間のコンセンサスになっています。 車も多くの犠牲者が出ますが、無くそうというひとはごく少数意見です。 車はいまや無くてはならないものになっているとしていいのかもしれません。 原子の火たる原発は現実として日本で生活程度を維持するにはなくてはならないものになっています。 ただ、 折衷案として、もっと原発が信頼できるものになるまでおおいに我慢し、使用を封印しようという選択もあるかもしれません。それは可能でしょうか?なら、いつまで?どの程度ならOK? アンケートに出す手もありましたが、横すれ歓迎ということで、非力な質問者抜きで大いに諸賢のご明察とご意見を伺いたく。 よろしくおねがい言いたします。

  • 天使とは?――《はじめにことばがあった》。

     ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

  • 天使とは?――《はじめにことばがあった》。

     ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

  • 被災者とわれらにとって 芸術とは何か

     エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。  このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。  この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っているなら   ば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあやまちと   して気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すことも   なければ むさぼることも裏切ることもなかろう。  といった命題を得る。  この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする。《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。  一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによって 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学となる。  あるいは 誰れの思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  果てさて 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――がそこに描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。  ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 芸術行為であると考えられようか。果たして いかに?   つまりは この生活日常がわれらが芸術行為であり この芸術が 互いに差し伸べる支援の手であるのか。そこにわれらがきづなはあるであろうか。

  • 原発の哲学的考察

    原発の是非を問うスレはいくつかありますが、ここにはなかったように思い、たててみました。 この議論は、結局人間が高度な文明生活をすることが是か非かということになるのでしょうか。 あるいは、 これからも犠性者はあっても、それが許される範囲にとどまるなら進めて良いということになるのでしょうか。その程度はどのくらいでしょうか。 放射能は”本当は怖くない”のでしょうか? なら廃棄物処理は意外と簡単だったりして。 これは先進国、低開発国を問わず、人命に軽重は無いということが関係すると思いますし、ゆえに これは経済問題である以上に優れて哲学的な設問の範疇かと思います。 人間が火を使い始めたころは、なかなかコントロールが難しく、しかし様々な試行錯誤を重ねて、今ではなくてはならないものになっていますが、時には火事になったりして人命が失われることもあります。 火を使ってもいいということは人間のコンセンサスになっています。 車も多くの犠牲者が出ますが、無くそうというひとはごく少数意見です。 車はいまや無くてはならないものになっているとしていいのかもしれません。 原子の火たる原発は現実として日本で生活程度を維持するにはなくてはならないものになっています。 ただ、 折衷案として、もっと原発が信頼できるものになるまでおおいに我慢し、使用を封印しようという選択もあるかもしれません。それは可能でしょうか?なら、いつまで?どの程度ならOK? アンケートに出す手もありましたが、横すれ歓迎ということで、非力な質問者抜きで大いに諸賢のご明察とご意見を伺いたく。 よろしくおねがい言いたします。

  • 原発の哲学的考察

    原発の是非を問うスレはいくつかありますが、ここにはなかったように思い、たててみました。 この議論は、結局人間が高度な文明生活をすることが是か非かということになるのでしょうか。 あるいは、 これからも犠性者はあっても、それが許される範囲にとどまるなら進めて良いということになるのでしょうか。その程度はどのくらいでしょうか。 放射能は”本当は怖くない”のでしょうか? なら廃棄物処理は意外と簡単だったりして。 これは先進国、低開発国を問わず、人命に軽重は無いということが関係すると思いますし、ゆえに これは経済問題である以上に優れて哲学的な設問の範疇かと思います。 人間が火を使い始めたころは、なかなかコントロールが難しく、しかし様々な試行錯誤を重ねて、今ではなくてはならないものになっていますが、時には火事になったりして人命が失われることもあります。 火を使ってもいいということは人間のコンセンサスになっています。 車も多くの犠牲者が出ますが、無くそうというひとはごく少数意見です。 車はいまや無くてはならないものになっているとしていいのかもしれません。 原子の火たる原発は現実として日本で生活程度を維持するにはなくてはならないものになっています。 ただ、 折衷案として、もっと原発が信頼できるものになるまでおおいに我慢し、使用を封印しようという選択もあるかもしれません。それは可能でしょうか?なら、いつまで?どの程度ならOK? アンケートに出す手もありましたが、横すれ歓迎ということで、非力な質問者抜きで大いに諸賢のご明察とご意見を伺いたく。 よろしくおねがい言いたします。

  • 数学・物理学・哲学の関係

    あまり高度な質問でなくてすみません。 どういうわけかこの3つを同時に愛好している人をたまに見かけます。 中学の頃の同級生で、将来大学に入ったら、何をしたい?と聞いた時に 「数学か物理学か哲学!」と答えた子がいました。 また知り合いでも大学で数学科、自称物理おたくの宗教家、哲学に詳しい、というこの3つをコンボで持っている人がいます。前者は女の子で生徒会に入りたがるようなタイプ、後者は男で陰気根暗タイプでした。 この3つの学問には何か共通点があるのでしょうか? 私はこの3つとも門外漢ですが、何か気になっています。

  • 現代における審美の可能性

    審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。

  • 現代における審美の可能性

    審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。

  • フーコーの社会分析は現代にも通じるのでは?

    フーコーの言った、社会の隅々にある微細な権力ですか?そういうのって現代でも社会のあらゆるところにあふれていると思いませんか? なんで多くの人が、大して面白くもないような仕事に一生懸命になれるのか時々分からなくなります。 よほどユニークな仕事をするベンチャー企業とか社会企業家の人とか別として・・・ 「監獄の誕生」の中に、「規律・訓練」という章があったのがすごく印象的だったのですが、多くの人が気付かないまま目に見えない権力に飼いならされて訓練されて、対して意義もないつまらないことを当たり前と受け止めながら行動している・・・そう思うことはありませんか? そういう権力があるとして、だれがその権力を行使してるんですかね?なぜ多くの人が、そういう権力に反抗しよう!みたいな声を上げたりしないんでしょうか?

  • 現代における審美の可能性

    審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。

  • 2つの対比が理解しにくい

    自己は、 1。「物理的根源にまで遡ったもの」 2。「現象表面的&刹那的な自己チューなもの」 我々は「2」が、ほとんどだろう。 「1」とは、端的に言うと何でしょうか? (自由なご意見お待ちします)

  • 現代における審美の可能性

    審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。

  • 「哲学(思想)」と「物理」の関係は?

    「哲学(思想)」と「物理」の関係は? 例えば量子論的世界観が思想に反映するときはあるのかな。

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  • やっぱり分からない数学II

    整式x^3x^2+ax+bを整式x^2+3x+2で割った余りが5x-3のとき、 -2a+bと-a+bを求めよ またa,bもそれぞれ求めよ さっぱりです 教えてください

  • 信仰は どんな得があるか?

     1. ひとつには 無神論もひとつの信仰だと思いますので人は 得があろうがなかろうが・人間であるなら誰もが否が応でも 信仰を持つとは考えます。  2. ひとつには きみは真理を知ることができる。真理を知れば きみたちは自由になる。と言われる得がある。  ☆ ただしこれだけでは 話がすすまないでしょうから 信仰とは何か? から始めるたたき台の考え方を述べます。  A 有神論も無神論も 信仰(すなわち 非思考の庭)である。  3. 人の能力は限りあるものゆえ 限りを超えたところのナゾについては 一般に《かみ》と呼ぶようである。  4. このカミを カミは存在すると捉えて《神》と呼ぶか それとも存在しないと捉えて《無い神》と呼ぶかは 互いに同等のコトである。ナゾゆえ。  5. 前者の神を ヤハヱーやらキリストやらアッラーフやらあるいはブラフマンやらアミターユス(阿弥陀仏)やらマハーワ゛イローチャナ(大日如来)やらとそれぞれ呼んでも 有限世界を超えたところのナゾであることに変わりない。  6. それと同じように 《無神ないし 無い神》と呼んでもまったく同じである。  7. われわれ人間の知り得ないところのナゾは したがってほんとうには有るとも無いともわれわれは知り得ない。ゆえにである。  8. ということはこのナゾに対してはわれわれはその心に窓があるかのごとく その窓で触れられているかにも思われる。  9. 無い神をとなえる場合には この心の窓を閉じたように思うかも知れないが じつは《無い神》と捉えて(想定して)開いている。  10. そのように われわれとカミとのかかわりは おのれの心の明けもしくは伸びとして考えられる。心があたかもひらいている。つまり閉じていない。この《閉じていない》ということが肝心であろうと思われる。  11. むろんこの心の窓におけるカミの有る無いの想定は いづれも最終的には思考の問題ではなくなっている。推論の道筋を超えている。あたかも賭けのごとくに どちらか一つに人は判断し決めることになっている。これが 信仰である。  12. したがって 信仰は 非思考の庭がわが心に成ることを言う。成ったあとの持続する動態をも言う。その持続が切れたというのは ほんとうには無神論が有神論に成り変わったか それともその逆かである。  13. もしくは 一般に何か(たいていは いろんな意味でのアイドルであろう)をあたかもカミとしてのごとくただ思いこんでいるかたちでの有神論であったり無神論であったりする。そのような曖昧な信仰という形式の場合が考えられるのみである。  B 信仰は真理を知ることができると言うのは どういうことか? そこにどんな得があるか?  14. 思考に非ず。経験世界をあたかも超えようとする。しかも経験存在としての人間つまり《わたし》がそのナゾすなわちカミ(神および無神)とのかかわりを たとえば畏れとしてのように持つ。  15. おそらくそこでは ヒラメキが得られる。その中身がまだあいまいで混沌としてさえいる直感としてのヒラメキもあれば 或る程度ものごとの本質を見抜くまでに到る直観としてのヒラメキもある。  16. ヒラメキは インスピレーションないし霊感とも呼ばれる。  17. 煮詰めた議論としては このヒラメキにおいて《わたし》は真理に触れ得たと思われることである。むろん主観である。  18. このヒラメキがわたしにあたかも与えられることが おそらく経験思考を超えていて――もしくは経験思考をゆたかにしてくれる内容を持ち得ていて―― 効用を成す。その意味で《現世利益》である。  19. もしここまでの筋道に大きなあやまちがなければ あとは このヒラメキ主観はその内容をどこまで普遍的なこととして明らかにされ得るか。ここに焦点があてられよう。  20. ということは そのためには 対話ないし交通(まじわり)が肝要である。特に主観の見及んでいないところを互いに指摘し合う批判 これが大事である。  21. 一にも対話 二にも対話。三四も対話 五にも六にも対話 対話・・・ということではないだろうか?  22. 信仰の認識ないし自覚がなくても ひとは交通においてコミュニケーションをとるが そこにおいて対話や批判が肝要であることをさらに自覚するのは 信仰という非思考の庭の存在からではないか? おのれの主観が 互いに 問題になっていると知るゆえである。  23. その意味では カミさんはそっちのけで 経験思考で分かる中身としての互いの対話が必要不可欠であろう。カミをそっちのけに出来ることも――しかもヒラメキ霊感において保ちつつということだが―― 信仰の効用であるだろう。  さていかがでしょう

  • 信仰は どんな得があるか?

     1. ひとつには 無神論もひとつの信仰だと思いますので人は 得があろうがなかろうが・人間であるなら誰もが否が応でも 信仰を持つとは考えます。  2. ひとつには きみは真理を知ることができる。真理を知れば きみたちは自由になる。と言われる得がある。  ☆ ただしこれだけでは 話がすすまないでしょうから 信仰とは何か? から始めるたたき台の考え方を述べます。  A 有神論も無神論も 信仰(すなわち 非思考の庭)である。  3. 人の能力は限りあるものゆえ 限りを超えたところのナゾについては 一般に《かみ》と呼ぶようである。  4. このカミを カミは存在すると捉えて《神》と呼ぶか それとも存在しないと捉えて《無い神》と呼ぶかは 互いに同等のコトである。ナゾゆえ。  5. 前者の神を ヤハヱーやらキリストやらアッラーフやらあるいはブラフマンやらアミターユス(阿弥陀仏)やらマハーワ゛イローチャナ(大日如来)やらとそれぞれ呼んでも 有限世界を超えたところのナゾであることに変わりない。  6. それと同じように 《無神ないし 無い神》と呼んでもまったく同じである。  7. われわれ人間の知り得ないところのナゾは したがってほんとうには有るとも無いともわれわれは知り得ない。ゆえにである。  8. ということはこのナゾに対してはわれわれはその心に窓があるかのごとく その窓で触れられているかにも思われる。  9. 無い神をとなえる場合には この心の窓を閉じたように思うかも知れないが じつは《無い神》と捉えて(想定して)開いている。  10. そのように われわれとカミとのかかわりは おのれの心の明けもしくは伸びとして考えられる。心があたかもひらいている。つまり閉じていない。この《閉じていない》ということが肝心であろうと思われる。  11. むろんこの心の窓におけるカミの有る無いの想定は いづれも最終的には思考の問題ではなくなっている。推論の道筋を超えている。あたかも賭けのごとくに どちらか一つに人は判断し決めることになっている。これが 信仰である。  12. したがって 信仰は 非思考の庭がわが心に成ることを言う。成ったあとの持続する動態をも言う。その持続が切れたというのは ほんとうには無神論が有神論に成り変わったか それともその逆かである。  13. もしくは 一般に何か(たいていは いろんな意味でのアイドルであろう)をあたかもカミとしてのごとくただ思いこんでいるかたちでの有神論であったり無神論であったりする。そのような曖昧な信仰という形式の場合が考えられるのみである。  B 信仰は真理を知ることができると言うのは どういうことか? そこにどんな得があるか?  14. 思考に非ず。経験世界をあたかも超えようとする。しかも経験存在としての人間つまり《わたし》がそのナゾすなわちカミ(神および無神)とのかかわりを たとえば畏れとしてのように持つ。  15. おそらくそこでは ヒラメキが得られる。その中身がまだあいまいで混沌としてさえいる直感としてのヒラメキもあれば 或る程度ものごとの本質を見抜くまでに到る直観としてのヒラメキもある。  16. ヒラメキは インスピレーションないし霊感とも呼ばれる。  17. 煮詰めた議論としては このヒラメキにおいて《わたし》は真理に触れ得たと思われることである。むろん主観である。  18. このヒラメキがわたしにあたかも与えられることが おそらく経験思考を超えていて――もしくは経験思考をゆたかにしてくれる内容を持ち得ていて―― 効用を成す。その意味で《現世利益》である。  19. もしここまでの筋道に大きなあやまちがなければ あとは このヒラメキ主観はその内容をどこまで普遍的なこととして明らかにされ得るか。ここに焦点があてられよう。  20. ということは そのためには 対話ないし交通(まじわり)が肝要である。特に主観の見及んでいないところを互いに指摘し合う批判 これが大事である。  21. 一にも対話 二にも対話。三四も対話 五にも六にも対話 対話・・・ということではないだろうか?  22. 信仰の認識ないし自覚がなくても ひとは交通においてコミュニケーションをとるが そこにおいて対話や批判が肝要であることをさらに自覚するのは 信仰という非思考の庭の存在からではないか? おのれの主観が 互いに 問題になっていると知るゆえである。  23. その意味では カミさんはそっちのけで 経験思考で分かる中身としての互いの対話が必要不可欠であろう。カミをそっちのけに出来ることも――しかもヒラメキ霊感において保ちつつということだが―― 信仰の効用であるだろう。  さていかがでしょう

  • 「人の心」と「大地震」には何か関係があるか?

    心が穏やかであれば、大地震は起きない、という 説があるが、みなさんはどう思うか?

  • 重力・万有引力の存在理由

    を 以下のような切り口で勝手に考えてみました もし物質に重力が無ければ 互いに引き合うこともなく そこに存在してもそれ以上の発展はない。 よって重力の無い物質が存在する意味は無い。 すくなくともそれを傍から見ていても楽しくない。 物質に重力があり互いに引力として引き合う。 そしてそれが発展し惑星にもなり恒星にもなりうる。 そして自分がいる。 そして重力や引力を知り得た。 よって物質に重量があり引力があるのは この宇宙に「意味」があることの裏づけである。 重力があったほうがいろいろ起こる可能性があり なんだか楽しげだ。 さらに飛躍した(飛躍かどうかわかりませんが)意見を書かせて頂きますと 物質はいろいろな発展や変化を望んでおり 重力はそれをかなえる為の手段であると。 ゆえに物質は重力という意思を持っている。 同様に考えた方はいらっしゃいますか?