極右がもたらした代償

このQ&Aのポイント
  • 近代の会社の経営や教育に極右思想を取り入れることは害が大きすぎる
  • 日本の産業デザインは芸を滅ぼす考えによって発展しなかった
  • 卑怯な人間が理念を示さず岡目八目の原則に従うことによって誰もゴに打てない
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極右がもたらした代償

このカテでいいのか迷いますが。 個人としての人生論しては部分的には良い線いっているのかもしれませんが。 近代の会社の経営や教育にそのままとり入れるには害が大きすぎると思っています。 ・芸は身を滅ぼすという考えが日本の産業デザインが発達しない元凶 ・皆が岡目八目なら誰が碁を打つのだろうか。理念を示さない人間こそが卑怯ではないだろうか。 ・仕事に建設的な創意工夫をしたりまたは建設的なアイデアを上げることを否定していたら何も改善されないのではないだろうか。 ・他の人間のすることばかりを、探偵の様な油断のならない眼で良い悪いと心の中で判断している様な人間は、本質が何かを見ようとしていない。 いづれも変化を阻み経済の成長を低迷させるものと思えてしまいます。本来の伝統とは日々変化してきたものだと思っています。

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回答No.44

>右とは、例えばおかもとのぶとさんに永遠の丁稚をやらせていることが美しいという発想です。 >はしだすがこさんが、もし筆をすべらせて、野望をもつ丁稚にしてしまったら醜いという思想です。  意味が解りませんでした。「おかもとのぶと」「はしだすがこ」を知らない人間にも解るように説明してもらえないでしょうか。なにしろテレビや新聞、雑誌などは最近はほとんど見ませんので。 >わざと筆をすべらせてアバンギャルドな内容にしてみて経済の動向をリサーチしてみてもいいかもしれません。  意味が読み取れず。 >しだいに一段高いところから見下ろすという良く言えば、職人気質の面が強く出てきているのだと思います。  性の高い人と低い人が話すとき、背の高い人は自然と見下ろすかたちになります。見下しているわけではなく、自然とそうなります。背の低い人から見れば「見下されている」と思うかもしれません。 >全てにおいてですが、成熟すると、専門的になりすぎて自己完結に陥りやすいという良い例かもしれません。  成熟すれば、未熟な人にとってはわかり難いということでしょう。真に物事を理解している人なら、平易な言葉を使って説明するはずです。固有名詞や専門用語などを使わずに。最終的には自己完結するでしょう、思想・哲学は。他者完結などありえないと思います。

heartmind
質問者

お礼

>右側とはどういうことでしょうか?権威・上位者を肯定し、 >それらがすばらしいという立場の者を言うのではないですか. >物事の根本・根幹にある家族関係での右側とはどういうことを言うのでしょうか? お礼遅くなりすみません。もうそろそろしめなければと思っています。 もともと右側というのは、個人と個人がお互いをリスペクトしあって協力して、 生活する事だったのだと思います。 それが、ゆがみをもつとファシズムや排除の論理になりやすい危ういものなの だと思います。 輪郭のしっかりしたものではなく、人間のきびというやわらかくてあやふやな ものを核にしているから、すぐにエラーを起こしやすいのかもしれません。 いろいろ考えさせられました。ありがとうございました。

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  • ENERGEAR
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回答No.14

具体的な例   生めよ増やせよ  は旧約にもとづく「維持存続、繁栄が第一命題である」という考え。  宗教や神話と、それにたいしての~   は新約  例えば、「一人の人が私たちの罪を背負ってくれたから今の私たちがある」 はその宗教を代表して表した言葉であるという感想です。実感としては、人間の普段の言動もそれらが元になっているようだ、という程度のものです。私の理念をあらわしました。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 宗教が土台に人間の行動原理があるという考え方は私には理解できません。自分がそういうものに拘束されている意識がないのです。 ただ伝統的にかたよりすぎる考え方が人間の意識の改革を阻んでいるという実感はあります。

heartmind
質問者

補足

皆様、大変建設的なご意見ありがとうございました。 「弱者は醜い」という考え方が、一時蔓延した時期もありました。私はその時、そこが本質的な問題ではない、そこからは根本に潜む建設的な解決策はでてこない、という確信のようなものがありました。 強いリーダーシップのある人物というのは、往々にしてファシズムにミスリードされやすいという歴史的事実があります。 本来の合理化は人間を社会の為に長期的なスパンで利用することであり、人間は本来は社会に利用されたいと願っているはずなのです。 経済が低迷すると設備投資や新規参入をやるということは中々難しいものがあるとは思いますが、実は好調な時より低迷した時に本来は必要なのではと思ったりもするのです。 短期的な建設的な考え方は本当の意味での建設的な考え方ではない。 結果をだす前とだした後で、180度、態度が変わる人間関係を継続的に繰り返していたら、人間が疲弊してしまい、行くべき方向を見失うのは当然です。 私自身、まだ、本当の結論は見えていませんが、ご意見ありがとうございました。

回答No.13

 No.2&5&11です。  ★ (No.11お礼欄) すいません。 / ちょっと読解するのが難しいので平たい言葉でお願いできませんか。  ☆ この言葉が 回答No.5に対してでしたら 考えたかも知れませんが No.11に対してこう言われるとは!〔もう道は断たれた!〕と思いました。  もともと背景事情を述べると言いましたが ここまでコケにされるとは思いませんでした。  それでは。(訣別のことばです)。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。ごめんなさい。 コケにしたつもりはないんですけど、何が言いたいのかが本当にわからないのです。 コンパイラーが欲しいです。 非礼をお許しください。

  • amaguappa
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回答No.12

10ですが、追記。 自分の書いたことを読み返してみると、日本の官僚主義の問題に行きつくのかなと思いました。 それも企業中心主義とつながっている官僚主義でしょう。 しかも教育システム上、面白い人間が官僚にならない流れなので、 視界の開けないところがでてきます。 これに風穴をあけるのが規模の大きな私企業や私学のつとめといえますが、 かれらは経営するだけでも困難なのが日本の実情でしょうからね。 高度成長期を脱して世代交代も半分ほど為し終えた昨今、 芸は身を滅ぼすとばかりに、囚われ、ひたむき、うつむき、派閥に明け暮れる奉公人は減って、 遠回りや余計な物事から結果を出せるタイプのプロデュースできる人間が増えてくるのではないかなあと、期待するのですが。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。そうですか現在は官僚主義なのですか。 教育システムの見直しは10年後に結果が必ず出ます。もし今後も失われたもう10年が続くなら、教育に力を入れるのが経済対策に通じる遠くて近い道でしょう。 ありがとうございました。

heartmind
質問者

補足

皆様、お礼が遅くなってすみませんありがとうございました。 最近、拝金主義の批判、物質文明の批判をここでよく目にします。 何かここにも原因があるように考えられる気がします。 文明社会の恩恵を受けながらも、それを批判する。 その深層心理には人間の強い疲弊感からくるものがあると思います。物やお金に振り回されるのは嫌だという、内在的なブルジョア化、つまり金持ちはバカだという価値の転倒がおこっている。 そういう人間が今求めているのは知的好奇心や精神の充実、絵空事。 人間は屁理屈を本能的に欲求している。建設的アイデアも、もとをただせば、人間の卑怯ないやいやの屁理屈でしかない。テクノロジーは現実逃避の屁理屈から始まる。 疲弊感からまんまるく誇り高い貴族の様になりすぎてしまった人間をもう一度、手足をはやして人間のわがままな部分を取り戻さないと一歩も進めない状況かもしれません。 やわらかく現実逃避しながら現実を受け入れる遊びをとりもどすことが必要かもしれません。

回答No.11

 ハートマインドさん あらためましてこんにちは。  No.2&5です。これまでの投稿の中でおぎなう必要のあるところをおぎないます。背景事情にとどまりますが よろしくお願い致します。  (1) 遊牧騎馬民族が国家を持つのは ほかの民族の国家をかっさらう場合だと言って済ましていることに関して。  例によって江上波夫にしたがって補います。  ▲ (江上:騎馬民族国家 改版) ~~~~~~~~~~~~~  彼らの騎馬民族国家の本質は 現実の利益追求を目的とした人々が そのために自ら組織した すぐれて人為的な 政治・経済的な性格の強いものであった。・・・  多数の遊牧民を比較的狭い範囲内に集め 彼らを比較的強い紐帯で結びつけて 集団化・組織化するということは 彼ら本来の 遊牧的あり方に矛盾するわけである。  したがって 軍事上の要請で 彼ら遊牧民を集団化・組織化しなければならないとすれば それは遊牧的生産よりも より多くの経済的利益が予想されるところから 人々が自らのイニシアティヴで各自の遊牧的生産をある程度犠牲にしても すすんでその集団・組織に参加するというばあいか あるいは その集団・組織の主体をなすものが 兵力か権力か なんらかの強制力をもって 人々を集団や組織のなかに投入するという場合かの いづれかであろう。(p。18)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここには 《より多くの経済的利益が予想される》そのオイシイものを狙ってみづから組織化するという《良いとこどり》の特徴も見られます。すなわち  ★★ (No.4お礼欄) 都合のいいように良いとこどりしては良くないと思うのですね。  (2) 遊牧生活から遠いと思われる日本に遊牧民の思想が入ってきているのではないかに関して。  いくつかの事柄があるわけですが 二点触れます。  (2-1) 家系が 男系継承でかつそのことを記録するかたちでこだわるということ。  つぎの二つの事例を挙げます。  ▲ (《稲荷山鉄剣銘文》に見る系図の記録例)~~~~~~~~~   ヲワケの臣 上(かみ)つ祖(おや)の名はオホヒコ。其の児〔の名は〕タカリのスクネ。其の児の名はテヨカリワケ。其の児の名はタカハシワケ。その児の名はタサキワケ。その児の名はハテヒ。  その児の名はカサハヤ。その児の名はヲワケの臣。世々 杖刀人(たちはき)の首(をさ)となり 事(つか)へ奉り来りて今に至る。・・・(埼玉古墳群で出土した鉄剣銘)  ▲ (聖書:マタイによる福音書 冒頭) ~~~~~~~~~~  アブラハムとダビデの子孫であるイエス・キリストの系図。  アブラハムはイサクをもうけ イサクはヤコブを ヤコブはユダとその兄弟たちを ユダはタマルによってぺレツとゼラを・・・もうけた。(以下略)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (2-2) 記紀神話に伝える王(天皇)の即位儀礼に関して 遊牧騎馬民族の風習と似たようなことが見られる。  ▲ (護雅夫:遊牧騎馬民族国家) ~~~~~~~~~~~~~  ○ 真床追衾(まとこおふふすま)  さて わが国の天孫降臨神話では    時に タカミムスヒのミコト 真床追衾(まとこおふふすま)を以て   皇孫(すめみま)アマツヒコヒコホノニニギのミコトに覆(おほ)ひて   天降(あまくだ)りまさしむ。  と見えています。・・・  この《真床追(覆)衾》の《真》は美称 《床追》=《床覆》は 《床を覆う》をしめし 《衾》は《伏す裳(ま)》つまり寝るときに身をおおうものです。  神の子が何かにつつまれて 上天から降臨するという主題(モティーフ)はまた 南朝鮮の加羅国の建国神話にも見えています。すなわち そこでは 神の子は 紅幅(あかいきれ)につつまれて天降り 酋長我刀の家にもちかえられて かつ 榻(しとね)の上におかれています。(p。101)    ○ ジンギスカンらの即位儀礼における《フェルト》  まづ 華北に北魏を建てた モンゴル系またはトルコ系の鮮卑の拓跋における即位儀礼について     黒い氈(フェルト)で七人の人間をおおい 新しい君主は その氈    の上で 西方に向かって天を拝する。  と言われています。またジンギスカンの即位の際にも     七人の首長が ジンギスカンのすわっている黒いフェルトを持ち上    げた。  と伝える史書もあります。さらに カルムク族について     部族の首長は 部族の一般的集会でえらばれた。この選任の結果は    えらばれた人物を 一枚のフェルトの上にのせることによって知らさ    れた。  とか キルギスでは 新しくカンになるものを 《薄くて白いフェルトの敷物に載せて 何度も高くほうり上げては落とす》儀式が行なわれたとか 伝えられています。(pp.99-100)  ○ 大嘗祭における衾  大嘗祭のとき 御殿の床に八重畳を敷き 神を衾でおおって臥させ 天皇も衾をかぶって臥し 一時間ほど 絶対安静のものいみをします。これは死という形式をとっているのですが そのあいだに神霊が天皇の身にはいり そこではじめて天皇は霊威あるものとして復活するわけです。・・・(あとは割愛します)(p.102)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  このあたりにしておきます。これらの背景事情は 何を物語るか。どういう現実とつながりがあるか。  今回はここまでです。長文を読んでいただきありがとうございました。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 すいません。 ちょっと読解するのが難しいので平たい言葉でお願いできませんか。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.10

失礼ながら他回答は読んでおりません。駆け足で述べますが、 この際、極右と極左はどちらも同じように問題から外れるでしょう。 すぐれた産業デザインから遠く、傍目八目の根性で、理念を目的と履き違え、 創意工夫の通気性に乏しく、他人のすることを視界に入れてばかりの近眼視である、 といった愚昧さに、日本はなぜ陥るのか? という問いとみてよろしいですか。 そうですね、芸は身を滅ぼすの芸は遊びであり、日本では江戸までの社会には存在した心だと思います。 もう一歩譲ると、地主の廃止と財閥解体までであろうと思います。 ヨーロッパの産業革命後も、職人を失ったせいでデザインの荒廃が訪れますが、 それまでのデザインというものが産業工芸品のためのものではなかったので、 その旧式の職人的概念のものをコピー生産すると悲惨な乖離を生むのですね。 イギリスは国を挙げて教育機関や研究誌を作り、工業のための新しいデザインを確立します。 ヨーロッパでも材質と用途と予算とスピードに合ったデザインが生まれます。これが19世紀末から20世紀初めまでに成し遂げられるわけです。 この動きを支えた財力というのは、旧時代のような王侯貴族ではなく資本家です。社会権力が資本家に移ったのですね。 日本は、大名や皇族や大商人が芸事やお道具に財力を注いだほどには、 その役割とりわけ進取の気風を、結局は近代資本家にシフトすることができなかったと思います。 世界恐慌と関東大震災の近さや、第二次大戦の疲弊も一因かもしれませんが、経済成長の方法がたぶん違うのだろうと思います。 また、工業立国としては、条件に応じて構造的に求められたものである欧米のデザインを、輸入コピーしていじりまわすことになるので、 材料と手法から作り出して模索してきた本家とは、その後の発達力において差が出ざるをえないでしょう。 つまり、伝統をもってこういう発達力のあるところが、遊びの心の強さ、しなやかさだと思うのですが、 この発達には、現場のアールと同じくらい批評も欠かせないはずです。 傍目八目は、言語化していく批評たりえないところに、日本の脆弱さがあるといえそうです。 さきほど、イギリスが学校と雑誌を作ったことを書きましたが、 現場が職人の親方から離れて工場主の手に渡ったときに、遠いところから固め始めたイギリスという国の神経の太さ、手強さが垣間見えます。 あと、そうですね、 創意工夫の通気性の悪さ、横目使いの近眼視ですが、 わたしは、この島国でも江戸までの治世には、上下を通す通気性や大局視や彗眼の生かし方があったのではないかと思うのです。 ずっと以前の大阪府知事さん曰く、東京と何が違うって 一般人が簡単に知事に会って思いつきを話せるし良いアイデアなら実現するということで、 気風の違いなのだけれど、それだけに地方であって中央ではないということでもあるとのこと。 ということは、緩みのない中央集権制では何が起きてしまうのかというのが、考えどころのような気がします。 持ち場の歯車と化したつまらない人間を作り出して、横の人間のすることばかりを気にする神経症者を作り出すのでしょうかね。 暮らしに余裕がない、ゆるみがない、遊びがない。 やはり何か、日本の実際に使える財力の底の浅さというか、少ないお金を取り合って時間を削っている民衆のありかたというか、 拝金主義や効率主義のコンパクトかつコンビニエンスな方向性が浮かび上がってきますね。 時間的に非効率でも人間の営みが関わる形態として無駄がない、というような美学は生きてこない社会ですね。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 イギリスの工業デザインの発展の歴史についてとても勉強になりました。 >持ち場の歯車と化したつまらない人間を作り出して、横の人間のすることばかりを気にする神経症者を作り出すのでしょうかね。 暮らしに余裕がない、ゆるみがない、遊びがない。 そうですね。こういうところ確かにありますね。 >時間的に非効率でも人間の営みが関わる形態として無駄がない、というような美学は生きてこない社会ですね。 この考え方は必要ですね。人間をすさまじい疲弊感から救うためにも。

回答No.9

まず、失礼ながら、私も、おっしゃりたいことの意味が、よく分かりません。「産業デザイン」と「芸」が、どのように関係しているというのか、など、ご質問本文全体および各ご回答に対するご返答も含め、私には些か呑み込みにくいタイプの御文章ですので、恐らく、質問者さまのお求めなさるところも、あまり分かっていないのだろうとは思いますことを最初に申し上げておきまして、 「芸」なる言葉も、その指すところは範囲が広いですね。 遠くもない昔でも、芸をしてみせる者は、蔑みの対象でしたそうな。こんにちでも、年配の人なら、そういう気分を残しているかもしれません。 「芸は身を助ける」とも「芸は身を滅ぼす」とも言われるようですが、「芸は身を助ける」のほうならば、動物園の象さんでも、わきまえているようではないかと思われます。 単に、なぞるだけなら楽ですが、一からつくりあげるのは大変なものですね。 生きるはりあいになるのなら「助ける」でいいのでしょうが、芸に身を縛られるまでになると、どんなものなのでしょうか。 往々、孤高の芸術家、とか、天才は孤立しやすいとか聞きます。破滅型の天才肌、とも聞きますし。こうなってくると、「助ける」よりは、「滅ぼす」ほうに傾きがちかな、とも思います。 しかし、自分一身を省みず、後に残すに足るものを残すのならば、「助ける」のか「滅ぼすのか」、さて、どう違うのだろうか。 理念を示さない人間こそが卑怯、と言うなら、自ら理念を提示しておきながら、また自ら反古にしてしまうのも、いかがなものなのか。 >他の人間のすることばかりを、探偵の様な油断のならない眼で良い悪いと心の中で判断している様な人間は、本質が何かを見ようとしていない。 そんな感じの人も見てきておりますが(実際、探偵職だったりして?!)ご本人にしてみれば、ぬかりなく、油断のならない眼で他の人間のすることばかりを監視し、常に、それらを良い悪いと心の中で判断しているくらいでなければ、本質の何たるかを考えてもおらぬ者には本質の何たるかを分かるまい、と思っているのではないですか。 監視される側の者としては、監視する者に監視し返す、ということにならざるを得ないことになっているのではないかと思われます。(ボードリヤールあたりが、近いことを言ってたような。) >理念とはとっても平たくいうと「自分はこう思うのだけどどうかな」ということ それが言いづらくて言いづらくて、どうにも…と言う人だっているのですし。 実際に碁を打つ人に、示すべき理念がなくて通るものなのでしょうか? >仕事に建設的な創意工夫をしたりまたは建設的なアイデアを上げることを否定 そんなことしていて通るような企業では、いずれ生き残れないはずと思います。実際に、殆どの企業は、全ての社員に対して、日々要求しているはずです。 もしかしたら、そもそも、何が「建設的」であるのか、それすら見えないでいるのかもしれないし、 あくまで他人には「自戒」を要請しておいて、自分には暴走することを許しているかもしれないし。 >「潔くないことが潔いことなのだ」と帰結しなければ これは、つまり、「汚れ役」も敢えて引き受けるというような潔さですか? 「スタンフォード監獄実験」などというものは、今現在にも、大のおとなから子どもたちまでが日常のそこかしこで直面していることではなかろうかと思います。 余談ですが、どこかで聞いた話。 都会から、ある農村地帯へ移り住んだ人の話だったと思います。 村内で、何かの問題が起きたとき、移り住んできた人が、その問題のことについて何度、話題を持ちかけても、土地の農民たちは、「そうかね」の一言しか決して口にしなかった、というのでした。一種、賢い処し方には違いないのだろうとも言っておられました。 責任を負うのが厭で、われ関せずのその裏は、無責任でいられるならという条件付きの関与の快楽ではないのでしょうか。 日本人の一般に、好むところなのでしょうか。 日本の伝統と言えば思い出す一つが和服ですが、これとて時代の変遷につれ、大いに変化してきて、こんにちの様式美の極に至ったわけですが、この頃になりますと、滅多に出番もなくなったという皮肉さが漂います。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 産業デザインと芸についてですが、デザインという芸術性をいかに産業化するかということにつながります。モノづくりの産業にデザイン性をとりいれるという発想です。アマガッパさんがイギリスの産業デザインの歴史と日本の発達との違いについて述べてくれました。 やはり、総じて裏があって面があるのだからいいのではないかという意見だと思います。 しかし、現代の問題の探求すべくたてましたので、本当のところどう思ってらっしゃるのかをうかがいたかかったのですが、、、、。 ここから無理やり結論づけをするとしたら、何事も表裏あるのだから、塞翁が馬でいいではないかという、流れに乗りましょうという心理が、そも人間の進むべき道を立ち止まらせている。相手がどう出るかをお互いが待っているという停滞の状態ということでしょうか。

  • ENERGEAR
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回答No.8

訂正  それにたいていの解釈が~ ⇒それにたいしての解釈が~

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • ENERGEAR
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回答No.7

>根っこの部分の考え  確かにこれを顕すことが出来れば、それが理念と言えますね。 >もし本当のところ何が原因というご自身の根っこの部分の考えがありましたらご意見のほどお聞かせください。  宗教や神話と、それにたいていの解釈が元になっての普段日頃の人々の在り方と世界観がもたらす影響が 根本原因でしょうね。  生めよ増やせよ とか 犠牲になるものが居てこそこの社会は成り立つ とか 和を以って尊しとなす とかでしょうね。  「根っこの部分」ということですので...

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 >宗教や神話と、それにたいていの解釈が元になっての普段日頃の人々の在り方と世界観がもたらす影響が 根本原因でしょうね。 すいません、私自身あまりにもこの件に関しては実感がないために、何ともいうことができません。何かこういう原因の具体的な例があるとありがたいのですが。 >生めよ増やせよ とか 犠牲になるものが居てこそこの社会は成り立つ とか 和を以って尊しとなす とかでしょうね。 「生めよ増やせよ」は現代の少子化に対する問題ですね。確かに、生めと言われて、そう都合よく生めるわけがないので、生めない原因を考えることが必要ですね。単純に経済だけの問題でもなさそうだし。 「和を以って尊しとなす」の弊害は私も現代の病の根源的な部分だと思います。

noname#135843
noname#135843
回答No.6

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > 「極右」=「日本人に潜在的に根付く保守的発想」ぐらいでしょうか。  例えば、以下のような、オルテガの「大衆の反逆」に見られる特徴が見られるということでしょうか。これは、1930年にスペインにて刊行されたものですが、現在の国々(諸外国も含みます)でも、当てはまると言ってよいかと思われます。しかし、これらは現在の日本に特に当てはまるとも感ぜられます。 ・ 何事においても他律的で、他人や世論に同調し、あるいは自分に同調を求める「烏合の衆」。→ 井戸端会議(単にヴァラエティ番組で見た内容)で得られた結論を、社会(他人)にまで押し付けようとする。 ・ 文明の恩恵が自動的に享受できるのを当たり前と思っており、文明や伝統に対する畏敬や感謝の念、 また、未来に対する責任感を欠いた「忘恩の徒」。 → 現在の日本の快適さ、利便性を当然のものと勘違いしている。これらは、過去の諸先輩方たちの希望・努力の所産である。しかも、将来に対しての責任感を持っていない。  では、なぜかような状況が諸外国よりも強く感じられるのでしょうか?  愚見ではございますが、以下の2点が大きな要因となっていると思われます。heartmind様とは幾分理由が異なるかと存じますが....... 1. 戦後民主主義の悪平等 日本は資本主義の社会であり、また資本主義である以上は、競争社会ともいえると思われます。ですが、競争社会といいましても、ある程度のルールが存在すると思うのです。確かに人は完全には平等(身体脳力、外見等)とはいえない部分があろうとは分かってはおります。ですが、ある一定の“チャンス(機会)”というものは保障されなくてはならないとも思っています。ですが、某県(市)の教員採用試験に見られるような、コネクションによる決定(見かけは、一般公募という体裁は整えてはいるのですが)、さらにまた、競争、競争!と謳っていながら、実はその政治家は二世 or 三世議員であること 等でございます。そして、かようなねじれた競争が“悪いのは私じゃない症候群”(香山リカ著「悪いのは私じゃない症候群」ベストセラーズからです。愚生は立ち読みしかしていないのですが)を生み出してしまったと考えております。 2. “失われた20年”ともいわれる不況 穀物の収穫が減少すれば、魔女狩りの件数が増加するという相関関係が見られるとのことです(浜本隆志著「魔女とカルトのドイツ史」講談社からです)。つまり、不況が続くと、必然的に人の心理は閉塞感に覆われてしまうのかもしれません。  この閉塞感が、人様にまでをも非難の的にしてまっているのかもしれません。 > 人間とは弱いものでどんなに注意を払っても、「スタンフォード監獄実験」の例にもあるように、自分に甘く他人に厳しくなってしまうと思うのです。  もし、この実験を現在の日本で実施すれば、どんな結果になるでしょうか?この閉塞感に満ちた日本では、米国よりももっと悲惨な結果になるかもしれませんが、どうでしょうか。  とても憂鬱な結果となってしまいましたが(とても、くらーい内容となってしまい、申し訳ございません)、ご意見等賜れば、幸いでございます。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございました。オルデガの「大衆の反逆」について、調べてみました。とても勉強になりました。ありがとうございます。 しかし、私はハッチさんと少し違う見解になりました。 現在、日本は閉塞感、疲弊感を感じて、今一歩、踏み出せない状態が続いている。ここまでは、同意見ではないでしょうか。 その疲弊感は半端なものではなく、想像以上のかなりのものではないかと思うのです。 例えば派遣労働者の場合、いつ首を切られてもしょうがない労働のしかたを繰り返して行くうちにそこから這い上がることさえ怖くなってしまう。這い上がれたとしても、またどん底に落とされるのかもしれない。 それはマリッジブルーの時の感覚と似ています。こんな幸せ信じられない、どうせいつかは捨てられる。こんなに苦しい思いをするならいっそ結婚しない方がましという、不決断という決断、前言撤回という断言を選択する心理です。 愛情に恵まれない経験をしてきた人がなかなか愛情をうけいれられない 当然の人間の防衛本能が働いているだけではないでしょうか。 屈強にたたされたホームレスの内面は貴族のように誇り高くなっていることでかろうじて人間性を保とうとしている。 社会が悪いという社会のせいにしているという見方はあまりにも単純で、自分がだめだから、どうにかしたくて社会をどうにかしたいというのが、本当のところではないかと思うのです。 気がついたら、全ての人間が手も足も出ないほどに、ころころとまんまるくなっていた。 学生のモラトリアム化はある意味、賢明な選択ともいえるかも知れません。社会は人間を疲弊させて使い物にならなくなるところという潜在的な社会からの情報をキャッチしているのかもしれません。

回答No.5

 No.2です。  お応えをいただきました。  その中から次の主題について 投稿をつなげます。  その前におぎないをひとつしますが  ☆☆ (回答No.2) 江上波夫による征服王朝説にはくみし難いと考えていますが  ☆ については 思想としての征服があったと捉えられる節があるという意味です。  さて  ★ (No.2お礼欄) 遊牧民族と農耕民族の関係は確かに根底ではつながっていると思いますが、それぞれの違いを認識することも必要だと思います。  ☆ 平屋建ての市民社会――ムラムラのマツリを中心にして共生していた頃――から二階建ての構造を持つようになるそのいきさつについて 遊牧民と農耕民との思考形式のちがいをつぎのように推理します。  まづ遊牧民族ですが これは――江上波夫によりますが――早い話が他人のモノをかっさらうというかたちです。ですから すでに他人たちがその国づくりとして いわゆる王を立てて二階建ての構造に作り上げていたなら そのモノをかっさらうというかたちです。  ただし説かれるように 民主主義で実力主義ですから 取締執行役員(CEOですか)や各分野の専門家をどこからでもいいから(よその国の人間でもいいから)連れて来てどしどし起用する。そういうかたちで国という二階建ての家を経営すると言います。また自分たちは その土地の人びとと同化してしまうと言います。  農耕民たちが 国をわざわざ二階建ての家にする場合というのは 考えたのですが つぎのような場合ではないでしょうか?  上に触れた《王を立てる》というのは けっきょくムラのおさ(長)を立てるという発想ですから 平屋建てとの違いが 必ずしも明確ではありません。  そこには 人びとを寄せて束ねるという発想が加わる必要があると考えました。(ヨリ・イリ・ヨセという心性ないし歴史知性のあり方の問題だと思います)。  マツリの神(神々)が いわば観念となるかたちを持つ。ここに始まりがあるのではないか。いちいち神の概念を問わないで非思考において信仰していた人びとの間に これを観念において我が物とする動きがあった。  この観念をもとにして その神々を――あくまでも新しい動きにおいては 観念として――共同化することによって国づくりを一段と行きわたらせる。いわば神々の代理 つまりその代理としての人間の登場ということではないかと考えます。  この志向性のもとに現われたのはもともとは 《王の徳をあまねく行きわたらせるという感化政策》というかたちではないでしょうか。ただしすでにそれは 二階からのはたらきかけというかたちを採らざるを得なかった。一階つまり平屋建ての社会にあっては 徳性はおのづと人びとに伝わります。観念化をせず観念化を拒むようなかたちで。  つまりは こうです。  或る日或る時どうしても我れは 神のごとくに如何なるものの下にも立つまいと決意した人間がいたわけで かれはそれはそれは人間的になるよう努力します。もうこれ以上は人間的になれないと思って周りを見渡すと 誰もそのような人間性というものに関心がない。  そこでかれは最初の誓いを保持したまま 人間や社会に《イリ(入り)》するのを方向転換して 人びとを《ヨセ(寄せ)》することに専念しようとする。その手段が 《王化の徳・王の徳の感化》であり そのような《観念のあまねわり》(あまねく行きわたらせる)だと見ます。武力は第二の手段だと見ます。  あとは おまけです。  この観念の繭という核の傘政策は 人間論からすれば 忌まわしき事態です。人間の自由の違反です。――ただし 社会という視点をとれば 《ヨセ》つまり通俗的に言って《依らしむべし 知らしむべからず》の政策は 自然やひとに《ヨリ》つく傾向を持った人びとを導くための短兵急なやり方であって ふつうの歴史知性である《イリ》としても その導き方を時間をかけておこなうはずだと考えれば 五十歩百歩だとも言えます。  特に 外国が攻めてくるといった非常時には 《ヨセ》の行き方が用いられる場合があります。それでも人殺しはしないという非戦論を採る《イリ》思想の一系譜というのは どうでしょう あるでしょうか? ありえないでしょうか?  ということで 社会という視点に立てば 人間の自由論からして忌まわしきことでも これをただちに元に戻すということが どうも出来なかったようですということを添えておこうとしました。  国家は存続しました。観念の共同は 一般にアマテラシテ(象徴であり 権威のことです)のもとに 一定の期間において 確固たる地盤を築いたのではないでしょうか。  そこで忘れてならない基本的な歴史事例は のちにアマテラス二階族を形成する人びとに対して かれらが《おれたちに任せてくれ。このくにの人びとを寄せさせてくれ》と拝みに拝んで ふつうのイリ知性たちに話を持ち込んだとき 後者の人間たちは前者の人たちに《くにゆづり》をしたということです。根負けしました。一方では《もううるさいからということで神だなに据えた》のでしょうが 他方では《思う存分好きなように経営能力を発揮したまえ》と言ったかたちで任せることになりました。  その後月日は経って いえいえ千五百年経ったのでしょうか 《くにゆづり》した側は――つまり一般スサノヲ市民らは―― 総じておとなしくして来ました。《ゆづった》のですから そうそうは《返せ》とも言えません。そういういきさつで 現在に到っていると見ます。  締めのひとこととしては この農耕民の国づくり方式に遊牧民の統治形式が混ざり合っていると思える。これです。どうでしょうか?

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 >この農耕民の国づくり方式に遊牧民の統治形式が混ざり合っていると思える。これです。どうでしょうか? そう言えなくもないとは思います。しかし私は現代の問題の焦点がブロジェロンヌさんの言っているところにあるとは思えません。 しかし参考になりました。ありがとうございました。

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