• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

このQ&Aのポイント
  • 信仰とまつりごとの関係についての哲学的な解釈を求める質問です。
  • まつりごとは社会の経験行為であり、信仰は内面の問題とされます。
  • カエサルのものはカエサルに返すべきであり、神のものは神に返すべきであるという見解について考えられます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#135843
noname#135843
回答No.3

 こんばんは、Hidocchiです。何かのご参考になればと思い、筆を取らせていただきました。 > (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。 > (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ 社会全般のにしろ 生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。  (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。  愚生は、自由にも、 ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  しかし、例外もあったろうかと推察しております。それは、生存(生命としての極限状態)にかかることでございます。つまり、天候の不具合が長期的に続き、大飢饉の中、かろうじて生き残った人たちにとりましては、一体感があったものと推察しております。このような状況下では、“感謝”という感情的部分が優先してしまい、理性的判断はなされなかったであろうとの推察からでございます。  また、いわゆる“感謝祭”なるものも、実情からは離れ、経験(歴史)の積み重ねから形式化してしまったものもあろうかと存じます。 > (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  厳密には、不可能と解しております。上記理由からでございます。 > (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか? 「マタイ22:15-22、/ マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26」  共通点としまして、税金に関わる問題かと思われます。つきましては、単純に“納税”のことと割り切るならば、その義務を国民が自らに課しているため(憲30条)、各自の社会的役目を果たそうという責任間・使命感だけの問題なろうかと思われます。  ただ、懸念事項もございます。以下は郷原氏の著作からでございますが、 ・この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。たとえば、市民と弁護士とを結ぼうとする企画を種々しているのだそうですが(市民の法律意識を高めるのが目的だそうです)、実際のところは、利用例は限られているようです。例えば、司法試験の改正により、多くの弁護士が輩出されているとのことですが、市民はあまり利用していない状況にあるそうです。 http://secondlife.yahoo.co.jp/supporter/article/Xm0R_CuANk9j1rcBDQ--/2772/   つまり、これらのシステムも“誰にも望まれていない制度”になってしまった観がございます。そもそも、今までが、“お上”志向でしたので、弁護士との付き合い方自体すら知らないのかもしれません(こちらは愚見でございます)。 ・無批判に盲信する現在の社会では、お上、メディアからの発言に、水戸黄門の印籠なるものを渡してしまっていること。  司法、メディアとの歴史的、風土的関係の結果からだと推察しております(愚見でございます)。 ・国民裁判員制度(4章 「官」「民」の裁判員制度推進の理由の違い からです)についての制度理由からです  この裁判員制度がどのような理由からできたのかの説明を郷原氏は説明しております。2つの内1つは、日弁連(「民」)の意向です。つまり、日本の刑事裁判は、すべての案件のうち99%が有罪になっているため、市民参加によりその是正を図ろうというものです。  もう一方は、国の意向です。この理由に関しましては、郷原氏(元検事)も詳細はわからないと述べています。ただ、推測として「司法に対する国民の理解と信頼につながる」とのべ、「司法」を理解・信頼してくれない現状を改善させるのが狙いだろうとのことです。極論を申しますと、「国民から選ばれた裁判員がこう判断した」という大義名分があれば,たとえそれが、後ほど、冤罪であったと判明しても、国民が選んだのだという言い訳が立つということでございます。 郷原 信郎著「思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本」講談社  ご参考になるところがあれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  (ω‐1~3)については 補強して確認していただきました。  (ω‐5)については 実情や実態について――やや心理的な側面であるようにも思いましたが――人びとの現実を指摘し分析したものをおしえていただきました。  強いて言えばこの(ω‐5)の現代日本人の現状について それは(ω‐4)の問題がからんでいるか――また(ω‐4)の分析じたいの正否の吟味を含めてですが―― これをうけたまわれればよかったかなとは思います。  そしてそれとともに歴史的な展望でしょうか。そういった方面にも伸びるのではないかとは思っております。  現代日本人の現状は おおまかに言って わたくしも  ★ この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。  ☆ と見方を同じくします。そしてすべてを端折って言ってしまうなら いづれどこかで 何らかのきっかけを得て この《お二階さんコンプレックス》は どんでん返しという事態を迎えるかも知れない。こうも思っております。特にその根拠はありません。予感です。  (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  ☆ について  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  愚生は、自由にも、  ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と  ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということが明確に確認できたならば ムラのまつりにおける神社とのかかわりも 問題になるかも知れません。ただ――と言うのもおかしな言い草ですが―― 日本人のあいだでは 神社であっても 内面の信仰には誰も触れないという暗黙の前提があるのかも分かりません。きちんと分かれていて 問題無しとなるのかも分かりません。  ★ 裁判員制  ☆ につきましては いちど《朝まで生テレビ》で取り上げていて聞いていました。意外とあまり意味や効果がないという意見も多かったようでした。いろんな事件を取り上げるのがよいなどの意見でした。そして殺人事件にかんしては やはり法律についての素人は素人すぎるのではないかでした。  うけたまわるだけで 議論を伸ばせられなくて残念です。  ★ 納税  ☆ にかんしましては その使い道について一般市民納税者がどこまで関与することができるか。これがさしあたっての課題でしょうか。あるいは政治家を介しての間接的な関与ということになるでしょうか。  (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  ☆ について  ★ まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。  ☆ と回答していただいたわけですが この為政者を介してかどうかを別として 《宗教団体に対して国民が縛りをかける》という側面については どうなんでしょうか。一たん自由意志において入会したなら 退会するのでない限り その組織内でのやり取りは 信仰内面の論議であっても 自由であるということになるでしょうか? これは前質問を受けての課題です。  ありがとうございました。  * それにしても 郷原さんのタイトルは 《思考停止社会》ですか。言いますねぇ。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (90)

noname#131234
noname#131234
回答No.11

仲間さえ許すことが出来ない被害妄想のおじじ。貴方はキリスト教者ではありませんね。残念です。もっと成長しなさい。(このQ&Aでのびることをいっているのではありせん。野比のび太したいなら国語文学へいきなさい) では分析をはじめます。 (オーケイ問答集13:4-9より)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ たまたましいじゃ!今の日本人はなってない! かみたまはそんざいする! ぢぢこそ最高! わしは、何をやっても救われる! わしこそあらひとガミじゃ。どぢゃ! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ がみがみじじいのゴニョゴョニョ狂に関しその核となる教えは… 重要!! 「三位一体(=酸味痛いともいう)」論です。 I)たまたましい(両替論) 「世直しじゃ!一揆じゃ!」の根拠←○×主義(インターゴニョゴニョ主義) II) かみたま(現人神=唯爺信論) 「自分が絶対正しい」の根拠←偽キリスト教(絶対神=おれさま) III)ぢぢ(悪人成ぶつぶつ説) 「斬ってきた!論戦では一番強い!ご愁傷さま!」の根拠=浄土真宗(仁侠映画=ナゾのゴノゴニョ猿尊) 純粋な OX主義者/キリスト教者/浄土真宗信徒に議論を求め、その方に「他の宗派の教条」について評価を求めれば、それぞれの思想・思考傾向というのは、区別しうるものであって、ひとつではありません。 しかし、あなたは、「ヒトツの統合されたもの」として騙っている。ヒトツではないものをヒトツであるとして騙っている。 その上、貴方は、これこそ「哲学じゃ」と主張しています。この三つを統合しているのは、一体ナンでしょう。 答は簡単です。 OX主義・似非キリスト教・浄土猿臭は、一義的に「オレオレテーマ」としてつながっているだけなのです。 あなたがあやまることを待っていたのですが… 暴露してすみません。貴方が、「少しは素直である」ということを見せていたとしたらこんな論議はしなかったのです。 ふつう、人は自分のオレオレテーマを持っているものですからね。貴方は、これからも自分のまぜこぜ三位一体論を主張していくでしょう。でも読む人は、その前提から結論をアプリオリに知っています。 前提の整理 I)○×主義(インタームダイズム) 反日本人的行動(脳内社会主義⇔でも年金はしっかりもらう) II)カミタマ主義(聖典利用) 「反カトリック的」プロパガンダ⇔勝手聖典自由主義 III)親ビン成仏説(一味痔痔水) 何デモ反対同盟(涎強硬主義)⇔自分と手下以外は、正しくない。(憲法の意味も知らない)無法の手下が逆らえばその場で除名。猿と雉がいれば安泰(ぽこさん・がこさん帰ってきて!と思っているのは内緒)。 これから貴方の述べることは、「ああオレオレ神の三位一体説ね」と一蹴されるようになります。 哲学に関し OX主義・キリスト教・浄土真宗…どれをとっても学問ではありません。 信条・テキストに対し、対象としての距離さえない。学的分析など貴方にとっては想定外です。自分が、「迫害されている」などという被害妄想=はき違えは捨てなさい。 被害妄想=幻想は哲学ではありませんから。

bragelonne
質問者

お礼

 nananisse くん ご投稿をありがとう。お世話様です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  純粋な  OX主義者/キリスト教者/浄土真宗信徒に議論を求め、その方に「他の宗派の教条」について評価を求めれば、それぞれの思想・思考傾向というのは、区別しうるものであって、ひとつではありません。  しかし、あなたは、「ヒトツの統合されたもの」として騙っている。ヒトツではないものをヒトツであるとして騙っている。  その上、貴方は、これこそ「哲学じゃ」と主張しています。この三つを統合しているのは、一体ナンでしょう。  答は簡単です。  OX主義・似非キリスト教・浄土猿臭は、一義的に「オレオレテーマ」としてつながっているだけなのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この箇所に注目しました。その中には ひとつの真実が隠されています。  ○ 神〔あるいは無神論の無神 あるいは ブッディズムでは阿弥陀仏 要するに絶対者=真理=無限=なぞ=非経験=・・・〕は 同じひとつの存在である。仮りの名前が違うだけだ。  ☆ この共同主観(常識)を導きだしたということは とうといことです。敬意を表します。  どうですか?  ほかの部分に触れませんが 触れたほうがいいですか? こてんぱんに叩きのめされたと思うくらいに批判し尽くしたほうがいいですか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#135843
noname#135843
回答No.10

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ★ 裁判員制  また、マニアックな内容になってしまい、こちらこそ申し訳ございませんでした。 > ★ 納税  ☆ にかんしましては その使い道について一般市民納税者がどこまで関与することができるか。これがさしあたっての課題でしょうか。あるいは政治家を介しての間接的な関与ということになるでしょうか。  予算案の作成、つまり、総収入(=税金、近年では、国債にも頼っている状況ではございますが)を、国民の利益・国益を考え、いかにその収入(=税金)を割り振るかというのは、政治家の最も重要な仕事かと考えております。従いまして、納税者も、納税意識をもっと持ってもいいのではないか と思ったりも致します。 > ☆(ω‐1)  この為政者を介してかどうかを別として 《宗教団体に対して国民が縛りをかける》という側面については どうなんでしょうか。一たん自由意志において入会したなら 退会するのでない限り その組織内でのやり取りは 信仰内面の論議であっても 自由であるということになるでしょうか? これは前質問を受けての課題です。 (1)憲法からです  一般には、「為政者 対 私人」の構図から成り立つようでございます。では、「私人 対 私人」の場合では、原則、憲法は適用されないようでございます(間接適用説、無適用説)。以下にその判例を列記してございますが、ともに、「私人 対 私人」の争いについては、私法を用いる との判決が下されています。従いまして、“宗教法人(宗教団体)”も法的には私人扱いとなりますので、憲法から攻めるのは困難かと考えております。従いまして、ケースバイケースにより、民法(契約法)から判断せざるをえないかもしれません。 “三菱樹脂事件”(「思想・信条の自由」を問題とした判例です) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E6%A8%B9%E8%84%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6 “昭和女子大事件”(「人権」を問題とした判例です) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6  ですが、幾つかの疑問もございます。「結社の自由」でございますが、例えば、アメリカ合衆国憲法には、それを謳った条文が存在しません。ただ、修正1条を準用するという形で、実際の裁判判決が下されているようでございます。また、ドイツでも、その自由については、厳しく制限を課しているようでございます(以下のサイトをご参照くださいませ)。 “結社の自由”の“ドイツ”の項目からでございます http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%A4%BE%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1 「合衆国憲法 修正第一条」 連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。  もしかしますと、この“結社の自由”も考えなおされるときが来るかもしれません。例えば、労働組合等の“結社”には、憲法28条があり、他の条文にて保障されているからです。 (2)宗教法人法からです  「2条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。」  と かような条文が存在します。  そもそも、“宗教法人法”に関しまして、その歴史的経緯等から、矛盾を探していくしかないかとも考えております。  ご参考になれず、まことに心苦しいのですが、以上が、現時点での愚見でございます。  ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ううーん。やはりむつかしいようですね。  まづ 結社の自由にかんして わたしはやはり信仰を教義として基軸とする宗教団体とそしてそのほかの結社とに分けたいと思いました。  ○ 思想・良心の自由 と 信教・良心の自由  ☆ につきましては したがって 信教・良心の問題領域とそして思想を含むそのほかの領域というふうに分けたいと思いました。かんたんに言って 内面と外面とです。結社の自由につきましては 宗教団体をめぐって内面の問題がからみます。そのほかは外面です。  ですから取り上げていただいたところの  ★ “三菱樹脂事件”(「思想・信条の自由」を問題とした判例です) / “昭和女子大事件”(「人権」を問題とした判例です)  ☆ につきましては 外面における社会行為の問題であると捉えました。その意味は 前者の結着の仕方が  ▲ 訴訟上の和解  ☆ であったというところにも現われていると考えるのですが それは けっきょくは相対的な妥当性の綱引きであると見えたからです。へたをすると 力関係の綱引きにもなりうるようだとです。  その意味は ここではこれら外面の自由の問題は直接には扱わないと思いました。ですからとりあえずは  ★ 「結社の自由」でございますが、例えば、アメリカ合衆国憲法には、それを謳った条文が存在しません。ただ、修正1条を準用するという形で、実際の裁判判決が下されているようでございます。また、ドイツでも、その自由については、厳しく制限を課しているようでございます。  ☆ これらふたつの事例を挙げていただいたのですが そしてそれらはそれとしておもしろそうなのですが いまは信仰内面の問題に限りたいと考えます。と言っても アメリカもドイツも――ドイツは政治団体の制限のようですから―― 宗教団体は自由に結社できるということのようです。  さて宗教団体ですが ひとつの定義を掲げていただきました。  ▲ 宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成する  ☆ というとき 問題点をふたつ取り上げます。  (1) 《教義をひろめる》ことは すでに信仰内面の領域から外に出かけている。なぜなら 教義は概念をとおして表象しうることがらを扱っている。それは それそのものとしては いわゆる信念になる。観念にかかわっている。信仰は観念になる以前の段階を言う。――だから それゆえに 結社が自由だと見なされているのでしょうか?  (2) 《信者を教化育成する》ことは もし上の教義を介してなのだと言われれば それは外面における社会行為の問題にとどまるという弁解が成り立つかに思われます。内面における良心や信教を直接には問わないのだという弁明です。――だからこそ結社は自由なのでしょうか?  ☆ したがいまして ふたつともわたしのおそれは 人格にまで触れて教義を教え込まれることはないかです。人格を左右するまでに信者を育成することはないかです。最もいぢ悪く見た場合には この人格への刷り込みやその誘導が おしえのためには 自由だという内容を 《結社の自由》は構造的に(つまり偶然的にではなく必然的に)認めているのではないかと疑われることです。  * きのう(きょうの早朝)朝まで生テレビで 若者の問題を扱っていましたが そこで東浩紀が 直接政治制について語っていました。つまり納税・歳出の管理や監視にもからめてでした。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.9

 このところ、bragelooneさんへの攻撃が強いので、ここ何度かの私の回答コメントは応援のつもりでした。  でも逆効果のようで怒らせてしまったようです。反省します。  想像では「たぶん二千年後ですね」と言う言葉が、いけなかったのかなと思っていますが、当たっていますでしょうか。  また、これまでのbragelooneさんと受け手のやり取りから察するに、bragelonneさんの議論に対し、受け手がそれを不快に思い、その心持が誹謗中傷と言う形になってしまうのでしょう。議論ではなくなってしまうのです。bragelonneさんは‘議論’しているのに。  だから受け手が、議論で返さず誹謗中傷といった手段に出るのは、その時点で受け手の負けなのです。  私なら、そのようなコメントは、無視するところですがbragelonneさんは答えています。それも相手の用意した土俵に上がって。  これではbragelonneさん自身をも貶めることになってしまいます。  私が今回の質問に参加した意図は、暗に議論してくださいというメッセージを込めたつもりでもあったのですが、独りよがりでありました。  再度、私自身の言動に注意すると共に反省し、お気持ちを害したことをお詫びいたします。私のうぬぼれ心がまた出てしまいました。    

bragelonne
質問者

お礼

 yy8yy8az さん こういうことです。  あなたはわたしの応えをないがしろにしましたね。No.7に引用したとおりです。  ☆☆ (No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしの見解のほうが妥当だという意味では必ずしもありません。一度目のわたしの指摘を無視したとわたしが受け取ったことが 問題であり問題とします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と怒っています。ほかにはありません。今回もこのことに触れていませんね。  問題は こういうことです。  この無視をそのまま放っておくなら その次にもし同じ無視があった場合その今度は 欺かれたわたしのほうがわるいということになるからです。  いづれかの将来において ともに行動しているというときが来るでしょう。そのとき もしたとえ小さな連絡のようなことであっても ひとりがないがしろにしてしまったなら どうなりますか? みなに差し障りが出てしまいます。これをおそれます。  したがって 細かいことでもおろそかにすることは出来ません。  どぢゃ?  * 勘違いや知らずにしてしまった間違いは いいのです。気づかなかったり悪気はないつもりだったりという場合でも 二度目はだめです。通用しません。  その場でただちにあやまちを認めれば済むことです。けれども 〔問題そのものについての〕ごめんのひとことを抜かすわけには行きません。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#131234
noname#131234
回答No.8

I)  あのう… どさくさにまぎれて大学を何とかしたのかもしれませんが、 OX主義は、学問に数えません… OXに関し、「其の脳内で、盗みとコワしのプロである」と言う事は、出来るかもしれませんが、哲学者でも経済学者でもありません。一揆の屁理屈は、経験科学ではありえませんので。 ということで、再度補足要求となりマスが… 貴方が「自分(=よだれ教皇)の考え出したゴニョゴニョを此処で主張したい」という以外、理由・意図として何か思い当たるものはあるのでしょうか?重複してもかまいませんから、なにとぞ一言お願いいたします。 II) 「ふぇーず1」 広場で説教(実は宣伝)をたれている人がいるとします。人ごみの中で説教(実は宣伝)をしていたのですが、時がたつにつれ、なぜか広場に人が集まらなくなりました。 「ふぇーず2」 人がいないのだから、「場所替えだ!」と思い、ほかの「人通りの多い広場」に移り、更に説教(実は宣伝)。でも、時がたつにつれ、またもや広場に人が集まらなくなりました。 説教(実は宣伝)の内容を変えながら「ふぇーず3」につづく さて、人が誰もいなくなるというのは何が原因なのでしょうか? 時間がもう少ないかもしれませんが… 「なぜ今あなたが、孤独であるのか」という事実に関し、もう一度じっくり考えてみるべきです。あなたのためです。 「論戦できってきた」「武士の情けじゃ」とのたまうアキンド・「XXは犯罪じゃぁ」の例でも分かるように、自分のふんどしに引っかかってこける老人は、滑稽でしかありません。 貴方が「斬ってきた」と思い込んでいる人々は、タダ、あなたの生き方の悪臭にやられ、貴方のことがイヤで、貴方のそばから去っていっただけです。 (仁侠映画を見すぎたの?チンピラから被害を受けたことを忘れたのですか?) 世直しじゃ!といっているが、自分自身は最低。 誰も耳を貸さなくなるのが、普通ですよ。第一、尊敬している人の「のりかえ(両替)」が、不合理すぎる。 「なああんだ!このおっさん!結局、自分が正しいといいたいわけ?」と結論付ける人ばかりですよ。そういうことだけが、コレまでの応答で証明されてきたのです。 死ぬ前に償うべきです。気を楽にしてからのほうがいいですよ。一生で一度でいいから他人の言うことを聞いてみれば?反省することが、悪人成仏の第一歩です。 (チンパンジーの反省「=反省のフリ」ではダメですよw) III) 「キリスト教の神を信じれば、奇跡的に地獄にいかなくてもよいかもしれない。神のみぞ知ると言うもんな!」 「しめしめ、親の宗教は、浄土真宗でぇ、オレは悪人だからぁ、葬式は、親ので出せばいいぞ。最悪の場合でも、コレで救われる…にゃはは!」 「神様がいなければいなかったで問題なし!わしは、勝ち組!最悪の場合にも、万全の備えだ!誰も文句は言えない!ばっちし!」 というのは、宗教ではアリません。ましてや 哲学では「ありえません」。 (OX経済のお勉強をしたのだから、こう考えるのも 理解できることではあるのですが… 貴方の屁理屈は弁証法でもありません。 貴方が不幸なひと(ふなむしでも可w) であるということだけが残ります。) 「打算」は、捨てなさい。 (たとえ肢がたくさんあるとしても、)みつ股・二股をかけるのは間違いです。 臨床的に見て、縁者の不幸は、普通、家父長が原因です。一家心中も、同様。最悪の場合、自分だけ生き残ります(殺人ともいいます)。これは、精神的「心中」でも同様にいえることでしょう。 不幸な家族(袋小路幸福の経済学・デブマロ哲学の家)の中に存在する「教会=オレオレ村(現人神=わしの中に存在する絶対者)」が、犯罪の原因です。 貴方も自分でよく分かっている。悩乱が原因で心が死んだ人がいるかもしれませんが、キリスト教でそれを免罪しようとするのは、卑怯です。 自分に責任がないと言うのはやめなさい。不幸になった人も浮かばれない。 「あれだけ、他人が間違っているとわめき散らしておいて、キリスト教かヨ!なにそれ」と思って脱力しています。 IV) あんまり攻めても気の毒なので… 貴方に「もうちからがなくなってきた…」のはなぜでしょう? それは貴方のモチベーションが消えつつあるからです。 貴方の周りに誰もいないからです。怒る相手がいない。「こいつのせいだ」と言える人がもういない。 自映(荒振屁理屈河童乃猿尊=人を虚仮にするオコリボス袁)を鏡で見ながら、怒ってみるのも大事ですよ。貴方が悪いのです。後悔してもはじまりません。まずは謝ることです。 いままで怒りをモチベーションとして生きてきたのかもしれませんが、「そして誰もいなくなった」のは、貴方のいき方にその原因がありますよ。 貴方が不幸であると言うのは誰のせいでもありません。あなた自身の責任です。 でもチャンスはあります。偽善を捨てなさい。改心しなさい。具体的に人間に対して「ごめんなさい」と言えば、たぶん、みんなも許してくれると思いますよ。 神は許さないでしょうが… V)結論 国のお金は国に、キリスト教の教えはキリスト教に、 ご自分のお考えは、ご自身の無脳にお返しくださるよう、これを以って此処に再びお願い申し上げます。

bragelonne
質問者

補足

 ひょっとしてあなたは owlsjp さんですか?  例によって おまえのかあちゃん出べそのたぐいのシュプレヒコールが延々とつづいています。教科書に出てくる推論はできるが 現実の社会的な歴史的な諸問題についての判断は だれかが示してくれないと自分ではできないのですか? それとも出来るが しないのですか。この現行の体制 万万歳ってところですか。  放っておいては誤解が誤解を生むことになるのをおそれ その部分についてのみただしておきます。  ★ 哲学者  ☆ であると言ったおぼえはありません。ふだんから哲学していると言ったのです。行為としての犯罪と存在について言う犯罪者との区別にも関連していますね。  ★ 「自分(=よだれ教皇)の考え出したゴニョゴニョを此処で主張したい」  ☆ よだれ教皇をまづしりぞけます。けっきょく《ゴニョゴニョ》の中身を吟味してくれという問いです。ここでの質問はほとんどすべてそうです。  それとも そのゴニョゴニョの内容については全面的に降伏せざるを得ず ぐうの音も出ず こうやってお前のかあちゃん出べそと言い続けるほかに為すすべがないと言いたいのでしょうか?  ★ 貴方が「斬ってきた」と思い込んでいる人々は、タダ、あなたの生き方の悪臭にやられ、貴方のことがイヤで、貴方のそばから去っていっただけです。  ☆ そのほかの部分を全部まとめて あとは次の引用にて用を足します。  ▲ (パウロ:コリント後書2:14-17) ~~~~~~~~~~~~  神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連らならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。  救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。  滅びる者には死から死に至らせる死の香りであり、救われる者には命から命に至らせる命の香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。  わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。  (同書13:7-9)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしたちは あなたたちがどんな悪も行なわないようにと 神に祈っています。  わたしたちは 自分が本物の信仰者として見えるようにということではなく たとえ偽の信仰者と見えようとも あなたたちが善を行なってくれるようにと願っているのです。  わたしたちは 真理に逆らっては何ごとも出来ませんが 真理のためならできます。  わたしたちは自分が弱くても あなたたちが強ければ喜びます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どぢゃ!

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#96916
noname#96916
回答No.7

> ☆ 信仰と宗教とのちがいが ここでいちばんの問題であり問いの発端です イワシの頭が宗教だとすれば、イワシの頭に服従する態度が信仰。

bragelonne
質問者

補足

 maooyuda さん お早うございます。と言ってももうこんな時間になってしまいました。(朝まで生テレビを開けておいてけっきょくは眠ってしまったのですが けさは寝起きがはっきりしません)。  ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ イワシの頭が宗教だとすれば、  ☆ はそのとおりなのでしょうね。つまり 宗教となればその教義においてすでに愛にしろ慈悲にしろ言葉で表わしており その言葉は概念であり 概念はわれわれのあたまに表象をつくります。《表象する / かたちがある》という意味で 宗教の教義規範は それがいかなる概念であっても《イワシの頭》と同じものだという結論に達します。  イワシの頭は 愛や慈悲のような高尚な内容を持たないと言っても たとえばイワシもメダカも愛なるなぞの存在によって造られしとうとい生命です。この創造主に直結する生命であればそのいのちをとおして霊の息吹きにもつながっています。  つまりは 愛という概念をとおして神につながるのと大差がありません。大差がないというよりは まったく同じことです。  それは 仮りにも概念であるのならばすべては精神の想起つまり想像の内におさまるものだからです。概念であるならば 想像力の産物であることにとどまります。いわゆる偶像というわけです。つまりこの観念の偶像のほうが 目に見える偶像の問題よりもより一層大きな間違いを犯しがちです。  なのですが  ★ イワシの頭に服従する態度が信仰。  ☆ はよく分かりません。まつりごとは 社会の第ニ階から《和を以ってとうとしと為せ》と言って《まつろわせる》ことですから(――つまり ムラのまつりの共食・その収穫物の一部を差し出せと言って服従させることですから――) 《イワシの頭に服従する態度》を ムラの人びとのこころにも見たということでしょうか?  その信仰は なっちょらんぢゃないかと。  これは 例の《くにゆづり》の問題ですね。  簡単に言って その昔そもそも世の中は平屋建てだったわけです。平屋建ての場合にもムラのおさは出ましたが 或る日或る時 この村長を超え出ようとするスーパーマンが現われました。おれは ムラムラをたばねて従えるのだと。おれは人一倍 徳が高いからだと。王化の徳と言いました。つまり第二階をかたちづくる人びとのことです。  このスーパーマンたち――これをアマテラス族と言いますが――に対して ムラビトたちは かれら(アマテラス族)がどこまでも駄々をこね しまいには土下座をしてねだるものですから とうとう根負けして 社会の上座に一画をもうけて言わば神棚をつくりそこにまつることにしたのです。これを くにゆづりと言います。(ほかにも解釈例は出来ます)。  そして実際に このようにゆづったあと ムラびとの代表としてたとえば〔スサノヲの子孫の〕オホクニヌシは そのまつろうしるしに 屈従の舞いを舞って示したとも伝えられています。戦ってひとごろしをするよりは 奴隷のしるしを帯びることにも耐えたのかも知れません。  ひとびとは見よ。このわれらがおやびと(祖先)の汲めども尽きず湧き出づる愛のちからを。  このなっちょらん信仰が もし目に見えなくてもこころの目には見えてしまう観念の偶像としての理念を追う宗教であったなら 主戦論を唱えて応戦したことでしょう。  どうでしょう? もうスサノヲの後裔たるわたしたちは 腰抜けもいいところでしょうか? 腑抜けもいいところでしょうか? 奴隷の自由しか味わうことのできない木偶の坊でしょうか。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.6

 オコリザルさんの今回の意見に近い感想を、私も持っています。  無神論者といえども、全く神、仏を信じていないわけではないでしょう。  神仏を全く信じないという人が、居ないわけではないと思いますが、そういう人でも、潜在意識の中には必ずあるはずです。本人が気づかないだけで。  また、信仰を“している”人より、無心論者の“信心”のほうが偏りがないのでは、と日ごろ思っているのですが。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#117439
noname#117439
回答No.5

オコリザルです。 私は宗教に深くかかわらない平凡な日本人として生きていますが、このように生きると、自らの信仰を表ざたにしない事となります。 無神論者で居られるのは信じることあるが故とも実感しています。 この日本流無神論をどう説明していいか、とっかかりは有りませんか

bragelonne
質問者

お礼

 オコリザルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ この日本流無神論をどう説明していいか、とっかかりは有りませんか  ☆ それが まさしく《信仰》だと思います。それを信仰とよぶのだと思います。非思考としてのこころの明けまたは伸びです。  ですから  ★ 私は宗教に深くかかわらない平凡な日本人として生きています  ☆ というように《宗教》はほんとうは誰にとっても要らない。こう考えています。  あとは  ★ 無神論者で居られるのは信じることあるが故とも実感しています。  ☆ とおっしゃるように 説明をする労をとること。特に欧米の人間に対しては きちんと言葉で説明すること。これが必要でしょうし それをすればもう 有神論〔者〕とも対等であり 何も問題はないと思います。  ○ ひとりの人間として 内面に信じるという思いを持つ。ただしその信仰を いちいち《おしえ》として表現してはいない。つまりその意味での宗教は要らないと思っている。  ○ 日本語で《かみ》という言葉を実際《信じる》をめぐって自分のこととして用いる場合もある。ただしこのかみは じんるいにとってだれにも当てはまるこころの中身の問題である。わざわざこれこれの宗教のあれそれの神だというわけではない。でも じんるいに普遍的なかみだと受け留めている。  ☆ こんな説明になるでしょうか。  そうすると (ω‐2)の《わたしの内面の信仰ないしまつり》と《わたしの外のムラのまつり》との区分があっても それほどむつかしいさしさわりがあるとも思えません。思えなくなりました。なかなかいいですね。  ○ 内面における信仰なのだけれども その思いもそして言うならば神も およそつねに背景へしりぞいている。社会という外および表の面で現われるのは 素朴に《ひと》である。人類という意味においても使う《ひと》のことである。  ☆ になりましょうか。  いい視点をおしえてもらいました。どうでしょう?  オコリザルさん yy8yy8az さんは 信用するに足る人物ですか? No.7を見ていただければ分かると思いますが わたしはかれに虚仮にされました。これを無条件で水に流すことは出来ません。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.4

 過去には、信仰と言うものはまつりごとに依存していたのではないでしょうか。  大多数の人は、真理を求めての信仰ではなかったかと思います。  そういう意味で個人とムラとは、一体であったはずです。  だから現在まで続いているのだと。  でも、だんだんと減ってきていますね。  それは、・・・・・・・理性が勝ってきた現代人だから。  質問者さんもその一人。  だんだんに「まつりごとは」減っていくように思います。  これからは質問者さんが、求めている真実の信仰が発達していくのではと思います。  でもそれは二千年後ですね。  たぶん。

bragelonne
質問者

お礼

 ○(【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】) ~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html  ★★ (No.25回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   托鉢のレベルに戻すべきです。(owljipさん。すべき、をまた使っちゃいました)  ☆☆ (その補足欄)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ べき   ☆ は自分が使っているぢゃないかと指摘してやるべきです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★★ (No.30回答)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   また教団に「強要」されるような事柄があったら、その時点で疑うべき(おっと、ごめん)でしょう。  ☆☆ (そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ べき   ☆ これを使わないというのであれば この質問に回答する意味がありません。あしからずご了承くださって ほかへ行ってください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしの見解のほうが妥当だという意味では必ずしもありません。一度目のわたしの指摘を無視したとわたしが受け取ったことが 問題であり問題とします。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.2

この質問と関連付けているようだから、前回の投稿に対しての「お礼」に対して、補足しておきたいと思います。   *   *   * >こころは入れ替わろうとしているが 口が入れ替わらないってわけか。 ◇自分のことのようで。いや、質問文だけでなく性根を完全に《ゆがめ》てしまってこころも入れ替わろうとしていないというですね。 > こんなことを言うのは ここでのやり取りを《言い争い》としか見ることの出来ない浮かれた人間 ◇そうですね、「言い争い」ではなく、「犯罪者の苦しい言い訳」と見るのが妥当でしょう。 >それを傍で見ているのもよしとのたまうくらあい人間よりも ◇「傍で見ている」のが、「くらあい人間」だということで。 > このごきぶりのほうがまだましだと見たからです。 ◇「この」は、私が「ほんとうにごきぶりみたいだね。」と、言った人間を指しているのですよね、とすれば、ごきぶりは自ずと質問者さんである ということになります。 > むろん――いつもように――これらの人びとも おおばかもののわたしよりはまだましでしょう。 ◇なるほど、つまり質問者さんはごきぶり以下ということで。 >なぜなら 根性がにぶいのか 暴れ方がわたしよりはおだやかだから。 ◇なるほど、「根性が鈍い」ほうが「おだやか」で、「まだましでしょう。」とのことで。 >へのかっぱばかりが増えたようだ。いにしえのスサノヲを見習うようにしなさい ◇なるほど、「へのかっぱばかりが増え」ているが、しかし「オレは破廉恥なことばかりしてきたスサノヲである」という定義をしているということで。   *   *   * >それとも このようにわたしが疑問をどこまでも追って問い求めることが  ◇1. >解釈を《ゆがめ》て いるのに、 「疑問をどこまでも追って」いると主張している、その精神が   ごきぶり(ふなむしでも可)である。  という解釈で問題ないでしょう。 > それとも それは織り込み済みなのか。 ◇1.で示したとおり。 > いちど伝えたように 上と下と捉えるのではなく 先と後と捉えるようにするといいだろう。 ◇いちど伝えた? いや、これは初めて見た文章ですね。「違う表現でこう言ったぢゃないか」という返事がきそうな気がしますが...  ぜひとも何処で伝えたのか、教えて欲しいですね。 ※連続投稿となりましたが、「できれば」補足とお礼はひとつにまとめてください。そのほうが見やすいので。  Ω  Ω  Ω  Ω  Ω  Ω  Ω  Ω  Ω >☆ 残念ながら あたらしいこころは この文章にしかない。そのほかは ただの決め込みである。理由が述べられていない。 ◇残念ながら、この文章に なにも理はない。新しいとか古いとかの問題ではないのは☆さる☆でも分かると思うのだが... >哲学の視点に《ゆがめ》たのではなく   「哲学の視点」で《ゆがめ》るというのは、どういうことなのか、述べられていない。まずそれを述べてから問いなさい。しかし、「哲学の視点でゆがめる」というのは、説明が難しそうですね。ご愁傷様です。 >しかも自分の能力と努力とでどうにかなるというものでもない。 ◇違うな、自分の意思で変えていくものです。とにかく、開き直るのはみっともない。 >自己表現をすすめていけばよいのです。 ◇迷惑です。 >その意味が少しは分かってきたのだろう? ◇質問者はアタマがぼけてきたようで。

bragelonne
質問者

補足

 こまったものですね。  ☆☆ こころが入れ替わろうとしている  ☆ のではなかったの?  ★ 犯罪者  ☆ 呼ばわりは 根拠を示さないと(示しても そんなことはふつう言わない) 名誉毀損であり誹謗・中傷でしかない。規約違反でもある。よく注意して述べなさい。  わたしの場合は これこれが《犯罪》の行為であると言うのみ。ひとを捉えて《犯罪者》だと言ったことはない。その違いも飲み込むべきでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇なるほど、「へのかっぱばかりが増え」ているが、しかし「オレは破廉恥なことばかりしてきたスサノヲである」という定義をしているということで。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これでいいよ。  ☆☆ しかも自分の能力と努力とでどうにかなるというものでもない。  ☆ おぎないます。  ○ しかも自分の能力と努力とで ≫最終的な結果において≪ どうにかなるというものでもない。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >自己表現をすすめていけばよいのです。  ◇ 迷惑です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは問題発言ですよ。すべてのひとが ここでもどこでも自己表現をしています。  どうやらあなたは今のまつりごとに満足しているという立ち場であるようですね。だから批判は歓迎なのですから ひとつづつ見解を述べるようにしてください。  わたしのこのような新しい見解が述べられることじたいに怒ってしまって ただただ引っ込めと言いたいわけなのですか?  それは 落ち目の側に立ち場があれば かなしくて行き場がないと感じてしまうでしょうが だとすると この理論としての空論も そうとう現実的だということになるようですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.1

 とにかく、質問者さんが今の状況を改善し、生活や人間関係や仕事のことなどに対しての不満や恐れなどがなくなれば、「返しなさい」とか「こうしなさい」とか「こうすべきだ」とか言わなくてすむようになるのではないかな?  今質問者さんがすべきことは、ここで主義主張を述べたり賛同者を得ることではなく、自分の生活環境、人間関係など自分に関することを周りの人に「こうしてください」「こうすべきではないですか」と言う方が良いのではないかと、思うのです。もちろん、その前に自分が変わるのが先決です。しかし、もう完全に《ゆが》んでしまったのであれば、他者を変えようとするしかない、しかしそれだと「実ら」ないことは明白ですが。 >ただし 解釈を《ゆがめ》て 哲学の視点から問います。 ◇いえ、《ゆがめ》るのは「哲学の視点」ではないでしょう。  とにかく、《ゆがめ》ないでください、なんでもありではありませんから。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇いえ、《ゆがめ》るのは「哲学の視点」ではないでしょう。  とにかく、《ゆがめ》ないでください、なんでもありではありませんから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 残念ながら あたらしいこころは この文章にしかない。そのほかは ただの決め込みである。理由が述べられていない。  ただしこの部分でもその理由は書かれていない。哲学の視点に《ゆがめ》たのではなく まったくだめにしてしまったという意味で歪めたというのであれば その理由を述べなさい。  そうでないと回答にならない。  ★ 他者を変えようとするしかない  ☆ たしかに言ってみれば人間革命ではあるが それは自分が自分で変えるしかないことであるし しかも自分の能力と努力とでどうにかなるというものでもない。したがって 要は 自己表現をすすめていけばよいのです。  一般に重要な主題については――前史を変えようとするのですから―― 批判は多いし大きいものであるはずです。  批判――は大歓迎なのですから――というものをしっかりときちんと述べるようにしなさい。その意味が少しは分かってきたのだろう?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    まづ信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。 要するに《現人神なり》と言っています。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。 けっきょく なぜ ゆるされているのですか。

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

  • 聖書とは 何か?

     関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。  初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。  むろん哲学としての問いです。  たたき台としては:  (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。  (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。  (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。  (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。    (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。    (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。  (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。  (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。  (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。  (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。  (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。  ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。

  • 神とは何ですか?

    902さんの質問「神は死んだ。」のなかで神の定義が話題になっています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=75125 「神を信じますか」という問いは、よくもちだされますが、問う人も 問われる人も、神という言葉の意味・定義・解釈・語感が、まったく まちまちであるという感想を昔から持っていました。 皆さん、神とは何だと思われますか。 学問的な答え、個人的な考え、もちろん宗教的な教えも、 なんでもいいです。いろいろ聞かせてください。

  • わたしが神様だったら

    世界には様々な宗教がありますが、私は最近、神を信じている人が多いということに疑問を抱くようになりました。 人間は、答えがほしいけれども見つからないので、全知全能の神を創造し、不安感を埋めるために神を信じるのではないかと、私は解釈しています。 神は人間に自由意志を与えたそうです。それは神の愛なのだそうです。 私がもし神なら、人間が安心して暮らせるような、ある程度の規制をする。 戦争で罪のない人が死んでしまうような現在の世界では、自由意志のない人がいる。 そんな世界なんて、私が神だったら作らない、と思っていました。 先日、このようなことをキリスト教を信仰している方に伝えると、「言っている事がよく分からない」と言われました。 そんな時、チャットモンチーの「世界が終わる夜に」という曲を聴きました。 「わたしが神様だったらこんな世界は作らなかった」という歌詞があります。 あなたが神様だったらどのような世界を創造しますか? あなたの理想の世界を教えてください。 また、宗教を信仰している方や神を信じている方がこの曲を聴くと、どのように感じるのでしょうか。 思ったことを教えてください。 視聴 http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1584525&GOODS_SORT_CD=101 http://www.chatmonchy.com/disco/index.html 歌詞 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02270

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • 神道の神様は英語で

    神道の神様は、八百万の神と言うだけあって沢山いますよね。 アメリカ人に、日本には800万の神様(god)がいると説明したら、 「800万人それぞれが違う神様を信仰しているのか?」と驚かれました。 ※実際には、私は八百万とは「沢山」と言う意味だということは承知していますが(笑) 恐らく、アメリカ人は、1宗教につき1神しかいないと、考えるからだと思います。つまり日本には800万通りの宗教があると解釈したのでしょう。 そこで、日本のような多神教の神はどのように表現したらよいでしょうか。

  • 技術の発展と神への挑戦

    抽象的な表現、宗教も絡んだ内容で大変恐縮なのですが、質問させて下さい。 私個人としては、技術の発展・社会の発展は、神話や宗教の中で度々神への挑戦として戒められているように思ってます。 バベルの塔などが良い例で、下記の記事を見ると技術の発展は神からの怒りを買ってしまうのではないかとドキリとするのです(ちなみに私はこんな事を書いておきながら仏教徒です)。 http://japan.cnet.com/news/com/story/0,2000056021,20060011,00.htm 技術を発展させてはいけないのではないかという自制が働く事に関して、何とか自分の中で折り合いをつけて消化したいのですが、先人達がこのような事に対してどう思っていたのか知りたかったので質問させて頂きました。 ・宗教上の理由から抵抗はあったのか ・それともなかったのか ・理由をつけたり、解釈を添える事により消化したのか などなど・・・。 ガリレイは宗教の信仰心よりも、自らの理論への確信が大きかったが為に地動説を唱えたのだと思っています。その時に自分の中に抵抗は無かったかどうかという所も気になる所ですが・・・話しがそれました。 上記以外にも、現在のアメリカで宗教上の理由から電気・ガスを使わない村があったり、究極的にはエホバの証人は信仰の時間を学習に充てる事を憚れる為進学ができないという部分もあったりします。 逆にユダヤのタルムードでは、教育こそが大事だと言っていますね。 こうした宗教の信仰と科学の発展について、科学史から見た宗教上の葛藤や解釈(神は人に対して「世に満ちよ」と言ったのだから、その手段としての科学的発展は認められる)などの例、あるいはこれらを上手く体系的にまとめたり、思想として固められているような書籍等、ご教授頂ければ幸いです。 また何か思う所などございましたら、「技術の発展に抵抗はあるかどうか」などについてのご意見などもお待ちしております。 宜しくお願い致します。

  • 再考: 《神は死んだ》か?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

  • 《アルケーの神と一体となる》ことは・・・

     一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。  つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。  《真理は きみたちを自由にする》と。   ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか?  これが問いです。  《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。  つまり この問いに対して   □ 断じて 見返りではない。  という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?