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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

このQ&Aのポイント
  • 信仰とまつりごとの関係についての哲学的な解釈を求める質問です。
  • まつりごとは社会の経験行為であり、信仰は内面の問題とされます。
  • カエサルのものはカエサルに返すべきであり、神のものは神に返すべきであるという見解について考えられます。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#135843
noname#135843
回答No.3

 こんばんは、Hidocchiです。何かのご参考になればと思い、筆を取らせていただきました。 > (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。 > (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ 社会全般のにしろ 生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。  (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。  愚生は、自由にも、 ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  しかし、例外もあったろうかと推察しております。それは、生存(生命としての極限状態)にかかることでございます。つまり、天候の不具合が長期的に続き、大飢饉の中、かろうじて生き残った人たちにとりましては、一体感があったものと推察しております。このような状況下では、“感謝”という感情的部分が優先してしまい、理性的判断はなされなかったであろうとの推察からでございます。  また、いわゆる“感謝祭”なるものも、実情からは離れ、経験(歴史)の積み重ねから形式化してしまったものもあろうかと存じます。 > (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  厳密には、不可能と解しております。上記理由からでございます。 > (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか? 「マタイ22:15-22、/ マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26」  共通点としまして、税金に関わる問題かと思われます。つきましては、単純に“納税”のことと割り切るならば、その義務を国民が自らに課しているため(憲30条)、各自の社会的役目を果たそうという責任間・使命感だけの問題なろうかと思われます。  ただ、懸念事項もございます。以下は郷原氏の著作からでございますが、 ・この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。たとえば、市民と弁護士とを結ぼうとする企画を種々しているのだそうですが(市民の法律意識を高めるのが目的だそうです)、実際のところは、利用例は限られているようです。例えば、司法試験の改正により、多くの弁護士が輩出されているとのことですが、市民はあまり利用していない状況にあるそうです。 http://secondlife.yahoo.co.jp/supporter/article/Xm0R_CuANk9j1rcBDQ--/2772/   つまり、これらのシステムも“誰にも望まれていない制度”になってしまった観がございます。そもそも、今までが、“お上”志向でしたので、弁護士との付き合い方自体すら知らないのかもしれません(こちらは愚見でございます)。 ・無批判に盲信する現在の社会では、お上、メディアからの発言に、水戸黄門の印籠なるものを渡してしまっていること。  司法、メディアとの歴史的、風土的関係の結果からだと推察しております(愚見でございます)。 ・国民裁判員制度(4章 「官」「民」の裁判員制度推進の理由の違い からです)についての制度理由からです  この裁判員制度がどのような理由からできたのかの説明を郷原氏は説明しております。2つの内1つは、日弁連(「民」)の意向です。つまり、日本の刑事裁判は、すべての案件のうち99%が有罪になっているため、市民参加によりその是正を図ろうというものです。  もう一方は、国の意向です。この理由に関しましては、郷原氏(元検事)も詳細はわからないと述べています。ただ、推測として「司法に対する国民の理解と信頼につながる」とのべ、「司法」を理解・信頼してくれない現状を改善させるのが狙いだろうとのことです。極論を申しますと、「国民から選ばれた裁判員がこう判断した」という大義名分があれば,たとえそれが、後ほど、冤罪であったと判明しても、国民が選んだのだという言い訳が立つということでございます。 郷原 信郎著「思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本」講談社  ご参考になるところがあれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  (ω‐1~3)については 補強して確認していただきました。  (ω‐5)については 実情や実態について――やや心理的な側面であるようにも思いましたが――人びとの現実を指摘し分析したものをおしえていただきました。  強いて言えばこの(ω‐5)の現代日本人の現状について それは(ω‐4)の問題がからんでいるか――また(ω‐4)の分析じたいの正否の吟味を含めてですが―― これをうけたまわれればよかったかなとは思います。  そしてそれとともに歴史的な展望でしょうか。そういった方面にも伸びるのではないかとは思っております。  現代日本人の現状は おおまかに言って わたくしも  ★ この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。  ☆ と見方を同じくします。そしてすべてを端折って言ってしまうなら いづれどこかで 何らかのきっかけを得て この《お二階さんコンプレックス》は どんでん返しという事態を迎えるかも知れない。こうも思っております。特にその根拠はありません。予感です。  (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  ☆ について  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  愚生は、自由にも、  ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と  ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということが明確に確認できたならば ムラのまつりにおける神社とのかかわりも 問題になるかも知れません。ただ――と言うのもおかしな言い草ですが―― 日本人のあいだでは 神社であっても 内面の信仰には誰も触れないという暗黙の前提があるのかも分かりません。きちんと分かれていて 問題無しとなるのかも分かりません。  ★ 裁判員制  ☆ につきましては いちど《朝まで生テレビ》で取り上げていて聞いていました。意外とあまり意味や効果がないという意見も多かったようでした。いろんな事件を取り上げるのがよいなどの意見でした。そして殺人事件にかんしては やはり法律についての素人は素人すぎるのではないかでした。  うけたまわるだけで 議論を伸ばせられなくて残念です。  ★ 納税  ☆ にかんしましては その使い道について一般市民納税者がどこまで関与することができるか。これがさしあたっての課題でしょうか。あるいは政治家を介しての間接的な関与ということになるでしょうか。  (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  ☆ について  ★ まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。  ☆ と回答していただいたわけですが この為政者を介してかどうかを別として 《宗教団体に対して国民が縛りをかける》という側面については どうなんでしょうか。一たん自由意志において入会したなら 退会するのでない限り その組織内でのやり取りは 信仰内面の論議であっても 自由であるということになるでしょうか? これは前質問を受けての課題です。  ありがとうございました。  * それにしても 郷原さんのタイトルは 《思考停止社会》ですか。言いますねぇ。

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その他の回答 (90)

noname#131234
noname#131234
回答No.51

えっわわたしもですww。 ますますなぞww。 われわれは?

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  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.50

 あ、それから私は酒を飲まない(飲めない)んですよ♪よろしく。

bragelonne
質問者

お礼

 なおわるい。

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  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.49

 訂正: 誤:◇8.これは読み違いです. No45と46を良くみれば分かります. 正:◇8.これは読み違いです. No44と45を良くみれば分かります. *   *   *   *   *   *   *   *   *   * β1.くだを巻いているのみ。よって却下します。 ◇1.上記の「訂正」を見直し、「くだを巻いているのみ」かどうか、もう一度吟味してみてください。 β2. ☆ ただしわたしは 裁判官でも警察官でもない。原告でもない。被告扱いは これも 却下します。 ◇2.分かった、では却下を認める。 β3.★ ◇8.内容についての発言ではなく、「消えろ」という誹謗中傷に対しての対応としては妥当でしょう。  ☆ 弁明も要らないよ。 ◇3.弁明ではなく、「解説」もしくは「説明」と理解してください。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ (No.54) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  β2.要するに 論理がきわめて曖昧であり 整合性を捉えないで勝手に多義的に解釈できるようになっている。  ◇2.ですので、「勘違い」ではなく「多義的」に解釈できるということです.  β3.この確認までです。  ◇3.誤確認終了と言うことで。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《「多義的」に解釈できるということです》というふうに自己弁明しておいて ――ただしその弁明は《整合性》を修復していないからには通らないが―― そのあと 《多義的な解釈をゆるす文章であるという確認》を――それはわたし( brag. )の文章だからというので 《誤確認》だと言って否定している。つまり 弁明のために用いた確認内容をみづからが否定している。  これは 《くだを巻いている》どころのさわぎではない。それ以上の破廉恥である。  ★ ◇2.分かった、では却下を認める。  ☆ この言い草では 何も相手に伝えられないと知りなさい。話し合いになっていません。分かりましたか。  ただしわたしは たとえあなたが人間不信に陥っていたとしても その責任をもう感じないと決めました。そういうことです。

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  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.48

β1.次の文章の読みについて見直します。 ◇.他者の解釈の「読みについて見直します」とのことで。 β2.要するに 論理がきわめて曖昧であり 整合性を捉えないで勝手に多義的に解釈できるようになっている。 ◇2.ですので、「勘違い」ではなく「多義的」に解釈できるということです. β3.この確認までです。 ◇3.誤確認終了と言うことで。 β4.それでは重箱の隅をつつきましょう。 ◇4.まともな、建設的な会話をするつもりがないと判断しました。 β5.★ ◇自分の言葉でないなら、誰をも導くことは出来ないはず。    ☆ この一文は あくまでヨハネ福音の引用をめぐって出た言葉ですから 《引用するかしないか》が問題です。 ◇5.「この一文」は「あくまでヨハネ福音の引用をめぐって出た言葉」ではなく、引用を「そのまま」用いたことに対しての指摘です。  従って β6.しかるに ◇6. 以降の論理展開は全て却下となります。 β7.《サトゥルヌス》の例の回答について それをめぐってのやり取りは傑作でした。 ◇7.自分の窮状をごまかし、優位性を第三者にアピールし、錯覚させるための「傑作」発言であると認識しました。 β8. つねに★ 在り様☆ だけで話をしようというわけですね。 ◇8.内容についての発言ではなく、「消えろ」という誹謗中傷に対しての対応としては妥当でしょう。  被告の審議し直し。弁明があるなら聞こう。

bragelonne
質問者

お礼

 くだを巻いているのみ。よって却下します。  ★ ◇8.内容についての発言ではなく、「消えろ」という誹謗中傷に対しての対応としては妥当でしょう。  ☆ ただしわたしは 裁判官でも警察官でもない。原告でもない。  被告扱いは これも 却下します。  ★ ◇8.内容についての発言ではなく、「消えろ」という誹謗中傷に対しての対応としては妥当でしょう。  ☆ 弁明も要らないよ。

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noname#135843
noname#135843
回答No.47

こんばんは、夜分恐れ入ります。Hidocchiです。   > 思いつつそれでも前へ進んで行きたい。こういう腹積もりです。  今後とも、よろしくお願い申し上げます。 > 何だか地味な議論になってしまったかなという思いもありますが 信仰と宗教との区別・峻別という主題について 信仰内面を重んじるという命題をもって ひとまづの結論としましてもよろしいでしょうか。  憂鬱感を覚えてしまう内容となってしまい、誠に申し訳ございませんでした。  ひとまづは、結論としてくださる件につきましては、愚生と致しましては、一向に問題はございません。  また、再度ご質問者様のスレッドの立ち上げを 期待しつつ、愚生の回答なるものも、結びとさせて頂きたく存じます。  それでは、どうもお疲れ様でございました。  Hidocchi拝

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ Hidocchi さん ごめんなさい。  《見苦しくなっているやり取り》と《何だか地味な議論になってしまったかに感じる》のとは まったく別のやり取りのことです。御察しください。  しかも《地味な》というのも 何だか変ですね。変でした。内面の必ずしもただちに捉えうるとは言えないところのこころをめぐってのことで 何だか命題を発するには衝撃力が薄いみたい と思ったものですから 書いてしまいました。  むろんここでさらに突っ込んでいただいてもいいですし Hidocchi さんご自身が質問を立ちあげられてもよいでしょうし まったく自由だと思います。  とにかく 変な質疑応答――御察しください――が 部分的にできてしまったとの感を Hidocchi さんに〔ご返答を求めるというのではなく〕吐露してしまったというのが 実際でした。  この主題は ほかの国の人びとではなく日本人として 何か特徴的な回答が得られるのではないかと初めに予想したものですから このところで地味なという言葉が出てしまったようです。じっさいわたしも Hidocchi さんとともに問い求めた以上のことが得られていません。  一筋縄では行かないと言いますか 社会の政治から経済からいろんな分野や側面がからんでいつつ そう見える割りには それでいて 信仰内面を重んじよという一点を推し進めるかたちになる。何だかあっけないような感じがしませんか? あっ 信仰と宗教の関係という分野にわたしが限定したからでしたか。  でも その限定した理由は ほかの分野では 結社の自由と思想の自由などのせめぎ合いは 一般に相対的なあたかも程度問題であるかのような主張内容が互いに綱引きをすると思われたからでした。それは 具体的な社会学法学経済学等々に固有の課題として 後回しにしてもよいのではないかと考えたのでした。  これの見直しが必要でしょうか?   ううーん。だとしても 信仰内面の問題は そこではあまり関係して来ないようにも思いますが。  あっ それと《今回は》と書きましたのは 《今回のご回答につきましては》です。この質問じたいではないのです。  ただし 現段階の結論が得られたと思われることも 実際ですけれど。  ふらふらして来ましたが 曖昧さをお詫びして思いと実際の事実関係をお伝えしました。

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noname#135843
noname#135843
回答No.46

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ☆ あぁ そういう含みなのでしたか。逆に言うと・そして極論して言うと 信仰がなければ個人は互いに――社会の全体的な観点からは―― 《〈掛け替え〉が効く》とさえ見られる方向へ片寄るのかも知れません。と思いました。  誤解を恐れずに申しますと、「そのひとにとって、かけがえのない信仰心」がなければ、仰るとおりかと存じます。 > No.34の回答者様が「哀れみを覚えた場合はどうですか?」との記述を見た際に、ふと次の言葉が頭をよぎりました。  ルカ 23章28節 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」  申し訳ございません。説明不足でございました。 (1) 今の日本は危機的状況 (2) 「哀れみを覚えた場合はどうですか?」と他の回答者様(たぶん、お若い方かと存じます)  これらを重ねて合わせてみた印象と致しまして、 「哀れみを覚える」 → 「むしろ、自分たちの子供たちに哀れみを覚えるだろう」  と解釈してしまった訳でございます。    鳩山総理に就任演説がございましたが、「博愛」という言葉を発しておられましたが、とにかく期待をしたいと思っております。特に、一般国民にはあまりいい印象が持たれていない亀井氏(以外と面白い経歴の持ち主です。以下のサイトをご参照くださいませ)には、金融大臣としての任を全うしてもらいたいと願っております(この不景気からくる閉塞感には、日本国民も辟易しているかと思っております)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E9%9D%99%E9%A6%99   ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。    これまでは多少見苦しくても 必要で大事なやり取りだと思っていたのですが ここまで来ると 十割もろとも見苦しい質疑応答の場になってしまいました。  まぁ こうなっても へとも思っていないわたしがいますが ときは貴重であると思っていますし 思いつつそれでも前へ進んで行きたい。こういう腹積もりです。  何だか地味な議論になってしまったかなという思いもありますが 信仰と宗教との区別・峻別という主題について 信仰内面を重んじるという命題をもって ひとまづの結論としましてもよろしいでしょうか。  きょうかきのうかの新聞記事では 中国では宗教の自由がいくぶん緩められ認められそうだと言います。でもわたしたちはいま 宗教団体の・信仰をめぐる自己矛盾を問うています。  ★ 「哀れみを覚える」 → 「むしろ、自分たちの子供たちに哀れみを覚えるだろう」  ☆ 若い人びと そしてさらに新しい世代 これについては日ごろ特に意識していませんが それもこれもいまをしっかりと生きるという考えです。根源的に批判をしてまいりたいと思っています。  新政権にはわたしも  ★ とにかく期待をしたいと思っております。  ☆ 亀井静香の 中小企業の金融面での援助は方向性として また考えとして そういう発言が出てくるのは いいことだと思ったことを覚えています。  自助の精神を それに対しては説いて反対するのですが 大企業や金融機関に対しては 自助を超えて援助するわけですから 何らかの施策があたらしく施されてしかるべきだと思いました。(具体的な政策について それほど考えたわけではないので この程度です)。  それよりも やはり小沢一郎の存在は やや疑問の方向に傾きます わたしは。すでに過去の政治家だと思って来ましたから いまさらどうなのかというところですが 考えてみますと どうも感覚的な嫌悪感によるというあやふやな見方であるようです。こう白状せざるを得ないようです。  聖書の関連で 社会哲学ないし社会思想にかかわるような主題を持つものについて もっとお聞きしたい感じですね。  今回はこのようです。

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  • SOLAR_RAY
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回答No.45

β.SOLAR_RAYさんよ、いい加減に消えろや! α.ごきぶりが「太陽光線がまぶしいんですけど」ガサゴソ...チョロチョロ... ということのようです。  おまえが消えろ、ごきぶり。

bragelonne
質問者

お礼

 つねに  ★ 在り様  ☆ だけで話をしようというわけですね。

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  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.44

訂正: 誤:それに、仮に誰かが(お)であったとして、bragelonne君が「自分の言葉」で 他者に説教できるとは思えないんですけど(失礼)。 正:それに、仮に誰かが(え)であったとして、bragelonne君が「自分の言葉」で 他者に説教できるとは思えないんですけど(失礼)。 補足: β12. ★(え) 「キリストはその活動においては徹底的な現実主義だっただろう。」  ☆ と答えることができるあなたと ◇12.「キリストは~だっただろう」と思うのは、聖書など読んだことなどなくても、今現在に生き、この場で生きている人であればだれでもそうだろうと思うのだが...

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 正:それに、仮に誰かが(え)であったとして、bragelonne君が「自分の言葉」で 他者に説教できるとは思えないんですけど(失礼)。  ☆ これについては No.48の補足欄をみてください。文脈が違って来ているから 見解も行き違っている。つまり そのまままともに応答できないというのが 実際です。  ★ ◇12.「キリストは~だっただろう」と思うのは、聖書など読んだことなどなくても、今現在に生き、この場で生きている人であればだれでもそうだろうと思うのだが...  ☆ そういう見方は ふつう持たれている見方だとわたしも考えます。ゆえに――ゆえにです ゆえに―― 聖書になじんでいない人に対しての場合にも 必要で適切なものだと判断したなら 引用することもある。こう考えられますし その意味で採ったわたしの行動であったわけです。  だったら 初めから 一般的な話としてなら 聖書を引いても 互いに議論をすることができるという一面も 言っておくとよかったでしょう。少々細かい文章の引用となったとしても その話を一般化して述べるなら ほとんど差し障りもないと考えられます。  もしわたしが提示した引用箇所が 専門的で特殊な内容だったなら それは その提示の目的が特殊だったということです。すでに二つ三つ前のやり取りで説明をしていますが 引用だけの聖書の文章を提示して それだけで反応してくれたらいいがという特殊な場合であったわけです。これを一般化して話の土俵を別のほうへ持っていかないように願いたいです。

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noname#96955
noname#96955
回答No.43

SOLAR_RAYさんよ、いい加減に消えろや!

bragelonne
質問者

お礼

 ★ いい加減  ☆ という言葉には 考えさせられるものがあります。  初めっからのやり取りを見直してみることができますし いまどういう考え方や態度で対話に臨んでいるか これを省みることができます。  わたしも 細かいことがらについては まだだと思って 批判をして来なかったです。このところやっと 批判らしい批判をすることができるようになっています。  さて それで どうなりますか。

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  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.42

◇ ことばをそのままでしか受け取れないのは良いことなのか 悪いことなのか... 説明:  ◇自分の言葉でないなら、誰をも導くことは出来ないはず。  ↑この文を、  ◇改「自分の言葉として語れないなら、誰をも導くことは出来ないはず。」と読めなかったことで感じた感慨です。  もちろん、引用しても納得させることができる場合もあるでしょう。しかし、それは相手はキリスト教信者である場合に限定したほうが良いでしょう。  もう一点。その場合においても、引用だけを提示し、「あとは自分で考えなさい」「これでどうだ」と言うのは明らかに「ゆるゆる」の自己欺瞞でしょう。

bragelonne
質問者

補足

 それでは重箱の隅をつつきましょう。  ★ ◇自分の言葉でないなら、誰をも導くことは出来ないはず。  ☆ この一文は あくまでヨハネ福音の引用をめぐって出た言葉ですから 《引用するかしないか》が問題です。しかるに  ★ この文を、◇改「自分の言葉として語れないなら、誰をも導くことは出来ないはず。」と読めなかったことで感じた感慨です。  ☆ というのは すでに文章一般について判断を及ぼすかたちです。土俵が違ってきています。  その違ってきた土俵を受けてですが  ★ もちろん、引用しても納得させることができる場合もあるでしょう。しかし、それは相手はキリスト教信者である場合に限定したほうが良いでしょう。  ☆ これは これも 一概に決めることは出来ないというのが 正解でしょう。  ★ キリスト教信者  ☆ という規定が たぶん問題であるのでしょう。むしろそのようにいわゆるクリスチャンの場合には 聖書の引用とその解釈において 一般的に言って決まった型があるので それはむしろ逆に《納得させることができない場合》が多いと見る見方もできそうです。  ひとことで言えば 《模範的》なクリスチャンの場合 信仰が 道徳規範とその実践というかたちに成ってしまっているかに感じられます。つまり信仰ではなくなっているということです。信念あるいは倫理つまりは道徳というものになってしまっている。こう見ます。  そういう問題があると 少なくともわたしは見ています。ということで 見解をぶつけました。  ★ もう一点。その場合においても、引用だけを提示し、「あとは自分で考えなさい」「これでどうだ」と言うのは明らかに「ゆるゆる」の自己欺瞞でしょう。  ☆ ひとつに 《自己欺瞞》というのは 自分の生活態度において成り立っていない場合を言うはずです。成り立っていたなら たとえ《引用だけを提示》する場合でも 対話をすすめれば とうぜん明らかにしていけます。  わたしが《引用だけを提示し》たのは それだけを読んで 反発をおぼえ ちからが出るだろうと踏んだものです。そのときの一回きりと言っていい特殊な場合です。  そういう文脈を踏まえて 話を交わすのでないと なかなか対話は進みません。  誰もにとってもの教訓:相手の文章については その土俵や文脈を踏まえて読み 応答するようにしましょう。  《サトゥルヌス》の例の回答について それをめぐってのやり取りは傑作でした。

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    世界には様々な宗教がありますが、私は最近、神を信じている人が多いということに疑問を抱くようになりました。 人間は、答えがほしいけれども見つからないので、全知全能の神を創造し、不安感を埋めるために神を信じるのではないかと、私は解釈しています。 神は人間に自由意志を与えたそうです。それは神の愛なのだそうです。 私がもし神なら、人間が安心して暮らせるような、ある程度の規制をする。 戦争で罪のない人が死んでしまうような現在の世界では、自由意志のない人がいる。 そんな世界なんて、私が神だったら作らない、と思っていました。 先日、このようなことをキリスト教を信仰している方に伝えると、「言っている事がよく分からない」と言われました。 そんな時、チャットモンチーの「世界が終わる夜に」という曲を聴きました。 「わたしが神様だったらこんな世界は作らなかった」という歌詞があります。 あなたが神様だったらどのような世界を創造しますか? あなたの理想の世界を教えてください。 また、宗教を信仰している方や神を信じている方がこの曲を聴くと、どのように感じるのでしょうか。 思ったことを教えてください。 視聴 http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1584525&GOODS_SORT_CD=101 http://www.chatmonchy.com/disco/index.html 歌詞 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02270

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • 神道の神様は英語で

    神道の神様は、八百万の神と言うだけあって沢山いますよね。 アメリカ人に、日本には800万の神様(god)がいると説明したら、 「800万人それぞれが違う神様を信仰しているのか?」と驚かれました。 ※実際には、私は八百万とは「沢山」と言う意味だということは承知していますが(笑) 恐らく、アメリカ人は、1宗教につき1神しかいないと、考えるからだと思います。つまり日本には800万通りの宗教があると解釈したのでしょう。 そこで、日本のような多神教の神はどのように表現したらよいでしょうか。

  • 技術の発展と神への挑戦

    抽象的な表現、宗教も絡んだ内容で大変恐縮なのですが、質問させて下さい。 私個人としては、技術の発展・社会の発展は、神話や宗教の中で度々神への挑戦として戒められているように思ってます。 バベルの塔などが良い例で、下記の記事を見ると技術の発展は神からの怒りを買ってしまうのではないかとドキリとするのです(ちなみに私はこんな事を書いておきながら仏教徒です)。 http://japan.cnet.com/news/com/story/0,2000056021,20060011,00.htm 技術を発展させてはいけないのではないかという自制が働く事に関して、何とか自分の中で折り合いをつけて消化したいのですが、先人達がこのような事に対してどう思っていたのか知りたかったので質問させて頂きました。 ・宗教上の理由から抵抗はあったのか ・それともなかったのか ・理由をつけたり、解釈を添える事により消化したのか などなど・・・。 ガリレイは宗教の信仰心よりも、自らの理論への確信が大きかったが為に地動説を唱えたのだと思っています。その時に自分の中に抵抗は無かったかどうかという所も気になる所ですが・・・話しがそれました。 上記以外にも、現在のアメリカで宗教上の理由から電気・ガスを使わない村があったり、究極的にはエホバの証人は信仰の時間を学習に充てる事を憚れる為進学ができないという部分もあったりします。 逆にユダヤのタルムードでは、教育こそが大事だと言っていますね。 こうした宗教の信仰と科学の発展について、科学史から見た宗教上の葛藤や解釈(神は人に対して「世に満ちよ」と言ったのだから、その手段としての科学的発展は認められる)などの例、あるいはこれらを上手く体系的にまとめたり、思想として固められているような書籍等、ご教授頂ければ幸いです。 また何か思う所などございましたら、「技術の発展に抵抗はあるかどうか」などについてのご意見などもお待ちしております。 宜しくお願い致します。

  • 再考: 《神は死んだ》か?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

  • 《アルケーの神と一体となる》ことは・・・

     一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。  つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。  《真理は きみたちを自由にする》と。   ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか?  これが問いです。  《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。  つまり この問いに対して   □ 断じて 見返りではない。  という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?