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再考: 《神は死んだ》か?

 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

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回答No.1

ニイチェに言わせれば、「神が死んだ」から「ニヒリズム」が訪れたのではなく、逆で、神がいたから「ニヒリズム」だったのです。 最初から神なんかいなくて「ニヒル」だったのに、つまり虚無だったのに、それをキリスト教はイエス・キリストの物語で私たちの人生が、あたかも意味があるかのように覆い隠し、「隠ぺい」してきました。 自分が聖書の中の世界の登場人物のように思いなして、人生の真実を直視するのを回避し、それを物語で誤魔化してきた、それが西欧の歴史です。 プラトンが私たちの住む世界の上に「イデア」という最高価値が君臨していて、その「イデア」こそ真の実在で、私たちの住む世界を仮象だといって転倒してより、この世界の上に超・感性的な世界、ニイチェのいう言葉でいえば「背後世界」があると称し、人生の価値はその「背後世界」に由来するものだといってきました。 中世の初期、あるいは古代末期のアウグスティヌスはユダヤ・キリスト教の神による世界創造という「ドグマ」にプラトンの「イデア」を適用し、その結果「イデア」は神になりました。 このような私たちの感性的世界の上に超・感性的な世界が君臨し、その超・感性的な世界から私たちの感性的世界を眺めるのを古来、「形而上学」と呼びならわしてきました。 だから、西欧の哲学の歴史は「形而上学」の歴史であるとともに「神学」の歴史です。 ところが17世紀、ガリレオやデカルトやニュートンによって「科学革命」が起こり、それまでのアリストテレスの「自然学」とそれに基づくプトレマイオスの天体論・宇宙論がひっくり返されると人々は世界というものを科学的・合理的に考えるようになり、この世界から神を追放してゆきました。 この「科学革命」の延長線に出てきたのが、ニイチェによる「神は死んだ」という宣言です。 それはキリスト教の神が死んだといったばかりではなく、プラトン以来の「形而上学」と「神学」の歴史が終わったということを言ったものです。 ニイチェに言わせればキリスト教は「ニヒリズム」の宗教です。 本当は人生に何も意味がなく虚無なのに、それを直視せず、目を背けて、イエス・キリストの物語で「隠ぺい」してきました。 それが、たまたまキリスト教に対する信仰が衰退したために「ニヒリズム」が訪れたように勘違いしているにすぎない。 もう一度言えば、神がいなくなったから「ニヒリズム」がやってきたのではなく、神がいたから「ニヒリズム」だったのです。 ニイチエは新しい時代は従来の価値、しかも最高価値を転換しなければならない、といいます。 それが「意志」です。 「意志」こそが新しい時代の価値でなければならない。 「意志」は力の増大と拡張のみを目的とします。 キリスト教は弱者の宗教で、意志の強化どころか弱体化をもたらす「ルサンチマン(嫉妬・憎悪)」の宗教。 だからキリスト教は打倒しなければならない。 「意志」は目的を持たない、アリストテレスの目的論の否定です。 この世界に、この宇宙にそれが存在するいかなる意味もない、目的もない。 無意味が永遠に回帰する、むしろ無意味を積極的に希求する、それが「永遠回帰」の思想。 人生のこの瞬間、その「今」が無意味に永遠に繰り返したとしても、それを絶対的に肯定して生きる、それが新しい時代の価値観でなければならない。 この世界を超えた超・感性的ないかなる価値もないのだから、当然そうなります。 感性だけしかない、感性を超えたいかなる価値もないというのですから。 ニイチェはこれによってプラトン以来の「形而上学」を葬りました。 プラトンが抽象的な「イデア論」によって感性的なものの価値をひっくり返して超・感性的な価値こそ真の実在といってより、2500年の西欧の哲学の歴史、それは同時に「形而上学「「神学」の歴史でしたが、それをニイチェは最終的に葬ったことになります。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  (ひ)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ところが17世紀、ガリレオやデカルトやニュートンによって「科学革命」が起こり、それまでのアリストテレスの「自然学」とそれに基づくプトレマイオスの天体論・宇宙論がひっくり返されると人々は世界というものを科学的・合理的に考えるようになり、この世界から神を追放してゆきました。  この「科学革命」の延長線に出てきたのが、ニイチェによる「神は死んだ」という宣言です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。あえて言えば《科学革命》は すでに古代人にあっても起こっていたと思うのです。  (ふ) たとえばアウグスティヌスによるならば文章で明示的にこそ書いていないでしょうが たとえばイエス・キリストの母マリアについて   【Q:聖母マリアは 聖霊と精子との両方により身ごもった】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8395100.html  というくらいの認識は持っていたと考えられます。聖霊によっても身もごり 許婚のヨセフとの交渉によっても身ごもったという意味です。  (へ)★ この世界から神を追放してゆきました  ☆ それは 妥当なことです。つまり この《考える・感じる》の経験世界から 《非経験の場》なる神を区別することはマチガイではありません。言いかえると それまでは 例の形而上学のあしき系譜によって 《考えられた観念の神》が人びとのアタマの中にこびりついていた。こういうことだったわけです。  (ほ)  ★ それはキリスト教の神が死んだといったばかりではなく、プラトン以来の「形而上学」と「神学」の歴史が終わったということを言ったものです。  ☆ すなわち 人びとがクリスチアニズムの神と言っていたのは あくまで形而上学とそれと同じたぐいの神学によってあくまで《考える》ことをとおして持つに到った神――すなわち 《観念の神》つまり ことばだけの神――をあたまに抱いていた。ことを意味する。つまりは 神は 非経験の場として しかるべき位置づけを得る準備がととのった。  (ま)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ニイチェに言わせればキリスト教は「ニヒリズム」の宗教です。  本当は人生に何も意味がなく虚無なのに、それを直視せず、目を背けて、イエス・キリストの物語で「隠ぺい」してきました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここが わたしには分かりません。たとえば  ☆☆ (く) 《人生に意味が無い》ことと《人生は虚無である》こととは 同じではないのではないでしょうか?  ☆ この(く)の命題が 反駁されないかぎり この(へ)の結論は 飲めません。飛躍があり過ぎます。  (み)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  それが、たまたまキリスト教に対する信仰が衰退したために「ニヒリズム」が訪れたように勘違いしているにすぎない。  もう一度言えば、神がいなくなったから「ニヒリズム」がやってきたのではなく、神がいたから「ニヒリズム」だったのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが 最初の(か)(き)ですが まだその入り口で足踏みをしています。《信仰が衰えた》のではなく それは《頭の中に理性で抱いている観念の神が――それは けっきょく理性でこしらえた時点で死んだ神であるのですから――死んだ》というに過ぎないでしょう。ニヒリズムとの関連は まだ分かりません。 (む)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   ニイチエは新しい時代は従来の価値、しかも最高価値を転換しなければならない、といいます。  それが「意志」です。  「意志」こそが新しい時代の価値でなければならない。  「意志」は力の増大と拡張のみを目的とします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば神を 擬人化してさらには物語として創造主だと表現した。これは 人間の自己表現としての《意志》ですよ。  聖母マリアは 神の子であるキリストを身ごもり 人間のイエスとして生んだという預言(解釈)とその認識を自己表現すること これは あくまでも人間の意志行為です。昔から意志はありました。  《最高価値》なんて 決まっているのでしょうか?  (め)  ★ ~~~~~~~~~~~~  キリスト教は弱者の宗教で、意志の強化どころか弱体化をもたらす「ルサンチマン(嫉妬・憎悪)」の宗教。  だからキリスト教は打倒しなければならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ クリスチャンにも《強者》はいるのではないですか? たとえ《弱者》であったとしても おそらく初期キリスト者にとってや最初の出会いのときには きわめて強く忍耐をつらぬくという意志が発揮されたのではないのですか?  ルサンチマンを抱かない人間が どこにいますか? そういう人生のひとこまというだけの話ではありますまいか。  まるで自分が《キリスト教》ででもあるかのように 目の敵にしているのですね。これは 異常です。よ。  (も)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  「意志」は目的を持たない、アリストテレスの目的論の否定です。  この世界に、この宇宙にそれが存在するいかなる意味もない、目的もない。  無意味が永遠に回帰する、むしろ無意味を積極的に希求する、それが「永遠回帰」の思想。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 異常な考えです。精神錯乱に近い。  意志行為の目的は アリストテレスが何を言ったからどう何を言わなかったからこうといった話はありません。それとして 人それぞれにあります。  ★ 無意味が永遠に回帰する  ☆ とでも考えなければ きっとそのおのれの弱さに泣き続けているだけであるから やって行けないということなのでしょう。  《目的》だとか《意志》だとか そういった言葉をならべて何とかさまになるようにしないと 世界の中で生きていけないのでしょう。  《永遠》というのは 《非経験の場》ことです。神のことです。そんな容易に使ってだいじょうぶですか?  (や)   ★ 人生のこの瞬間、その「今」が無意味に永遠に繰り返したとしても、それを絶対的に肯定して生きる、それが新しい時代の価値観でなければならない。  ☆ 別にそんなにむつかしく考えないでも 人には生きるチカラがそなわっています。なにしろ聖霊が女を身ごもらせるほどなんですから。われわれにんげんには ブッダターなる霊がやどると言うまでに 人びとは互いに共生するすべを心得て来ています。何をいまさら 《意志》がどうの《永遠に回帰する》がこうのとわめかなくてはならないのでしょう。  価値観は 昔からあって つねにあたらしいものへとも更新されつづけて来ています。なんで フリッツよ あんただけは そんなにりきまなくてはならないのか? もう死んで何年も経つのにまだその心は癒されていないのか?  (ゆ)   ★ ~~~~~~~~~~~~~~  この世界を超えた超・感性的ないかなる価値もないのだから、当然そうなります。  感性だけしかない、感性を超えたいかなる価値もないというのですから。  ニイチェはこれによってプラトン以来の「形而上学」を葬りました。  プラトンが抽象的な「イデア論」によって感性的なものの価値をひっくり返して超・感性的な価値こそ真の実在といってより、2500年の西欧の哲学の歴史、それは同時に「形而上学「「神学」の歴史でしたが、それをニイチェは最終的に葬ったことになります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《超・感性的な世界》は 《超・理性的な世界》とともに この経験世界を超えたところの《非経験の場》なのですから 《有る》とも《無い》とも人間には分からないのです。ですから この神を 有神論としても無神論としても 経験存在としての人間語に翻訳して人は持つようになっています。両者は 互いに同等で自由です。  神とは そういうものです。  これで まだたましいが安らぎを得ていないらしいフリッツ君のまやかし理論を葬り得たでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 うりがだい2013さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづこの質問は 【Q:能動的ニヒリズムについて】におけるうりがだいさんのご回答を読んで触発されたものであることをお伝えします。  そして 最初からわが胃袋は消化に手間取っています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (か) ニイチェに言わせれば、「神が死んだ」から「ニヒリズム」が訪れたのではなく、逆で、神がいたから「ニヒリズム」だったのです。  (き) 最初から神なんかいなくて「ニヒル」だったのに、つまり虚無だったのに、それをキリスト教はイエス・キリストの物語で私たちの人生が、あたかも意味があるかのように覆い隠し、「隠ぺい」してきました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。  対立する二項に分けておられますね。《存在ないし 存在肯定》と《その否定ないし 虚無》と。ここにまづ つまづきます。  (く) 《人生に意味が無い》ことと《人生は虚無である》こととは 同じではないのではないでしょうか?  (け) 人生に意味がないというよりは 人生は意味から自由であって 人によって如何ようにも意味を見つけ出すことが出来るし 見つけ出さなくてもよい。ということではないか。そしてそれは 《虚無》観とは ひとまづ別ではないのか?  (こ)  ★ 最初から神なんかいなくて「ニヒル」だったのに、つまり虚無だったのに  ☆ というのは 《神がいない》ことを《人生に意味を見い出さない》ことと採るならば そういった一面・一部分は確かにあるにしても これを特別視して虚無志向や虚無主義にまで話を持って行くのは 行き過ぎではあるまいか?   ☆ (か)は分かりにくいのですが さらにつづくご議論の過程でわたしもはっきりした反応を持つことが出来るかと考えて 先へすすみます。   (さ)  ★ 自分が聖書の中の世界の登場人物のように思いなして、人生の真実を直視するのを回避し、それを物語で誤魔化してきた、それが西欧の歴史です。  ☆ ううーん。歴史全体についてのひと言批評ですよね。  (し) 《人生の真実を直視するのを回避し》 これは何が何でも言い過ぎではないでしょうか? ヨブが試練に遭ってそれでもおのれの置かれた情況を《直視》しつつ おのが真実を貫こうとした。そういう物語ですが そこからヨブは その心が藁で出来たものではなく金しかも純金であったという読みを たとえばアウグスティヌスはおこなっています。  (す) そのような読みは かえって《物語で誤魔化して来た》のだと見ておられるのかとも考えますが 火の中をとおり抜けて来たという歴史は 同感を呼ぶものがあります。それは いわゆる因果応報なる仮説をしりぞけるという歴史の直視があるからです。  (せ) そのようにヨブの物語を読まないとすれば――つまり《自分が聖書の中の世界の登場人物のように思いなし》たわけでなくても そこに教訓を得るというように読まないとすれば―― それはおそらく神があってもなくても 虚無であると言いますか すべてはのっぺらぼうの世界であると捉えていることになりましょう。  (そ) つまり のっぺらぼうの世界観であるなら――つまり究極の相対主義史観ですね であるなら―― それこそ現実の世界を直視していない。こう考えられます。人間の心が分からないといったこの上のない虚無思想に落ち入るものと考えます。  (た)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  プラトンが私たちの住む世界の上に「イデア」という最高価値が君臨していて、その「イデア」こそ真の実在で、私たちの住む世界を仮象だといって転倒してより、この世界の上に超・感性的な世界、ニイチェのいう言葉でいえば「背後世界」があると称し、人生の価値はその「背後世界」に由来するものだといってきました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そんなことを言って来たんですか?  その背後世界は 《超・感性的な世界》とされていますが それは同時に《超・理性的な世界》なのではないでしょうか? あるいはつまり《超経験の領域――または 非経験の場――》と呼べるナゾなのではないですか?  (ち) ただし 《イデア》は もういいです。なぜなら 《理性》を超えていないからです。  同時に もうひとつただし  ★ 私たちの住む世界を仮象だといって  ☆ というのは 普遍的な世界認識なのではないでしょうか? いわゆる色即是空の無常観に通じます。この世界は 時間的で有限で相対的で 移ろいゆかざるを得ないものなのですから 《仮象》と言ってマチガイではないと。(ただし だから虚無だとは決して言っていません)。  (つ) もし《人生の価値》を問い求めるのなら したがってこの仮象なる経験世界にその根拠を見い出すことは出来ない相談である。もし《超自然ないし非経験の場》が想定できるなら その場にこそ――無根拠としての――根拠がある。つまり  ★ 人生の価値はその「背後世界」に由来するものだといってきました  ☆ ことにマチガイはないように思われるのです。  (て)  ★ 中世の初期、あるいは古代末期のアウグスティヌスはユダヤ・キリスト教の神による世界創造という「ドグマ」にプラトンの「イデア」を適用し、その結果「イデア」は神になりました。  ☆ これは 聖書の読みという問題ですが 一般に表現の問題です。  (と) 《創造主》というのは 先ほどの《非経験の場(つまり 神のことですが)》を擬人化してみれば そういった・しかも物語としての表現に成り得ます。つまりは タトエです。  (な) アウグスティヌスに《ドグマ》がないのではないのですが この創造主の物語は ドグマでも何でもなくて ただの例え話です。つまり この経験世界と《非経験の場》とを峻別して 後者をただ表現じょう《絶対者であり創造主である》存在として描いた。だけのことであり それをそのように受け取ったまでのことです。  (に) 《イデアが神になった》のではなく 非経験の場なる神と先ほどの《超・理性かつ超・感性の世界》とを定義じょう同一としたのであり そこにその限りで《イデア》をも 表現としては 受け容れておいた。これだけのことだと考えます。  (ぬ)  ★ このような私たちの感性的世界の上に超・感性的な世界が君臨し、その超・感性的な世界から私たちの感性的世界を眺めるのを古来、「形而上学」と呼びならわしてきました。  ☆ おそらくこの形而上学は アウグスティヌスらも使ったかも分かりませんが その使い方は はっきりしています。  (ね) あくまで《経験世界》と《非経験の場》とを峻別しつつ 同時にそれら両世界の互いのつながりはどうかと問うたときの説明に用いた。こういうかたちです。  (の) つまり言いたいことは 《私たちの感性的世界の上に超・感性的な世界が君臨し、その超・感性的な世界から私たちの感性的世界を眺める》ことは けっきょく《理性ないし知性による経験思考》の問題としてあるし そうおこなっているのですから そういうたぐいの形而上学は 決して神学ないし世界観の基本ではない。こう決まっているということです。厳密に言えば その形而上学は マチガイです。マチガイでないとすると 神がわれわれをみつめているというその様子が われわれ人間に見られていて 分かっているという変なことになります。  (は)  ★ だから、西欧の哲学の歴史は「形而上学」の歴史であるとともに「神学」の歴史です。  ☆ つねに 《経験世界と非経験の場》あるいは 《考えると非思考(つまり 信じる)》 これら両者をきちんと区別しているなら 神学はそれとして有効であり 形而上学にしても効果的に活用できるはずなのです。  (つづく)

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     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • 何と言う《神は死んだ》のか?

     主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思いますが 割愛します。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • ニーチェの永劫回帰は どこから見ても中途半端だ

     ご自分の見解を明らかにしたかたちの或る質問に対して 論点ごとに問い返すかたちで投稿したものです。どうでしょう。    ★ ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 / そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。  ☆ 1. 《目的》を持つのか 持たないのか?  2. 《力への意志》の《強化と増大》とは いったい何を言うのか?  3. 人間にとって猿を超えた人間にたとえられる《超人》は 或る種の《目的》ではないのか?  4. 超人への《生成》とは 《直線的な時間における目的論》ではないのか?  5. あるいは けっきょくむしろプラトンの《イデア》理論=かつ宗教――つまり それとして目的論――と同工異曲ではないのか?    ★ ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。  ☆ 6. ショーペンハウアーの《世界の根源としての「生きんとする意志」》は 人間およびこの経験世界を超えているのではないか?   7. つまりこの《意志》は 人間が肯定する・否定するという《人間の理解およびその経験行為としての意志》にはなじまないはずだ。つまり ニーチェの捉え方は ショーペンハウアーを出すならそれはお門違いだ。  ★ ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。  ☆ 8. 《神、すなわち超越的な存在》と言っても もしそれが《生きていた そして 死んだ(あるいは 人間が殺した)》と言うのなら やはりプラトン流の観念論における神(物自体や世界精神)のことでしかない。それでは 経験世界を超えたという《超越的な存在》でも何でもない。  9. あたまの中で観念としてこの世界を超えた存在をつくり それをいじくっているに過ぎない。  10. 多くの人間が――たとえば先ほどのショーペンハウアーとは違って―― 神をただの概念として しばしば持て余しつつ 弄んでいたに過ぎず ニーチェがその例に漏れるということはない。  11. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。  12. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。  13. 《永遠の現在》は神学っぽいから 言いかえれば 現実存在のことです。実存志向 これが《直線的な時間観と円環的な時間観》を包括し 《イデア説から自由で 生成説を包み入れるかたち》である。    ★ 永劫回帰  ☆ 14. というのは――その思想としての可能性を好意的に解釈するのならば―― 《観念の神と そして普遍神としての(非知なる)神とは違う》ということに人はつねに機会あるごとに 突き当たる。はずだ。そこでしかるべき道をえらべと言っている。  15. あるいは言いかえるなら 《あたまの中のオシヘとしての神(キリスト教)と 個人としてのわれにとって固有の時であり非思考の庭なる神(普遍神を指し示すキリスト信仰)とは 月とスッポンとの違いがある》という《なんならチカラへの意志》に遭遇する。何度でもその機会はやって来ると言っている。  こんな感じでしょうか。

  • ニヒリズムにそもそも意味があるのか?

     次の議論をめぐって問います。  ▼ (ヰキぺ:ニヒリズム) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%92%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0  § まえがき    ( a ) ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism / 独: Nihilismus)とは、    この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。  ( b ) ニヒリストは概して以下の論点を強く主張している。    上位の支配者、創造主の存在を示す理にかなう証拠はない、「真なる道徳」というものは存在しない、世俗的な倫理は実現不可能。よって我々の存在には結局真理はなく、好まれる行動など存在しない。  § 1 概要  ( c ) ニヒリズムという語は、・・・今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態のことを言うときが多い。  ( d ) 心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。    1.何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。    2.すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。  ( e ) ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定し、永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q‐1 《永劫回帰》などは あり得ないと思うのですが 納得できる説明がありますか? 同時に《超人》についても同じ問いを 問います。  Q‐2 ( d-2 )で《仮象》と言っていますが 経験事象としての世の中が移ろいゆかざるを得ない無常の世界であることは分かっています。いまさら《イツワリ・無価値》というのは どこかおかしい。《空観》というのは ごくふつうの世界観なのであって この世界が《仮象》であることは 分かっています。  ゆえに 《自ら積極的に「仮象」を生み出し》という考えは 根本的におかしいのではないか? それともどういう意味がありますか? すなわち《いま起きている現実における仮象と向き合って 一生懸命に生きる》のであって いちいちわざわざあたらしく仮象を《生み出す》こともない。と考えるからです。  Q‐3 《何も信じられない》( d-1 )という自己表現は 意味がないのではないか?   なぜなら 経験事象については あくまで《考え認識する》のであって 思考に非ずとしての《信じる》という表現を用いるのは 自己矛盾であると考えられるから。  つまりは すでに見たように 世の中は 《仮象》だと見ているのだから。  Q‐4 《 d-2.すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方》 これは そのような《ニヒル》にむしろ価値を見い出すと言っているのであるから 価値の無という意味での虚無志向ではないはずだ。積極的・能動的だというにしろ ニヒリズムという用語は あやまっているのではないか?  世の中は《無価値》だとは けっきょくのところ 言っていない。ことになるにもかかわらずです。  Q‐5 《人間の存在には意義、目的、理解できるような真理・・・がない》( a )というのは これも表現としておかしい。つまり 意味がないのではないか?   この世の中には 科学的な事実認識を採り入れた主観真実はあるが 絶対的な真理などは人間には分からないのだから この命題は 分かりきっていることである。それをいちいち《主張して 哲学的な立ち場》だとするのは 阿呆らしくないか?  

  • 第三次世界大戦の記憶

    例えば第三次世界大戦が起きた場合、科学は著しく進歩するだろう。 その対戦中に開発されるであろう兵器の数々……、 それは「生」「死」の概念をも超越した人間存在事態を この世から消滅させる(例えば、四次元から五次元への移転)ことを 可能とする兵器が開発させるだろう。 加えて、その被害者がこの世からいなくなった事に 誰も気づかないことをも可能とさせる(脳になんらかの電波を送る) 兵器も開発されるであろう……。 原爆などの肉体的に損傷の激しい兵器より、 情報操作による精神に人民操作……、(全社は死の、後者は生の兵器である)しかし、新しい兵器はそれらを超越してしまっている。 生と死を超越すると言うことはニーチェの皮肉ではなく「本当の意味で」神を超越してしまうことである。 神の超越はポスト・モダンが成し遂げたって? いいや、私から言わせればポストモダンなんてお坊ちゃまの思想だ。 豊かな争いの無い先進国特有の堕落した思想だ。 資本主義、民主主義が崩壊する時ポストモダンのバカバカしさに気づき、 神をあがめだすだろう。 だがそのとき神をあがめるのは無知な豚人間(大衆)どもだけだ。インテリゲンツァは本当の意味で神を失った次代になにを見るのか?

  • 神を知る事こそ世界を知ることだ

    やあ。 ぶっちゃけた話、私は無を悟っている。 そこで旧態依然とした仏教を科学の時代に合った検証でさらに先に進めようとする質問だと解釈してくれたまえ。 万物流転、すなわち世は無常であり生命は輪廻する。 無常は簡単だ。大体においてそうだと気づく事もあるだろう。 輪廻はこの言葉だけでは簡単だ。 生態系の循環や相互依存を意味する。 すなわち命は死すれども、その死すらも新たな生を育み絶える事が無い。 そんな世界のみが科学的発見の無い2500年前には世界の全てであった。 転生は、そんな世界の姿に信仰を寄せた古代人の愛だ。 輪廻転生と言う言葉でその全てを否定する前に、転生のみを抜き取って検証すると、どうも無理っぽいのは冷静なら誰もが理解できる。 お釈迦様は自らは転生しないと言った。 そんなのありゃしねーとは言わなかったがそんなのかんけーねーとは言ったのだ。 それこそが答えであり、転生は迷信であるが、その信仰心に感謝があれば神は見捨てまい。 したがって、信仰の確かが判る範囲でお釈迦様すらも、そんなのありゃしねーと言いきらなかった。 ただ無を悟れと謎めいた言葉を残しただけだ。 これらは地上で起こること、これを狭い意味の縁起と言うが、それこそが世界の全てであった古代において人が神に手向けた愛、すなわち信仰の姿であり、世界がより広く宇宙と言う難解な全体像に対して問いかける現代においては、すなわち世界を知ることは、自らが探究するだけでは及びもつかず、神と語らうよりほかは無い。その行いは古代からの経験則によれば、世界の全てを愛すれば世界が判る。 このように神を知ろうとする事が世界を知る事であった。 以上が今回のテーマです。 事と次第によっては猿回しもするが世界観と言うやつと信仰の関係についてご意見募集です。

  • 《アルケーの神と一体となる》ことは・・・

     一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。  つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。  《真理は きみたちを自由にする》と。   ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか?  これが問いです。  《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。  つまり この問いに対して   □ 断じて 見返りではない。  という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?

  •  《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  これを問います。ご教授ください。