アルケーの神と一体となることは真理の探究の見返りではない
- 一般には神を見ることが信仰の目的とされています。
- 真理がすべてにおいて真実であることがアルケーの神と一体となる成就の目標です。
- 真理は人々を自由にする力を持っています。アルケーの神を感じることは真理の探究の一つの報酬ではないかと考えられます。
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《アルケーの神と一体となる》ことは・・・
一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。 つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。 《真理は きみたちを自由にする》と。 ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか? これが問いです。 《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。 つまり この問いに対して □ 断じて 見返りではない。 という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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雲をつかむような話ですか。 難しいですなあ。でもいくらかのやり取りでニュアンスは少し伝わった気がするよ。ご苦労さん。
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- a_hona
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うーん。全般的に少し暴論のような気がするなぁ。底のないバケツで井戸の水を汲み、水が尽きない=無限だと言っているような。一体何をどう信じているのか分からんようになったが、bragelonneの中では整合性がとれとるのだろうか。 まぁ、あるかないかわからないそれを神と名付け、あると信じて委ねよう、と言ったところだろうか。 その神の性質は想定されうるものなのか、そうならばそれは善なのか、など気になることもあるけれど、今はこの辺でええわ。
お礼
あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 急をいそいだでしょうか。 ★ 底のないバケツで井戸の水を汲み、水が尽きない=無限だと言っているような。 ☆ ですから ハカラヒによる修行も勉強も――経験思想や経験科学としては・あるいは探究としては 必要であり有益ですが―― 信仰にとっては どうでもよいことです。 その探究のバケツに底があるか無いか けっきょく分からない〔という結果になる〕からです。 その井戸が水があるか無いか もともと――信仰という次元では―― 分からないからです。(分かるか分からないかが分からない)。 《無根拠》ほど そこから湧き出る水の尽きない――あえて言えば――概念はないですよ。(このあたりは そもそも神がそういう想定によって――経験合理性にもとづく話としては――成っていますから。つまり 雲をつかむような話を そもそもしているのですから)。 ★ 一体何をどう信じているのか分からんようになったが ☆ 無根拠によってあゆんでいるのですから。 ★ まぁ、あるかないかわからないそれを神と名付け、あると信じて委ねよう、と言ったところだろうか。 ☆ 《あると信じて委ねよう》つまり《委ねよう》というのは ハカラヒです。これは 《無根拠によってあゆむ信仰》ではありません。人間の努力としての探究や修行です。《信じる》とは何の関係もありません。 ★ その神の性質は想定されうるものなのか、そうならばそれは善なのか、など気になることもあるけれど、今はこの辺でええわ。 ☆ お疲れさまでした。お気が向いたら またどうぞ。
- a_hona
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すでに通過したと言ってることと、その気持ちは分かってるつもりなんだけどね。 実際には人生は有限で、汲めども尽きないという気持ちにも終わりは来る。そんな中で、どんな探究の姿勢、信仰の態度があり得るんやろうと、そんなことを言いたくてね。 それに、この世と互いに張り付けにされてるようではまるで、この世と敵対しているみたい?だし、その膠着状態から何が生まれるのかという疑念もでてきてしまうな。 まぁ、あまり無理しないように、といえばはぐらかしと受け取られてしまうかな。 あと、ヒラメキというある種の偶然にも似た賜物を期待するのと、非知のものに対する積極性とは、関係しない気がするなぁ。 一種のパラドクスに陥るのではないだろうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ そんな中で、どんな探究の姿勢、信仰の態度があり得るんやろうと ☆ 《探究 ないしその姿勢》は 限りなく自由であり 思う存分に無限です。 《信仰の態度》は ただひとつです。《ハカラヒ無し》 または 《義無きをもって義とする》――いづれも親鸞に拠って使ったものですが――です。 さらには 《念仏は 非行非善なり》――いかなるハカラヒによる修行も努力も さとりや神に近づくといった目標のための手段ではありえない。これです。 どのいわゆる宗教にとっても 信仰の態度は これっきりしかありません。 言いかえるなら 《義無きを義とする》からには 信仰は 無根拠によって(無根拠を根拠として)あゆむよりほかに道はありません。 繰り返すなら 現実の社会生活における探究や勤勉には 限りがありません。まったく自由だと捉えます。 ★ それに、この世と互いに張り付けにされてるようではまるで、この世と敵対しているみたい?だし、その膠着状態から何が生まれるのかという疑念もでてきてしまうな。 ☆ 《ハリツケにされている》のは じつは 生まれつきの能力や人間の心にとっては 余分なカザリや余計な思考能力だと見られます。何ら問題ではありません。 そのことから言えば すでにわれわれは勝利している。そしてその勝利が現実に現われるのは じっさいにその要らないクリスマスツリーの飾り――あるいはこの世のシガラミ――が 一つひとつ それぞれの人にあって 取り去られて行くその過程にあります。 金融資本主義の――勤勉ならぬ――ガリ勉は まだまだ《猛威》を振るうべく つづきそうですが。 《ハリツケ》の度合いやその人間の数が水かさを増して行くのは まだまだ先のことであるかも知れません。けれども理論的には 勝負はついた。こうも言えるかも知れません。 ★ 膠着状態 ☆ であるなら 少しづつ進展しているとさえ考えられます。つまりハリツケ状態が現われつつあるのですから。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ あと、ヒラメキというある種の偶然にも似た賜物を期待するのと、非知のものに対する積極性とは、関係しない気がするなぁ。 一種のパラドクスに陥るのではないだろうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いっさいのハカラヒは無しです。 ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~~~ 自然といふは 《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。 《然》といふは しからしむといふことばなり。 しからしむといふは行者のはからひにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。 * 爾(に・じ):しかり。そうである。 ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~~~ 自己を運びて万法を修証するを迷とす。 万法進みて自己を修証するは悟りなり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 考えるゆえです。《パラドクスに落ち入る》のは。ではないでしょうか。
- a_hona
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いや、身の程をしれというと、どこか得るものも得られない、自分自身を過小評価したみたいになるから、そういったニュアンスではないのだけどね。ただ、信仰の力を信じている自分自身にも限界はあって、色々と肩の力を抜かなきゃいけない局面が山積してくるのではないかと思ってね。壮大なことを考える時には。 まぁ、こんな感じで。
お礼
ご回答をありがとうございます。 これも語弊のある言葉ですが 中庸をあるく もしくは 中庸からは大きく逸れない といった感じにわたしには受け取られます。 わたしが 向こう見ずなだけかも知れませんし 人びとが・特に日本人があまりにも引っ込み思案すぎるのかも知れませんが。 同じことを重ねてお伝えする応答になりますが ★ 信仰の力を信じている自分自身にも限界はあって ☆ という自己の非力の自覚は すでに通り過ぎて来た段階であって つまりその《自己自身の限界を たとえば現実の社会力学といった有力を前にして――たとえそれが無効の中身だったとしても―― こちらは負けるというところに知る》経験は過ぎて来ている。のではないだろうか。これです。 ★ 壮大なことを考える時には ☆ いちど敗北を喫すという経験を経た後で 信仰の出番となります。 ○ わたしはこの世に対して この世はわたしに対して はりつけにされています。 これです。敗北と言っても お返しもちゃんと果たしています。 汲めども尽きぬ水が 湧いて出て来るのでなくては 信仰とは言えません。
- a_hona
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あら、すまん。人の道さんという質問者と間違えて回答していたわ。これは、bragelonneさんの質問やったんやね。 さて、何から何までわかるというそんな途方もない話があり得るのか、 そういった万能の神への信仰が肯定的な帰結に落ち着くことはあるのか、真理と一体になるとはどういうことか、疑問は尽きないが、神への信仰や真理の探究を通して葛藤の解消という肯定的な帰結を導くことは可能かもしれへんね。 最終的には自分自身の程を知ることやと思うよ。
お礼
あ_ほなさん あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。 無難なところでまとめておられると言えば ちっとも褒めてはおらず むしろ貶めているようにも聞こえてしまう。したがって それこそ人の道の中道をあるく姿勢で 答えについて粗相のないようにまとめておられる。 一点 反論を持ちます。 ★ 最終的には自分自身の程を知ることやと思うよ。 ☆ 反論と言いますか 答えを問い求める段階がちがっている。ように感じます。 すなわち 《おのれの身の程を知った》ゆえにこそ ちょうど きよらかなおそれを抱くかのように 信仰を得る。こういう順序ではないかと考えるところです。 つまり信仰にとっては出発点である地点での姿勢を 答えとするなら それは 信仰に対するはにかみやであると考えられます。そのくせ 信仰をないがしろにする向きには 勇気ある批判をおこなう。のかも分からないのですが。 どうもありがとうございました。
- a_hona
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昔から宗教に良くある話で、神と出会ったとか、見たとか、一体になったとかいう話は星の数ほどある。 光を伴ったり恍惚感を伴ったり、まぁいろんな身体現象が現れるものもあり、精神病になったりする者もいるから注意せなあかん。一方通行で独りよがりな探究と称する埋没は、時に人生を破壊してしまう。報いと言えば報いやな。頭の変な使い方をして、壊れてしまうんやろうと思う。禅では魔境と呼んで注意喚起があるらしいが詳しくは俺も知らん。ただ、自我が膨れ上がるとか、そんな話を聞くな。 アルケーゆうんは万物の根源ゆう意味やろう?それが物質なんか法則なんか、なにかの時空なんか知らんが、そんなもんと一体になってみろ、人間の形をしてはおれんぞ。 ということは、この話は全て精神世界の話ということになる。要するにマイワールド、お前さんの世界限定の話やから、あまり吹聴せん方がええかも知らんで。みんなポカンとしてるから。この人は何を言ってるんやろうってな。
お礼
あ_ほなさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。 つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 信仰のむくいとは: 1. これまでの人間世界のおよび地球ならびに宇宙の歴史における因果関係という関係がすべて分かる。これが 《真理 ないし 真理を知る》ということの中身です。 2. あのとき誰々は これこれの思いと意図とであれそれの行為を成した。といったことも すべて分かる。認識と理解だけによっては すべてが和解へとみちびかれるとは限りませんが 真理を知ることは その和解への一歩ではある。こう考えられます。 3. 自分の過去のくやしい経験についても それにかかわった当事者一人ひとりの心の中や動機や何やかやまで分かるようになる。これが 世界とわれとの和解 あるいはわれみづからとわれとの和解をもたらしうるとは考えられます。 4. これらが むくいです。 こういった議論です。 ★ 報いと言えば報いやな。 ☆ つまり マイナスのむくいの事例を挙げておられますが けっきょくここで言うむくいは それらの負のむくいからさらにふたたび起き上がって よき和解へとみちびかれるというむくいのことを 一義的に言います。 どうでしょう。
インド・アーリア人がパンジャーブ地方に侵入して以来、今日のヒンドゥ語にいたるまで、 インドで使用された主な言語を、大きく三つの時期に分けると以下のようになる。 (1)古代インド・アリアン語(Old Indo-Aryan) ヴェーダ語(Vedic) 古典サンスクリット語/標準サンスクリット語(Sanskrit) (2)中期インド・アリアン語(Middle Indo-Aryan) 古層:アショーカ王碑文語(Aśoka) パーリ語(Pāli) ガンダーラ語(Gāndhārī) 仏教混淆梵語(Buddhist Hybrid Sanskrit) 中層:アルダ・マガダ語(Ardha-Māgadhī) ジャイナ・マハーラーシュトラ語(Jaina-Māhārāṣṭrī) ジャイナ・シューラセーナ語(Jaina-śaurasenī) マハーラーシュトラ語(Māhārāṣṭrī) マガダ語(Māgadhī) シューラセーナ語(śaurasenī) ピシャーチャ語(Paiśācī) 新層:アパブランシャ語(Apabhraṃśa) 他 (3)近代インド・アリアン語(Modern Indo-Aryan) 沙門ブッダの成立 原始仏教とジャイナ教の間 山崎守一 32-33ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 参考にどうぞ。 これを読むと、 マガダ語は特に古いわけでもなさそうですね。 それどころか新しい。 それと、マガダ語(Māgadhī)と表記してあるわけですが、 マガダ語なんか無いという人は いちいちこの表記にも文句を言うのでしょうかね。 それにしても、マガダ語は古くないよ、 そしてスッタニパータのその箇所は古くないよと だれか訂正してくれる人はいなかったんですかねえ。 それから 聞くには文句をいう人も 見るにはあまり文句を言わないのか dassanaですが、 どうも、「さとり」と「覚り」の表記を区別していたり、 さとりと訳される言葉が複数あることを考えると、 ムニのさとりと、ブッダの覚りを 区別しておこうかと思います。 とはいえ、見るとか目覚めるとか さとり、覚りはずいぶんと視覚的な概念なんですかねえ。
お礼
こんばんは かざみさん。ご回答をありがとうございます。 ★ 古典サンスクリット語/標準サンスクリット語(Sanskrit) ☆ これは 名称がふたつあるというだけで 同じものですか? ★ これを読むと、 / マガダ語は特に古いわけでもなさそうですね。 ☆ 《仏教混淆梵語(Buddhist Hybrid Sanskrit)》が すでにひとつ前の時代――《古層》――に現われているからには ゴータマがマガダ語でしゃべったということには成らないのかなぁ。 あるいは――単なる推測ですが―― 《古層:パーリ語(Pāli)》の中に 《中層:アルダ・マガダ語;マガダ語》の前身のようなかたちがすでにふくまれるといった可能性はありだろうか。・・・ ★ とはいえ、見るとか目覚めるとか / さとり、覚りはずいぶんと視覚的な概念なんですかねえ。 ☆ そもそも 《ヱーダ》が いまのヰデオやヰジョンなどと同じ語根なのだから・つまり《見る》から《知る》という意味の語に成って行ったのだから 《視覚的な概念》が幅を効かせているみたいですね。《イデア・エイドス》だって 《見られたもの》くらいの意味なんでしょう。 あるいは 英語で wise; wisdom も ヰデオやヰジョンと同じ《見る》から来ている。これなどは《見る = ダッサナ》ゆえに《かしこい》つまりは 《さとり》を言っているのにほかならないようです。 * wise: http://www.etymonline.com/index.php?term=wise&allowed_in_frame=0 再考ですが (1) 古代インド・アリアン語(Old Indo-Aryan) ヴェーダ語(Vedic) 古典サンスクリット語/標準サンスクリット語(Sanskrit) これらは 文語ではないでしょうか? もしそうなら この時代に同時並行してすでに何らかの話し言葉が いくつかの方言に分かれて使われていたと推理しても それほど奇怪なことではないかも知れない。どうなのかなぁ。・・・
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お礼
ご回答をありがとうございます。 決してワルギがあったともあるとも思いませんし ましてやいぢわるをしているとも考えませんが どうも終始無難なところで自己表現を済ませる――控える・自重する――のですね。 おそらく自覚はなさっていないと思うのですが どうもフロンティアの開拓にはシャイでいられる。 密林を切り拓く仕事でないと おもしろくはないでしょう。よ。――と初めてお会いしたひとに向かって 勝手なことばかりつづってまいりましたが。・・・