アルケーの神とは?

このQ&Aのポイント
  • アルケーの神は感じるものであり、真理の探求である。
  • アルケーの神は我々と接しており、そこここに存在している。
  • アルケーの神を感じるには深い試練を経なければならない。
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《そこここにうようよしているアルケーの神》とは?

 或る人とのやり取りで その或る人が書いています。  ◆ (アルケーの神とは?) ~~~~~~~~~~~    >(け) 冗談はさて措き 経験思考において認識しうるものが 神であるとは いったい何を考えているのか。もしそうなら 《信じる》必要はない。  だからアルケーの神は信じるものではなく、感じるものであると言い続けています。 アルケーの神を感じよーとすることは信仰ではなく、真理の探求であると。    >さ) それだったら アルケーの神は そこここにうようよしていることになる。・・・  もちろんアルケーの神はそこここにうようよしています。  だからアルケーの神は我々と接していると言ったのである。  しかしそのアルケーの神を感じるよーになるには、真理の探求ってゆー深く長く厳しい試練を経なければならないのである。  漬かっていてはアルケーの神を感じることはできませんってこと。    これらのことはこれまでに何度も繰り返し述べてきたことである。  もはやこれ以上の説明はできません。   さよーなら。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このやり取りを継ぐ人はいないだろうか――なぜなら わたしはチカラがないと気づきました――というコンタンを持ちますが この質問では ここに掲げた文章の内容を分かるように解釈して欲しいというものです。  どなたか分かる人で殊勝な方はおられませんか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9724/12096)
回答No.3

 問題をトータルに考えて、以下のとおりお答えします。 (1)その「或る人」と思しき人は、時に面白い質問をすることもありますが、しばしば、「対話の基本ルールを逸脱」していると思われることがありますね。 (2)お礼欄などで、ただ反論して、質問というよりは単なる自己主張のためにこのサイトを利用している、としか見えないこともあったように思います。 (3)「アルケーの神」ですが、「そんな汎神論あるけー!?」。いや、失礼しました。信教の自由を冒涜したかも知れませんので、この節(の前半)取り消します。 (4)確かに、信教の自由もあるし、表現の自由もありますが、こういうQAのサイトで自己主張(や押しつけ)はなじみませんよね。 (5)人間、すべからく「自己中心的特殊規定」(ラッセル)なところのあるのはやむを得ませんが、卑しくも、対話をしようという場合は、「弁証法」(ヘーゲル)や「パースペクティヴィズム」(オルテガ他)の方法を参考にするなど、幾分なりと、「共同作業での上昇」を目指したいものですよね。 (6)「真理」について言えば、「常に同時に」(カント)妥当する真理などないでしょうね。ですから我々は、真理の探究においてはより謙虚でなければならないと思います。お互いにそういう暗黙のスタンスに立ってやりとりする時こそ、生産的な有意義な対話が生まれるのではないでしょうか。 (7)Discendo liberior.「学ぶことによってより自由に」と言われます。ということはつまり、「学ばない状態」は、我々が、独断・偏見・混沌・迷信・妄念などによってがんじがらめに拘束された桎梏状態にある、ということを意味するのだと思います。 (8)ある哲学書で読んだことですが、「真の賢者とは、愚者に成り下がる危険を常に感じていて、そこから逃れようと絶えず自己研鑽をする人のことだ」そうです。 (9)我々にとって、賢者になることはそう簡単ではないかも知れませんが、少なくとも、それを目指そうという心的態度を維持することくらいは、意識に留めておくべきだと思います。 (10)裏づけや論証もなく、ただやみくもに自己主張や押しつけをするのは、対話によるaufheben(止揚)や互恵的上昇への願望、認識における桎梏状態からの脱却や自己研鑽への志向を欠いた行為だと、私は考えます。  これらのことから、「このやり取りを継ぐ人はいないだろうか」とのお尋ねに対して、「少なくとも私はなれそうもありません」とお答えするしかありません。そっけないお答えですみません。  以上、ご回答まで。

bragelonne
質問者

お礼

 なかい702さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  こういったやり取りが出来ることをさいわいに思います。  議論はご法度だと言う人がいますし 字面では規則はそうなっていますが そもそも OK ヱーヴの精神から行けば 互いにしっかりと情報交換をおこない また自由に批判をしあってこそ――その自由がいちばん大事なのではないでしょうか(それが 日本をよくし つよくする)―― のぞむべき《波》だと考えます。  さて包括的なご回答内容であるようです。  ★ (1)その「或る人」と思しき人は、時に面白い質問をすることもありますが、しばしば、「対話の基本ルールを逸脱」していると思われることがありますね。  ☆ 特には 自分の見解が旗色がわるくなったときに多いようです。次のご見解にもうなづきます。  ★ (2)お礼欄などで、ただ反論して、質問というよりは単なる自己主張のためにこのサイトを利用している、としか見えないこともあったように思います。  ★ (3)  ☆ まぁわたしとしましては この《アルケー》は ただただ名前であり むしろシルシとして受け取っています。(もっとも 《元初》であり《原理》でもあるようですから 必ずしもひどい命名ではないようですが)。  ★ (4)・・・自己主張(や押しつけ)はなじみませんよね。  ☆ すなわち (1)でも触れましたが 自分の持論がまだ持ちこたえると思っている間は ときどきですが ふつうにおだやかな振る舞いでこちらに接して来ることもあるのですが 雲行きがおかしくなると 《アルケーの神は 唯一絶対である》の連呼になります。哲学ではなくなります。  つまり何故このようにしつこく言うかと言いますと そのようにクリンチで逃れたあとは またまた初めからやり取りをやり直さざるを得なくなるからです。初めからやり直す嵌めに これまでに何度 落ち入ったことか。  ★ (5)・・・「共同作業での上昇」を目指したいものですよね。  ☆ 文句なしに同感です。(部分的な復唱=引用になってしまっていますが)。  ★ (6)・・・ですから我々は、真理の探究においてはより謙虚でなければならないと思います。・・・  ☆ つまり 自分の見落とした点や考え及ばなかったことが 無料でおそわることができるわけですから。  ★ (7)Discendo liberior.「学ぶことによってより自由に」と言われます。・・・  ☆ まぁ 正直なところ 自信のあった論点や自分の持論などについてマチガイを指摘されると くやしいのですけれどね。  ★ (8)・・・「真の賢者とは、愚者に成り下がる危険を常に感じていて、そこから逃れようと絶えず自己研鑽をする人のことだ」  ☆ そうですね。無知の知の問題にも通じているようです。あるいは 《 docta ignorantia (学知ある無知)》だとか。ちょっと見てみたら 次もありました。:  ▼ (Wikip: docta ignorantia ) ~~~~~~~~   http://en.wikipedia.org/wiki/De_Docta_Ignorantia  A Pseudo-Dionysius the Areopagite advises his reader to    ἀγνώστως  ἀνατάθητι,    "strive upwards unknowingly"    (De myst. theol.c. 1, § 1).  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ (9)我々にとって、賢者になることはそう簡単ではないかも知れませんが、少なくとも、それを目指そうという心的態度を維持することくらいは、意識に留めておくべきだと思います。  ★ (10)裏づけや論証もなく、ただやみくもに自己主張や押しつけをするのは、対話によるaufheben(止揚)や互恵的上昇への願望、認識における桎梏状態からの脱却や自己研鑽への志向を欠いた行為だと、私は考えます。  ☆ その自己研鑽が どこかで中断し どこかでその中断のまま凝り固まってしまった。こういう感じを受けます。  ★ これらのことから、「このやり取りを継ぐ人はいないだろうか」とのお尋ねに対して、「少なくとも私はなれそうもありません」とお答えするしかありません。そっけないお答えですみません。  ☆ いえいえ いえいえ。哲学の広場といった感覚を およそ初めて持ちました。これまでは 見解の合う人や違っていても自由に批判し合える人がいるもんだなぁと思っていましたが この質問でのやり取りをとおして 互いに対話をしあえる広場という感覚をおぼえました。  (これまで おだやかで活発な意見の交換がおこなわれていたとしても 必ずしも問い求めとしては 進んでいるようには――傍から見ていて――思えなかったのです)。   

その他の回答 (5)

回答No.6

例の困った人に関してしつけそこなった点の反省だ。 > そもそも、どうやらあの気の毒な人は、そうした神の意思の解釈を、誰かほかの人の言葉を引用するだけで、自ら口にする事が出来ないらしいんだ。 言いだしっぺは本気だろう。 理解できぬ者の口から洩れる限りは信実すら嘘だ。 誰かが本人の心情を明かす言葉として真摯に神を語ったとしよう。 そのようにあってこそ、まあ自らの心を打ち明ける事であろう。 その言いだしっぺ本人については真実そのものだ。 それを聞いて誰かがほらを吹くのだよ。 自らは神を知らず、神を知る人の言葉に聞き耳を立て便乗するホラ話だ。 同じ事を語っても、ホラ話は所詮嘘だ。 私がさんざんぱら言ってる「おまえは神を知らないではないか」「そんなもんありゃしねー」「その言葉は神を語っていない」このようにいじめ放題の無なのだろう。 あの気の毒な人は、自らがいただくアルケーさんすら半信半疑なんだろう。 おかげで、めちゃんこデービルアルケーさんを私が救済することになりそうな雲行きだよ。 私は悪魔に対して常勝不敗無敵状態でこういうくだらない世話をいっぱい焼いているんだよ。 嘘に辱められた真実を見いだすことだ。 仏はそこまでしない。 いかなる乱戦もものとはない仮面ライダーの仕事だ。 あの気の毒な人には、私も私なりにライダーキックを御見舞してみるよ。 それはともかく嘘とはこのように生まれるのだろう。 真実であっても語る人によっては嘘だ。 その嘘のしっぽなら見え見えなんだけどね。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 私がさんざんぱら言ってる「おまえは神を知らないではないか」「そんなもんありゃしねー」「その言葉は神を語っていない」このようにいじめ放題の無なのだろう。  ☆ これは 理由としての推論が成っていたとは覚えていません。あしからずながら わたしには通用しません。  ご回答をありがとうございました。

回答No.5

むなしいよもやま話だよね。 >  ◆ アルケーの神は我々と接していると言ったのである。  ☆ そうですよ。 神の意思は世の全てに行き届き、神に理解できないことはない。 こういう噂話を引っぱり出しているのだろう。 それは正解なんだが、噂話をなんだかんだ言ったってしょうがない。 そもそも、どうやらあの気の毒な人は、そうした神の意思の解釈を、誰かほかの人の言葉を引用するだけで、自ら口にする事が出来ないらしいんだ。 言いだしっぺは本気だろう。 理解できぬ者の口から洩れる限りは信実すら嘘だ。 この場合の理解する事とは、それが信じる事なのだろう。 信じたから理解できるとも言えるがね

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ そもそも、どうやらあの気の毒な人は、そうした神の意思の解釈を、誰かほかの人の言葉を引用するだけで、自ら口にする事が出来ないらしいんだ。  ☆ と見るわけですね。  たぶん問題は 《宇宙の法則》とかんたんに言いかえているところではないかとも考えます。  ここでは その議論を蒸し返すわけには行きません。

回答No.4

そこらじゅーに転がっているということならね、 神が残していった奇跡と言う足跡の事だよ。 あの気の毒な人は、それを感じると言いたいんだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  でも ただね  ◆ アルケーの神は我々と接していると言ったのである。  ☆ そうですよ。

回答No.2

アルケーの神を感じられるようになりたいようだな。なかなか見所があるぞ、暉彦。 まずは、初歩を教えてしんぜる。 南南西の方角へ一礼二拝。臍を出し、突き出しながら、大きな声で「臍ビーム」と3回叫ぶ、北北東に向きをかえて一礼二拝。 これを毎朝、毎晩、続けなさい。 「真理の探求ってゆー深く長く厳しい試練を経なければならないのである」。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  もちろんアルケーの神はそこここにうようよしています。  だからアルケーの神は我々と接していると言ったのである。  しかしそのアルケーの神を感じるよーになるには、真理の探求ってゆー深く長く厳しい試練を経なければならないのである。  漬かっていてはアルケーの神を感じることはできませんってこと。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり  (あ) 接しているけれど 漬かっていては 感じられない。  つまりそうすると  (い) アルケーの神は その神と接している人が 漬かっている状態にあると その接触の感覚が妨げられる。   つまり  (う) アルケーの神は 《漬かっている状態》には勝てない。  こういうことでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~  つまり   (う) アルケーの神は 《漬かっている状態》には勝てない。  こういうことでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりじつは わたしもこの或る人とのやり取りにおいて あたかもこのような状態であった。つまり わたしのチカラは――神ではないですが―― 漬かっている人には勝てなかった。という体験はして来ていますが 果たしてそういうことだったでしょうか?

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.1

まぁ、何と言うか・・・ 理解する必要があるのですか? 漠然とは判りますが、どの立場で語るか? 文章の内容は道教か禅宗の摘み食いです。 しかし語っているのは悪霊かマガツ神です。 盲信の否定をしたいのでしょうが、其の考えに盲信しているからこその悪魔に魅入られた如きの発言です。 常に一緒に居るのに「さよーなら」? 人を不安にさせる音で満ちています。 あぁ、「アルケー」の音も気持ちが悪いです。 命令形の「歩け」に酷似し、且つそれを伸ばし印象付けています。 不安を煽るタイプの音です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 理解する必要があるのですか?  ☆ けっきょくの問題は 相手も人間であるということです。理解不可能または理解不必要な内容でも 人間を放っておくことは出来ないという感覚があります。でも ふつうにこたえることが出来なくなりました。(主題の違った問題であれば 応答できることもあるかも知れません)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  文章の内容は道教か禅宗の摘み食いです。  しかし語っているのは悪霊かマガツ神です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですか。そのあとのご説明を読むと けっきょくは 理解不能ということになるのでしょうか。  ★ 盲信の否定をしたいのでしょうが、其の考えに盲信しているからこその悪魔に魅入られた如きの発言です。  ☆ 盲信というのは 猛進するほどつよく硬い岩盤なのですね。  様子を見る・見守るということになりましょうか。と ご回答を読んで思いました。

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     神は ひとつである。――次の趣旨説明にてその当否・成否を問います。  (あ) 神は どんな名前の神を持って来ても・あるいは《無い神》を持って来ても すべて全体として ひとつである。  それよりほかにあり得ない。  (い) 人間にとって 神だという存在――または 非存在――が 同じひとつでないことのほうがおかしい。  (う) ただし オシエは互いに違っている。  (え) 《信じる(その神を心に受け容れる)》と《考える(因果関係や排中律にしたがって経験合理性にもとづき推論する)》とは 別である。  (お) 神は 《信じる・つまり 思考に非ず》として受け容れるものである。  (か) 《考え》て理解できる内容の神なら それは 人間の思考や想像によってつくられたものである。  (き) ただし 《信じる神》について その信仰――非思考の庭なる動態――にもとづき その定義や説明をほどこすことは有り得る。  (く) ということは この神についての定義や説明あるいはさらに神学であっても そのような文章表現やシルシなどはすべて 神を指し示そうとするための補助線である。  (け) ちなみに かみという言葉・文字・発音も 神について知るための補助線である。  (こ)  もしこの補助線としての説明書きを 神であると錯覚したなら それは 《思考や想像の産物》としての神が出来上がる。そのように人間がこしらえた神であるとなる。  (さ) このような観念の神は その作った時点ですでに 死んでいる。つまり思考の問題であり 観念にとどまる。そこに 言わばいのちは ない。――信念とは成りうるところの思い込みがある。有限の移ろいゆかざるを得ない果敢無い《いのち》はあるかも知れない。  (し) ○ 《信じる》と《考える》との区別 ~~~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (す) 《非思考の庭》においていだかれるのが 神である。名前は いかようにもつけられる。  (せ) 《思考の緑野あるいは感性の原野》において持たれる神は ただの観念の神である。人間がつくった神である。人間に理解でき認識しうるものであるなら わざわざ神という謂われはない。必要がない。せいぜい アイドルと呼ぶがいい。  (そ) したがって 《非思考の庭》においていだかれる神を イワシノアタマと名づけるなら それが 神である。イワシノアタマという言葉は ただの補助線に過ぎない。  (た) もし実際の鰯の頭を――ということは 感性や思考の対象となる事物としての魚であるものを――神としたなら それは 偶像としての神であり もしさらにこの鰯の頭を自分のあたまの中に想像し思い込み神としたなら それは 観念の神である。人間のつくった神である。

  • 第四章 非経験の場なる神が どうして知られるのか

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論  第四章 非経験の場なる神が どうして経験存在である人間に知られるのか  § 1 《非思考の庭がわが心に成る》そのいきさつについて  (あ) 神とはなんぢゃい? とワタシは いぶかったり うたがったりする。  (い) 分からんと結論づける。《考えても分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》であると 想定し 定義づける。  (う) 《かみ》もしくは《何々の神》といった名は 神を示す仮りのものであり シルシであり 補助線であるとみとめる。  (え) ということは それでも或る日或る時 何ものかがわが心の窓をノックしている。と感じた。ということが起きたとき 主観としてその単なる感覚で これは神であるかも知らんと思って その雲をつかむような何ものかを心に受け容れた。(または そんなものは知らんと言って 棄てた)。  (お) このとき わが心なる非思考の庭が 成る。維持し持続するとき それを 動態としての信仰と呼ぶ。  § 2  《神を知る》という表現は――神という言葉からして そうであるが―― 精確ではない。  (か) ただただ その名前を心に受け容れただけのことだ。ブラフマンにせよ アミターバ・タターガタにせよ キリストにせよ あるいは単なるカミにせよ さらにはまた《無い神》にせよ。  (き) あとは 人間という存在の社会性――つまり生活の共同性 そしてそこから関係性(つながり・きづな または ときには不倶戴天の敵対関係)――をつうじて そのマボロシなる神の名が あたかも意味を持って来る。言いかえると 何が何だかワケの分からないナゾの何ものかであるということ――非経験の場とでも名づけるべきものであること―― ここから意味が出て来る。  (く) おのれの心の中で・おのが主観において 《絶対なる神と相対なる我れとの関係》が成っているというとき それは 神がこの経験世界を超えているからには・そしてそれは 非思考であり 何ら中身はないと言ったほうがよいからには 神は同じ次元ではありえない。  (け) つまり中身はからっぽである(つまり 非思考の庭である)ところへ しかも それが何であるかが知りたさに いろいろ考えることをも為す。つまり 補助線を引いて 《こたえ》を探りにかかる。  (こ) 手掛かりがないわけではない。それは 非思考であるにもかからわず(または 非思考であるがゆえに) ひとにはヒラメキという出来事があたえられる。そこから 観想・瞑想が得られることがあり 神についての仮りの説明とすることが出て来る。そういう《意味》が現われる。  (さ) ここから やがて オシエという代物も現われる。うんぬん。・・・  § 3 《神を知った》わけではなく 《神とわれとの関係》を 何とか経験思考において表現してみたものが 人間には持たれて来る。たとえば不老不死を願うところから 神については 永遠の生命といった当てはめが持たれる。知ったような感じになるということなのであろうか。  (し) ところで神は この経験世界に介入するか?   (す) 分かるわけがない。ただし ひとりの人間の主観内では 如何ようにもと言うほどに 説明書きが持たれる。それを共同化することは 出来ない。出来たら ほんとうに神は何であるかが分かったときだから。  (せ) 信仰は 非経験の場を マボロシとして心に受け容れるその受け容れることとしては経験的な意志行為である。そういう人間の特殊な現実である。  ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理(非経験)――信じる    世界事実(経験)――考える    主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 4 介入はしないが 神は人間とその世界にお節介を焼くのだろうか  (そ) 初めは 神とは何ぢゃい? と問うに過ぎなかった。それは なぜなら 《かみ》という言葉をわれわれは持って使っているからである。  (た) おそらくこの言語習慣という社会関係性がかかわっている。はずだ。コトバとしての事実が 《かみとわれとの関係》を どこかで成り立たせることになるのかも知れない。  (ち) ナゾの何ものかについて それでも それが何であるかを探り始めると言ったとき 説明として《絶対・無限・不可変性》などの概念が挙げられるのは それとして分かりやすいものと 大方の人は受け取るのではないか。  (つ) そこからは いろんな説明やら果ては神学体系やらが 繰り広げられて行く。     《〈わたしはある〉 それがわたしである》(エフエー アシェル エフエー)  こういう説明もある。これが 神のことだという。つまりコトバとしてはすでに 存在として受け留めた表現例である。  (て) はじめの想定も そこから無理にでも概念化して捉えることも その概念からさらに神論として説明を繰り広げるのも すべてすでに 非思考ではなく 思考の緑野における人間のしわざである。基本としては 思考(考える)と非思考(信じる)との区分がなされており このような思考におけるこころみは 限界のあることも分かっている。  (と) けれども ときどき このような神論を弄んで しかもその補助線こそが絶対だと錯覚して――または 自分はそうではないのに 錯覚したい人たちがいると見込んで その需要に応じるとうそぶくかたちで―― カミの商売を展開するヤカラも出て来る。不届き者があとを絶たない。  (な) つまり この不届き者が 組織宗教である。すでに信仰ではなくなっている。もぬけの殻であり この蛻の殻が けっこう好まれるようでもあるのだ。その内実は ムレタガリ症候群であろうか。  § 5 信仰は 心の解放をもたらすか  (に) 《心の解放》は 初めの神の――想定としての――定義の時点では 何の関係もない。  それでも 神は 社会の生活共同やその言語習慣とかかわりを持つと見た点にかんがみれば やはりいづれかの――神論の《発展》の――時点で この《心の解放》ともかかわりを持つということになるだろうか。  (ぬ) 言いかえると 主観内面における《神とわれとの言わばタテの関係》は けっきょくのところ社会における《人と人とのヨコの関係》と ほぼひとしいという様相を呈するようになる。こういうかたちで 心の問題が捉えられるし 扱われて行く。  (ね) いかにか? 《真理》も 説明書きのシルシであり 究極においては ナゾの何ものかは 何が何だか分からないのだから 神という言葉にしても真理にしても その他その他にしても みな 単なるシルシであり 補助線である。  (の) つまりすべてはシルシであるから 《何者かが存在している》ことも《介在している》こともないと言えばない。そして シルシとして・コトバとして 存在があると言えばあるし 介在していると言えば言えるかも知れない。  (は) 真理だから それに依拠するのだとか 神だからその存在は うるさいとか 感じるかも知れないとしても それは 問題にはならない。シルシをあやまって受け留めただけのことだ。そして しかも すべては 単なるコトバの問題として マボロシが介在していると見られるのかも知れない。  (ひ) 神にしてもその真理なり絶対なりの概念にしても その他その他の説明書きにしても みな コトバの世界である。かみというコトバが ナラワシとして流通しているから これを尋ね求める。その結果としても ただ《神と我れとの関係》というようなやはりコトバの問題に行き着いてしまう。――そして ただし その神とのタテの関係は 人とのヨコの関係にひとしい。どうしてそうなるか?  (ふ) このコトバの問題が 人間的現実であると捉えられるかぎりで 神がわれわれのあいだに・またとなりに 存在している。ここに もしそうとすれば《心の解放――こころがやわらげられ もともとの心に立ち帰る――》という主題が持たれるのか。  § 6 神は コトバの問題か。コトバがどうして心を解放するのか。  (へ) 《ナマス・テ》というあいさつが もし《わたしは あなたに帰依する》という意味であるのならば それは やはり《あなた》の内なるブラフマンなりマハーワイロ―チャナ・タターガタなりアミターバ・タターガタなりの神に帰依すると言っているのであるらしい。  (ほ) かくのごとく わが心なる非思考の庭における神とわれとのタテの関係は わたしとわたしの身の周りの人びとそれぞれとのヨコの関係と相い携えて 互いに入り組んでいる。互いにひとしい。  (ま) あるいはつまり あらゆる生命に ブッダター(仏性)がやどると言う。神の霊がはたらくと言う。  (み) 非経験の場なる神が その補助線としての説明表現つまりコトバをつうじて すでに経験現実にあたかもその影をひびかせている。か?  (む) そして神は 世界中でいかにその名が違っていても すべて同じひとつの非経験の場である。  (め) これが 神および信仰ならびに信仰の偽造物たる宗教にかんする一般理論である。としてよいか?  (も) かくしてわが日本のルネサンスが成れば――万葉集 いな 億葉集なる一人ひとりのウタが鳴り響くようになるならば――世界もめざめるか?

  • 神 信仰および宗教についての一般理論

     神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第一章 《信じる》と《考える》とを分けること   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      真理――信じる    事実――考える    真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 真理は 非経験の場――そういう想定です――である。事実としての経験事象を超えている。  2. 事実については 確かにそのいわゆる客観なる事実は じつは 人間の主観にとっては最終的な確実性においては 分からない。(つねに 未知の部分をのこす)。けれども 経験事象を認識すること・それについて考えること このことと事実とは 一対一において対応している。  3. 真理は 人間の能力によっては 認識し得ない。考えても それが何であるかについて分かるか分からないかが分からない。  4. ただし 事実が 主観によって認識され 主観真実の一環を占めるとき あたかも同じように 真理もそれが ともかく心に受け容れられて 主観真実を成すことになる。真理が 非経験の場であるとき これを受け容れたなら わが心に《非思考の庭》が成るという寸法である。信仰と呼ばれる動態である。  5. このとき 真理についても じつは・じつに 人間は《考える》ことを成す。たとえば 《真理とは 愛であり 慈悲である》とか 《この上なき善である》とか あるいは《真理はきみたちを自由にする》などなどです。  6. このとき 経験事実についての主観真実と 真理についての主観真実とが 紛らわしくなり 互いに混同されてしまうことが起きる。  7. ついには 真理についての《考える》の結果としての思惟や思想が オシエとして持たれ このオシエが あたかも真理そのものであると錯覚されるに到る。  8. 真理そのものを《信じる》のではなく そうではなくなり 真理についての誰かの主観真実としてのオシエが ついには《信じられる》という事態に発展してしまう。  9. まづは このマゼコゼについて 注意をはらうことが 大事ではないだろうか。信じると考えるとは 明らかに別のふたつのことがらである。  これを問います。