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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

このQ&Aのポイント
  • 信仰とまつりごとの関係についての哲学的な解釈を求める質問です。
  • まつりごとは社会の経験行為であり、信仰は内面の問題とされます。
  • カエサルのものはカエサルに返すべきであり、神のものは神に返すべきであるという見解について考えられます。

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noname#135843
noname#135843
回答No.3

 こんばんは、Hidocchiです。何かのご参考になればと思い、筆を取らせていただきました。 > (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。 > (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ 社会全般のにしろ 生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。  (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。  愚生は、自由にも、 ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  しかし、例外もあったろうかと推察しております。それは、生存(生命としての極限状態)にかかることでございます。つまり、天候の不具合が長期的に続き、大飢饉の中、かろうじて生き残った人たちにとりましては、一体感があったものと推察しております。このような状況下では、“感謝”という感情的部分が優先してしまい、理性的判断はなされなかったであろうとの推察からでございます。  また、いわゆる“感謝祭”なるものも、実情からは離れ、経験(歴史)の積み重ねから形式化してしまったものもあろうかと存じます。 > (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  厳密には、不可能と解しております。上記理由からでございます。 > (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか? 「マタイ22:15-22、/ マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26」  共通点としまして、税金に関わる問題かと思われます。つきましては、単純に“納税”のことと割り切るならば、その義務を国民が自らに課しているため(憲30条)、各自の社会的役目を果たそうという責任間・使命感だけの問題なろうかと思われます。  ただ、懸念事項もございます。以下は郷原氏の著作からでございますが、 ・この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。たとえば、市民と弁護士とを結ぼうとする企画を種々しているのだそうですが(市民の法律意識を高めるのが目的だそうです)、実際のところは、利用例は限られているようです。例えば、司法試験の改正により、多くの弁護士が輩出されているとのことですが、市民はあまり利用していない状況にあるそうです。 http://secondlife.yahoo.co.jp/supporter/article/Xm0R_CuANk9j1rcBDQ--/2772/   つまり、これらのシステムも“誰にも望まれていない制度”になってしまった観がございます。そもそも、今までが、“お上”志向でしたので、弁護士との付き合い方自体すら知らないのかもしれません(こちらは愚見でございます)。 ・無批判に盲信する現在の社会では、お上、メディアからの発言に、水戸黄門の印籠なるものを渡してしまっていること。  司法、メディアとの歴史的、風土的関係の結果からだと推察しております(愚見でございます)。 ・国民裁判員制度(4章 「官」「民」の裁判員制度推進の理由の違い からです)についての制度理由からです  この裁判員制度がどのような理由からできたのかの説明を郷原氏は説明しております。2つの内1つは、日弁連(「民」)の意向です。つまり、日本の刑事裁判は、すべての案件のうち99%が有罪になっているため、市民参加によりその是正を図ろうというものです。  もう一方は、国の意向です。この理由に関しましては、郷原氏(元検事)も詳細はわからないと述べています。ただ、推測として「司法に対する国民の理解と信頼につながる」とのべ、「司法」を理解・信頼してくれない現状を改善させるのが狙いだろうとのことです。極論を申しますと、「国民から選ばれた裁判員がこう判断した」という大義名分があれば,たとえそれが、後ほど、冤罪であったと判明しても、国民が選んだのだという言い訳が立つということでございます。 郷原 信郎著「思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本」講談社  ご参考になるところがあれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  (ω‐1~3)については 補強して確認していただきました。  (ω‐5)については 実情や実態について――やや心理的な側面であるようにも思いましたが――人びとの現実を指摘し分析したものをおしえていただきました。  強いて言えばこの(ω‐5)の現代日本人の現状について それは(ω‐4)の問題がからんでいるか――また(ω‐4)の分析じたいの正否の吟味を含めてですが―― これをうけたまわれればよかったかなとは思います。  そしてそれとともに歴史的な展望でしょうか。そういった方面にも伸びるのではないかとは思っております。  現代日本人の現状は おおまかに言って わたくしも  ★ この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。  ☆ と見方を同じくします。そしてすべてを端折って言ってしまうなら いづれどこかで 何らかのきっかけを得て この《お二階さんコンプレックス》は どんでん返しという事態を迎えるかも知れない。こうも思っております。特にその根拠はありません。予感です。  (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  ☆ について  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  愚生は、自由にも、  ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と  ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということが明確に確認できたならば ムラのまつりにおける神社とのかかわりも 問題になるかも知れません。ただ――と言うのもおかしな言い草ですが―― 日本人のあいだでは 神社であっても 内面の信仰には誰も触れないという暗黙の前提があるのかも分かりません。きちんと分かれていて 問題無しとなるのかも分かりません。  ★ 裁判員制  ☆ につきましては いちど《朝まで生テレビ》で取り上げていて聞いていました。意外とあまり意味や効果がないという意見も多かったようでした。いろんな事件を取り上げるのがよいなどの意見でした。そして殺人事件にかんしては やはり法律についての素人は素人すぎるのではないかでした。  うけたまわるだけで 議論を伸ばせられなくて残念です。  ★ 納税  ☆ にかんしましては その使い道について一般市民納税者がどこまで関与することができるか。これがさしあたっての課題でしょうか。あるいは政治家を介しての間接的な関与ということになるでしょうか。  (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  ☆ について  ★ まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。  ☆ と回答していただいたわけですが この為政者を介してかどうかを別として 《宗教団体に対して国民が縛りをかける》という側面については どうなんでしょうか。一たん自由意志において入会したなら 退会するのでない限り その組織内でのやり取りは 信仰内面の論議であっても 自由であるということになるでしょうか? これは前質問を受けての課題です。  ありがとうございました。  * それにしても 郷原さんのタイトルは 《思考停止社会》ですか。言いますねぇ。

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noname#135843
noname#135843
回答No.31

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。Hidocchiです。   > 襞をかき分け病原菌を見つけようという探究では鋭く迫って行かれます。それでもなかなか一筋縄では行かないということのようにも見受けられました。    確かに、一筋縄ではいかないようでございます。 「病原菌を見つける」? もしかしますと、愚生の専門がお分かりのようなのですね。やはり、文言には出さずとも、お分かりになる方には、わかるものなのですね。 > わたしは まだ思弁的に観念の分野で考えているかも分かりません。  いえいえ、思弁的観念の洞察力の深さはbragelonne様の真骨頂でございます。愚生などは足元にも及ばないと思っております。 > 生徒は疑問を持つものです。これを掲げさせていただきます。  もしかしますと、bragelonne様が“生徒”ということでしょうか? 愚生にはそのようなお教えできるようなものはもってはおりません(一応、先生と言われる職には就いてはおりますが)。ですが、微力を尽くしたいと思っております。  (1) 結社の自由 > ☆ ドイツは政治団体でなければ 宗教団体としての結社の自由は認められていると受け取っていましたし アメリカでも条文の規定がなくても自由なのだと採ったのですが それとは別に ご見解があるということですね。  どうなのでしょう。制限する・許可が必要だとするということでしょうか?     別段、深い意味はございません。ただ、以下のサイトの「問題点」の箇所では、「アメリカやドイツでは宗教活動に実質的に関連したものだけに限り優遇措置を適用するとしており、実際に優遇する際にはその団体が政治団体化、営利団体化しているかなどを審査するという」という記述が見られます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E6%B3%95%E4%BA%BA%E6%B3%95  実際、アメリカでも、宗教法人(religious corporation)は州等の認可が必要のようでございます(以下サイトをご参照くださいませ)。ただ、“アメリカでは、「結社の自由」を、わざわざ憲法にて条文化するほどのレベルの問題ではないと 考えられている。”と愚生は解釈致しております。従いまして、日本においても、憲法に盛り込む必要性はないものと思っております。 http://en.wikipedia.org/wiki/Religious_corporation  「Often these types of corporations are recognized under the law on a subnational level, for instance by astate or province government.」 > (3) 《信者を教化育成すること》  ★ 実を申しまして、この《信者を教化育成する》という言葉には、愚生も幾分、不快感を持っております。と申しますのも、必然的に、”直接内面にまで押し入ってしまう”から でございます。  ★ 13条に抵触する可能性が大きいと考えられるからでございます。  ▲ 憲法第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。  ☆ 十三条につきましては その規定が総括的でそのぶん抽象的であるように見受けますが かえって一般性をもってその《自由》はきびしいものがあると見るべきでしょうか。  これも愚見なのですが、信仰といった内面に潜在しているものにつきましては、その個人の人格面、また行動面の、両面において、かかわりを持っていると思うのです。従いまして、十三条の“個人”≒“信仰に培われた個人” と解しております。  つきましては、当然“信仰”と共に尊重されなくてはならない と考えている私大でございます。 > ☆ これにつきましては 同感です。《よく学力がついたね》と声をかけるのと 《信仰が深まったね / きみの信仰はゆがんでいるよ》と継続的に権限関係をともなって言い渡すのとでは どうも違うと思われるのです。褒めた場合でも 人格内面に土足で踏み入るという意味で内政干渉になるように思います。  信仰ではなく経験思想としてなら 深まった・片寄ったなどと批評しあってもよいと思います。 まさしく、仰るとおりかと存じます。 > ▲ 日本の経済、大丈夫? / 今の日本は危機的状況  ☆ という言葉を出しているようですね。非力を感じます。  この数値を見ますと、決して、明るい将来を日本で描くのは非常に困難かと思いました。No.34の回答者様が「哀れみを覚えた場合はどうですか?」との記述を見た際に、ふと次の言葉が頭をよぎりました。 ルカ 23章28節 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」  単なる気のせいであればいいのですが.....  ご一読いただきまして。厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

補足

 むつかしいですね。  今回は 特別に議論の分かれるところもないように思われ――あぁ Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます―― 日本経済のことも一般的な話であるはずでしょうから それほど議論の分かれる問題であるよりも施策にかかわるものとも思えるのですが 放っておける性格のものでもなく 何だかうっすらとした閉塞感のごとき・いくらか停滞感のような雰囲気が漂わないでもない。そんなまえがきを要請しているようにも感じました。  いつぞやほかの方の質問においてでしたか 環境ホルモンについて研究なさっているとか。病原菌は それででした。  ★ ただ、“アメリカでは、「結社の自由」を、わざわざ憲法にて条文化するほどのレベルの問題ではないと 考えられている。”と愚生は解釈致しております。従いまして、日本においても、憲法に盛り込む必要性はないものと思っております。  ☆ 分かりました。自由は自由なのですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これも愚見なのですが、信仰といった内面に潜在しているものにつきましては、その個人の人格面、また行動面の、両面において、かかわりを持っていると思うのです。従いまして、十三条の“個人”≒“信仰に培われた個人” と解しております。  つきましては、当然“信仰”と共に尊重されなくてはならない と考えている次第でございます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ そういう含みなのでしたか。逆に言うと・そして極論して言うと 信仰がなければ個人は互いに――社会の全体的な観点からは―― 《〈掛け替え〉が効く》とさえ見られる方向へ片寄るのかも知れません。と思いました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・No.34の回答者様が「哀れみを覚えた場合はどうですか?」との記述を見た際に、ふと次の言葉が頭をよぎりました。  ルカ 23章28節 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」  単なる気のせいであればいいのですが.....  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにつきましては 評言が出て来ません。はりつけにされる直前での発言ですよね。  ううーん。思いきって感じているところを述べますと たぶん十字架上に去ったあとでは その発言内容をどう捉えればよいかを思案するような話になる。こう思いました。つまり定まった中身を捉え難い。こうも感じています。  ペテロが鶏が鳴く前に三度イエスのことを否定すると言われていてそのとおりになった。これは イエスが去って復活したあとでは 意味がなくなるのではないけれど 過去のペテロ(つまり代表して弟子たち)の姿にかかわるものとなると思います。  おおまかに言って この婦人たちへの言葉も はりつけ前のペテロへの予言と同じような性質のもののように 思いたい気持ちがあります。  でも 意味が分からないための言い訳であるかも知れません。どうでしょう。  きょうは 所信表明の演説がありました。

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  • SOLAR_RAY
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回答No.30

 連続投稿となるが。  「時間」が与えられて居らず、と、「何時締められるかわからない」といった心境では、まともな回答も出来ないのだよ。どうだろうか?自分の都合が悪くなったらすぐに締めるということをしなければ、「宿題」に当っても良いと思うのだが。 もちろん、優位な立場でなければ「怖くて相手できない」と言うのであれば、拒否しても構わないが。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 自分の都合が悪くなったらすぐに締めるということをしなければ  ☆ たぶん そのように自分の都合だけでわたしが締めたとあなたがうたがったのは この前の質問からこの質問へ場を移したとき この一回きりであろう。これは むろん継続するかたちで場を移したのである。  質問を締めるときは むろん以前から情況を見てよいと判断して締める。  それでも 二週間投稿が途絶えたときに締めた場合でも なぜ締めるの? と言われたことはあった。いづれにしても わたしの場合は次の新しい質問をもうけているから だいじょうぶだとその人も知っていて言っているのだが。  ともかく 世間は世知辛く悪貨は良貨を駆逐するというけれど あなたもその影響を少なからず受けているようだ。こころが凍ってしまっている。解凍の必要があるという見立てである。宿題はそのためである。  《救う人》だからと言うよりも 旧い世代として責任がある。

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  • SOLAR_RAY
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回答No.29

 メンドクサイのでテキトーでよいですか?救う人がいてこそ救われる人の相手をするのも疲れます。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 救う人がいてこそ救われる人の相手をするのも疲れます。  ☆ 救う人がいなければ 救われる人の相手をうまく疲れることなくすることができる。こういう意味ですか?  そして 《救う人》というのは わたしのことですか?  だったら わたしに投稿してくることはないのでは?  被告でも何でもなく 《すくう人》なのだから。

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  • SOLAR_RAY
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回答No.28

brag6.(ヨハネ福音15:18~19)   世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。 ◇   ▲ ~ ―  こういった、記号やスペースを使ってわざとらしい演出をし、それらしい言葉を並べても、私には通じない。自分のない、おバカさんを騙せてもね。  要は「私を憎んだら世から憎まれまれるぞ、どぢゃ!参ったか」と言いたいようで。 「えーい、パウロは止めて、やっぱ よはねだ!どうだ!」ということみたいで。 brag7.反撥をおぼえたなら 当面のちからになるだろう。 ◇哀れみを覚えた場合はどうですか?

bragelonne
質問者

お礼

 解釈がちょっとずれたようで。  たしかにふつうの日常の会話に出てくる話ではないが ほぼそのまま受けとめればよいようだよ。ただその意味内容にあんたは反撥すると思ったのさ。  ◇ 哀れみを覚えた場合はどうですか?  ◆ 自分で考えなさい。  

bragelonne
質問者

補足

 直前の補足欄に述べたように まだ訓練が必要のようである。  分かっていることでもいちいち対応しておかないと 前へ進まないようだ。  その一点のみだが 次のようである。  ★★ (【Q:農耕の神クロノス=サトゥルヌス】) ~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5389895.html  (No.14お礼欄)   β1.もし《能力に非常に大きな開きがある》というのであれば なぜわたしの質問は《答えを自らの中に持っている》ことになるのでしょう?    ◇1.《答えを自らの中に持っている》 ことの、証明がなされていない。精神錯乱者が妄想を以って「私は答えを持っている」という事も可能である。今までの自家撞着を見ても、間違った前提であると判断できる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いいかい 《わたし( brag. )の質問は 答えを自らの中に持っている》と言ったのは ki何とかという人間である。これで問題は氷解するであろう。  いいかい。いちどこころを白紙に戻しなさい。と言っても 容易にできるものではない。けれども そういう考えをあたまの片隅にでも置いておくと いい効果が現われるはずだ。  ki 何とかさんの議論は あそこのスーパーでは安いよ こちらでは高いよ 安くできるのは店長の能力がすぐれているからだよ その秘密はねうんぬんというたぐいの世間話である。その範囲を出ない。  よく読みよく考えるようにしなさい。知能指数などは関係ない。白紙から出発しなさい。何でも吸収できるから よくものが見えてくる。要らんものは 棄てるようにしなさい。大事なものごとを自分の宝のように積み重ねていくとよい。  おまけとしては それをだれのために・何のためにやるか。これをも考えてすすむと おもしろいはずだ。しばらくは モウレツにつとめてみなさい。

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  • SOLAR_RAY
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回答No.27

brag1.《裁判官》であるなら 判決文を示しなさい。ほかのところの文章ぢゃ恥づかしいよ。 ◇理由は書いている。良く読みなさい。痴漢をして恥ずかしいのはおまえである。 brag2.裁判官であってもなくても 口先だけの文章からは卒業しなさい。 ◇痴漢行為(に該当する)の常習犯が、自分で言う言葉ではない。 brag3、質問を《締める》のとあんたに《あばよ》とは別のことだ。 ◇それでは、まずおまえから見本を示せ。私の質問に「出て」こないとでも言うのか? brag4.《発酵》という言葉が適切でなかったなら意を汲んで受け取りなさい。 ◇「意を汲め」とは浅ましい人間が自分で言う言葉ではない。 brag5.泣いているのか。 ◇自分の心情を表しているようで。

bragelonne
質問者

お礼

 ◇ それでは、まずおまえから見本を示せ。私の質問に「出て」こないとでも言うのか?  ◆ 見本を示せということで。  どの質問であろうと 自由に投稿する。あんたの質問の場合 名誉を守るために必要なときには投稿する。  あとは ほんとうに何が知りたいか 何が訊きたいか これを胸に手をあてて考えた結果 たずねて来なさい。

bragelonne
質問者

補足

 SOLAR_RAY くん きみは――ほかのところで知ったのだが――そうとう人間不信に陥っているようだね。  ただ洗脳されているだけだと思っていたが 少し解凍が必要なようだ。  たとえばきみは 破廉恥だとか痴漢ということばを出すが いちど次のような議論によく耳を傾けて考え抜いてみたまえ。得るものがあるはずだ。  ▲ (アウグスティヌス:情欲について) ~~~~~~~~~~~~~~  だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な価値判断によって)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。   * 《このようなもの》とは 端的には 情欲です。一般化して    《理想のようなもの あるいは 理念とその美 これらのたぐいを   みづからに心地よい観念としての想像をとおして その表象に自分   から依り憑いていく心の片向き つまりは その弱さ》です。  それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。  しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。  魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。  自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。  (アウグスティヌス:『三位一体論』中澤宣夫訳 12・10)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 【Q:情欲は 罪ですか(続編)】  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4172511.html  宿題である。

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  • SOLAR_RAY
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回答No.26

訂正:  良心に苛まされて脂汗をかかいている  ⇒良心の呵責に苛まされて脂汗をかいている 

bragelonne
質問者

お礼

 よく気がついたね。

bragelonne
質問者

補足

 ▲ (ヨハネ福音15:18~19)~~~~~~~~~~~~~~~~~   ――・・・世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわた    しを憎んでいたことを覚えなさい。     あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内とし    て愛したはずである。     だが、あなたがたは世に属していない。     わたしがあなたがたを世から選び出した。     だから、世はあなたがたを憎むのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  反撥をおぼえたなら 当面のちからになるだろう。

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  • owlsjp
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回答No.25

brag1.いつから裁判官になったんだい。《たとえば》とはどういうこったい? ◇1.《たとえば》は、例えばです、そのままの意味です(辞書引いてね)実際、「原告」はたくさん居ますが。 brag2.どうころんでも あばよだ。 ◇2.不利になるとすぐさま締めるのはいつものことです。ご自由に♪ しかし、「智恵を共有してくれ、分けてくれ!うわーん(泣)」と申し出ている質問者であれば、「何時締めます」と宣言するのが普通だと思うのだが。 brag3.だいじょうぶ。もうすでに《慈悲の放射もどき》は こころにじゅうぶんしみ込んでおる。あとは 発酵してきて こころのもぢゃもぢゃを溶かすのみ。 ◇3.例えば、怒りをすぐに処理せずに発酵させると憎しみ、恨みとなります。悲しみを発酵させれば 切なさ になるでしょう。従い、「溶かす」事にはならず、bragelonne君の勘違いであると言うことだ。 brag4.ちいっと痛みをもともなうかも知れん。自業自得と知りなさい。耐えられぬ試練は課されないから 心配するな。一丁上がりぃー。 ◇4.イタいのは質問者さんの普段の在り方と今の心情のようで。

bragelonne
質問者

お礼

 《裁判官》であるなら 判決文を示しなさい。  ほかのところの文章ぢゃ恥づかしいよ。  裁判官であってもなくても 口先だけの文章からは卒業しなさい。  質問を《締める》のとあんたに《あばよ》とは別のことだ。  《発酵》という言葉が適切でなかったなら意を汲んで受け取りなさい。  泣いているのか。

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  • SOLAR_RAY
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回答No.24

γ1.どこの文章がどのように《自家撞着》しているのか分からぬ。わたしが某氏の《自家撞着》を指摘したことをどう扱おうとしているのか。そのあと先とは どういう意味か? さっぱり分からぬ。 ◇「わしは正しい、どぢゃ!」という心的態度、基本姿勢を治さないと何を指摘しても、何を言っても「わからぬ!わからぬのぬぢゃ!うわーん(泣)」ということになります。 γ2.★ 「反省」が かちん ときましたか。☆ 《あばよ》がやっぱしこたえたようだ。 ◇《あばよ》といくら被告人が言ったところでこの通り、いつでもこうやって尋問を続けることが出来ます。従い、《あばよ》は無効です。例えば(例えばです)裁判官にむかって被告人が「あばよ」と言って逃げようとしても逃げられません。  というわけですので、「かちん」ではなく、良心に苛まされて脂汗をかかいている と言ったほうが適切でしたね。 α:いずれにせよ、パソコンの前にずーっと張り付いたままでは  ☆お気の毒ですよ☆

bragelonne
質問者

お礼

 あんたも洗脳された口か。それも三者の文体が似ているしるしのようだ。  いつから裁判官になったんだい。《たとえば》とはどういうこったい?  ほんとうにそうだとは言えないから 《たとえば》か。では うそで《裁判官である》とは どういうこったい?  どうころんでも あばよだ。  だいじょうぶ。もうすでに《慈悲の放射もどき》は こころにじゅうぶんしみ込んでおる。あとは 発酵してきて こころのもぢゃもぢゃを溶かすのみ。  ちいっと痛みをもともなうかも知れん。自業自得と知りなさい。耐えられぬ試練は課されないから 心配するな。一丁上がりぃー。  * 《◇「わしは正しい、どぢゃ!」という心的態度、基本姿勢を治さないと何を指摘しても、何を言っても「わからぬ!わからぬのぬぢゃ!うわーん(泣)」ということになります。》という《◇「わしは正しい、どぢゃ!」という心的態度、基本姿勢を治さないと何を指摘しても、何を言っても「わからぬ!わからぬのぬぢゃ!うわーん(泣)」ということになります。》という《◇「わしは正しい、どぢゃ!」という心的態度、基本姿勢を治さないと何を指摘しても、何を言っても「わからぬ!わからぬのぬぢゃ!うわーん(泣)」ということになります。》よ。

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noname#117439
noname#117439
回答No.23

オコリザルです。 けんか腰パート2です。 かの権現様のお言葉はどこかで聞いたようなお言葉のみで塗り固められており、要するに誰の弟子にでもなるようです。 ここで問題になるのがbragelonneさんが、ペットを飼ったことが無いことでしょう。 すでに高次元の霊体そのものと化していますので、人間とは考えないで、珍獣として飼いならしてはいかがでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。  残念ながら  ★ 人間とは考えないで、珍獣として飼いなら  ☆ す趣味はないですね。  人間は人間として見ます。  人間ではない状態に陥った人間というふうに見ることはあります。  むかしは 人間以前の状態にある人間とも見ることがありました。  いづれにしましても おっしゃるようにペットを飼ったことがないですし 珍獣を飼うことに興味はないですね。  つまり 放っておくということだと思います。少しでも意味がとれる部分で対話をすすめます。  そういったところでしょうか。

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  • SOLAR_RAY
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回答No.22

 おやおや、最後っ屁ではなかったようだね。 β1.何が先で 何を反省せよと?  自家撞着の後先の問題ですよ、しかし反省だけなら☆さる☆でも出来ますね「反省」が かちん ときましたか。 β2.★ 最後っ屁はクサかったということで。☆ あぁ わたしの《あばよ》がこたえたということか。 ◇実際には《あばよ》ではない(bragelonne君が決められることではないと言う意味において) 嘘っ屁 が「クサ」かった、それで大体間違いないよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   β1.何が先で 何を反省せよと?  自家撞着の後先の問題ですよ、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ どこの文章がどのように《自家撞着》しているのか分からぬ。  わたしが某氏の《自家撞着》を指摘したことをどう扱おうとしているのか。そのあと先とは どういう意味か? さっぱり分からぬ。  ★ 「反省」が かちん ときましたか。  ☆ 《あばよ》がやっぱしこたえたようだ。

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  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    まづ信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。 要するに《現人神なり》と言っています。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。 けっきょく なぜ ゆるされているのですか。

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

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     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

  • 《アルケーの神と一体となる》ことは・・・

     一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。  つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。  《真理は きみたちを自由にする》と。   ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか?  これが問いです。  《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。  つまり この問いに対して   □ 断じて 見返りではない。  という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?