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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

このQ&Aのポイント
  • 信仰とまつりごとの関係についての哲学的な解釈を求める質問です。
  • まつりごとは社会の経験行為であり、信仰は内面の問題とされます。
  • カエサルのものはカエサルに返すべきであり、神のものは神に返すべきであるという見解について考えられます。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#135843
noname#135843
回答No.3

 こんばんは、Hidocchiです。何かのご参考になればと思い、筆を取らせていただきました。 > (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。 > (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ 社会全般のにしろ 生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。  (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。  愚生は、自由にも、 ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  しかし、例外もあったろうかと推察しております。それは、生存(生命としての極限状態)にかかることでございます。つまり、天候の不具合が長期的に続き、大飢饉の中、かろうじて生き残った人たちにとりましては、一体感があったものと推察しております。このような状況下では、“感謝”という感情的部分が優先してしまい、理性的判断はなされなかったであろうとの推察からでございます。  また、いわゆる“感謝祭”なるものも、実情からは離れ、経験(歴史)の積み重ねから形式化してしまったものもあろうかと存じます。 > (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  厳密には、不可能と解しております。上記理由からでございます。 > (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか? 「マタイ22:15-22、/ マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26」  共通点としまして、税金に関わる問題かと思われます。つきましては、単純に“納税”のことと割り切るならば、その義務を国民が自らに課しているため(憲30条)、各自の社会的役目を果たそうという責任間・使命感だけの問題なろうかと思われます。  ただ、懸念事項もございます。以下は郷原氏の著作からでございますが、 ・この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。たとえば、市民と弁護士とを結ぼうとする企画を種々しているのだそうですが(市民の法律意識を高めるのが目的だそうです)、実際のところは、利用例は限られているようです。例えば、司法試験の改正により、多くの弁護士が輩出されているとのことですが、市民はあまり利用していない状況にあるそうです。 http://secondlife.yahoo.co.jp/supporter/article/Xm0R_CuANk9j1rcBDQ--/2772/   つまり、これらのシステムも“誰にも望まれていない制度”になってしまった観がございます。そもそも、今までが、“お上”志向でしたので、弁護士との付き合い方自体すら知らないのかもしれません(こちらは愚見でございます)。 ・無批判に盲信する現在の社会では、お上、メディアからの発言に、水戸黄門の印籠なるものを渡してしまっていること。  司法、メディアとの歴史的、風土的関係の結果からだと推察しております(愚見でございます)。 ・国民裁判員制度(4章 「官」「民」の裁判員制度推進の理由の違い からです)についての制度理由からです  この裁判員制度がどのような理由からできたのかの説明を郷原氏は説明しております。2つの内1つは、日弁連(「民」)の意向です。つまり、日本の刑事裁判は、すべての案件のうち99%が有罪になっているため、市民参加によりその是正を図ろうというものです。  もう一方は、国の意向です。この理由に関しましては、郷原氏(元検事)も詳細はわからないと述べています。ただ、推測として「司法に対する国民の理解と信頼につながる」とのべ、「司法」を理解・信頼してくれない現状を改善させるのが狙いだろうとのことです。極論を申しますと、「国民から選ばれた裁判員がこう判断した」という大義名分があれば,たとえそれが、後ほど、冤罪であったと判明しても、国民が選んだのだという言い訳が立つということでございます。 郷原 信郎著「思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本」講談社  ご参考になるところがあれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  (ω‐1~3)については 補強して確認していただきました。  (ω‐5)については 実情や実態について――やや心理的な側面であるようにも思いましたが――人びとの現実を指摘し分析したものをおしえていただきました。  強いて言えばこの(ω‐5)の現代日本人の現状について それは(ω‐4)の問題がからんでいるか――また(ω‐4)の分析じたいの正否の吟味を含めてですが―― これをうけたまわれればよかったかなとは思います。  そしてそれとともに歴史的な展望でしょうか。そういった方面にも伸びるのではないかとは思っております。  現代日本人の現状は おおまかに言って わたくしも  ★ この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。  ☆ と見方を同じくします。そしてすべてを端折って言ってしまうなら いづれどこかで 何らかのきっかけを得て この《お二階さんコンプレックス》は どんでん返しという事態を迎えるかも知れない。こうも思っております。特にその根拠はありません。予感です。  (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  ☆ について  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  愚生は、自由にも、  ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と  ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということが明確に確認できたならば ムラのまつりにおける神社とのかかわりも 問題になるかも知れません。ただ――と言うのもおかしな言い草ですが―― 日本人のあいだでは 神社であっても 内面の信仰には誰も触れないという暗黙の前提があるのかも分かりません。きちんと分かれていて 問題無しとなるのかも分かりません。  ★ 裁判員制  ☆ につきましては いちど《朝まで生テレビ》で取り上げていて聞いていました。意外とあまり意味や効果がないという意見も多かったようでした。いろんな事件を取り上げるのがよいなどの意見でした。そして殺人事件にかんしては やはり法律についての素人は素人すぎるのではないかでした。  うけたまわるだけで 議論を伸ばせられなくて残念です。  ★ 納税  ☆ にかんしましては その使い道について一般市民納税者がどこまで関与することができるか。これがさしあたっての課題でしょうか。あるいは政治家を介しての間接的な関与ということになるでしょうか。  (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  ☆ について  ★ まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。  ☆ と回答していただいたわけですが この為政者を介してかどうかを別として 《宗教団体に対して国民が縛りをかける》という側面については どうなんでしょうか。一たん自由意志において入会したなら 退会するのでない限り その組織内でのやり取りは 信仰内面の論議であっても 自由であるということになるでしょうか? これは前質問を受けての課題です。  ありがとうございました。  * それにしても 郷原さんのタイトルは 《思考停止社会》ですか。言いますねぇ。

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その他の回答 (90)

noname#117439
noname#117439
回答No.21

オコリザルです。 けんか腰で他の方を引き合いに出させていただきます。 たとえば、某氏のA20での発言。 これは彼の高次元の霊体の権現様としての霊験の発露です。 かように、人さまをおいそれと神様扱いすると、当人はクルクルパーになってしまい非常に困ります。 本当は当人が一番困る筈ですが、ご容態はいかがなんでしょうかねえ。

bragelonne
質問者

お礼

 オコリザルさん 今回のご趣旨は残念ながら読み取りにくいです。  回答No.20が読み取りにくいものですが  ★ 高次元の霊体の権現様としての霊験の発露  ☆ これも分かりづらいです。  分かるようになるまで 静観します。

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  • SOLAR_RAY
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回答No.20

γ1.  β4.★★ 従い、他者が自分の「在り様」について言及することに対して、批判、非難するのは控えたほうが良いでしょう。  ☆☆ おれさまの言うことをすなおに受け容れよという意味?   ◇いいえ、自分が相手の言った内容についてでなく、相手の在り様についてどうこう言っているのだから、「他者が自分の「在り様」について言及することに対して、批判、非難するのは控えたほうが良いでしょう。」という意味です。  ☆ ぢゃあ 勝手に投稿しつづければ? でおしまいだ。あばよ。 ◇時間で考えればbragelonne君が先であるわけだから、反省してくださいということで。最後っ屁はクサかったということで。

bragelonne
質問者

お礼

 何が先で 何を反省せよと?  ★ 最後っ屁はクサかったということで。  ☆ あぁ わたしの《あばよ》がこたえたということか。

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noname#135843
noname#135843
回答No.19

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。Hidocchiです。   > ○ 思想・良心の自由 と 信教・良心の自由  ☆ につきましては したがって 信教・良心の問題領域とそして思想を含むそのほかの領域というふうに分けたいと思いました。 > いまは信仰内面の問題に限りたいと考えます。  了解致しました。  ”結社の自由”は以下の原本(1946年版)の「association」から来ているようでございます。いっそのこと、この「association」を削除してしまってもいいのではないかと思った次第でございます。必要な他の団結等は28条で保障されていますし、またこの” 結社の自由”が条文化していない国もあるからでございます。いかがでしょうか? Article 21.    Freedom of assembly and 「association」 as well as speech, press and all other forms of expression are guaranteed.    No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated. ソース:http://homepage3.nifty.com/constitution/materials/econst.html  > さて宗教団体ですが ひとつの定義を掲げていただきました。  ▲ 宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成する  これは、宗教法人法 2条をそのままコピーペーストしたものでございます。もう少し、わかりやすく明記しておくべきでした。深く反省しております。 宗教法人法:http://www.houko.com/00/01/S26/126.HTM  以下の著作に逐条解説が付記されているようでございます。 渡部蓊著 「逐条解説 宗教法人法」出版社: ぎょうせい; 第4次改訂版版 (2009/06)  著者は元文科省(全国的宗教法人の許認可庁)の役人さん、また出版社の沿革から、ほぼ政府の公式見解といってもいいのかもしれません。ただ、高価であったため、購入は控えさせていただきました。大きい本屋さんで、中身を見てみたいと思っております。  ですが、せっかくのコメントを頂戴したため、愚見を、お許し願いたく存じます。なお、繰り返しになりますが、愚生は、”結社の自由”には同意しない者でございます。 > (1) 《教義をひろめる》ことは すでに信仰内面の領域から外に出かけている。なぜなら 教義は概念をとおして表象しうることがらを扱っている。それは それそのものとしては いわゆる信念になる。観念にかかわっている。信仰は観念になる以前の段階を言う。――だから それゆえに 結社が自由だと見なされているのでしょうか?  おそらく、キリスト教で申しますと、”聖書”の普及もしくは、その一節の普及活動のようなものかと考えております。「観念になる」前段階の単なる”知識”、”活動の基礎概念”といったことかと解釈致しております(あくまで愚見でございます)。従いまして、この言葉のみでは、あまり支障は来さないものと思っております。  > (2) 《信者を教化育成する》ことは もし上の教義を介してなのだと言われれば それは外面における社会行為の問題にとどまるという弁解が成り立つかに思われます。内面における良心や信教を直接には問わないのだという弁明です。――だからこそ結社は自由なのでしょうか?  実を申しまして、この《信者を教化育成する》という言葉には、愚生も幾分、不快感を持っております。と申しますのも、必然的に、”直接内面にまで押し入ってしまう”から でございます。 > ☆ 最もいぢ悪く見た場合には この人格への刷り込みやその誘導が おしえのためには 自由だという内容を 《結社の自由》は構造的に(つまり偶然的にではなく必然的に)認めているのではないかと疑われることです。  全く、「いぢ悪く」はないと察せられます。13条に抵触する可能性が大きいと考えられるからでございます。愚生は、日本国憲法の中では、13条が最も重要な条文と考えております(愚生は、原則”改憲派”ですが、当13条につきましては、残しておくべきかと考えております)。  繰り返しになってしまいますが、“宗教法人法”に関しまして、その歴史的経緯等から調査していく必要性を再認識した次第でございます(ですが、これらの詳細な情報は、ウェブでの検索は困難のように察せられました)。 > * きのう(きょうの早朝)朝まで生テレビで 若者の問題を扱っていましたが そこで東浩紀が 直接政治制について語っていました。つまり納税・歳出の管理や監視にもからめてでした。  ご覧になっておられたのでか。  愚生も途中からではございましたが(30分遅れ)で見ました。まづ、東氏の説明能力に は驚きました。ただ、「有権者からの選択の余地が少なすぎる(ネットからの直接民主制導入案)」といった趣旨の発言をされていましたが、選挙制度の点から、困難であるかと思われました(将来のことは分かりませんが、日本は、かような大選挙区制には移行しないと思っております)。他の田原氏から左側に座っておられるひとたちは、内容自体にはそんなに違和感のあるものはございませんでしたが、あまり巧くはなかったような......  左側のぱん『がんばれ とはいわないでくれ」 との発言がありましたが(発言者は誰だったかは忘れてしまいました)、東氏の解説が加わることにより他のひとたちも、納得するようになってったからでございます(30から40歳の自殺者数が上昇しているため、愚生には、ある程度、意味するところは理解できましたが)。  ですが、年収200万のひとが1000万人以上と聞いたときには、驚かされました。愚生も確認をとってみましたが、事実のようでございます。 http://news.ameba.jp/trend-gyao/2008/09/18348.html   ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。さすが 襞をかき分け病原菌を見つけようという探究では鋭く迫って行かれます。それでもなかなか一筋縄では行かないということのようにも見受けられました。  わたしは まだ思弁的に観念の分野で考えているかも分かりません。  生徒は疑問を持つものです。これを掲げさせていただきます。  (1) 結社の自由  《 association 》でしたか。ヨーロッパ風の言葉に感じています。アメリカではどう言うかいまは感覚が鈍くなっていますが これでしたら ほとんど《社会(また会社)》と同じ意味であるようにも思いました。  ★ なお、繰り返しになりますが、愚生は、”結社の自由”には同意しない者でございます。  ☆ ドイツは政治団体でなければ 宗教団体としての結社の自由は認められていると受け取っていましたし アメリカでも条文の規定がなくても自由なのだと採ったのですが それとは別に ご見解があるということですね。  どうなのでしょう。制限する・許可が必要だとするということでしょうか?   宗教団体につきましては 次に移ります。  (2) 《教義をひろめること》  ★ おそらく、キリスト教で申しますと、”聖書”の普及もしくは、その一節の普及活動のようなものかと考えております。「観念になる」前段階の単なる”知識”、”活動の基礎概念”といったことかと解釈致しております。   ☆ 但し書きとしては 〔新約〕聖書が編まれるまでは 口伝えの伝道だったわけです。そしてその場合は 《教義》といった固定したものではなく 人間としての一対一のかたちにおける信仰ないし人格全体の対話だったと捉えられます。  聖典の普及ないしその知識のひろまりと見なすということのようですね。  (3) 《信者を教化育成すること》  ★ 実を申しまして、この《信者を教化育成する》という言葉には、愚生も幾分、不快感を持っております。と申しますのも、必然的に、”直接内面にまで押し入ってしまう”から でございます。  ★ 13条に抵触する可能性が大きいと考えられるからでございます。  ▲ 憲法第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。  ☆ 十三条につきましては その規定が総括的でそのぶん抽象的であるように見受けますが かえって一般性をもってその《自由》はきびしいものがあると見るべきでしょうか。  ★ 必然的に、”直接内面にまで押し入ってしまう”  ☆ これにつきましては 同感です。《よく学力がついたね》と声をかけるのと 《信仰が深まったね / きみの信仰はゆがんでいるよ》と継続的に権限関係をともなって言い渡すのとでは どうも違うと思われるのです。褒めた場合でも 人格内面に土足で踏み入るという意味で内政干渉になるように思います。  信仰ではなく経験思想としてなら 深まった・片寄ったなどと批評しあってもよいと思います。  (4) 直接民主制  これは――かんたんに触れるのみですが―― 選挙制度としては 東氏も言っていましたが 規模の問題があるようですね。  公共のことがらについては やはり原則として 情報は言うに及ばずその結果に到る議論と議決の過程をも公開するのがよいと考えます。  ★ 年収200万のひとが1000万人以上と聞いたときには、驚かされました。愚生も確認をとってみましたが、事実のようでございます。  ▲ 日本の経済、大丈夫? / 今の日本は危機的状況  ☆ という言葉を出しているようですね。非力を感じます。

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noname#117439
noname#117439
回答No.18

オコリザルです。 A22に続いて。 >カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい 要するにそのような分別を、自発的につけてもらわないと耐え切れないほど辛い。 と、なります。 神様扱いは人を狂わします。

bragelonne
質問者

補足

 オコリザルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回は 憶測を交えるというよりは 雑談風に――あるいは 文学風に――語ります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい  要するにそのような分別を、自発的につけてもらわないと耐え切れないほど辛い。  と、なります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かりました。哲学として了解した上で 話を添えてみます。  ひとつには 一般にひとびとはこういう区別はわかっていると思いますよ。分別がないわけではない。  問題は その人びとも言わばお遊びであるかも知れません。つまりかれらも文学風に語ってみているのかも知れません。つまりそれは  ★ 神様扱いは人を狂わします。  ☆ の問題です。言いかえると そういうふうにひとを神だなに祀り上げてみるというわけです。  神棚に祀り上げると言えばどこかで聞いたことのある文句です。スサノヲ市民たちは どうしても人びとの目が自分に集中していないと生きて行けないという通称アマテラス族に対して 世の中に特別に上座をつくって あなたがたはかみさまですから どうぞこのお二階にお住みくださいと言って遇しました。  オコリザルさんが アマテラス族であるかどうか あるいはアマテラス族を演じているのかどうか それは知りませんが どうもそういうふうに待遇するくせが 人びと一般にはついてしまっていて ともかくそういう反応をしてしまう。驚異の出来事に出遭ったなら その当人をつかまえて神だなに挙げてしまう。  その理由にはいろいろあると思います。やっかみ。おどろき。まゆつばだと思うから。おそれ多いと思うから。うそでしょう? そんなことを人間が分かるわけないでしょう? という気持ちから そんなら神さんにでもなっていてください。という。その他その他。  でも こうも考えられます。  ○ ひとは だれでも そのひとかけらにおいては 神である。  ☆ そのしるしがひとより多く現われ出ているなら とうぜん目を凝らして見守ります。もっとそのしるしを多く現わしてほしいと思っているかも知れないし ちょっとそのしるしを見てしまうとこわいので おとなしくしていて欲しいと思っているかも知れません。  でも だれでも――仏性があるのであれば―― 多かれ少なかれ 神ですよと言い返してあげればいいかも知れません。  ただしここに述べたことをそのままおこないに移すオコリザルさんでないことは分かっていますので 文学談義でした。

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  • SOLAR_RAY
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回答No.17

β1.そうですか。それにしても 三者は 同じような文体である。 ◇そうですか、真理を極めれば、あるいは認識を極めれば、同じような認識に至り、それに従って同じような思考による、同じような文体になるのかもしれないですね。それに、「同じような文体」には、私からは見えません。とにかく、妄想が始まったのであれば、他者をどうこうしようとするより、やはり自らのぼけてきたアタマを治すのが賢明でしょう。 β2.★ なにしろ、言葉による理論的な話し合いはもうできないのだから。☆ えええええええっ? いつからそうなったの? ◇日本人は死んだのでしょうか?という質問からです。そこで初めておまえの質問に対して回答をしましたからね。  最近の例を挙げれば、「お前に心はあるのか」と言ったことにも、表されています。 β3.それぢゃ回答にも投稿にもならないのでは? ◇「在り様」を指摘するのが「回答にも投稿」にもならないと言うなら、それはやはり勘違いでしょう。  「どうしてそのような質問をするのか」ということに対する回答だと理解しましょう。 β4.★ 従い、他者が自分の「在り様」について言及することに対して、批判、非難するのは控えたほうが良いでしょう。  ☆ おれさまの言うことをすなおに受け容れよという意味?  ◇いいえ、自分が相手の言った内容についてでなく、相手の在り様についてどうこう言っているのだから、「他者が自分の「在り様」について言及することに対して、批判、非難するのは控えたほうが良いでしょう。」という意味です。従い、 β5.受け容れるの容れないの へのかっぱをどうしろこうしろもないでしょう。 ◇この主張は自動的に却下となりました、あしからずご了承願います。 β6.▲ 先の者があとになり あとの者が先になる。☆ 思い出したかな? ◇これは、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5311248.html  の、No.17のお礼欄での言葉ですね。  しかし、それならこの質問のNo.1(なぜか削除されたが)で自分で書いたように、 β0.☆いちど伝えたように 上と下と捉えるのではなく 先と後と捉えるようにするといいだろう。 ◇のとおり、自分で何かの本を読んで持ち出してきた「二階建て思想」で考えず、時間で考えたほうが良いでしょう。ご愁傷様です。 β7.☆ そうですよ。そのとおりです。――こう答えればよいのかな。 ◇これは、「わしも屁理屈を言っている人間に対して在り様を述べているだけだ」と、主張したいのですね、しかしいつも指摘されて逆上し、他者に対して「おまえに心というものがないのか」などとキレて反論しているのは お ま え だ と言いたいですね。   *   *   * ◇相手が黙ったからと言って、「逃げた」とか「相手が納得した」 とか、「正義は勝つんだ」とか、「相手は信服した」とか、思っているようでしたら、それは勘違いである と言っておきます。単に辟易(へきえき:辞書引いてね。)し、距離を置いているだけのケースがほとんどであるでしょう。残りの2、3%(おそらくそのくらい)が、「納得」「同意」して、囚われ、対応しているだけです、指摘、批判している人意外は。そうやって、ムラをつくり、また欺瞞誤謬を形成する社会を、人は作り出していきます。他者を排除しながら。これは、いわゆる天から落ちたスサノヲの国造りに相当するものではないでしょう。実際、作ったのであればそうであるかもしれませんが、単なる痴漢程度の卑怯な犯罪を犯し続けている人間は、新しい土地で自分の世界を作る(任せられる)ことさえ出来ないでしょう。  少なくとも、スサノヲが暴れた理由は、身勝手な自己主張によるものではないだろうと、思います。ここが、スサノヲとスサノヲもどきの決定的な違いでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  β4.★★ 従い、他者が自分の「在り様」について言及することに対して、批判、非難するのは控えたほうが良いでしょう。  ☆☆ おれさまの言うことをすなおに受け容れよという意味?   ◇いいえ、自分が相手の言った内容についてでなく、相手の在り様についてどうこう言っているのだから、「他者が自分の「在り様」について言及することに対して、批判、非難するのは控えたほうが良いでしょう。」という意味です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ぢゃあ 勝手に投稿しつづければ? でおしまいだ。あばよ。

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noname#117439
noname#117439
回答No.16

オコリザルです。 人は人にも当然感謝できますが、感謝をささげたくなる瞬間が人にも自然界にもよらないで、神にささげる祈りとなるほかは無いことは多いと思います。 このような、 その感謝は私に向けるのではなく、神にささげる祈りであるべきです。 と、言いたくなるようなことは、日常で他者に対して自らの行いの意味に気付かせる助言を繰り返す私には多いです。 それでも、あくまでも私に感謝を押しつけるのがいい迷惑なんですよ。 キレて教祖様にでもなってぼったくりたくなる事もあります。 なぜなら、 その感謝は私に向けるのではなく、神にささげる祈りであるべきです。 と言うと、その神様とは何処ですか。 なんて聞かれかねないです。 ですからはっきり神に、、、なんて言えません。 言ったら負けです。 教祖様扱いです。

bragelonne
質問者

お礼

 オコリザルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回書いておられる内容については これだけでは判断が無理ですね。そう思います。  憶測で物を言うことになります。  たとえば   ★ 教祖様扱いです。  ☆ というのは いわゆる神棚に挙げるという行為をしているのかも知れません。何か いえ 何でも言い当てるというので言ってみれば気味悪がって 敬遠するかたちですね。  あるいは ほんとうにありがたがって感謝を述べたいということでしょう。  ★ 日常で他者に対して自らの行いの意味に気付かせる助言を繰り返す  ☆ ここも微妙のように思います。上に述べたように そんなことを考えたこともなかったということに気づかせてくれてありがとうと言ってくるのか。  それとも そんなことまで考えたくないのに 考えてみれば当たっている でもそんなことをいつも思ってなどいたくない どうか神だなにあなたをまつることにしますから あまり指摘をしないようにして欲しいと言っているのか。  でも分からないです。ふつうに仲間だとか隣近所のつきあいだとかの人間関係があるならよいのだと思いますが どうなんでしょう。ふつうに信頼関係がかもし出されているのなら それほど気にすることないように思ったりします。  ううーん。するどく指摘されて うまくそれを自分では扱いかねているのかも分かりません。  憶測ですよ。

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  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.15

β1:こまったものですね。☆☆ こころが入れ替わろうとしている☆ のではなかったの? ◇スサノヲを気取り、心を入れ替えようとしてもいない人が、最も困ったものです。スサノヲに誤ってください。 β2:犯罪者呼ばわりは 根拠を示さないと(示しても そんなことはふつう言わない) 名誉毀損であり誹謗・中傷でしかない。規約違反でもある。よく注意して述べなさい。わたしの場合は これこれが《犯罪》の行為であると言うのみ。ひとを捉えて《犯罪者》だと言ったことはない。その違いも飲み込むべきでしょう。 ◇罪を憎んで人を憎まずと、「他者を犯罪者ではなく犯罪であるということ」は違うでしょう。何かに対して「犯罪である」と言うなら、その時点で既に精神上、裁いています。 β3.◇なるほど、「へのかっぱばかりが増え」ているが、しかし「オレは破廉恥なことばかりしてきたスサノヲである」という定義をしているということで。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これでいいよ。 ◇その定義も甘いですね、質問者さんの場合はせいぜい浅ましい痴漢 程度の振る舞いをしているに過ぎないでしょう、卑怯であるという意味において。自分を過大評価しすぎないほうが良いです。少なくともスサノヲは屁理屈を言って他者を貶めてはいないでしょう、日本の神話もおまえによってかなりレベルの低い話となってしまいましたね。 β4: ☆☆ しかも自分の能力と努力とでどうにかなるというものでもない。☆ おぎないます。○ しかも自分の能力と努力とで ≫最終的な結果において≪ どうにかなるというものでもない。 ★自己表現をすすめていけばよいのです。  ◇ 迷惑です。  ☆ これは問題発言ですよ。すべてのひとが ここでもどこでも自己表現をしています。 ◇屁理屈もしくは「自己表現ならなんでもOK」という考えが「迷惑です」と言っています。 β5:どうやらあなたは今のまつりごとに満足しているという立ち場であるようですね。だから批判は歓迎なのですから ひとつづつ見解を述べるようにしてください。  まだ「哲学として歪める」と言う事に対しての説明をしていないのに「ひとつづつ見解を述べよ」とはよく言えたものです。それに、年寄りニートが「まつりごと」など、口が腐っても言えるものではありません。口が歪んでいれば言えるかもしれませんが。 β6:わたしのこのような新しい見解が述べられることじたいに怒ってしまって ただただ引っ込めと言いたいわけなのですか? ◇行き詰ると「生き返りましたね」とか「これだけはこころあることばのようです」などと言い出すことに対して、意見を言っているのです。「新しい見解」などと内容とは関係のないことを言い出すからには、お前の在り様についての見解を述べるしかないでしょう、なにしろ道理(理論)による話し合いを自ら捨てているのだから。 β7:それは 落ち目の側に立ち場があれば かなしくて行き場がないと感じてしまうでしょうが ◇自分のことを他社に投影しているのでしょう、的外れです。従って β8:だとすると この理論としての空論も そうとう現実的だということになるようですね。 ◇は、自動的に却下となります。 結論として、「お前には心があるのか!」などとヒステリーを起こし、逆上する相手に、なにを説明しても無駄でしょう。こうなると、そいつの言っている内容を説明しても無駄です。そいつの在り様を指摘するしかないでしょう。  それをもって、自分が「うんこの投げあい」をしているつもりで要るからといって、他者の指摘もそうであるとし、「おまえのかあちゃんでべそ」という言い争い、口論のレベルまで相手を貶めるのは止めましょう。自分はその場、立場を守れますが、相手を貶めることになります。相手を貶めるのではなく、自分が成長するように留意すべきです。  屁理屈、言い逃れ、口ゴタエを単にしているだけの人に、「屁理屈言っているよ」と指摘するのは、「おまえのかあちゃんでべそ」」と言っていることと同じ ではありません。ただ、おまえの在り様を述べているだけです。

bragelonne
質問者

お礼

 ぢゃあ  ★ 屁理屈、言い逃れ、口ゴタエを単にしているだけの人に、「屁理屈言っているよ」と指摘するのは、「おまえのかあちゃんでべそ」」と言っていることと同じ ではありません。ただ、おまえの在り様を述べているだけです。  ☆ そうですよ。そのとおりです。――こう答えればよいのかな。

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noname#131234
noname#131234
回答No.14

質問者様は、基本的に「自分に物理的/幼稚な精神的アドバンテージがないと生きていけない」方のようですな。 貴方の広めようとしている伝道しようとしている教えは、「分不相応ぢゃ!もっとくれ!」という 「むさぼりの思想」です。 1「脳内むら=ヤマトだまし」の教え I)国家に対し 自分(質問者様)が物理的に行ってきたこと= 内ゲバ民主主義・お上は「いらネ」と一揆の首謀者としてごそごそ活動。(デブ麻原のように自分は安全なところ=袋小路に隠れている) 自分へのアドバンテージ =自分が金をもらえること・金は組織からもらう・他人は自分に従うだけ。自分が従わないのは自由。使える老人サービスは全て享受する。自分は馬鹿丸出しだからといって、自戒はしない。賢い人とは逆の生活ぶり。 2「かみたま」の教え II)宗教に対し 自分(質問者様)が物理的に行ってきたこと= これまで信仰がある人を馬鹿にしてきた。 人生の90%以上において、信仰のある人間が理解できず、頭のおかしい人とレッテル張りをしてきた。 しかし!死が近づくに連れ宗旨替えし、不敬な態度をとっている人間でも救われるという「宗教形態」を探し求め、キリスト教と浄土真宗に行き着く。 手のひらを返したように敬虔ぶった態度(猿真似)をとる。笑止千万な浅知恵信仰。終戦直後、エセ経済学生(卒業は疑問)のカタルシス。 自分へのアドバンテージ =救い。とにかく信仰期間が最短で救いが得られる。リスクのミニマライズ。自分さえ救われればよい。 3「ぢぢ」の教え III)家族に対し 父親不在。ギャングエイジからの卒業はいまだにない。幼児性を克服できないまま、今にいたる。 庇護はしないが、他者には絶対服従を要求。 あまりの赤ん暴君振りに縁者は一人また一人と去る。 介護はしてもらえると確信していたが、勘違いであることが判明。 それゆえ「暴れん坊はいつも孤独なもの」と現実逃避を始める。 家族はいないと思い始める。(イソップ物語「狐と葡萄」参照のこと) 自分へのアドバンテージ =何もしなくてよい。ただ怒って、なまけていればよい。 家事は女の仕事。 人間の種類を「手下」と「それ以外」に分けることでストレス解消・自分はえらいという幻想に浸ることが出来る。 「自分の不道徳」は、問題としなくてよい。そのいい訳には困らない。 涎教皇主義の貫徹。「いじめっ子の自我」を満足させることができる。「自分はいじめられている」という「ファンタジー小説」が、面白くてしょうがない。 ということです。あんまり怒ると体に毒ですよ。土曜日なのですから、友達と近場に外出などして、気晴らしをしてください。 おおっと! あっすみませんでした。脳内ムラの友達と言い換えさせてもらいます。 (はっははらいてええゲロゲロ)

bragelonne
質問者

補足

 nananisse = owlsjp = SOLAR_RAYさん 今回は考えたようですね。今回はあたまを使いましたね。  ★ 質問者様は、基本的に「自分に物理的/幼稚な精神的アドバンテージがないと生きていけない」方のようですな。  ☆ そう見えることには一理があります。要するに お山の大将でいないと生きていけないアマテラス族に抵抗するわたしの発言の中身においては そのアマテラス族のそういう態度と気持ちが わたしの文章をとおして映り出ている。  次も同じ原理です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  貴方の広めようとしている伝道しようとしている教えは、「分不相応ぢゃ!もっとくれ!」という  「むさぼりの思想」です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かりますよね。  あとはどうだろう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これまで信仰がある人を馬鹿にしてきた。  人生の90%以上において、信仰のある人間が理解できず、頭のおかしい人とレッテル張りをしてきた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはきちんと腑分けして説明しておかなくちゃ。  わたしが《信仰》をいちばん重んじていることはわかるはずでしょう。ただし一般に《信仰が篤い》とか《敬虔なクリスチャン》とか言う場合には たいていおとなしくてつねに教会にかようといった描像ではないだろうか。そのような外面――表情としての表面を含めて外面――については 信仰とは別だと言っている。その意味では  ★ これまで信仰がある人を馬鹿にしてきた。  ☆ と言えるかも知れない。引用したあとの一文は余分です。存在をわざわざ評価することはしない。犯罪者だとか哲学者だとか宗教家だとかと規定しない。する必要がないから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自分へのアドバンテージ  =救い。とにかく信仰期間が最短で救いが得られる。リスクのミニマライズ。自分さえ救われればよい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 即身成仏 つまり 回心は一瞬ですよ。ただし刺さっていたとげが抜かれたことを意味するのだが その患部が癒えていくのには時間がかかる。そういうことです。  ひょっとして きみに刺さっていたとげは抜けたのかな。  ★ ギャングエイジ  ☆ って?  ★ 父親不在。  ☆ はかれに心理的な葛藤があったので 或る意味で図星。ただし ふくざつ。ひとことでは語れぬ。  ★ 庇護はしないが、他者には絶対服従を要求。  ☆ どうも どうやら きみはわたしに惚れたようだな。よほどわたしから命令を与えて欲しいのかな。  ○ 対等。自由な連帯。自由。自由。三四も自由。五も自由。そして日本人は もっと自由に。もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。  ☆ 庇護も服従もわしゃ知らん。  ★ 自分へのアドバンテージ =何もしなくてよい。ただ怒って、なまけていればよい。  ☆ わたしの《怒り》に反応したな。《なまけている》のは しんどいだろう。《何もしなくてもきみたちが自由で自由に世界にはばたいているのなら よい》。  ★ 「自分の不道徳」は、問題としなくてよい。そのいい訳には困らない。  ▲ その罪が覆われるひとはさいわいなり。  ☆ 他人を撃たなくてもよいと心得よ。  ★ 「いじめっ子の自我」を満足させることができる。「自分はいじめられている」という「ファンタジー小説」が、面白くてしょうがない。    ☆ わたしは いぢわるの名人と言われる。いじめも いじめられも わしゃ知らん。  ★ あんまり怒ると体に毒ですよ。  ☆ わたしが怒るというのは その相手なり時には事象なりが 怒って欲しいという状態にあるときです。わたしは弱くても きみたちが強いなら喜ばしい。

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  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.13

訂正: 誤:確かに、他の人もお前の在り様についてだけ言及してはいますが 正:確かに、他の人もお前の在り様についても言及しているようですが

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  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.12

☆わしをこんなに「攻撃」しているのは、一人か二人に違いない、なぜならわしは正しいのぢゃから☆  と、思って「貴方はひょっとしてowlsjpさんですか?」と思ったのですね、しかしお前が知っているように、お前に対してはSOLAR_RAYとowlsjpでしか対応していません。他は1回か2回くらいしか使っていないしね  確かに、他の人もお前の在り様についてだけ言及してはいますが、それは自分が答えられなくなると「生き返りましたね」とか「これだけは自分の言葉であるようです」などと、内容についてではなく、他者の在り様について、結局はそれだけでしか返していないかのだから、仕方なくそういった対応をしているのです。なにしろ、言葉による理論的な話し合いはもうできないのだから。従い、他者が自分の「在り様」について言及することに対して、批判、非難するのは控えたほうが良いでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。  それにしても 三者は 同じような文体である。  ★ なにしろ、言葉による理論的な話し合いはもうできないのだから。  ☆ えええええええっ? いつからそうなったの? それぢゃ回答にも投稿にもならないのでは?  ★ 従い、他者が自分の「在り様」について言及することに対して、批判、非難するのは控えたほうが良いでしょう。  ☆ おれさまの言うことをすなおに受け容れよという意味?   受け容れるの容れないの へのかっぱをどうしろこうしろもないでしょう。  ▲ 先の者があとになり あとの者が先になる。  ☆ 思い出したかな?

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