• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

このQ&Aのポイント
  • 信仰とまつりごとの関係についての哲学的な解釈を求める質問です。
  • まつりごとは社会の経験行為であり、信仰は内面の問題とされます。
  • カエサルのものはカエサルに返すべきであり、神のものは神に返すべきであるという見解について考えられます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#135843
noname#135843
回答No.3

 こんばんは、Hidocchiです。何かのご参考になればと思い、筆を取らせていただきました。 > (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。 > (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ 社会全般のにしろ 生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。  (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。  愚生は、自由にも、 ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  しかし、例外もあったろうかと推察しております。それは、生存(生命としての極限状態)にかかることでございます。つまり、天候の不具合が長期的に続き、大飢饉の中、かろうじて生き残った人たちにとりましては、一体感があったものと推察しております。このような状況下では、“感謝”という感情的部分が優先してしまい、理性的判断はなされなかったであろうとの推察からでございます。  また、いわゆる“感謝祭”なるものも、実情からは離れ、経験(歴史)の積み重ねから形式化してしまったものもあろうかと存じます。 > (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  厳密には、不可能と解しております。上記理由からでございます。 > (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか? 「マタイ22:15-22、/ マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26」  共通点としまして、税金に関わる問題かと思われます。つきましては、単純に“納税”のことと割り切るならば、その義務を国民が自らに課しているため(憲30条)、各自の社会的役目を果たそうという責任間・使命感だけの問題なろうかと思われます。  ただ、懸念事項もございます。以下は郷原氏の著作からでございますが、 ・この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。たとえば、市民と弁護士とを結ぼうとする企画を種々しているのだそうですが(市民の法律意識を高めるのが目的だそうです)、実際のところは、利用例は限られているようです。例えば、司法試験の改正により、多くの弁護士が輩出されているとのことですが、市民はあまり利用していない状況にあるそうです。 http://secondlife.yahoo.co.jp/supporter/article/Xm0R_CuANk9j1rcBDQ--/2772/   つまり、これらのシステムも“誰にも望まれていない制度”になってしまった観がございます。そもそも、今までが、“お上”志向でしたので、弁護士との付き合い方自体すら知らないのかもしれません(こちらは愚見でございます)。 ・無批判に盲信する現在の社会では、お上、メディアからの発言に、水戸黄門の印籠なるものを渡してしまっていること。  司法、メディアとの歴史的、風土的関係の結果からだと推察しております(愚見でございます)。 ・国民裁判員制度(4章 「官」「民」の裁判員制度推進の理由の違い からです)についての制度理由からです  この裁判員制度がどのような理由からできたのかの説明を郷原氏は説明しております。2つの内1つは、日弁連(「民」)の意向です。つまり、日本の刑事裁判は、すべての案件のうち99%が有罪になっているため、市民参加によりその是正を図ろうというものです。  もう一方は、国の意向です。この理由に関しましては、郷原氏(元検事)も詳細はわからないと述べています。ただ、推測として「司法に対する国民の理解と信頼につながる」とのべ、「司法」を理解・信頼してくれない現状を改善させるのが狙いだろうとのことです。極論を申しますと、「国民から選ばれた裁判員がこう判断した」という大義名分があれば,たとえそれが、後ほど、冤罪であったと判明しても、国民が選んだのだという言い訳が立つということでございます。 郷原 信郎著「思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本」講談社  ご参考になるところがあれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  (ω‐1~3)については 補強して確認していただきました。  (ω‐5)については 実情や実態について――やや心理的な側面であるようにも思いましたが――人びとの現実を指摘し分析したものをおしえていただきました。  強いて言えばこの(ω‐5)の現代日本人の現状について それは(ω‐4)の問題がからんでいるか――また(ω‐4)の分析じたいの正否の吟味を含めてですが―― これをうけたまわれればよかったかなとは思います。  そしてそれとともに歴史的な展望でしょうか。そういった方面にも伸びるのではないかとは思っております。  現代日本人の現状は おおまかに言って わたくしも  ★ この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。  ☆ と見方を同じくします。そしてすべてを端折って言ってしまうなら いづれどこかで 何らかのきっかけを得て この《お二階さんコンプレックス》は どんでん返しという事態を迎えるかも知れない。こうも思っております。特にその根拠はありません。予感です。  (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  ☆ について  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  愚生は、自由にも、  ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と  ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということが明確に確認できたならば ムラのまつりにおける神社とのかかわりも 問題になるかも知れません。ただ――と言うのもおかしな言い草ですが―― 日本人のあいだでは 神社であっても 内面の信仰には誰も触れないという暗黙の前提があるのかも分かりません。きちんと分かれていて 問題無しとなるのかも分かりません。  ★ 裁判員制  ☆ につきましては いちど《朝まで生テレビ》で取り上げていて聞いていました。意外とあまり意味や効果がないという意見も多かったようでした。いろんな事件を取り上げるのがよいなどの意見でした。そして殺人事件にかんしては やはり法律についての素人は素人すぎるのではないかでした。  うけたまわるだけで 議論を伸ばせられなくて残念です。  ★ 納税  ☆ にかんしましては その使い道について一般市民納税者がどこまで関与することができるか。これがさしあたっての課題でしょうか。あるいは政治家を介しての間接的な関与ということになるでしょうか。  (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  ☆ について  ★ まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。  ☆ と回答していただいたわけですが この為政者を介してかどうかを別として 《宗教団体に対して国民が縛りをかける》という側面については どうなんでしょうか。一たん自由意志において入会したなら 退会するのでない限り その組織内でのやり取りは 信仰内面の論議であっても 自由であるということになるでしょうか? これは前質問を受けての課題です。  ありがとうございました。  * それにしても 郷原さんのタイトルは 《思考停止社会》ですか。言いますねぇ。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (90)

回答No.71

SOLAR_RAY です brag1.☆ 《「多義的」に解釈できるということです》というふうに自己弁明しておいて ◇1.「多義的」に解釈できるということです  と最初に言い出したのはこの質問における回答No.47の補足欄だが。それが、「最初」である。アタマがボケてしまったのか?  とにかく、その後の文章はすべて却下となる。 brag2.☆ 《判決は出ている》のではなかったか。 ◇2.おまえが少しは反省し、他者に譲る態度を見せたから、一度は「判決は取り消し」と伝えてあるが。その後の「審議し直し」 も、審議の取り下げ要求により、認めた。 brag3.○ 感情もこころも論理思考も何もない こう判断せざるを得ない。 ◇3.長い文章、様々な記号、色々な所から文章を切り取ることでの誤魔化しなど涙ぐましい努力は認めるが、結局は「おまえには感情がないのか」と言っているだけに過ぎない。いくら錯乱させ、世論を味方につけようと、おまえのやったことはお前が自身が覚えているはずである。 brag4. これからのちは 同じ趣旨の弁明であれば 無視する。 ◇4.「弁明」と言う言葉を使っていくら自分を優位に見せようと、分かっている人は分かっている。一時的に自分の心や一部の読者を騙せようと、かならずお前は何処かで行き詰るだろう。 ◇判決:確信犯である。我が名において有罪とする。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがたい。   もうこれでかかわりがなくなった。

bragelonne
質問者

補足

 ★★ (No.77) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   brag2.○ 狂っているというとき 自分は狂っているという自己認識を持つものです。そう発言するものです。   ◇2.狂人は自分が狂人であると認識できないようで。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  みなさああーーーーん 平和ですよおおおおおおおーーー!!!!

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.70

No.77のbrag4の文章(ムキー)の解説(サル語の翻訳)  ムキー1.どうして出来ないのか。   ⇒「なぜわしを認めてくれないんぢゃ、なぜそれが「出来ない」のぢゃ、わしの問題を解いてくれと依頼したのに、ことわるなんて、人でなし!おまえに心はあるのか!うわーん(泣)」  ムキー2.ふつうに取り組む課題ではないようである。   ⇒「やべぇこりゃかなわん、にげるしかねぇべ、ここは気の利いたセリフでごまかし、優位性を示し、なんとか第三者の印象を良くしておかねば、なにしろ「読者」の9割はどちらが「優勢か」どうかで判断しているらしいからな、1割の識者に見破られても、9割のバカな読者に支持されていれば安泰じゃ!わっはっは!」 *   *   *   *   *   *   *   *   *   *  brag4.ふつうに取り組む課題ではないようである  ◇4-1.当然でしょう、この質問と関係ない質問のURLを挙げられても、対応しませんよ、それは自分の問題だろう。自分の問題を他者の問題とせず、自分のものとしてまずしっかり認識することから始めたほうが良いだろう。  いくら他者が「こうである」と言っても自分で考えなければ自分のものとはならない。  ◇もう「ムキー」と言わんでよろしい。

bragelonne
質問者

補足

 ★★ (【Q:農耕の神クロノス=サトゥルヌス】No.19お礼欄)~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5389895.html  「横槍」問題は解決済みである。良く見ておくように。  ★★ (同上 No.14お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・〔中身は省略(しても差支えない)〕・・・  以上、原告の代わりに申し述べた。判決は出ている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆ (No.56お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ (No.54) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   β2.要するに 論理がきわめて曖昧であり 整合性を捉えないで勝手に多義的に解釈できるようになっている。   ◇2.ですので、「勘違い」ではなく「多義的」に解釈できるということです.   β3.この確認までです。   ◇3.誤確認終了と言うことで。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《「多義的」に解釈できるということです》というふうに自己弁明しておいて ――ただしその弁明は《整合性》を修復していないからには通らないが―― そのあと 《多義的な解釈をゆるす文章であるという確認》を――それはわたし( brag. )の文章だからというので 《誤確認》だと言って否定している。つまり 弁明のために用いた確認内容をみづからが否定している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★★ (No.56) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ◇ 実際、それに対して「多義的」解釈をしていません、bragelonne君が「多義的に解釈できるようになっている。」と自分で言っているから、多義的解釈は、言っている通りにできるんじゃないですか。  と言っただけなんですよね  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★★(No.73) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   β1.☆ わたしの見るところは 《整合性を修復しないでは 多義的の内の一つの意義としても 解釈はできない》という意味です。   ◇1.じゃあ、そうなんじゃないですか、その件については始めからkiさんに同意したり反論したりはしていないので、勝手に論じればよいじゃないですか、私はbragさんが、kiさんが述べた言を私にぶつけて(意識の排泄物としてのウンコを)くるから「こうなのではないですか」と指摘しただけですので、いかように解釈するのも勝手です。始めからkiさんに賛同したり、反対したりしてないですよね、勝手に論じるのは構いませんので、ご自由にどうぞ。私に「他者の誰々の言が矛盾している」と言われても対応できませんね、その人に直接言ってください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《判決は出ている》のではなかったか。  結論:  ○ 感情もこころも論理思考も何もない こう判断せざるを得ない。  これからのちは 同じ趣旨の弁明であれば 無視する。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.69

brag1.○ 感情もこころも論理思考も何もない こう判断せざるを得ないこと ◇1.独断と偏見を「示し」ているということのようで。お粗末さまでした。 brag2.○ 狂っているというとき 自分は狂っているという自己認識を持つものです。そう発言するものです。 ◇2.狂人は自分が狂人であると認識できないようで。 brag3.☆ これがない。しないのか。出来ていない。かけらが現われたかに見えたが 引っこんだ。永久に引っ込んだようだ。わたしにとってはだ。二度目だからだ。 ◇3.開き直りも甚だしい。「われはある」と言う開き直りと「われは正しい」という開き直りを区別できていないようで。  ※われはあるというのは理屈ではなく、実感するものです、土台がしっかりしていないようで。 brag4.どうして出来ないのか。分からないから課題ではあるが ふつうに取り組む課題ではないようである。 ◇4.「ムキー」ということで。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.68

No75の訂正: 誤: の、「そうではないと言っていること」は「自分が返してもらう立場にあることを証明していること」と置き換えてください。 正: の、「そうではないと言っていること」は「返してもらう立場にあることを証明していること」と置き換えてください。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.67

No.74の訂正: 誤:「ムキー」を「ムキー」としてそのまま当てはめなさいということで。 正:「ムキー」を「ムキー」としてそのまま自分に当てはめなさいということで。 ※自分がそうではないと言っていること  の、「そうではないと言っていること」は「自分が返してもらう立場にあることを証明していること」と置き換えてください。 ◇ No.74は、71と72さんを読んでの指摘です。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.66

「ムキー」と言えば「ムキー」ではないということにはならず、カエサルのものはカエサルに返せ 神のものは神に返せと言えば、自分がそうではないと言っていることにもならず、「ムキー」を「ムキー」としてそのまま当てはめなさいということで。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.65

β1.☆ わたしの見るところは 《整合性を修復しないでは 多義的の内の一つの意義としても 解釈はできない》という意味です。 ◇1.じゃあ、そうなんじゃないですか、その件については始めからkiさんに同意したり反論したりはしていないので、勝手に論じればよいじゃないですか、私はbragさんが、kiさんが述べた言を私にぶつけて(意識の排泄物としてのウンコを)くるから「こうなのではないですか」と指摘しただけですので、いかように解釈するのも勝手です。始めからkiさんに賛同したり、反対したりしてないですよね、勝手に論じるのは構いませんので、ご自由にどうぞ。私に「他者の誰々の言が矛盾している」と言われても対応できませんね、その人に直接言ってください。しかし、いくら他者の言や書籍やネットから情報をかき集めても真理や道理はわからないのではないかな、少なくともまず自分を救ってから他者を「救う」ことにしたほうが良いだろう。  印象ですが、自分が溺れそうであるが、しかし「助けてくれ」と言えないから、「救います」と言って他者と関わり、その関係性で以って精神の虚を満たそうとしている と感じました。  おまえが救う側なら、なぜ聖書を片手に説教をするのか、なぜ老い、死んでいくのか? β2.それによって もうまともに応対することのおろかさを最終的に感じた。ということで。 ◇2.「それ」が示されていないようで。   「負けました、この辺で勘弁してください」ということのようで。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ◇2.「それ」が示されていないようで。  ☆ 示しておこう。  ○ 感情もこころも論理思考も何もない こう判断せざるを得ないこと  ☆ です。ふつうは  ○ 狂っているというとき 自分は狂っているという自己認識を持つものです。そう発言するものです。  ☆ これがない。しないのか。出来ていない。かけらが現われたかに見えたが 引っこんだ。永久に引っ込んだようだ。わたしにとってはだ。二度目だからだ。  どうして出来ないのか。分からないから課題ではあるが ふつうに取り組む課題ではないようである。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#117439
noname#117439
回答No.64

その醜態はウンチ投げつけ攻撃そのもの。 哲学は放棄したようですね。 その呪われた権現様状態をどうにかしなさい いつだったか、我は有る!。に基づいて感性の話を哲学を進展させると、既存の哲学では「我は第六感をもって霊験をなすか?」こうなると言いましたね。 まるっきりあなたへの問いかけですよ。 その感性の発露が権現様状態の醜態ですよ。 私はポケモン(聖霊)慣れしているのでそれなりの扱いですが、bragelonneさんはあくまでも人間扱いに徹すると表明してくれています。 珍獣として猿回しされている時だけ人間らしく、対等に付き合うと、まさにここに現れた醜態では情けないじゃないですか。 悲しく踊る猿じゃあ笑えませんよ。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 珍獣として猿回しされている時だけ人間らしく、対等に付き合うと、まさにここに現れた醜態では情けないじゃないですか。  ☆ そういう二面性があるようですね。ほかの質問への投稿で案外ふつうの文面もあるかに思えます。ここでは 狂っているようです。  このような二面性も 考えてみればわたしにとって初めての体験ですので 課題であると言えばそうなのかも知れません。  ま それにしてもコップの中では大嵐を吹かしまくっているようです。  いや待ってください。二面性と言いましたが もしその一面としてのふつうにまともな感情やこころや論理思考の持ち主であるなら このコップの中の大嵐のおろかさをとうぜん知っているはずです。そんなことをこのように何百回となく繰り返すとは思えません。  それが 変な意味でのなぞですね。  ★ その感性の発露が権現様状態の醜態ですよ。  ☆ この状態は エアポケットに入ったごとく自分でもどうしようもないということなのでしょうか?   でもそれもおかしいですね。つまり どうしようもないのだという文章は自分で書けるはずなのです。ふつうは。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#117439
noname#117439
回答No.63

ウンチ投げつけ攻撃。 哲学は放棄したようですね。 その呪われた権現様状態をどうにかしなさい

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#131234
noname#131234
回答No.62

ごめんなさい ハートマインドさんの心遣いに、ショックを受けています。 見る人さえきづつけてしまう私は、いけないこだったのかもしれません。 もうこれ以上孤独なひとをいじめることはしません。ごめんなさい。 ハートマインドさんありがとう。 本当に感謝しています。 (今の職分を変えることはないと思いますが…)

bragelonne
質問者

お礼

 そう言えば アグリッパくんもその職分を受け持っていたようだ。  歯が立たないのでわたしから遠ざかったのではなかったのか。  それともアグリッパくんは その職分をまっとうしうるほど情を押さえることは出来なかった。しようとしなかった。のか。  えらくそのあいだが空いてしまってから あんたが来たようだが 成り手がなかったのか。  ところでその職分は 志願したのか。それとも雇われなのか。  どうでもいいが わたしに通用すると思っているの?  ハートマインドさんも どこか喰わせ者の一面が顔をのぞかせている。それとも 共演なのかい。  ま いづれにせよ 現在の世界 いまは日本 これの変革を主張する結果になる哲学の主題を問い求めているので そういう職分マンが担当で来ることになるのだろうか。雇われだとすれば そういうことになる。  世の中 こういうものか。と言って 分かっていなかったわけでもない。忘れたころに 引き継ぎの子が現われるから 独り言でも言ってみようかと。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    まづ信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。 要するに《現人神なり》と言っています。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。 けっきょく なぜ ゆるされているのですか。

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

  • 聖書とは 何か?

     関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。  初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。  むろん哲学としての問いです。  たたき台としては:  (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。  (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。  (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。  (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。    (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。    (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。  (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。  (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。  (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。  (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。  (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。  ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。

  • 神とは何ですか?

    902さんの質問「神は死んだ。」のなかで神の定義が話題になっています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=75125 「神を信じますか」という問いは、よくもちだされますが、問う人も 問われる人も、神という言葉の意味・定義・解釈・語感が、まったく まちまちであるという感想を昔から持っていました。 皆さん、神とは何だと思われますか。 学問的な答え、個人的な考え、もちろん宗教的な教えも、 なんでもいいです。いろいろ聞かせてください。

  • わたしが神様だったら

    世界には様々な宗教がありますが、私は最近、神を信じている人が多いということに疑問を抱くようになりました。 人間は、答えがほしいけれども見つからないので、全知全能の神を創造し、不安感を埋めるために神を信じるのではないかと、私は解釈しています。 神は人間に自由意志を与えたそうです。それは神の愛なのだそうです。 私がもし神なら、人間が安心して暮らせるような、ある程度の規制をする。 戦争で罪のない人が死んでしまうような現在の世界では、自由意志のない人がいる。 そんな世界なんて、私が神だったら作らない、と思っていました。 先日、このようなことをキリスト教を信仰している方に伝えると、「言っている事がよく分からない」と言われました。 そんな時、チャットモンチーの「世界が終わる夜に」という曲を聴きました。 「わたしが神様だったらこんな世界は作らなかった」という歌詞があります。 あなたが神様だったらどのような世界を創造しますか? あなたの理想の世界を教えてください。 また、宗教を信仰している方や神を信じている方がこの曲を聴くと、どのように感じるのでしょうか。 思ったことを教えてください。 視聴 http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1584525&GOODS_SORT_CD=101 http://www.chatmonchy.com/disco/index.html 歌詞 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02270

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • 神道の神様は英語で

    神道の神様は、八百万の神と言うだけあって沢山いますよね。 アメリカ人に、日本には800万の神様(god)がいると説明したら、 「800万人それぞれが違う神様を信仰しているのか?」と驚かれました。 ※実際には、私は八百万とは「沢山」と言う意味だということは承知していますが(笑) 恐らく、アメリカ人は、1宗教につき1神しかいないと、考えるからだと思います。つまり日本には800万通りの宗教があると解釈したのでしょう。 そこで、日本のような多神教の神はどのように表現したらよいでしょうか。

  • 技術の発展と神への挑戦

    抽象的な表現、宗教も絡んだ内容で大変恐縮なのですが、質問させて下さい。 私個人としては、技術の発展・社会の発展は、神話や宗教の中で度々神への挑戦として戒められているように思ってます。 バベルの塔などが良い例で、下記の記事を見ると技術の発展は神からの怒りを買ってしまうのではないかとドキリとするのです(ちなみに私はこんな事を書いておきながら仏教徒です)。 http://japan.cnet.com/news/com/story/0,2000056021,20060011,00.htm 技術を発展させてはいけないのではないかという自制が働く事に関して、何とか自分の中で折り合いをつけて消化したいのですが、先人達がこのような事に対してどう思っていたのか知りたかったので質問させて頂きました。 ・宗教上の理由から抵抗はあったのか ・それともなかったのか ・理由をつけたり、解釈を添える事により消化したのか などなど・・・。 ガリレイは宗教の信仰心よりも、自らの理論への確信が大きかったが為に地動説を唱えたのだと思っています。その時に自分の中に抵抗は無かったかどうかという所も気になる所ですが・・・話しがそれました。 上記以外にも、現在のアメリカで宗教上の理由から電気・ガスを使わない村があったり、究極的にはエホバの証人は信仰の時間を学習に充てる事を憚れる為進学ができないという部分もあったりします。 逆にユダヤのタルムードでは、教育こそが大事だと言っていますね。 こうした宗教の信仰と科学の発展について、科学史から見た宗教上の葛藤や解釈(神は人に対して「世に満ちよ」と言ったのだから、その手段としての科学的発展は認められる)などの例、あるいはこれらを上手く体系的にまとめたり、思想として固められているような書籍等、ご教授頂ければ幸いです。 また何か思う所などございましたら、「技術の発展に抵抗はあるかどうか」などについてのご意見などもお待ちしております。 宜しくお願い致します。

  • 再考: 《神は死んだ》か?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

  • 《アルケーの神と一体となる》ことは・・・

     一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。  つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。  《真理は きみたちを自由にする》と。   ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか?  これが問いです。  《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。  つまり この問いに対して   □ 断じて 見返りではない。  という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?