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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

このQ&Aのポイント
  • 信仰とまつりごとの関係についての哲学的な解釈を求める質問です。
  • まつりごとは社会の経験行為であり、信仰は内面の問題とされます。
  • カエサルのものはカエサルに返すべきであり、神のものは神に返すべきであるという見解について考えられます。

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noname#135843
noname#135843
回答No.3

 こんばんは、Hidocchiです。何かのご参考になればと思い、筆を取らせていただきました。 > (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。 > (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ 社会全般のにしろ 生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。  (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。  愚生は、自由にも、 ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  しかし、例外もあったろうかと推察しております。それは、生存(生命としての極限状態)にかかることでございます。つまり、天候の不具合が長期的に続き、大飢饉の中、かろうじて生き残った人たちにとりましては、一体感があったものと推察しております。このような状況下では、“感謝”という感情的部分が優先してしまい、理性的判断はなされなかったであろうとの推察からでございます。  また、いわゆる“感謝祭”なるものも、実情からは離れ、経験(歴史)の積み重ねから形式化してしまったものもあろうかと存じます。 > (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  厳密には、不可能と解しております。上記理由からでございます。 > (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか? 「マタイ22:15-22、/ マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26」  共通点としまして、税金に関わる問題かと思われます。つきましては、単純に“納税”のことと割り切るならば、その義務を国民が自らに課しているため(憲30条)、各自の社会的役目を果たそうという責任間・使命感だけの問題なろうかと思われます。  ただ、懸念事項もございます。以下は郷原氏の著作からでございますが、 ・この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。たとえば、市民と弁護士とを結ぼうとする企画を種々しているのだそうですが(市民の法律意識を高めるのが目的だそうです)、実際のところは、利用例は限られているようです。例えば、司法試験の改正により、多くの弁護士が輩出されているとのことですが、市民はあまり利用していない状況にあるそうです。 http://secondlife.yahoo.co.jp/supporter/article/Xm0R_CuANk9j1rcBDQ--/2772/   つまり、これらのシステムも“誰にも望まれていない制度”になってしまった観がございます。そもそも、今までが、“お上”志向でしたので、弁護士との付き合い方自体すら知らないのかもしれません(こちらは愚見でございます)。 ・無批判に盲信する現在の社会では、お上、メディアからの発言に、水戸黄門の印籠なるものを渡してしまっていること。  司法、メディアとの歴史的、風土的関係の結果からだと推察しております(愚見でございます)。 ・国民裁判員制度(4章 「官」「民」の裁判員制度推進の理由の違い からです)についての制度理由からです  この裁判員制度がどのような理由からできたのかの説明を郷原氏は説明しております。2つの内1つは、日弁連(「民」)の意向です。つまり、日本の刑事裁判は、すべての案件のうち99%が有罪になっているため、市民参加によりその是正を図ろうというものです。  もう一方は、国の意向です。この理由に関しましては、郷原氏(元検事)も詳細はわからないと述べています。ただ、推測として「司法に対する国民の理解と信頼につながる」とのべ、「司法」を理解・信頼してくれない現状を改善させるのが狙いだろうとのことです。極論を申しますと、「国民から選ばれた裁判員がこう判断した」という大義名分があれば,たとえそれが、後ほど、冤罪であったと判明しても、国民が選んだのだという言い訳が立つということでございます。 郷原 信郎著「思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本」講談社  ご参考になるところがあれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  (ω‐1~3)については 補強して確認していただきました。  (ω‐5)については 実情や実態について――やや心理的な側面であるようにも思いましたが――人びとの現実を指摘し分析したものをおしえていただきました。  強いて言えばこの(ω‐5)の現代日本人の現状について それは(ω‐4)の問題がからんでいるか――また(ω‐4)の分析じたいの正否の吟味を含めてですが―― これをうけたまわれればよかったかなとは思います。  そしてそれとともに歴史的な展望でしょうか。そういった方面にも伸びるのではないかとは思っております。  現代日本人の現状は おおまかに言って わたくしも  ★ この国に深く根付いている“お上”意識は、今だに続いているとのことです。  ☆ と見方を同じくします。そしてすべてを端折って言ってしまうなら いづれどこかで 何らかのきっかけを得て この《お二階さんコンプレックス》は どんでん返しという事態を迎えるかも知れない。こうも思っております。特にその根拠はありません。予感です。  (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。  ☆ について  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  愚生は、自由にも、  ・「内面の自由権(“信教の自由”、“思想・良心の自由”等です。つまり、内面にのみ、存在し続ける自由です)」と  ・「外面の自由権(“集会の自由”、“結社の自由”等、内面にとどまらず、社会との関わりの面で持つ上での自由です。)」 との2つに分類可能と考えておりますし、そうあるべきだとも考えております。  つまり、「両面に分かれた」と解しております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということが明確に確認できたならば ムラのまつりにおける神社とのかかわりも 問題になるかも知れません。ただ――と言うのもおかしな言い草ですが―― 日本人のあいだでは 神社であっても 内面の信仰には誰も触れないという暗黙の前提があるのかも分かりません。きちんと分かれていて 問題無しとなるのかも分かりません。  ★ 裁判員制  ☆ につきましては いちど《朝まで生テレビ》で取り上げていて聞いていました。意外とあまり意味や効果がないという意見も多かったようでした。いろんな事件を取り上げるのがよいなどの意見でした。そして殺人事件にかんしては やはり法律についての素人は素人すぎるのではないかでした。  うけたまわるだけで 議論を伸ばせられなくて残念です。  ★ 納税  ☆ にかんしましては その使い道について一般市民納税者がどこまで関与することができるか。これがさしあたっての課題でしょうか。あるいは政治家を介しての間接的な関与ということになるでしょうか。  (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  ☆ について  ★ まず、現在我が国の憲法には、「信教の自由」が保障されています。またその憲法自体も、 「為政者に対して、国民が縛りをかけるもの」という点からしますと、介入はあってはならないと解しております。  ☆ と回答していただいたわけですが この為政者を介してかどうかを別として 《宗教団体に対して国民が縛りをかける》という側面については どうなんでしょうか。一たん自由意志において入会したなら 退会するのでない限り その組織内でのやり取りは 信仰内面の論議であっても 自由であるということになるでしょうか? これは前質問を受けての課題です。  ありがとうございました。  * それにしても 郷原さんのタイトルは 《思考停止社会》ですか。言いますねぇ。

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その他の回答 (90)

回答No.81

 さて、少し甘やかすとすぐボウフラがわいて来るようで...  それはさておき  No.33の、質問者の問題だが、これはやはり私の問題ではなく、質問者の問題のようである  ◇【Q:情欲は 罪ですか(続編)】  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4172511.html  ◇質問文より~~~~~~~~~~~~    この一節を解釈してください。アウグスティヌスを知らなくても ピンと来る方がいらっしゃるのではないかと思いました。   ◇「ピン」と来ないので、やはりこれに同調するレベルの人間の問題のようである。 ボランティア終わり

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noname#117439
noname#117439
回答No.80

オコリザルです。 A86に、さらに補足です。 信仰とは非思考であるとの見解にご本人は答えを見いだせなかったのでしょうか? 聞きかじりはしたでしょうね。 これが件の回答者様の歩んでいる道のり。 無神に徹する非思考です。 今回の回答は読んでくれているんでしょうかねー。 偶然の一致ですが神については人様に聞けないゆえに、このように時効が成立してからの分析です。 信教の代筆はできません。 分析ならかろうじてできます。 だからこそ、答えを求めた当事者には、分析が我が事として響くのではないでしょうか。 宗教の場では答えを求めすぎて人様をあてにしすぎますね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。このご投稿についても No.86でのやり取りにてお応えし得ているのではないでしょうか。  考えてみれば  ★ 信仰とは非思考である  ☆ から出発するなら   ○ その信仰の教義化は すでに《思考》が入って来ていますし その《経験的な思考》がその内容の――すべてとは言わないまでも――基軸に成るという体制に変わってきている。  ☆ こう考えられます。しかも  ○ この教義にもとづいて人間と人間の関係やまじわりをいとなんで行こうというわけですから そこでは当然のごとく 《人間のあやまち得る思考と判断》によって《非思考なる信仰つまりは それを基にした人格》をあたかもさばく(裁く・捌く)という行為にまで到らないとも限らない。  ☆ このような情況がまづ必然的に現われます。問題でしょうね。わたしは《犯罪行為》ではないかとさえすでに言っています。  つまり 信仰の教義化の時点で 人格にかかわる問題の発生に注意しなければならないでしょうし これを組織化するなら――これはそのあとの運営の問題というのではなく―― やはりその時点で 信仰はすでにおのれの自殺行為であると知って 宗教と化し組織の中にみづからの死骸を横たえるものと思われます。  どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 オコリザルさん この欄をお貸しください。  No.92 littlekiss さんの問い “ Q:儒教は宗教か? ”について述べ残したことを書かせてください。  重要なことをひとつ忘れていました。  ○ 無神論も非思考の信仰の一種である。  ☆ ということがらです。《儒教》という言葉で苦手意識がただよって へっぴり腰になっていました。  ですから 経験思想を語っていても その背後にと言いますか そのみなもととして 信仰が息づいているということは ふつうにあり得ます。  この信仰は 非思考ですから 隠れています。そのままを分かろうとすることは むつかしいものです。――もしどうしても思考で捉えられるかたちにしてくれということであれば その非思考においてあたかも捉えているかに思われる《無根拠なるなぞ》が 存在する(有神論)か存在しない(無神論)かの二つに一つとして仮りに表現されるというものです。  無神論も 非思考なのです。《無神》という名の《かみ》なのです。ただしその《無神》という名で仮りに捉えたあとは もう省みることなく放っておくという信仰態度になります。つまりは あとはすべて経験思考にかかわることがらを扱うということです。  したがって哲学や経験思想をもっぱら扱っていても そこに信仰は 隠れたかたちで息づいていることがあり得ます。ぎゃくに言って 信仰を有神論として仮りに人間の言葉によってさまざまに説明するという場合にも 《その実質が非思考の信仰であるもの》と そして《ふつうに語る経験的な思想であるもの》とは きちんと区別されています。  したがって問題は やはり《信仰》とそして《その教義化さらには組織化としての宗教》との区別にあると考えます。  わたしは宗教は そもそも無効だと考えますが これまでにはあったし今もあります。ので信仰との区別だけはしっかりすべきであると考えます。  さて儒教は どうでしょうか? 孔子やほかの聖人が祀られていたとしても それはもし経験思想の範囲におさまると見るのであれば 信仰として無神論であり あとはそのまま倫理つまり人間関係のあり方を問う思想であると見なせるかも知れません。  仏教も ブッダが神ではないという無神論に立つとするならば 経験思想であると自称すべきだと考えます。浄土信仰(阿弥陀仏=神という有神論)を別として そのように無神論をきちんと標榜するなら よほどすっきりとした形態のひとつの思想であることになります。  あと 倫理つまり 生活において常に動いている生きた思想態度とは別に そこでは 規範化する動きもあります。倫理規範つまり道徳と成る。そしてこの規範をあたかも神とする場合も出てきます。  《和を以って貴しと為す》というふつうの思想が 倫理規範とされこれを神とするならば あたかもこの言葉を聞くとただちに(つまり条件反射のごとく)だまる。おとなしくなる。という人心操縦術がまかりとおります。  呪文のごとくなります。《けんかをしてはいけない》というあたま(その観念)がひとを規定します。通常は規制し得ています。これも宗教でしょうね。  この宗教の弊害は もはやひとりの人間の内面における非思考の息吹き これが押さえつけられてしまうというものです。ですから経験的な思惟においても 新しい思想が出にくいということになります。  ぎゃくに捉えるなら しもじもの者よ 空気を読めというデーモン電波が そこら中に飛び交っているという状態です。宗教=まつりごとが 政治というまつりごとになるという現実であり社会です。  いまでは 《殻に閉じこもっている》という精神=身体の問題が出てきているのではないでしょうか? 世界が国家をひとつの単位として動いている頃は まだよかった。むしろまとまりが非常によろしかった。今ではもう旧い殻になっていると思います。  数ある宗教も 今では もう要らないただの殻だと思います。蚕にとっての繭とも言ってきました。どうでしょうか?

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noname#117439
noname#117439
回答No.79

オコリザルです。 嵐も去ったので今回の御質問を整理するボランティアのつもりです。 A65 。 謎の能楽き。 霊験者っぽく(あくまでもそれっぽく)謎の能書きを解釈しますが、涅槃に象徴するつながりのある観念世界の「今」の潮流を件の回答者様はそのように解釈したということでしょう。 俺はバナナなんていらないもんねーん とのたまっています。 かような狂気は十分に霊験の発露です。 狂ってますが孤独であるよりは健康です。

bragelonne
質問者

お礼

 このご投稿にかんしては 直前のご回答(No.86)でのやり取りでお応えできるかと思いますが どうでしょう。  (あるいはちょっとよく分からないところもあります)。

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noname#117439
noname#117439
回答No.78

オコリザルです。 権現様の武勇伝を酒の肴に、今回の御質問を読み返していましたが、言い忘れを発見しました。私のA11に対応したA12についてです。 全文掲載します。 オコリザルさんの今回の意見に近い感想を、私も持っています。  無神論者といえども、全く神、仏を信じていないわけではないでしょう。  神仏を全く信じないという人が、居ないわけではないと思いますが、そういう人でも、潜在意識の中には必ずあるはずです。本人が気づかないだけで。  また、信仰を“している”人より、無心論者の“信心”のほうが偏りがないのでは、と日ごろ思っているのですが。 >無神論者といえども、全く神、仏を信じていないわけではないでしょう。 感想として表明しているので自らのことの筈です。 ならば「でしょう」で結ぶのは何事かとオコリザルらしくムキーと言いたくなります。要するに我が事として実感がない。解り訳す表現するなら私が私でない。 これに関しては処方箋として信仰を与えるのではなくて、「わが道をひたすらに歩め」と、激励するよりありません。 >神仏を全く信じないという人が、居ないわけではないと思いますが、そういう人でも、潜在意識の中には必ずあるはずです。本人が気づかないだけで。 それを内包する仏性または無意識(唯識)としてしまうのがあなたの道ですか? > また、信仰を“している”人より、無心論者の“信心”のほうが偏りがないのでは、と日ごろ思っているのですが。 信仰とは非思考であるとの見解にご本人は答えを見いだせなかったのでしょうか? 聞きかじりはしたでしょうね。 幸運を祈る。 以上。 宿題の提出です。

bragelonne
質問者

お礼

 No.85および88へのお応えを書いたあとにつづっています。  そこでのやり取りにて お応えし得ていると思います。  そして yy8・・・さんにお任せしたいと思います。  ★ ムキー  ☆ というのは《むきになる》という意味でのそれですか。いま分かりました。

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noname#117439
noname#117439
回答No.77

オコリザルです。 A84のお礼を読んでなんとなく考えた事ですが、信仰を扱う組織でも営利企業などその他の組織と特別変わらないのではないかと考えます。 特別扱いしなくてもいいのではないかと。 学校の先生に当たりはずれがあるように、集会場で采配を振るうお坊さん次第ではないかと考えます。しかしながら、良い師に恵まれないからと言って自らの信仰が真っすぐにならないと嘆くなら、そんな泣き言なら、単なる甘ったれ根性で、聞く耳持たないでいいでしょう。 そんな甘ったれはどこの門をたたいても一緒です。 そんななら、おバカさんでしょうから、金を払えば何とかなるのではないかと、信仰の有料サービスに行きつくでしょう。 たちの悪い新興宗教の事です。 愚痴になりますが、おらっちを弟子にしてくださいと、師を選ぶことは、名指しされて先生候補にされた当人にとってはとりすがりです。 露骨に信仰を題材として扱った場合とんでもないことです。 要するに神様の代わりにされることですから、とんでもない事態になって当然です。 そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうね。 職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。

bragelonne
質問者

補足

 おはようございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 信仰を扱う組織 / お坊さん  ☆ と  ★ 学校の先生  ☆ との違いが いちばんの問題でしょうね。  ○ そのひとの存在じたいであると思われる信仰の問題を ほかのひとから指図されることは 人格の無視にかかわるおそれがある。  ☆ という問題です。《学校の先生》の場合には かろうじてその中核としての信仰を――つまりは信教・良心の自由を――侵すものではないという大前提が敷かれています。  あるいは  ★ おらっちを弟子にしてくださいと、師を選ぶこと  ☆ この場合には つまりこの場合にもやはりふたつの形態がありますね。信仰を基軸としてまじわりを持つか否かです。  これまでにもすでに触れていますが この場合も 一対一の対話を基軸とした交通(まじわり)の形態であれば――それだけであって 組織でなければ―― 互いの人格のすべてでつきあうというものですから 問題ないとも言えます。たとえ信仰をふたりのあいだでいちばんの関心事としていても だいじょうぶだと言えるかも知れません。人間の《自由》は そこまでは許容範囲だと思います。(たとえば著書をつうじてその表現内容に人格も信仰もまったく従うという場合も 自由ですから)。  もっと言えば 組織の中にあっても この一対一の人格どうしの自由な対話というのであれば 問題は限りなく無いに近いと思われます。これを言いかえれば いわゆる上司であっても 部下のひとの人格に触れ これを自分と同じく尊重しそこからまなぶという姿勢であれば 組織があっても 差し障りも出て来ないかも知れません。  けれどもこのように行くというのは 無理でしょうね。なぜなら その身分関係は 信仰の組織であれば 信仰の深い浅いやそれを基にした人格の出来に応じてあてがわれているということになっています。誰からも自由にまなぶというのであれば その権限=身分の関係はなくても済むということです。  事務的な連絡などの係としてのみその役割があるというのであれば 信仰の組織も 問題なくいとなまれていくかも知れません。でもこれはたぶん ただの空想に過ぎないでしょう。というわけで  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  要するに神様の代わりにされることですから、とんでもない事態になって当然です。  そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうね。  職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういった・これはという投稿をまだもらっていないと言えるでしょうね。

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noname#117439
noname#117439
回答No.76

オコリザルです。 信仰そのものは、自由に考える意思を備えた証であり、人間らしさの証ではないでしょうか。 地域に(町内会に)集会所があるように教会や寺があってもいいのではないでしょうか。 社ならば普段はひっそりとしています。

bragelonne
質問者

補足

 オコリザルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 信仰そのものは、自由に考える意思を備えた証であり、人間らしさの証ではないでしょうか。  ☆ この個人についての問題は ほぼ常識になりつつありますね。問題は 組織でありそれとしての宗教です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  地域に(町内会に)集会所があるように教会や寺があってもいいのではないでしょうか。  社ならば普段はひっそりとしています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このような情景と言いましょうか 世の中の風景について何の違和感もないようなのですが 一たんその組織の中に入ると どうなっているか。これなんですが 直前でのやり取りで 次のように書きました。問題はあるのではないでしょうか?   ☆☆ (No.83お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   組織の中であれば たとえばその〔個人の〕気持ちに上から周りからもうひとつ輪や枠が覆いかぶせられ勝ちです。あるいは 上から周りから 〔個人に対して〕先に気持ちをあてがわれてしまうことにならないとも限らない。あるいは 気持ちを 書かれた文章の文字に合わせなさいと あたかも言われた格好にならないとも限らない。  らーめんではなく中華そばと言いなさいと 〔専門用語としての〕言葉まで決められてしまわないとも限らない。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 組織では権限を決めますから それにもとづき身分が決まります。この身分がからみつく人間関係にどうしても覆いかぶさるようになってしまいがちだと思います。  しかも 一般の組織でしたら その目的が 経験的で具体的なものですから――つまりは営利企業としての会社を含めて 大きく広くはやはり経済的にしろ政治的にしろ文化的にしろ 共生ということになるはずですから―― まだその身分と人間関係との絡みは この具体的な目的に沿って捉え合うことが出来ます。  けれども 信仰が目的だとしますと どうでしょう? 個人の問題であることが 集団で決められ共同で行為して その個人の信仰に寄与するということになります。  果たして そうなるでしょうか?  個人と集団とのあいだで矛盾しているのではないでしょうか?  つまりその意味は 《個人の内面》と《組織の権限=身分の関係》との 無理な結びつきとしての矛盾なのではないでしょうか?

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回答No.75

こんばんは、bragelonneさん。 ●幕が降りるとやってくるようになりましたね。 It's too late to be saying things like that. ↑ (@_@;) きこえない、きこえない  金曜だけど…みみ日曜  ( ̄^ ̄)もしもし 【納税について】 http://www.k5.dion.ne.jp/~mikecat/christ/mark12.pdf と、そのまえに… ☆ 信仰と宗教とのちがいが ここでいちばんの問題であり問いの発端です。 ↑ ここがミソなんでしょ? 宗教とはなんぞえ? 信仰とはなんぞえ? 信仰にスルをくっつけて「信仰スル」といえども 宗教にスルをくっつけて「宗教スル」とはいわない らーめん屋さんに入って、メニューをみれば 味噌らーめん、醤油らーめん、塩らーめん…etc 何や色々名があがってる→宗教(仏教、キリスト教、イスラム教…etc) 定員さんが片手に水の入ったコップを持って席まで 「ご注文は?」と、「ほにゃらからーめんをひとつ」 店員さんが立ち去った後… そこで、お客が一言 「おれ、これ、すっきゃねん」←信仰 【意味の問いとしての宗教】 http://ocw.kyoto-u.ac.jp/faculty-of-letters-jp/course05/pdf/1_4_christian_studies.pdf

bragelonne
質問者

お礼

 littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ひゃああああーーーっ。まともなご回答で たぶんご正解だと思われるご投稿ですね。澄みません。どちらかと言うと めづらしいと感じたものですから。  ★ 「おれ、これ、すっきゃねん」←信仰  ☆ 《ぼく》から今度は《おれ》かい? ネチケット違反やなぁ。とひとことくらいは言っとかんと。  たぶん おっしゃるように個別の感覚と気持ちとこころが入っていないとねぇ。宗教ぢゃねぇ。  組織の中であれば たとえばその気持ちに上から周りからもうひとつ輪や枠が覆いかぶせられ勝ちです。あるいは 上から周りから 先に気持ちをあてがわれてしまうことにならないとも限らない。あるいは 気持ちを 書かれた文章の文字に合わせなさいと あたかも言われた格好にならないとも限らない。  らーめんではなく中華そばと言いなさいと 言葉まで決められてしまわないとも限らない。・・・  例によって 参考資料は あらためてあとでとします。

bragelonne
質問者

補足

 参考資料についてです。  ★ 【納税について】=聖書における納税問答  ☆ これは――ほかの主題・話題をふくめて―― 原文の資料のみですから そのままとします。  ★ 【意味の問いとしての宗教】  ☆ これも残念ながら 保留としたいと思います。ひとつには あらましのみが書かれていますから。  もうひとつには たしかに宗教論が扱われていて 堂々と反論したいのもやまやまですが 上のように要旨のみというだけではなく あまりにも幾人かの思想家らに触れていて主題と問題点が広がり過ぎています。いまただちにこれについて見解を述べるというのは ちょっと無理だと思います。  のれんに腕押しになるというのと 範囲が広すぎてまとまりがつかないという理由です。その述べる空間もないでしょうし。  というわけです。もちろんその中で この主題を課題として取り上げたいというのであれば 指摘してください。ませ。  ★ おれ  ☆ そう言えば テレビでも久本雅美らがそのように自称していますね。違反と言うには 細かすぎましたか。

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回答No.74

おはようございます、bragelonneさん。 互換性とは? ただいま思考中… まだ閉めないで (^人^)

bragelonne
質問者

お礼

 ○ 《カエサルのもの》は 《互換性》がある。  ○ 信仰は そのひとが《掛け替えのない》存在であることのみなもとである。  げんきのようですね。

bragelonne
質問者

補足

 そう言えば もう終わったよ。  幕が降りるとやってくるようになりましたね。

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回答No.73

◇◇(No.73お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ brag1.狂っているというとき 自分は狂っているという自己認識を持つものです。そう発言するものです。 ◇ 自分で、「自分が狂っているというとき、自分は狂っているという自己認識を持つもの」だという主張の根拠が何処にも示されていない。   自分が狂っていても、自覚がないかもしれない。自分で正常だと言っても狂っているかもしれない。  確かに、brag1のように規定すれば「わしは狂っておらん!」と主張することで、証明することは可能だが。  ◇異議がないようなのでNo.33の問題に取り掛かろうか...

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回答No.72

brag1.みなさああーーーーん 平和ですよおおおおおおおーーー!!!! ◇1.「ムキー」ということで。発狂したようで。 brag2. ありがたい。 もうこれでかかわりがなくなった。 ◇2.「ムキー2」ということで。もう出てこないと言うことで。

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     関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。  初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。  むろん哲学としての問いです。  たたき台としては:  (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。  (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。  (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。  (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。    (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。    (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。  (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。  (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。  (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。  (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。  (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。  ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。

  • 神とは何ですか?

    902さんの質問「神は死んだ。」のなかで神の定義が話題になっています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=75125 「神を信じますか」という問いは、よくもちだされますが、問う人も 問われる人も、神という言葉の意味・定義・解釈・語感が、まったく まちまちであるという感想を昔から持っていました。 皆さん、神とは何だと思われますか。 学問的な答え、個人的な考え、もちろん宗教的な教えも、 なんでもいいです。いろいろ聞かせてください。

  • わたしが神様だったら

    世界には様々な宗教がありますが、私は最近、神を信じている人が多いということに疑問を抱くようになりました。 人間は、答えがほしいけれども見つからないので、全知全能の神を創造し、不安感を埋めるために神を信じるのではないかと、私は解釈しています。 神は人間に自由意志を与えたそうです。それは神の愛なのだそうです。 私がもし神なら、人間が安心して暮らせるような、ある程度の規制をする。 戦争で罪のない人が死んでしまうような現在の世界では、自由意志のない人がいる。 そんな世界なんて、私が神だったら作らない、と思っていました。 先日、このようなことをキリスト教を信仰している方に伝えると、「言っている事がよく分からない」と言われました。 そんな時、チャットモンチーの「世界が終わる夜に」という曲を聴きました。 「わたしが神様だったらこんな世界は作らなかった」という歌詞があります。 あなたが神様だったらどのような世界を創造しますか? あなたの理想の世界を教えてください。 また、宗教を信仰している方や神を信じている方がこの曲を聴くと、どのように感じるのでしょうか。 思ったことを教えてください。 視聴 http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1584525&GOODS_SORT_CD=101 http://www.chatmonchy.com/disco/index.html 歌詞 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02270

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • 神道の神様は英語で

    神道の神様は、八百万の神と言うだけあって沢山いますよね。 アメリカ人に、日本には800万の神様(god)がいると説明したら、 「800万人それぞれが違う神様を信仰しているのか?」と驚かれました。 ※実際には、私は八百万とは「沢山」と言う意味だということは承知していますが(笑) 恐らく、アメリカ人は、1宗教につき1神しかいないと、考えるからだと思います。つまり日本には800万通りの宗教があると解釈したのでしょう。 そこで、日本のような多神教の神はどのように表現したらよいでしょうか。

  • 技術の発展と神への挑戦

    抽象的な表現、宗教も絡んだ内容で大変恐縮なのですが、質問させて下さい。 私個人としては、技術の発展・社会の発展は、神話や宗教の中で度々神への挑戦として戒められているように思ってます。 バベルの塔などが良い例で、下記の記事を見ると技術の発展は神からの怒りを買ってしまうのではないかとドキリとするのです(ちなみに私はこんな事を書いておきながら仏教徒です)。 http://japan.cnet.com/news/com/story/0,2000056021,20060011,00.htm 技術を発展させてはいけないのではないかという自制が働く事に関して、何とか自分の中で折り合いをつけて消化したいのですが、先人達がこのような事に対してどう思っていたのか知りたかったので質問させて頂きました。 ・宗教上の理由から抵抗はあったのか ・それともなかったのか ・理由をつけたり、解釈を添える事により消化したのか などなど・・・。 ガリレイは宗教の信仰心よりも、自らの理論への確信が大きかったが為に地動説を唱えたのだと思っています。その時に自分の中に抵抗は無かったかどうかという所も気になる所ですが・・・話しがそれました。 上記以外にも、現在のアメリカで宗教上の理由から電気・ガスを使わない村があったり、究極的にはエホバの証人は信仰の時間を学習に充てる事を憚れる為進学ができないという部分もあったりします。 逆にユダヤのタルムードでは、教育こそが大事だと言っていますね。 こうした宗教の信仰と科学の発展について、科学史から見た宗教上の葛藤や解釈(神は人に対して「世に満ちよ」と言ったのだから、その手段としての科学的発展は認められる)などの例、あるいはこれらを上手く体系的にまとめたり、思想として固められているような書籍等、ご教授頂ければ幸いです。 また何か思う所などございましたら、「技術の発展に抵抗はあるかどうか」などについてのご意見などもお待ちしております。 宜しくお願い致します。

  • 再考: 《神は死んだ》か?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

  • 《アルケーの神と一体となる》ことは・・・

     一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。  つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。  《真理は きみたちを自由にする》と。   ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか?  これが問いです。  《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。  つまり この問いに対して   □ 断じて 見返りではない。  という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?