qsxdrfvgyh の回答履歴

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  • ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

     末法が 現実であるのではないでしょうか。  もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。  あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。  《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。  《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。  一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。

  • ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

     末法が 現実であるのではないでしょうか。  もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。  あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。  《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。  《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。  一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。

  • ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

     末法が 現実であるのではないでしょうか。  もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。  あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。  《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。  《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。  一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。

  • ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

     末法が 現実であるのではないでしょうか。  もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。  あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。  《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。  《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。  一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。

  • ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

     末法が 現実であるのではないでしょうか。  もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。  あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。  《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。  《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。  一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。

  • ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

     末法が 現実であるのではないでしょうか。  もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。  あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。  《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。  《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。  一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。

  • ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

     末法が 現実であるのではないでしょうか。  もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。  あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。  《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。  《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。  一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。

  • 命が大事ならば

    命が大事ならば なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう。 この矛盾について解答があればお願いします。 なお、命が大事というのは人間の勘違いという解答は却下です。

  • 警察のねずみ捕りに遭った時警察がとてもうれしそうにしていました

    以前、止まれの一時停止の標識がある交差点を一時停止もせずに 通過したら遠くから見ていたパトカーが赤色灯をつけて猛スピードで追っかけてきて停止するように言われたので停止したらパトカーから出てきた警察が「今あそこで止まりましたか? 笑」「どこ行くの? 笑」 とものすごいうれしそうな、いかにも「獲物がひっかかったぞラッキー」というような感じで言われました 普通なら道路交通法を守ってほしいと願っている警察なら「きちんと止まらないとだめですよ!」と注意するのが当然だと思うのですが、あの警察はどうしてうれしそうにしていたのでしょうか? 皆さんはどう思いますか? 

  • 命が大事ならば

    命が大事ならば なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう。 この矛盾について解答があればお願いします。 なお、命が大事というのは人間の勘違いという解答は却下です。

  • 命が大事ならば

    命が大事ならば なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう。 この矛盾について解答があればお願いします。 なお、命が大事というのは人間の勘違いという解答は却下です。

  • 大学の論文で迷ってます 初歩的質問ですが…

    哲学初心者です。 大学の課題で哲学の論文を提出することになりました。課題の内容はある哲学本を読み各自の日常の問題意識に関わらせながら論述しなさいというものです。指定本であるその哲学書の内容としては まず序論として哲学についての考察の仕方(自我への反省等)についての大まかな概要に触れそこから自我の本性を理性とし、人間の精神能力を3分類していき  受容能力・思うー思うという働きを知ると考えるに分けそこから認識論、真理論、論理学、合理論等  関係能力・有るー一般的にものが有るという点から存在論、もののあり方から空間、時間形、原因、刑相、質量、結果等。他には形而上学等  自発能力・行うー人間の行いを道徳・芸術・宗教に分け、道徳からは倫理学、功利主義、芸術からは美学、宗教からは宗教哲学 ※もっと細かく真理論であればそこから明証説や反映論などにもふれ、参照としてはデカルトやカントなどについても記述されていますがここではキリがないために省略させてもらいます。 という哲学を学習するにあたって基礎的な構成の本だと思います。この本以外にも認識論等でも他の哲学関連の他の本を参照し、自分なりに理解に近づこうとしたのですが課題の内容でもある日常の問題の意識と関わらせての論述となると、どう向き合っていいのか分からず全く進みません。哲学における思考での日常の問題意識に関わらせて考えるとはどのように考え、またここでいう日常の問題意識には具体的にはどのような問題を指すのか、皆様のご意見をお聞かせください 長文失礼致しました、アドバイス宜しくお願い致します。

  • 命が大事ならば

    命が大事ならば なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう。 この矛盾について解答があればお願いします。 なお、命が大事というのは人間の勘違いという解答は却下です。

  • 橋下知事や東国原知事はなぜ知事が務まるのでしょう?

    橋下弁護士や、そのまんま東さんは、なぜいきなり「知事」が務まるのでしょうか? 彼らは今までに市会議員ですらの政治家の経験が無いんですよね。政治には縁のない生活を送って来た者がなぜなのか不思議です。 よほどの才能の持ち主なのでしょうか?

  • 「アプリオリな認識」の実例

    カントが、経験に依存しないアプリオリな認識の実例として挙げているのは、 「時間」「空間」「因果律」などですよね。 しかし、私には、過去から未来へ連続的に流れる時間が実在するという認識も、 3次元的な連続的な空間が実在するという認識も、 ある結果はある原因から生起しているという因果律が存在するという認識も、 全て経験から派生してきたもののように思えてしまいます。 例えばもし、人間が今の世界とは違う、空間が頻繁にところどころ虫食いのよう欠けたり収縮膨大したりするような世界に生まれたり、安定した物理法則がない世界(斉一性の原理が成立たないような世界)などに生まれたら、その世界を経験後、世界をそのようなものとして認識するのではないでしょうか? 「点と点の最短は直線である」という命題が真であるという直感による認識も、 私たちがそのようなに、空間を解釈したほうが生存上有利であるということを経験上学んだにすぎないのではないでしょうか?実際はわれわれの住む空間は平坦ではないのに。 カントのいうアプリオリな認識って、現在ではどのように解釈されているのでしょうか? 感覚器官から入力された情報(光、音、匂い、温度、力)を処理したり記憶したりするための、生まれながら(先験的)に備えている能力のことでしょうか?

  • 「アプリオリな認識」の実例

    カントが、経験に依存しないアプリオリな認識の実例として挙げているのは、 「時間」「空間」「因果律」などですよね。 しかし、私には、過去から未来へ連続的に流れる時間が実在するという認識も、 3次元的な連続的な空間が実在するという認識も、 ある結果はある原因から生起しているという因果律が存在するという認識も、 全て経験から派生してきたもののように思えてしまいます。 例えばもし、人間が今の世界とは違う、空間が頻繁にところどころ虫食いのよう欠けたり収縮膨大したりするような世界に生まれたり、安定した物理法則がない世界(斉一性の原理が成立たないような世界)などに生まれたら、その世界を経験後、世界をそのようなものとして認識するのではないでしょうか? 「点と点の最短は直線である」という命題が真であるという直感による認識も、 私たちがそのようなに、空間を解釈したほうが生存上有利であるということを経験上学んだにすぎないのではないでしょうか?実際はわれわれの住む空間は平坦ではないのに。 カントのいうアプリオリな認識って、現在ではどのように解釈されているのでしょうか? 感覚器官から入力された情報(光、音、匂い、温度、力)を処理したり記憶したりするための、生まれながら(先験的)に備えている能力のことでしょうか?

  • 母が膵がんに・・・困ってます。

    膵がんについてどなたか知っている方がおられればお返事いただけないでしょうか。 母が膵がんになり膵管内乳頭粘液性腫瘍と診断されました。母は10年以上前に肝硬変になり、その定期検査のCTで一か月くらい前に膵がんが見つかりました。肝臓の方は進行が止まっています。 早期の発見で転移もなくその時の診断では膵頭部膿胞性腫瘍とのことでしたが、超音波や血管造影での検査の結果今は膵管内乳頭粘液性腫瘍という診断になっています。 治療としては膵頭十二指腸切除術という手術をするということになり入院したのですが、詳しく検査した結果、手術ができないということになりました。その理由は、 (1)肝硬変があること (2)その肝硬変によって脾臓が肥大し中で血小板が壊れていて血小板の数が普通の人の1/6以下しかないこと (3)肝臓の右半分に血液を供給している血管が普通の人と違い、胃十二指腸動脈という所から流れている という三つのことで手術が成功したとしてもしたとしたとしても、肝不全や合併症の危険が非常に高いとのことでした。 病院からは、抗がん剤治療、放射線治療、薬を大量に使う、の三つの中から治療を選んでくださいと言われてますが、専門的な事でどの治療を選べば良いかもわかりません。 自由診療も考えていますが私も普通の会社員なのであまり高額な治療となるとお金の方も心配になってきます。 膵がんは2~3週間で大きさが倍になると言われるくらい進行の速い癌との事なので早く治療を決めたいのですが、どのようにしたらいいかどなたか意見を頂けないでしょうか、よろしくお願いします。

  • 物象化論の現在は いかに?

     ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。  まづ 最初の定義として こうあります。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  商品経済においては、  社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、  個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、  労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。  労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。  この機構をマルクスは物象化と呼んだ。  (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず 杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく 崇拝するものではないと思っておりました。  人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それは 社会生活全体の一面なのであって それだけではないと思っていました。  もっと いい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり その《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つと。  現在の情況として 《物象化》は 当たっているのでしょうか?  ご教授をお願いいたします。

  • 物象化論の現在は いかに?

     ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。  まづ 最初の定義として こうあります。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  商品経済においては、  社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、  個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、  労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。  労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。  この機構をマルクスは物象化と呼んだ。  (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず 杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく 崇拝するものではないと思っておりました。  人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それは 社会生活全体の一面なのであって それだけではないと思っていました。  もっと いい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり その《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つと。  現在の情況として 《物象化》は 当たっているのでしょうか?  ご教授をお願いいたします。

  • 物象化論の現在は いかに?

     ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。  まづ 最初の定義として こうあります。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  商品経済においては、  社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、  個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、  労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。  労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。  この機構をマルクスは物象化と呼んだ。  (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず 杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく 崇拝するものではないと思っておりました。  人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それは 社会生活全体の一面なのであって それだけではないと思っていました。  もっと いい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり その《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つと。  現在の情況として 《物象化》は 当たっているのでしょうか?  ご教授をお願いいたします。