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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.29

かなり加除修正してみました。 1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):仮構の存在形態 無実体なのに価値判断によって形成される執着対象として仮構している固定性 有為の中心概念 物に限らない(イメージなど言語的存在) 現実把握・認識の初期段階(有我の段階) 2.依他起性(えたきしょう):他に依存する存在形態(相対的存在形態) 自立的存在でない 恒常不変でない(諸行無常、有為転変) 縁起の中心概念 ウィッキの「存在要素の絶対性としては、第三の円成実性である」かどうか不明 3.円成実性(えんじょうじっしょう):完成された存在形態(絶対的存在形態) 諸法無我(無主体論) 常住不変の実体観からの解放(非実体観) 世俗諦認識の完成段階(無我の段階だが、まだ無我という有に留まっている) 無差別・平等の真実・真如(無執着なありのままの世界観) >真如を自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。 そうかもしれませんが、よく分かりません。まだ、有為の世界のようです。無我・無執着という「有」に留まっています。(常に有の性質が付き纏う)言語で記述する限り、有為に過ぎないと思います。  あとは  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  勝義諦(至上究極真理、無為の世界に属す真理)  縁起(相依性)、非有非無、不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《勝義諦・真理》が 《絶対》のことであるかどうかが 問題になると思います。《絶対》という意味だけの《神》であるかどうかです。つまり ブッディストは 《信じる》のかどうかです。《感じる / 考える / 〔表象し得たか・し得ないかの いわゆる神秘的な〕瞑想 / 信じる(心の伸び・開き)》の区別をするとよいのだと思います。  《無意識》は けっきょく 意識に現われたものを扱うしかないということになると考えます。つまり 上の区分のいづれかです。 (ご返答)まず、竜樹は中論で勝義諦に縁起(相依性)を含めているらしいのですが、今日では世俗諦ではないかと考えられているようです。相依性は、「相依相成、相互依存的相関関係」ですから、有為の世界に属していると考えるのが、当然でしょう。 非有非無と八不の説明・解説は、記述困難です。つまり、「唯摩の沈黙」であり、『論考』最末文のウィトゲンシュタイン的な沈黙です。ですから、「絶対」と置き換える記述もできないというのが、現状でしょう。  ☆ 《勝義諦・真理》は 《縁起説=空観》のことであることは もとより 《ブッダの智慧》として 《仏性》や《慈悲》とも けっきょく 同じであると言っていいのでしょう。これが もし絶対とその信仰でないとすれば そのときには たとえ 人為の極致であったとしても 人為という経験思想であるのならば やがて消えていくでしょう。あるいは ひょっとして 《絶対》であるかどうかを ついぞ明らかにしないかたちで 生き延びるということかも知れません。(もちろん 皮肉ですよね)。 (ご返答)ですから、勝義諦は、《仏性》や《慈悲》とも同じではないのです。非有非無と八不としか、手がかりがなく、その手がかりの道を進めば、腑に落ちるのかどうか識者に教えていただきたいとも思っています。しかし、多分、腑に落ちても、フーンで終わりで、「だからどうしたの」が、悟りの境地かもしれません。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  ふうむ。ああ そうですね。ううーん。  という恰好ですが たぶん 焦点がちがっているのかも知れないと思いました。すなわち  (A) 経験領域とそれを超えたところ / 思想と信仰 / 相対と絶対    これらの視点から どういうわけか 逸れていて 思惟や生のあり方が ブッディスムとして 提出されている。おそらく  (B)境地・境涯 のことを言っているのだと認識します。でも 煮詰めたかたちでは やはり (A)の判断の形式ないし基準は 有効であって     (B-1) 《境地》というからには 《人為》の世界であり 経験思想である。 と考えられます。もし そうでない場合があるとすれば   (B-2) 《人為を超えたところ》との関係として正規の《信仰》があり その信仰生活の結果 《境地》は もたらされる。 という場合です。  わかりませんが  ・勝義諦 これは 《絶対》であると思われる。  ・慈悲 これは 人為の極致でないとすれば 上の信仰の結果 もたらされる境地である。  ・縁起=空観 これも 同じく 信仰の結果 の生活態度(としての思想)である。  ・仏性 これは 以上の概念が 現実であり しかもまた 一人の例外なく 現実であるということを理由づけるために 想定したものではないか。(《神の霊が誰もの心に宿る》というたぐいの言い回しのごとく)。  ★ 非有非無と八不の説明・解説は、記述困難です。つまり、「唯摩の沈黙」であり、『論考』最末文のウィトゲンシュタイン的な沈黙です。ですから、「絶対」と置き換える記述もできないというのが、現状でしょう。  ☆ この点につきましては 留保しつつ たぶん いま行なっているような視角からの追究の中で 捉えていければと いまは 思っています。どうも  ★ しかし、多分、腑に落ちても、フーンで終わりで、「だからどうしたの」が、悟りの境地かもしれません。  ☆ という予感がしているのですよね。(解説本による限りで)。  * ヰキぺディアも 吟味しなければならない余地があるようですね。

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